イビチャ・オシム
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| イビチャ・オシム | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 本名 | イヴァン・オシム | |
| 愛称 | イビチャ、シュワーボ | |
| ラテン文字 | Ivan Osim | |
| キリル文字 | Иван Осим | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1941年5月6日(67歳) | |
| 出身地 | サラエボ | |
| 身長 | 191cm | |
| 体重 | 90kg | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | FW
|
|
| 代表歴 | ||
| 出場 | 16 | |
| 得点 | 8 | |
イビチャ・オシム(Ivica Osim, Ивица Осим、本名 イヴァン・オシム, Иван Осим、1941年5月6日 - )は、旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身のサッカー選手、指導者。愛称はシュワーボ。
正確な発音に近い表現はイビチャではなくイヴィツァである。
2003年よりJリーグ ジェフユナイテッド市原(2005年シーズンからジェフユナイテッド市原・千葉に改称)の監督を務めた。在籍4年目の2006年時点でJリーグ最年長監督であったが、代表監督就任要請を受け辞任。同年7月21日、日本代表監督に就任した。しかし2007年11月に脳梗塞で倒れ、代表監督を辞任。現在も日本国内で静養中である。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 学生時代
- 名門サラエボ大学の教育学部に入学し、数学や物理学などを学んだ。数学の学士の資格を保有している。学業成績も優秀で、サラエボ大学の数学の教授の道もあったが、家が貧しかったため、家計を助けるために大学を中退してプロの道へ進んだ。
[編集] 選手時代
- 1959年 - サラエボのFKジェリェズニチャル・サライェヴォでプロとしてのキャリアをスタート。ポジションはフォワード。
- 1964年 - 東京オリンピックのユーゴスラビア代表として来日。日本との順位決定戦では2ゴールを挙げた。
- 1968年 - ユーゴスラビア代表として欧州選手権(第3回、イタリア大会)に出場。準決勝でイングランド代表と戦い、1-0で勝利するもその試合で重傷を負い決勝戦には出場できず、またチームもイタリア代表に引き分け再試合の末敗退。オシム自身は大会ベストイレブンに選出されている。
- 1970年 - 28歳で初めてフランスのRCストラスブールに移籍。その後フランスのクラブ、スダン、ヴァランシエンヌを経て、再びストラスブールに戻る。
- 1978年 - ストラスブールを最後に現役を引退。選手生活12年間で85得点。その間イエローカードを提示されることは一度もなかった。
[編集] 監督時代
- 1978年 - 古巣ジェリェズニチャルでコーチの仕事を始める。ユースチーム監督就任。
- 1979年 - ジェリェズニチャル トップチームの監督に昇格。
- 1982年 - 副業的にユーゴ代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。チームはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。
- 1985年 - ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。
- 1986年 - ユーゴ代表監督に就任。
- 1987年 - 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。
- 1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。
- この後ユーゴスラビアの分裂が決定的となる。
- 1991年 - 翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。
- 1992年 -
- 3月27日 - ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボに侵攻。直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエボを脱出することが出来なくなった。
