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| 山田 暢久 |
| 名前 |
| 愛称 |
ヤマ、ノブ、タリー |
| カタカナ |
ヤマダ ノブヒサ |
| ラテン文字 |
YAMADA Nobuhisa |
| 基本情報 |
| 国籍 |
日本 |
| 生年月日 |
1975年9月10日(33歳) |
| 出身地 |
静岡県藤枝市 |
| 身長 |
175cm |
| 体重 |
66kg |
| 血液型 |
A型 |
| 選手情報 |
| 在籍チーム |
浦和レッドダイヤモンズ |
| ポジション |
MF |
| 背番号 |
6 |
| 利き足 |
右足 |
| 代表歴 |
| 2002-2004 |
日本 |
15 (1) |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
山田 暢久(やまだ のぶひさ、1975年9月10日 - )は、静岡県藤枝市出身で浦和レッドダイヤモンズ所属のサッカー選手。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。1994年に浦和レッズに入団以来レッズ一筋にプレーし、現在チーム最古参の選手である。弟の山田智紀はジュビロ磐田で高原直泰と同期入団の間柄である。
[編集] プレースタイル
トップ下と右ウィングバックや右ミッドフィールダーでのプレーを得意とする。右サイドバック、ボランチ、シャドーストライカーとしてもプレーする。過去にはリベロ(チッタ監督時代)、ストッパー(第1次オジェック監督時代、2009年のナビスコカップ)を務め、デビュー当時はフォワードとして福田正博と2トップを組んだこともある。このように身体能力が高く、得点感覚にも優れた万能型だが、球離れの悪さや、好不調の差が大きいなど課題もある。
[編集] エピソード
[編集] プレー面
- 本人はトップ下への強い意欲から「サイドはもうやりたくない」と話している[要出典]。
- センターバックでプレーしたこともあるが、そのときも「確かに真ん中だけど…」と、歯切れの悪いコメントを残している[要出典]。
- 以前はチャンスメークに専念していたが、2006年シーズン後半からはトップ下やシャドーストライカーとしての起用が増え、自らゴールを狙うプレーが増えている。
- 2006年シーズン終盤は絶好調といっていいほど調子をあげ、浦和の初の年間優勝に大きく貢献した。
- 気温と調子が反比例することで知られる。毎年バイオリズムが一定で、開幕~6月くらいまで好調、7~8月に調子を落とすが、9月中旬以降に調子を上げていき、リーグ最終盤には手がつけられない状態になる[要出典]。
- 近年は疲れがたまりやすいようで、練習にもその影響が見られる事から、フル出場を希望する本人の意思を考慮しつつも途中出場や途中交代を命じられることもある。
- PKは得意ではなく、たびたび止められている。蹴る際に動きの逆に蹴る工夫をしないため、コースを読まれやすいものと思われる。
[編集] その他
- レッズを選んだ理由は「どのチームよりも試合に出してもらえそうだから」というものだった[要出典]。
- 2003年に、それまでつけていた背番号2から現行の6に変更したが、その理由は「2番に飽きたから」[要出典]。
- 2006年の抱負として「期待に応えてタイトルを取りたい」と語った。その言葉どおり、レッズは14年目にして初のJリーグ年間優勝を達成した。
- 怪我に強く、浦和入団後は長期にわたる戦線離脱がほとんどない。ほとんど唯一の長期離脱は2007年10月、肉離れによるものである。10月24日、AFCチャンピオンズリーグ準決勝第2戦の城南一和戦(埼玉スタジアム)で右ふくらはぎを負傷し、延長戦で途中交代した。長期離脱かともささやかれたが、4日後の名古屋グランパスエイト戦(埼玉スタジアム)に出場。前半終了直前に相手選手と交錯して右ふくらはぎ痛を再発させ、負傷退場した。肉離れと診断され、3〜4週間の離脱を強いられている。後に岡野雅行が自身のブログで「アイツが松葉杖で歩いてるのなんて初めて見た」と驚きの言葉をつづっている。風邪をひいて体調を崩すことは多い。
- ジーコ監督時代の日本代表では、4バックの右で起用されることが多かった。
- 2004年2月9日、茨城県鹿嶋市での日本代表合宿中に、他の7選手とともに無断外出していたことが発覚。他の選手と異なり飲食はしなかったものの、監督だったジーコは「裏切り行為と感じた」として、山田ら8人を代表から外した[1]。
- 1999年に浦和がJ2へ降格した際に移籍も考えたが、岡野雅行に「おまえはレッズに残るよな」と言われて浦和に残留。翌年のJ1復帰に貢献した。
