山田暢久

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名前
愛称 ヤマ、ノブ、タリー
カタカナ ヤマダ ノブヒサ
ラテン文字 YAMADA Nobuhisa
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1975年9月10日(36歳)
出身地 静岡県藤枝市
身長 175cm
体重 72kg
選手情報
在籍チーム 浦和レッドダイヤモンズ
ポジション MF/DF
背番号 6
利き足 右足
代表歴
2002-2004 日本の旗 日本 15 (1)
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山田 暢久(やまだ のぶひさ、1975年9月10日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー選手浦和レッドダイヤモンズ所属。ポジションディフェンダーミッドフィールダー1994年に浦和レッズに入団以来、浦和一筋でプレーし、現在チーム最古参の選手である。山田智紀は元プロサッカー選手。

目次

[編集] 来歴

1994年に藤枝東高校から浦和レッズに入団。デビュー当時はフォワード福田正博と2トップを組むこともあったが、1995年以降は主に右サイドバックや右ウイングバックとしてプレーしている。その他にもトップ下、ボランチ、センターバックなど、ゴールキーパーを除くあらゆるポジションで起用される。

2003年は日本代表の右サイドバックに定着した。チームでも右ウイングバックのレギュラーを守り、ナビスコカップ優勝で自身初のタイトルを獲得した。

2004年は1stステージでは右ウイングバック、山瀬功治が負傷で戦線離脱した2ndステージではトップ下として活躍。2ndステージを制して最後のステージ優勝をキャプテンとして飾ったが、チャンピオンシップでは横浜FMに敗れた。

2005年8月24日神戸戦(駒場)でJ1リーグ300試合出場を達成。20代ではリーグ初。

2006年は序盤こそ定位置の右サイドで出場していたが、夏場にコンディションを落として控えに回った。しかし、途中出場で決勝点を決めた9月16日広島戦以降、トップ下の一角としてレギュラーに復帰。自己最多の6得点を挙げて優勝に貢献した。

2007年は再び右ウイングバックに戻された。10月29日名古屋戦で肉離れを起こすまではリーグ戦、ACL、ナビスコカップなどの公式戦にほとんど全てに先発出場した。4月7日ジュビロ磐田戦(埼玉スタジアム)でJ1リーグ350試合出場を達成。この記録はJ1最年少記録。

2008年は開幕戦から数試合はトップ下を任され、その後はボランチや右ウイングバックとして出場した。11月8日札幌戦(札幌ドーム)で史上3人目となる、J1リーグ400試合出場を達成。

2009年はチームが8シーズンぶりに4バックを採用する中で、右サイドバックのレギュラーを確保する。また、田中マルクス闘莉王が抜けたナビスコカップ予選では、坪井慶介と共にセンターバックとしてもプレーした。

2010年は田中マルクス闘莉王が名古屋に移籍したため、開幕戦からセンターバックで出場。夏場にスピラノビッチが復帰して以降もセンターバックとして出場するなど、新境地を開拓した1年だった。

2011年は開幕当初はセンターバック、東日本大震災での中断明けからは主にボランチ、終盤戦は左右のサイドバックとして出場し、さまざまなポジションで貴重な戦力として活躍した。

[編集] エピソード

[編集] プレー面

  • 本人はトップ下への強い意欲から「サイドはもうやりたくない」と話している[要出典]
  • センターバックでプレーしたこともあるが、その時も「確かに真ん中だけど…」と、歯切れの悪いコメントを残している[要出典]
  • 1995年以来、右サイドバックとしてチャンスメークに専念していたが、ギド・ブッフバルトが監督に就任した2004年シーズン以降はトップ下としての起用が増え、自らゴールを狙うプレーが増えている。
  • 気温と調子が反比例することで知られる。毎年バイオリズムが一定で、開幕~6月くらいまで好調、7~8月に調子を落とすが、9月中旬以降に調子を上げていき、リーグ最終盤には手がつけられない状態になる。
  • 近年は疲れがたまりやすいようで、練習にもその影響が見られることから、フル出場を希望する本人の意思を考慮しつつも途中出場や途中交代を命じられることもある。
  • PKは得意ではなく、たびたび止められている。蹴る際に動きの逆に蹴る工夫をしないため、コースを読まれやすいものと思われる。
  • 試合中に集中が切れてしまう事があり、特にDFとして出場した試合では、それが元で失点するケースも少なくない。
  • 身長は高くないがヘディングの競り合いに非常に強いため、ゴールキーパーからのゴールキックやパントキックのターゲットになることが多い。