- 5月21日 - サラエボ侵攻とユーゴ分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴ代表の監督を共に辞任。この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴ代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。
- 1992-1993年 - ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。
- 1993年 - オーストリア・ブンデスリーガのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。SKシュトゥルム・グラーツの監督としてUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。
- 2002年 - SKシュトゥルム・グラーツ監督を辞任。
- 2003年 - ジェフユナイテッド市原監督に就任。
- 2005年 - ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。
- 2006年 - 日本代表監督に就任。
- 2007年11月16日 - 千葉県内の自宅で脳梗塞で倒れ、千葉県内にある順天堂大学附属浦安病院に緊急入院[1]。一時危篤状態に陥ったが奇跡的に一命を取り留め意識も回復。しかし、監督を続けられる状況ではなくなったため、日本代表監督には岡田武史が就任することになった。
- 2008年1月30日 - 国立競技場で行われた日本対ボスニア・ヘルツェゴビナの試合を観戦し、約2ヶ月ぶりに入院後初めて公の場に現れた。
[編集] 監督としての実績・評価
[編集] ユーゴ代表時代
ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴ構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。
彼が代表監督に就任する直前のユーゴ代表は、チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。こうした民族的な配慮を排除した上で、「必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃える」と言って憚らなかった。完成したチームはドラガン・ストイコビッチ、のちにスレチコ・カタネッツ、デヤン・サビチェビッチらがいた。
1990年ワールドカップ当時、各民族のスターばかりを集めた選手起用を求めるメディアに対する当てつけとして、初戦ドイツ戦で敢えてその要求通りの起用で敗戦してみせ、次の試合では本来考えるチーム編成で勝利し[2]、最終的には、準々決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン相手に1人欠きながら120分間無失点のドローの末、PK戦で敗れた。
作り上げた最後のユーゴ代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。1991年にスロベニアとクロアチアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかったが、やがて国の解体に合わせてユーゴ代表も崩壊した。
[編集] SKシュトゥルム・グラーツ時代
パナシナイコス退団を表明すると、レアル・マドリー、バイエルン・ミュンヘン、代表監督としてクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ等への就任要請があったが、オシムはその全てを断わり、グラーツへ赴いた。グラーツはオーストリアの第2の都市でありながらサッカーはどちらかといえば他都市に遅れを取っていた。
就任以前はオーストリア・ブンデスリーガの中位から下位に甘んじていたSKシュトゥルム・グラーツだったが、オシムはこのクラブに規律と戦術を持ち込み、当時オーストリア・ブンデスリーガでは一般的でなかった走るサッカーを実践した。積極的な補強策・若手の育成も功を奏してクラブは徐々に成績を上げていき、まもなく優勝候補の常連となった。就任2年目となる1995-96年シーズンにはリーグカップ優勝、そして4年目の1997-98年シーズンにはリーグ優勝を果たした。この時のメンバーには後にジェフ千葉に移籍することとなるマリオ・ハース、名古屋グランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。特にクロアチア出身である後者はオシムの指導で飛躍的な成長を遂げ、オーストリア・ブンデスリーガを代表する選手となった。
