本田泰人

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本田 泰人
名前
カタカナ ホンダ ヤスト
ラテン文字 HONDA Yasuto
基本情報
国籍 Flag of Japan.svg 日本
生年月日 1969年6月25日(40歳)
出身地 福岡県北九州市若松区
身長 166cm
体重 64kg
血液型 O型
選手情報
ポジション MF
利き足
代表歴
1995-1997 Flag of Japan.svg 日本 29 (1)
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

本田 泰人(ほんだ やすと、1969年6月25日 - )は、福岡県北九州市若松区出身の日本の元サッカー選手。現在は、サッカー解説者鹿島アントラーズのアドバイザーなどで活躍。

目次

[編集] 来歴

小学6年生までは野球をやっており、本人も「野球の方が好きだった」と言っていたが、ドーベルマンブリーダーをしていた父親に薦められ、父親の運転する車をドーベルマンと競走したのがサッカー転進の一歩[1]

帝京高校を経て、1988年に本田技研(現Honda FC)へ入団。1988年9月25日の日産自動車(現横浜F・マリノス)戦でデビューを果たす。1992年鹿島アントラーズへ移籍。1993年にはJリーグベストイレブンに選出。

1998年フランスW杯アジア地区予選にも出場した。クラブでは1999年頃から出場機会が減少したが、途中出場でチームの切り札的役割として2000年の三冠にも貢献した。

2005年12月3日戦では、鹿島がPKを獲得した際、監督のトニーニョ・セレーゾはこのPKを蹴らせるために本田をピッチに送り出した。本田はこれを見事に決め、リーグ戦で1997年以来8年ぶりの得点を記録した。ここには、チームの精神的な柱として信頼を得ていた本田への、セレーゾの感謝の思いが表れている。

2006年、鹿島は、本田との来期の契約を更新しないと発表。本田は、「鹿島以外のユニフォームを着る自分が想像できない」と語り、引退を表明した。Jリーグ初年度参加選手では、最も長く一クラブのユニフォームを着た選手である。

2007年7月29日カシマスタジアムにおいて、本田泰人引退試合 「鹿島アントラーズvsヴェルディ1993」が行われ、本田がPKを決めるなど4-2で鹿島アントラーズ1993が勝利した。 鹿島での功績をたたえ、JリーグアウォーズでJ功労賞を授与された。

2009年12月21日、北九州市より、スポーツを通じて市の魅力を全国にPRすることを目的とした「北九州市スポーツ大使」の委嘱を受けた[2]

2010年1月17日、故郷福岡県北九州市若松区において、2010年3月にサッカースクール(小1~中3対象)を開校するのに先立ち、セレクション(入団テスト)を行なった[3]

[編集] 選手時代の評価

豊富な運動量と激しいプレーで相手のキーマンをねじ伏せる粘り強い守りで、不動のボランチ・キャプテンとして鹿島の黄金期を支えた。

彼のしつこいマーキングは「スッポンマーク」と称されることもあり、このときの相手として最も有名なのは当時ヴェルディ川崎ビスマルク。後にビスマルクが鹿島に移籍したのは「本田を敵に回さなくてよくなるから」というのも一因だったらしい。[4]

また、鹿島サポーターから絶対的な象徴の1人として愛された一方、大久保嘉人との出来事(後述)など、彼の『汚い』一面を知る他チームサポーターから嫌われる事も多かった。ただし、本田本人は「嫌われる事もサッカー選手のステータスの1つだし、光栄な事です。ありがたい」と発言している[5]


[編集] エピソード

  • 2004年10月23日の対浦和戦にて、敗戦に激怒し本田にビールの缶などを投げた一部の鹿島サポーターに対し、その缶を投げ返す行動に出た。それに激怒した一部サポーターがピッチへ飛び降り、ゴールネット際で乱闘となる騒動を引き起こした。その後はJリーグからの処分こそ無かったが、その行動を問題視した鹿島から1試合の出場停止処分を課された。
  • 2003年12月天皇杯準決勝対セレッソ大阪戦で、セレッソのエースである大久保嘉人に対し、試合中に挑発として大久保の頬をひっぱたいたことがある[6]。この行為に対する審判からの処分は一切なかった。しかし、これが大久保の闘志に火をつけ、この試合で大久保の見事なミドルシュートによる延長Vゴールを決められる要因を作ったとされている。