[編集] その他

  • 浦和を選んだ理由は「どのチームよりも試合に出してもらえそうだから」というものだった。
  • 2003年に、それまでつけていた背番号2から現行の6に変更したが、その理由は「2番に飽きたから」。
  • 2004年にキャプテンに就任し、2008年まで務めた。その後キャプテンは鈴木啓太に決まった。
  • 2006年の抱負として「期待に応えてタイトルを取りたい」と語った。その言葉通り、浦和は14年目にして初のJリーグ年間優勝を達成した。
  • 怪我に強く、浦和入団後は長期にわたる戦線離脱がほとんどない。ほぼ唯一の長期離脱は2007年10月、肉離れによるものである。10月24日AFCチャンピオンズリーグ準決勝第2戦の城南一和戦(埼玉スタジアム)で右ふくらはぎを負傷し、延長戦で途中交代した。長期離脱かとも囁かれたが、4日後の名古屋戦(埼玉スタジアム)に出場。前半終了直前に相手選手と交錯して右ふくらはぎ痛を再発させ、負傷退場した。肉離れと診断され、3〜4週間の離脱を強いられている。後に岡野雅行が自身のブログで「アイツが松葉杖で歩いてるのなんて初めて見た」と驚きの言葉を綴っている。風邪をひいて体調を崩すことは多い。
  • 2004年2月9日茨城県鹿嶋市での日本代表合宿中に、他の7選手とともに無断外出していたことが発覚。他の選手と異なり飲食はしなかったものの、監督だったジーコは「裏切り行為と感じた」として、山田ら8人を代表から外した[1]
  • 1999年に浦和がJ2へ降格した際に移籍も考えたが、岡野雅行に「おまえはレッズに残るよな」と電話で言われて浦和に残留。翌年のJ1復帰に貢献した。
  • スローインの出し所が無く迷っていた所、遅延行為によるイエローカードを2枚貰い退場処分を受けたことがある。

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1994 浦和 - J 15 1 0 0 3 0 18 1
1995 - 42 1 - 3 0 45 1
1996 - 30 3 11 0 4 1 45 4
1997 13 22 1 6 0 2 0 30 1
1998 2 34 0 4 0 3 0 41 0
1999 J1 29 1 4 1 2 1 35 3
2000 J2 39 2 2 0 2 0 43 2
2001 J1 27 3 6 0 4 1 37 4
2002 28 1 8 0 1 0 37 1
2003 6 27 3 11 0 1 0 39 3
2004 27 2 9 2 4 0 40 4
2005 32 3 10 1 5 2 47 6
2006 32 6 7 1 5 0 44 7
2007 29 0 2 0 0 0 31 0
2008 28 0 6 0 2 0 36 0
2009 30 0 7 1 1 0 38 1
2010 27 0 4 0 4 0 35 0
2011 24 0 4 0 4 0 32 0
2012
通算 日本 J1 483 25 99 6 48 5 630 36
日本 J2 39 2 2 0 2 0 43 2
総通算 522 27 101 6 50 5 673 38

その他の公式戦

国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
AFC ACL クラブW杯
2007 浦和 6 9 1 2 0
2008 4 0 -
通算 AFC 13 1 2 0

その他の国際公式戦

[編集] 経歴・タイトル

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 15試合 1得点 (2002-2004)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2002 1 0
2003 11 0
2004 3 1
通算 15 1

[編集] ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2004年2月7日 日本鹿嶋 マレーシアの旗 マレーシア ○ 4-0 キリンチャレンジカップ2004

[編集] 外部リンク

[編集] 注釈

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