SKシュトゥルム・グラーツでの名声を確たるものとしたのは、2000-01年シーズンの三度目のチャンピオンズリーグへの挑戦である。SKシュトゥルム・グラーツは1次リーグでレンジャーズ、ガラタサライ、モナコと同組に入り、これを首位で通過[3]。2次リーグでバレンシア、マンチェスター・ユナイテッド、パナシナイコスと同組となる。この組ではバレンシアとマンチェスターユナイテッドに敗れたものの(特にホームで迎えたバレンシア戦は0-5の大敗であった)、パナシナイコスには2戦とも勝利した[4]。決勝トーナメント進出はならなかったが、この活躍は評価に値するものであった。
しかし、念願のUEFAチャンピオンズリーグ初出場を果たすために大規模なチーム補強が行われ、数々の代表選手を獲得、そのために抱えきれ無いほど膨大な人件費を抱え財政難に陥る。2001-02年シーズン終了後、二人三脚で名声を築いたはずのカリスマ的オーナー、ハンネス・カルトニックと対立した形となり、マスコミを通じて卑劣な批判を受けた翌日に辞任を発表した。オシムは退任の理由を「クラブオーナーからの名誉毀損」としており、実際カルトニックとは給料不払いなどの契約問題および名誉毀損問題で裁判沙汰となり、2004年12月最高裁より全面勝訴を得た。
[編集] ジェフ千葉時代
グラーツを去った後、新しい挑戦として来日。肉体面では「走力」、精神面では「哲学」の二面的アプローチ、「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードとした指導で、ズデンコ・ベルデニック監督以降危機・低迷から脱していたジェフ市原を、さらに改革した。
2003年、当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢、1stステージで初優勝王手まで勝ち進む。しかし首位攻防戦となったアウェイ静岡2連戦で13節:ジュビロ磐田戦に引き分け、14節:清水エスパルス戦ではプレッシャーによる大敗を喫したことにより、王手をかけながらも初優勝を逃した。また2ndステージでは14節:大分トリニータ戦で引き分けたことにより、実質的な優勝の可能性を失った。しかし1stステージ3位・2ndステージ2位・年間通算成績3位とクラブ最高の成績を記録。そのサッカーは多くのサポーター、サッカーファンを魅了し、彼の名声を高めることになった。
2004年、崔龍洙、中西永輔を放出し、経験・身体的に弱い若手中心となり、戦力ダウンは避けられないと見られていた。又、この年は主力選手の怪我も重なった。しかしながら結果としてタイトルは取れなかったものの2ndステージでは2位、年間通算成績は4位と前年とほぼ同等の成績を残すことができた。資金・選手層に乏しいジェフにおいて、この好成績は、オシムの監督手腕の高さによるものと評価されている。
2005年、かつての主力選手でもあった村井慎二、茶野隆行、サンドロ、マルキーニョス、ミリノビッチなどを放出した。しかし、技術に優れ攻守に貢献するマリオ・ハースや、DFながらも攻撃の組み立てに多大な貢献をするイリアン・ストヤノフの補強によって、その穴を埋めた。また、巻誠一郎が日本代表に初選出、水野晃樹、水本裕貴が、ワールドユース出場を果たすなど若手も成長し、戦力低下は招かなかった。ヤマザキナビスコカップでは準決勝で強豪浦和レッズを倒して決勝戦に進出。決勝ではガンバ大阪と延長、PK戦と激闘を制しチームに初のタイトルをもたらした。
2006年、以前から試験的に採用していた2バックを実際に使用していたが、これは単に選手名鑑でDF登録されている選手を2名だけ起用したにすぎない。対戦相手を鑑て、当日のサッカーを決めるということは変っていなかった。シーズン途中の7月に日本代表監督への就任が決まり、監督を辞任した。
[編集] 日本代表監督
- 通算20試合12勝5分3敗。
- 2007年 - アジアカップ2007 4位
[編集] 監督としての特徴
[編集] 人選
自身のテーマである「考えて走るサッカー」に合う運動量が豊富で守備能力の高い献身的なプレースタイルや、複数のポジションをこなせる多様性のあるユーティリティープレイヤーが多く、これらの選手を上手く使うパスやドリブルなどの技術が高い選手が少数いる。このような選手をオシムは「エレガントな選手」と呼んでいる。
[編集] 練習方法
- 多色のビブスを使いプレーに複雑な制限を課すメニューが多く、慣れるまではルールや目的の理解が難しいとされている。特に就任当初は、選手ばかりかコーチ陣も混乱して練習がスムーズに進まない様子がしばしば目撃され、クラブで既に「オシム流」に慣れていたジェフ千葉の選手が指導役になった時期もあった[5](なお、この練習法自体はオシム独自のものというわけではなく、各国・各リーグのユース年代等でよく行われている練習である)。
