松田直樹
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| 松田 直樹 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | マツさん | |
| カタカナ | マツダ ナオキ | |
| ラテン文字 | MATSUDA Naoki | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1977年3月14日(32歳) | |
| 出身地 | 群馬県 | |
| 身長 | 183cm | |
| 体重 | 78kg | |
| 血液型 | A型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | 横浜F・マリノス | |
| ポジション | DF | |
| 背番号 | 3 | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1995- | 横浜F・マリノス | 335 (15) |
| 代表歴2 | ||
| 2000-2005 | 40 (1) | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2009年1月1日現在。 2. 2006年1月1日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - )は、群馬県桐生市出身で横浜F・マリノス所属のサッカー選手。元日本代表。ポジションはディフェンダー。
目次 |
[編集] 来歴
ルーキーシーズンであった1995年に、いきなり開幕スタメンに抜擢。その翌年のアトランタオリンピックのメンバーに選出される。4年後のシドニーオリンピックにも選出され、数少ない2大会連続出場選手となっている。
トルシエジャパン時代はフラット3と呼ばれる3バックの右サイドで不動のレギュラーであり、2002年の日韓W杯ではベスト16入りに貢献した。ジーコジャパンになってからも当初は代表に呼ばれていたが、2005年3月30日のドイツW杯アジア最終予選バーレーン戦以降、代表には呼ばれていない。しかし、ジーコ監督時代は代表の守備陣で180cm以上の選手が少なく(スタメンは中澤佑二のみ)、高さとフィジカル、経験という点で国際試合で心配だという声もあり、日本代表復帰を望む声も少なからずあった。また、中田英寿と幼い頃から共に日本代表でプレーし、中田の数少ない理解者であり「ヒデを殴れるのは俺だけ」と松田は語っている。だが、その後ジーコと起用法を巡って衝突、招集されず。
2007年シーズンは、怪我で出遅れ、ボランチとしてヤマザキナビスコカップ大宮戦で復帰した。この試合では、途中交代の際、早野監督との握手を拒否する、試合出場中に監督からの指示を仰ぐ時、顔を睨み付ける様な態度を取っていたなど、監督との確執が起きていたようである。その後は出場機会に恵まれず、ベンチ入りこそするが出場はなく、第16節のG大阪戦でセンターバックとして先発し、漸くリーグ戦初出場を果たした。この試合では39試合連続得点中のG大阪を無失点に抑えた。その後、第18節大分トリニータ戦で、リーグ戦300試合出場を達成。
2008年からはボランチに抜擢された。河合竜二の負傷が原因なのだが、起用理由について当時の桑原隆監督は「経験からして松田以外には考えられなかった」とのこと。最終ラインを守るチームメイトからは「DFの前にDFがいる」と頼りにされ、浦和の闘莉王とともに高く評価されている。河合復帰後もDFとMFの日替わり起用に柔軟な対応を見せている。
2009年、自叙伝「闘争人」を出版。
[編集] プレースタイル
百戦錬磨のディフェンダーである。対人能力では代表常連だった頃に比べてやや衰えてはいるものの、卓越されたライン統率やカバーリング能力、ボランチ起用などで幅の広がった攻守のバランス能力、最終ラインから最前線へ放りこみチャンスを演出する視野の広さは30歳を超えた今でも更に進化を続け、現在も日本人屈指のディフェンダーであるのは間違いない。また時折見せる攻撃参加も松田の特長の一つで、近年ではミドルシュートでの得点も目立ち、その華麗且つ豪快なシュートは某テレビCMでも使用された。
[編集] エピソード
- 髪の毛はいつも妻に切ってもらっている。坊主頭にしている時は失敗したときらしい。
- 若手時代、キャプテンマークに憧れていた。練習後に内緒でキャプテンマークをつけていたのを監督に見つかり怒られた。しかし、見かねたスタッフが急遽ガムテープでキャプテンマークを作ってあげた。2006年、念願のキャプテン就任。
- 2003年ナビスコ杯磐田戦で西野泰正と接触プレー後、西野のプレーに憤激して主審に向かい言い放った「やるよ、やっちゃうよ」はピッチ外マイクに拾われてTVに流れ、松田を象徴する名文句となった。
- 前橋育英高に入学するまではFWの選手だった。当時U16日本代表監督だった小嶺忠敏監督(元・国見高校総監督)にDFのセンスを見いだされ、FWからコンバートされた。
- 退場処分が多く、2007年終了時点で通算8回。大久保嘉人と並んで、ドラガン・ストイコビッチ(13回)に次ぐJリーグ史上2位である。
- 気合を入れるために、チームメイトに殴ってもらうことがある。2004年CSでは栗原勇蔵に軽い脳震盪を起こす程の強さで殴ってもらい、また、2007年のリーグ戦初出場となった対ガンバ大阪戦では、後半開始直前に那須大亮にビンタをしてもらった。
- おしゃれぶりはファンの中では有名で、SOPH.、nonnative、PHABLや古着などを着こなす。SOPH.の清永氏とはウイニングイレブン仲間である。また雑誌『PEN』の2003年6月号ではデザイナーズチェアの特集に登場し、「少し古くなった木の椅子が好きで、知人にフランスのアンティークショップで買ってもらったこともある」とのコメントを残している。
- 2007年10月13日に行われた、ナビスコ杯準決勝川崎フロンターレ戦で、後半35分にハンドで退場となったゴールキーパーの榎本哲也に代わってゴールを守った。(交代枠を使い切っていたため。その後、黒津にダメ押し点を決められ、結果は4-2で敗戦。)試合後、観戦していたイビチャ・オシム代表監督(当時)は、「マリノスの新しいキーパーが発見だった」と冗談交じりにコメントしている。
- 上野良治が抜けてからは松田がF・マリノス最古参選手。チーム内では番長格であり、若手選手をパシリに使っている一方、アンダーシャツに退団選手全員の名前を書いて着用するなど、仲間想いな面もある。