- 2004年よりキャプテンに就任、2008年シーズンまで務めた。
- 2005年8月24日、ヴィッセル神戸戦(駒場)でJ1リーグ300試合出場を達成。20代ではリーグ初。
- 2007年4月7日、ジュビロ磐田戦(埼玉スタジアム)でJ1リーグ350試合出場を達成。この記録はJ1リーグ最年少記録。
- 2008年11月8日、コンサドーレ札幌戦(札幌ドーム)で史上3人目となる、J1リーグ400試合出場を達成。
- スローインの出し所が無く迷っていた所、遅延行為によるイエローカードを2枚貰い退場処分を受けてしまった事がある。
[編集] 所属クラブ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 |
| 年度 |
クラブ |
背番号 |
リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
オープン杯 |
期間通算 |
| 出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
| 日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算 |
| 1994 |
浦和 |
- |
J |
15 |
1 |
0 |
0 |
3 |
0 |
18 |
1 |
| 1995 |
浦和 |
- |
J |
42 |
1 |
- |
3 |
0 |
45 |
1 |
| 1996 |
浦和 |
- |
J |
30 |
3 |
11 |
0 |
4 |
1 |
45 |
4 |
| 1997 |
浦和 |
13 |
J |
22 |
1 |
6 |
0 |
2 |
0 |
30 |
1 |
| 1998 |
浦和 |
2 |
J |
34 |
0 |
4 |
0 |
3 |
0 |
41 |
0 |
| 1999 |
浦和 |
2 |
J1 |
29 |
1 |
4 |
1 |
2 |
1 |
35 |
3 |
| 2000 |
浦和 |
2 |
J2 |
39 |
2 |
2 |
0 |
2 |
0 |
43 |
2 |
| 2001 |
浦和 |
2 |
J1 |
27 |
3 |
6 |
0 |
4 |
1 |
37 |
4 |
| 2002 |
浦和 |
2 |
J1 |
28 |
1 |
8 |
0 |
1 |
0 |
37 |
1 |
| 2003 |
浦和 |
6 |
J1 |
27 |
3 |
11 |
0 |
1 |
0 |
39 |
3 |
| 2004 |
浦和 |
6 |
J1 |
27 |
2 |
9 |
2 |
4 |
0 |
40 |
4 |
| 2005 |
浦和 |
6 |
J1 |
32 |
3 |
10 |
1 |
5 |
2 |
47 |
6 |
| 2006 |
浦和 |
6 |
J1 |
32 |
6 |
7 |
1 |
5 |
0 |
44 |
7 |
| 2007 |
浦和 |
6 |
J1 |
29 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
31 |
0 |
| 2008 |
浦和 |
6 |
J1 |
28 |
0 |
6 |
0 |
2 |
0 |
36 |
0 |
| 2009 |
浦和 |
6 |
J1 |
|
|
|
|
|
|
|
|
| 通算 |
日本 |
J1 |
402 |
25 |
84 |
5 |
39 |
5 |
525 |
35 |
| 日本 |
J2 |
39 |
2 |
2 |
0 |
2 |
0 |
43 |
2 |
| 総通算 |
441 |
27 |
86 |
5 |
41 |
5 |
568 |
37 |
| 国際大会個人成績 |
FIFA |
| 年度 |
クラブ |
背番号 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
| AFC |
ACL |
クラブW杯 |
| 2007 |
浦和 |
6 |
9 |
1 |
2 |
0 |
| 2008 |
浦和 |
6 |
4 |
0 |
- |
| 通算 |
AFC |
13 |
1 |
2 |
0 |
[編集] 経歴・タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 15試合 1得点(2002-2004)
| 日本代表 |
国際Aマッチ |
| 年 |
出場 |
得点 |
| 2002 |
1 |
0 |
| 2003 |
11 |
0 |
| 2004 |
3 |
1 |
| 通算 |
15 |
1 |
[編集] 外部リンク
[編集] 注釈