[編集] レギュラーと控え
前日本代表監督のジーコとの一番の相違点として上げられること(ジーコは練習から控えはビブスを着用)[6]で先発メンバーは試合前のロッカールームでコーチが直接選手に伝えている。また控えの選手の振る舞いにも目を配り、就任当初から正GKの川口能活をモンテネグロ戦で楢崎正剛に変えたことへの質問に対し「楢崎が好調なのもあるが、川口が(メンバーから外されて)どんな振る舞いをするのか見たかった」とコメントしている。
[編集] オシム語録
質問者が不用意に「走るサッカー」について質問すると、オシムは「サッカーで走るのは当たり前です」と切り返す。そうした場面が多々見られるように、試合後のオシムの記者会見や雑誌、新聞等に語られる彼の言葉は非常にウィットに富んでおり、サッカーが哲学的に語られる。ジェフ千葉時代に、それがサポーター間やサッカー界ばかりでなく、一般紙や教育の現場などでも評判を呼んだ。これが「オシム語録」と呼ばれるようになり、クラブの新しい名物として定着した。
試合後の会見では、単に質問者がからかわれている場面もまま見受けられ、オシムのコメントをストレートに紙面に掲載してしまうと、その真意を伝え切れないことになる。また、(練習場のある)市原まで取材に出かけた記者が半泣きで帰ってきた、という逸話が時々紙面に掲載されることがあったように、オシムは一部マスコミにとっては「インタビュアー泣かせ」の取材相手である。しかし、真摯な質問者に対するオシムの対応は、往々にして丁寧である。
なお、スポーツジャーナリスト以外への受け答えは温厚でありながら、非常に慎重である。これはオシムが各所で語っているとおり、かつて経験したユーゴ内戦の時期に「マスコミが戦争を始めさせる」という様を見せ付けられてきたことに起因するものである。
オシムの日本代表監督就任以降、その動向とともに「オシム語録」もさらに大きな注目を集めるようになった。
[編集] 代表的な語録
- 「ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出すときに肉離れしますか?準備が足りないのです」[7]
- 「休みから学ぶものはない」[7]
- 「アイデアの無い人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない」[8]
- 記者から、初来日の東京五輪から40年、日本のサッカーはどのように変わったかと問われ
- 「大きく成長を遂げていると思う。だが問題は、君たちマスコミだ。40年間、まったく成長していないのでは?」[9]
- 代表監督就任会見で、「2006ワールドカップでの失望をどのように払拭するのか?」という質問に対して
- 「失望というのは、より多くのものを望み過ぎたからするものだ」[10]
- 2006シーズン、勝てば優勝が決まる浦和レッズがFC東京と引き分けた試合について
- 「一生懸命探すニワトリだけが餌にありつける」[11]
[編集] 人物・エピソード
[編集] 日本との関係
- 1964年、ユーゴ代表の一員として東京オリンピック出場のため初来日。生まれて初めて見るカラーテレビや近代的な大都会・東京に感激した。ある日合宿地近くの都市をサイクリングしていた時、見ず知らずの老婆からいきなり梨を見舞われた。当時の日本では外国人はまだ珍しかったが、190センチもの大男を怖がりもせずもてなす日本人のホスピタリティに触れ、親日家になった[12]。帰国後友人のカタリンスキーに、「日本人は親切で誠実だ。とても歓迎されて、すぐに好きな街になった」と興奮気味に語っている。
- 1991年7月20日、キリンチャレンジカップに招かれたパルチザンの監督として、27年ぶりに来日。日本代表を相手に勝利を収めるが、東京オリンピック当時と比べ、日本のサッカーレベルの向上に驚く。
- 2002年6月、FIFA技術委員会メンバーとして日韓ワールドカップのため3度目の来日。札幌ドームでのドイツ対サウジアラビア、宮城スタジアムでのメキシコ対エクアドルとスウェーデン対アルゼンチンの3試合を観戦・分析した。この時の技術委員会メンバーには、当時ジェフ千葉監督であったベングロシュもいた。
- オシムの影響で日本に興味を持った欧州の選手やサッカー関係者もいる。前述のカタリンスキーは、ボスニアで知日家として知られるまでになり、一時は駐日大使就任の要請もあったと語っている。
[編集] 愛称・異名にまつわる逸話
- 一般的によく紹介されるイビチャの名称は短縮型で、正式名は Ivan (キリル文字で Иван)、日本語読みでは「イヴァン」である。ジェフ千葉での登録名は「イビチャ・オシム」。(なお「イビチャ」の原語により近い日本語表記は「イヴィツァ」)