- マリノスへの愛着も強い。2007年終了後は契約更改で年俸を40パーセントにされてもサインし、2008年も「会社が苦しいから」と一発サインした。また、2008年のホーム最終戦のヒーローインタビューで「これからも長くマリノスでやっていきたい」とコメントしマリノスに骨を埋める覚悟を表明している。
- かつては攻撃に傾倒してしまうこともあり、2005年のナビスコカップ準々決勝第2戦・大宮戦では、岡田監督からハーフタイムに「お前のポジションはどこなんだ」と説教された(ちなみに、この試合では決勝点となる1得点を挙げている)。その後は大人になり、岡田監督にも「今の松田なら大丈夫だ」と信頼を得た。2006年シーズンでは、キャプテンということもあり、PKのキッカーを務めた。
- 「出さなきゃ殺すというオーラがある」(トルシエ)、「マツさんは『なんだテメー』って言いながら上がってく」(稲本潤一)といわれているように熱いプレーが特徴。一方で、不必要なイエローカード・レッドカードをもらってしまうことも多かった。
- ジーコジャパンでは控えに甘んじ、同じポジションであった田中誠がスタメン落ちしたときでも使われなかった(さらに自分の子供が生まれたために帰国した)ことで無断離脱するなど、精神面での課題も指摘されていた(以前にも韓国から無断で帰国し、一時トルシエと衝突した事がある)。
[編集] 所属クラブ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | 横浜M | - | J | 33 | 1 | - | 1 | 0 | 34 | 1 | |
| 1996 | 横浜M | - | J | 16 | 0 | 11 | 2 | 1 | 0 | 28 | 2 |
| 1997 | 横浜M | 14 | J | 31 | 2 | 6 | 0 | 2 | 0 | 39 | 2 |
| 1998 | 横浜M | 14 | J | 12 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 17 | 1 |
| 1999 | 横浜FM | 3 | J1 | 27 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 32 | 0 |
| 2000 | 横浜FM | 3 | J1 | 24 | 2 | 3 | 0 | 2 | 1 | 29 | 3 |
| 2001 | 横浜FM | 3 | J1 | 29 | 0 | 9 | 0 | 1 | 0 | 39 | 0 |
| 2002 | 横浜FM | 3 | J1 | 25 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 26 | 2 |
| 2003 | 横浜FM | 3 | J1 | 20 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 25 | 0 |
| 2004 | 横浜FM | 3 | J1 | 24 | 1 | 4 | 0 | 1 | 0 | 29 | 1 |
| 2005 | 横浜FM | 3 | J1 | 27 | 1 | 4 | 1 | 1 | 0 | 32 | 2 |
| 2006 | 横浜FM | 3 | J1 | 29 | 4 | 9 | 3 | 0 | 0 | 38 | 7 |
| 2007 | 横浜FM | 3 | J1 | 8 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 15 | 1 |
| 2008 | 横浜FM | 3 | J1 | 30 | 1 | 7 | 0 | 3 | 0 | 40 | 1 |
| 2009 | 横浜FM | 3 | J1 | ||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 335 | 15 | 69 | 7 | 19 | 1 | 423 | 23 | |
| 総通算 | 335 | 15 | 69 | 7 | 19 | 1 | 423 | 23 | |||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2004 | 横浜FM | 3 | 4 | 0 |
| 2005 | 横浜FM | 3 | 4 | 0 |
| 通算 | AFC | 8 | 0 | |
[編集] 経歴
- 1995年3月18日 - プロ初出場(Jリーグ) - 鹿島アントラーズ戦(茨城県立カシマサッカースタジアム)
- 1995年9月30日 - プロ初得点(Jリーグ) - 名古屋グランパスエイト戦(横浜市三ツ沢公園球技場)
- 2000年2月5日 - A代表初出場(カールスバーグカップ) - メキシコ代表戦(香港)
- 2005年1月29日 - A代表初得点(キリンチャレンジカップ) - カザフスタン代表戦(横浜国際総合競技場)
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- U-17サッカー日本代表
- 1993年 1993 FIFA U-17世界選手権(ベスト8)
- U-20サッカー日本代表
- 1995年 1995 FIFAワールドユース選手権(ベスト8)
- オリンピック日本代表
- 1996年 アトランタオリンピック(グループリーグ敗退)
- 2000年 シドニーオリンピック(ベスト8)
- 日本代表
- 2000年 AFCアジアカップ2000(優勝)
- 2001年 FIFAコンフェデレーションズカップ2001(準優勝)
- 2002年 2002 FIFAワールドカップ(ベスト16)
- 2004年 AFCアジアカップ2004(優勝)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 40試合 1得点(2000-2005)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2000 | 14 | 0 |
| 2001 | 10 | 0 |
| 2002 | 12 | 0 |
| 2003 | 0 | 0 |
| 2004 | 3 | 0 |
| 2005 | 1 | 1 |
| 通算 | 40 | 1 |
[編集] 獲得タイトル
[編集] 関連情報
[編集] 書籍
[編集] 執筆書籍
- 闘争人(三笠書房、ISBN 9784779606090)
[編集] 関連項目
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