駒野友一

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駒野 友一 Football pictogram.svg
名前
愛称 コマちゃん、コマ
カタカナ コマノ ユウイチ
ラテン文字 KOMANO Yuichi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1981年7月25日(32歳)
出身地 和歌山県海南市
身長 172cm
体重 76kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 ジュビロ磐田
ポジション MFDF (SB)
背番号 5
利き足 右足[1]
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2000-2007
2008-
日本の旗 サンフレッチェ広島
日本の旗 ジュビロ磐田
191 (9)
193 (9)
代表歴2
2005- 日本の旗 日本 078 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月23日現在。
2. 2013年8月14日現在。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

駒野 友一(こまの ゆういち、1981年7月25日 - )は、和歌山県海南市出身のサッカー選手。日本代表。ジュビロ磐田所属。ポジションミッドフィールダーディフェンダー広島県立吉田高等学校卒業。

人物[編集]

クラブ[編集]

小学生のころはFWで中学2年生のときにアウトサイドに転向。中学3年生時に地元初芝橋本高等学校ガンバ大阪ユース、ジェフユナイテッド市原ユース、サンフレッチェ広島ユースからオファーがあった。そのうち、初芝橋本高は練習に参加したが私立高校のため、G大阪ユースは地元和歌山から通いになるため、どちらも経済的理由から断念。市原ユースの練習に参加したが、体調不良からセレクションに不合格、もう一度テストに来るよう誘われたが断りを入れ、1997年広島ユースへ入団[2] した。ちなみに、広島ユースに入る直前に父親を亡くしている[3]。ユース時代からウイングバックとして活躍し、高校3年次には同級生の森崎和幸浩司兄弟とともに2種登録選手になった。

2000年、サンフレッチェ広島とプロ契約[4] する。翌2001年、ヴァレリー・ニポムニシに見出され、右SBとして沢田謙太郎からレギュラーを奪う。その後も安定したプレーぶりを見せ、その年の2ndステージ3位になる原動力となった。それ以降も右のアウトサイドのレギュラーとして活躍した。

2003年8月16日対横浜FC戦で左膝前十字靭帯を損傷。手術後の入院中に突然エコノミークラス症候群にかかり生命の危機に陥った[5]。懸命なリハビリを続け、2004年4月29日ナビスコカップ横浜FM戦で復帰した。駒野不在の間、広島の右サイドのレギュラーに定着した選手はいなかった。

2004年8月18日、アテネ五輪ガーナ戦で左鎖骨を骨折、同年9月21日ブドウ膜炎をおこし失明の危機まであったが軽症で済んだ[5]。2005年には本調子を取り戻し佐藤寿人とのコンビでチャンスを量産、右SBながら9アシストという数字を残した。

2008年、広島のJ2降格を機にジュビロ磐田へ移籍したが、チームは低迷し2年続けてJ1残留争いを経験。2009年、磐田での背番号は前年の25から広島時代と同じ5に変わり、ポジションがMFからDF(サイドバック)に変わった。2010年、去年に引き続きサイドバックとして活躍するも、日本代表の国際親善試合での怪我によりシーズン後半は出場することができなかった。

2011年、右サイドバックとしてリーグ戦全試合フル出場し攻守両面でチームに貢献した。2012年も、リーグ戦全試合に出場し自身初のJリーグベストイレブンに選出された。

2013年、第23節アルビレックス新潟戦にて、J1通算350試合出場を達成する[6]

日本代表[編集]

年代別代表時代から右SBだけではなく左SBとしても活躍、2004年にアテネオリンピックサッカー日本代表として招集された。

A代表には、2005年東アジア選手権で怪我の三浦淳宏に代わり初招集され、8月3日の中国戦で代表デビュー。その後も2006年には2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。これは追加招集された茂庭照幸と共に「アテネ世代」からの数少ない選出メンバーであった。レギュラーであった加地亮のバックアップと両サイドをこなせるユーティリティ性を買われての選出だったが、加地の負傷により本大会初戦のオーストラリア戦では先発メンバーに起用された。この試合では同点に追いつかれた直後にペナルティエリア内でドリブルを仕掛けてディフェンダーに倒され、あわや追加点となるチャンスを作った。FIFAの審判委員会はのちにPKに値するプレイだったと誤審を認めている。加地が負傷から復帰した第二戦以降は控えに回った。