- 選手時代には「シュトラウス」の異名をとった。テクニックとその独特のリズム、ボール捌きがまるでヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツを踊っているかのように華麗であったことを由来とする(ちなみにドイツ語の「ヨハン」は、オシムの名前である東スラヴ・南スラヴ諸語の「イヴァン」に当たる)。190cmの長身ながら繊細なボールタッチを持つパスの名手として知られ、ボールを持ったら離さないとも言われた。
- 愛称の1つに「シュワーボ」(「ドイツ野郎」の意)がある。オシムによればこれは少年時代からのもので、当時の自身のブロンドの髪、更に父方の祖父母がドイツ系で、家族がドイツ語を使いこなしていたことなどが由来だという。プロになってからも彼のルーツへの敬意を表する意味で、そして親しい間柄の人からは今でも呼ばれることがある。なお、オシムがパルチザンの監督を辞任した際、選手をはじめ多くの関係者が「シュワーボ!オスタニ(残れ)!」と叫んで別れを惜しんだというエピソードがある。
[編集] その他
- 趣味は料理、相撲観戦(琴欧洲のファン)、カードゲーム(レミ、ラミーの一種)。
- もしサッカー選手、監督になっていなかったら数学の教授になっていたかもしれない、ただ、その場合はユーゴ内戦の時期を無事に過ごせなかったかもしれない、と語っている。
- 自身について「今で言うマルチカルチャーな環境で育った」という。父方の祖父母はドイツ系で、母方は祖父がポーランド人、祖母はチェコ人である。少年時代から所属したジェリェズニチャルも、ボスニアに住む諸民族が一緒くたにプレーしている環境であった。なお、オシムはユーゴ分裂後の民族分類では「クロアチア人」であるが、本人はそういう区分を嫌っている。
- 母語のセルビア・クロアチア語(旧ユーゴ人に言わせると「ややボスニアなまりがある」という)のほか、ドイツ語、フランス語、更に英語も話せる。記者会見は母語だが、それ以外では英語などを使うこともある。
- 心臓が悪い。健康の為に汗をかこうと、どんなに暑くても長袖を着ている。
- 監督に就任したクラブチームすべてにカップ戦のタイトルをもたらしており、解任されたことが一度もない。
- 祖母井秀隆によると、記者会見前にファンデーションみたいな物で肌を整えているところを見た、という[13]。
- PK戦が嫌い。ユーゴ監督時代、1990年ワールドカップのアルゼンチン戦、PKでは監督の力も及ばない、運命を偶然にゆだねるものであるとしてPK戦を見ずしてロッカーに引き下がってしまったが、結果は5人中3人が外し敗戦。ジェフ千葉時代、2005年のナビスコカップ決勝でPK戦を見ないでロッカーに引き下がってしまったのも同じ理由。勝利に終わった試合後のインタビューで、PK戦にいい思い出が無い、と語っている。
- 2007年アジアカップ決勝トーナメント準々決勝はPK戦に突入、彼はキッカーを決めた後やはりロッカールームに戻ってしまった。そのロッカールームにテレビカメラが入り、心配そうな表情を浮かべたたずむ様子を映し出した。
- 日本での親友はユーゴ代表監督時代から親交がある祖母井秀(ジェフ千葉在籍時のゼネラルマネージャー)で、視察などの際に送迎してもらうほどであった。
- 日本に来てから魚好きになり、自宅付近には行きつけの魚屋もある。魚にはこだわりがあり、必ずスーパーではなく魚屋で買ってくる。日本酒も嗜む[12]。
- 祖母井秀隆によると、サッカーを離れて一番楽しんでいたのは料理。ジェフ千葉時代、練習が終わるとチームのジャージを着たまま浦安に食材を買い出しに行っていた。腕前はなかなかのもので、トマトソースを使ったイタリアンなどが得意[14]。
- お金にはこだわりが無い。買い物にはお札しか使わず、日本に来たばかりの頃は、「お釣りは取っておいてくれ」と言っていた。日本にはチップの習慣が無く、この行為が失礼になる事もある、と知ってからは、小銭を貯金箱に集め始め、貯まると母国ボスニアの子供達に寄付していた。また、自分の契約書に目を通した事が無く、ある日、祖母井秀隆がオシムの家を訪れると、契約書が自宅のテレビの上に封を切らずに置きっ放しだった。困った祖母井がオシムの息子のアマルに頼んで開封してもらい、二人で「今期はナビスコ杯を取ったからこれぐらいにしないと失礼になるかな」などと話し合い、苦労して金額を決めて契約書に書き込み手渡すと、当の本人は金額を見ずにサインをしていた[15]。
- 母国でチャリティー活動も行っている。
- 大の電車嫌い[16]。
- 脳卒中から快復し意識が戻った後、アイスクリームを差し入れされ「冷たくないかい?」と気遣われた返事に「冷たくなければアイスクリームではない」と言い、相変わらずの毒舌を披露した。