[編集] 高岡由美子とのエピソード

2000年11月にモデルの高岡由美子高岡早紀の妹)と結婚したが、2009年11月に離婚した。

現役引退後、「鬼嫁の旦那」「恐妻家タレント」として高岡と共にバラエティ番組などに出演。「現役時代は妻が茨城住まいを嫌がって別居婚だった」「妻の浪費が激しすぎるため、クレジットカードを無断で止めたことで妻に怒り狂われ、結局謝った」などのエピソードを紹介していた。

行列の出来る法律相談所の「第3回気の毒の夫ナンバーワン選手権」で夫婦で出演した際に島田紳助から「サッカーしている時は一生懸命だったが夫婦生活では手を抜いている」と言われた。しかし後日の人生が変わる1分間の深イイ話で「この言葉が一時別居生活だったが仲直りのきっかけだった」と言っている。

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1988-89 本田 JSL1部 9 0
1989-90 本田 JSL1部 22 1
1990-91 本田 JSL1部 21 1
1991-92 本田 JSL1部 20 0
1992 鹿島 - J - 10 0 3 0 13 0
1993 鹿島 - J 35 0 6 0 5 0 46 0
1994 鹿島 - J 43 0 1 0 1 0 45 0
1995 鹿島 - J 49 3 - 4 0 53 3
1996 鹿島 - J 29 0 13 0 3 0 45 0
1997 鹿島 6 J 21 0 2 0 5 0 28 0
1998 鹿島 6 J 21 0 5 0 4 1 30 1
1999 鹿島 6 J1 17 0 4 0 0 0 21 0
2000 鹿島 6 J1 29 0 5 0 5 0 39 0
2001 鹿島 6 J1 24 0 6 0 1 0 31 0
2002 鹿島 6 J1 22 0 9 1 4 0 35 1
2003 鹿島 6 J1 19 0 5 0 4 0 28 0
2004 鹿島 6 J1 7 0 5 0 0 0 12 0
2005 鹿島 6 J1 4 1 1 0 1 0 6 1
2006 鹿島 6 J1 8 0 3 1 1 0 12 1
通算 日本 J1 328 4 75 2 41 1 444 7
日本 JSL1部 72 2
総通算 400 6
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2002-03 鹿島 6 1 0
通算 AFC 1 0

[編集] 個人タイトル

[編集] 代表歴

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 29試合 1得点 (1995-1997)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1995 2 0
1996 13 0
1997 14 1
通算 29 1

[編集] 脚注

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  1. ^ 2007年7月9日関口宏の東京フレンドパークIIにて発言
  2. ^ 西日本新聞2009年12月22日 北九州市スポーツ大使 本田泰人さん(元鹿島MF)に委嘱 来春から若松で後進指導へ
  3. ^ 西日本新聞2010年1月18日本田さんのサッカースクール3月開校へ入団テスト 若松区
  4. ^ V川崎時代、ビスマルクは本田を大の苦手としていたが、鹿島でチームメートとなって共に戦い、見事優勝した直後のインタビューでは「ホンダサントケッコンシタイデス」と語り、爆笑を誘った。
  5. ^ 鹿島のスポンサーであるトステムのCMに出演した際、『Jリーグで、一番嫌な選手と言われたい』と語った事がある。
  6. ^ 大久保は、この数日前の東アジア選手権、対韓国戦において、わずか前半15分までに2枚のイエローカードをもらい退場しており、大久保本人は当時相当精神的に追い込まれていたと後に語っている。それを見越しての行動ともとられている。

[編集] 外部リンク

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