イビチャ・オシムが日本代表監督になってからも左サイドバックおよびセンターバックのポジションで継続して招集されたが、オシムが倒れたのちに就任した岡田武史監督の元では内田篤人長友佑都ら若手選手の台頭によって徐々に出場機会が減っていた。2010年6月に開催された2010 FIFAワールドカップでは、大会直前に行われた強化試合コートジボワール戦でスタメン出場をしていた今野泰幸が負傷したため、その後はレギュラーとしてプレーし、本大会のグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の合計4試合全てで右サイドバックとしてスタメン出場を果たし日本の決勝トーナメント進出に貢献した。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では、相手陣内深いエリアまで上がり再三クロスを上げるなどチャンスを演出し、パラグアイに押し込まれた時間帯には体を張った守備でピンチの芽を摘むなど豊富な運動量でチームの完封に貢献した。延長戦を経ても0-0のままパラグアイの先攻でPK戦に入り、3人目のキッカーを任されたがシュートがバーに当たり失敗。5-3となり試合に敗れ、日本代表初のベスト8進出はならなかった。

2011年10月11日、2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選タジキスタン戦で代表初得点を含む1ゴール2アシストの活躍をみせた[7][8]。代表通算65試合目の出場での初得点は、日本代表史上最も遅い得点となった[8]

評価・プレースタイル[編集]

利き足である右足から繰り出されるクロスボールを得意とし、特にFWの動きに合わせた軌道を研究して練習した、と自身で述べている鋭く曲がり落ちるアーリークロスは大きな武器で、週刊サッカーダイジェスト[要出典]での「Jリーガー108選手が選ぶベストプレイヤー」という企画内において「クロスボール部門」で第1位に輝いている。

また、運動量においても優れており、試合中に何度も上下運動を激しく繰り返す強靭なスタミナも持ち合わせている(2010 FIFAワールドカップで計測された4試合390分での走行距離は43.03 km[9]。)。ドリブル突破もあり、縦への突破だけでなく中へ切りこんでの強烈なシュートも放つ。さらに、スピードや攻守の切り替えの速さもあり(2010 FIFAワールドカップで計測されたトップスピードは時速25.77 km[9]。)、オシム元日本代表監督から「日本で一番スピードのある選手なのが駒野」と言われる程である。サイドバックならば左右問わずプレーできる。

エピソード[編集]

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2000 広島 23 J1 0 0 3 0 1 0 4 0
2001 5 24 1 3 0 2 0 29 1
2002 27 1 2 0 4 0 33 1
2003 J2 23 0 - 0 0 23 0
2004 J1 18 1 3 0 1 0 22 1
2005 34 2 4 0 1 0 39 2
2006 31 2 1 0 2 1 34 3
2007 34 2 3 0 5 1 42 3
2008 磐田 25 34 1 1 1 0 0 35 2
2009 5 34 1 1 0 1 0 36 1
2010 23 0 4 0 0 0 27 0
2011 34 2 3 0 0 0 37 2
2012 34 3 4 0 1 0 39 3
2013 34 2 4 1 2 0 40 3
2014 J2 -
通算 日本 J1 361 18 36 2 20 2 417 22
日本 J2 23 0 - 0 0 23 0
総通算 384 18 36 2 20 2 440 22

その他の公式戦

その他の国際公式戦

経歴・タイトル[編集]

個人タイトル[編集]

クラブチーム[編集]

アンダーカテゴリー

トップチーム

代表歴[編集]

出場大会[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 78試合 1得点 (2005-)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2005 5 0
2006 10 0
2007 12 0
2008 13 0
2009 7 0
2010 13 0
2011 7 1
2012 5 0
2013 6 0
通算 78 1

ゴール[編集]

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2011年10月11日 日本、大阪 タジキスタンの旗 タジキスタン ○8-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選

関連情報[編集]

CM出演[編集]

PV[編集]

  • PUSHIM「誓い feat.MIHIRO~マイロ~」 (2010年)

展示[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]