[編集] 関連情報
[編集] 関連人物
- 千田善 - 通訳。
- アマル・オシム - 長男。ジェフ千葉時代、コーチを務めた。
- ミハイロ・ペトロヴィッチ - グラーツ時代にコーチを務め、現在も師弟関係にある。
- ドラガン・ストイコビッチ - 旧ユーゴスラビア代表時代指揮の元、内戦に揺れるチームを牽引し活躍した。現在でも師弟関係にあり、彼自身も同様に親日家である。
- 間瀬秀一 - ジェフ千葉時代に通訳を務めた。
[編集] 関連項目
[編集] 参考(関連)書籍
- 『オシムの言葉 - フィールドの向こうに人生が見える』
- 木村元彦著、集英社インターナショナル/集英社、ISBN 4797671084
- Das Spiel des Lebens
- Gerald Enzinger/Tom Hofer/Ivica Osim 著、Deuticke im Paul Zsolnay Verlag、ISBN 3216305945
- 『イビチャ・オシムの真実』
- ゲラルト・エンツィンガー/トム・ホーファー著、平陽子訳、エンターブレイン、ISBN 4757731043
- ※上記 Das Spiel des Lebens(2002年刊)の翻訳に、オシム自身の語りによるジェフ千葉~日本代表監督就任までを追加したもの。巻末の解説は木村元彦。
- 『オシムが語る』
- 木村元彦監修、シュテファン・シェンナッハ/エルンスト・ドラクスル著、小松淳子訳、集英社インターナショナル/集英社、ISBN 4797671548
[編集] 参考(関連)リンク
- 『オシム監督語録』 (ジェフ千葉)
- 『オシム語録』 (日刊スポーツ新聞社)
- 『サッカー日本代表 オシム監督会見全文集』 (スポーツナビ)
- Danksagung des Sturmforums an Osim (シュトゥルム・グラーツのサポーターによる、オシムへの感謝を綴ったサイト。ドイツ語)
- 『サラエヴォ・フットボール・プロジェクト』 (慈善NGO、活動に協力)
[編集] 脚注
- ^ 日本代表・オシム監督、脳梗塞で倒れる
- ^ 本人談なので真相は不明。
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ "【日本代表 対 イエメン代表】8/14練習レポート" 2007年6月18日閲覧. J's GOAL、2006年8月14日付
- ^ スポニチ Sponichi Annex サッカー 連載 チームが1つに…控え組も「戦っている」
- ^ a b "オシム監督語録" 2007年6月18日閲覧. ジェフ千葉、2003-2006年
- ^ 木村元彦 『オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える』 集英社インターナショナル、東京都、2005年。ISBN 4-797-67108-4。
- ^ 『オシム監督マスコミも鍛える?』、日刊スポーツ/日刊スポーツ新聞社、2006年8月15日付
- ^ "スポーツナビ | 日本代表オシム監督、U−21代表反町監督 就任会見(1/2)" 2007年6月18日閲覧. 2006年7月21日付
- ^ "オシム語録" 2007年6月18日閲覧. 日刊スポーツ新聞社、2006年11月26日付
- ^ a b "オシム監督の手腕と評判と私生活" 2007年6月18日閲覧. ゲンダイネット/日刊現代、2006年7月-8月
- ^ 読売新聞2007年11月6日朝刊
- ^ 読売新聞2007年11月6日朝刊
- ^ 読売新聞2007年11月6日朝刊
- ^ “電車イヤ”オシム監督ドタキャン
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| ユーゴスラビア代表 - 1990 FIFAワールドカップ | ||
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1 イヴコヴィッチ | 2 スタノイコビッチ | 3 スパシッチ | 4 ヴリッチ | 5 ハジベギッチ | 6 ヨジッチ | 7 ブルノビッチ | 8 スシッチ | 9 パンチェフ | 10 ストイコビッチ | 11 ブヨビッチ | 12 オメロヴィッチ | 13 カタネッツ | 14 ボクシッチ | 15 プロシネチキ | 16 サバナゾビッチ | 17 ヤルニ | 18 バリイッチ | 19 サビチェビッチ | 20 シューケル | 21 パナディッチ | 22 レコビッチ | 監督: オシム |
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