ラモス瑠偉
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | カリオカ | ||||||
| カタカナ | ラモス ルイ | ||||||
| ラテン文字 | RAMOS Ruy | ||||||
| 帰化前 | Ruy Gonçalves Ramos Sobrinho | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1957年2月9日(54歳) | ||||||
| 出身地 | |||||||
| 身長 | 181cm | ||||||
| 体重 | 71kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | MF | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 監督歴 | |||||||
| 2006-2007 | 東京ヴェルディ1969 | ||||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。2007年1月27日現在。 2. 2007年1月27日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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ラモス 瑠偉(ラモス ルイ、Ramos Ruy、1957年2月9日 - )は、ブラジル出身の日本の元サッカー選手、サッカー指導者。元Jリーグ監督。フットサルの元日本代表選手。現在は日本サッカー協会傘下にあるビーチサッカー日本代表監督。ブラジル名はRuy Gonçalves Ramos Sobrinho(ルイ(フイ)・ゴンサゥヴェス・ラモス(ハモス)・ソブリニョ)[1]。愛称の「カリオカ」は「リオっ子」という意味で出身地に由来する。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] ブラジル時代
1957年2月9日、ブラジルのリオデジャネイロから山側に70-80キロほど入る、メンデスという小さな町でサッカー好きな公認会計士の父フーベンと母マリアのハモス家、5男1女の第4子として出生。父はサッカー狂であったが、母はフチボーに無関心で、息子フイのサッカー熱を嘆いていた。[2]。兄らに混じって空き地や道路で球蹴りに興じ、定期巡回で訪れるサッカークラブのセレクションを幾度も受け続けるが尽く不合格。
1969年、12歳のとき父が他界し大きなショックを受け、父の死が受け入れられず憤慨して一時家を飛び出す。[3]。当時住んでいた家が父親が会計士を務めていた会社の社宅だったため、実父の死亡に伴いリオからサンパウロに住んでいた叔母の家に引っ越し[4]。1975年、高校2年のときに母が「フイの気が狂った」と呆れるほど連日に渡り、膨大な試合に参加。全てはフチボーに対する情熱とプロになり金を稼ぎたいという思いだった。高校に通うのを中断し、ほとんどの時間をサッカーとアルバイトに明け暮れアマチュアの大会などに参加、しかし見た目がマグロン(棒人間)な事からほぼ門前払い。18歳の終わり頃に当時サンパウロ州1部リーグ中位から下位に位置していたサアジFCに入団[5]。1977年1月、19歳の時に当時読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)でプレーしていたジョージ与那城にスカウトされる[6]、母は「気が狂った」と息子フイの日本行きを嘆き呆れ、猛反対する。
[編集] 日本サッカーリーグ時代
1977年4月、20歳で来日し入団[7]。当時のニックネームはラモスの細い肉体にちなんで名づけられたあだ名は「エンピツ」[8]。読売サッカークラブへの加入動機は「なんとしてでもサッカーで金を得る」ためであったが、来日早々よみうりランドのホテルでホームシックを患い、郷に帰りたいと涙するもカルバリオとマリーニョが赤坂や六本木にラモス(と従兄弟のカルロス・ニコトラ)を連れ出したところ「日本に来て良かった、もう帰る気は失せた」と大喜びする。JSL時代の登録名は「ラモス・ソブリニョ」
MFとして有名だが、ブラジル時代はDF(スイーパー)としてプレイしていた[9]。そして来日からしばらくはFWとしてプレイした[10]。初めは若さと日本語もわからなかったためトラブルを起こす。1978年1月14日の対日産自動車サッカー部戦で、ラモスがファウルをし、相手選手が重大なファウルを受けたように痛がる演技をし、レッドカードでラモスが退場処分を受けた後に当の相手選手が笑っているのを見て激怒し、その相手選手をグラウンドで追い掛け回したことで、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた[11]。1年間の出場停止が解け復帰した直後の試合から1979年2試合連続ハットトリックを含む14得点7アシストを記録。得点王・アシスト王の二冠を獲得した。これは日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか達成していない[12](Jリーグではアシストの個人表彰を行っていない)。この頃、後に結婚することとなる、当時美大生だった清水初音がサッカー好きの男友達の仲介でラモスと対面し初音が一目惚れ。初音の母同伴の3人でデートをし、母も娘に影響されてラモスに関する情報や記事を収集するようになる。
1981年8月2日にバイク事故を起こし、左足のすねを複雑骨折し選手生命の危機に陥る。このときの取り乱し方は尋常ではなく、病院に駆け付けた初音が手をつけられないほど、ポルトガル語で喚き散らし周囲にあたり散らしてした。入院生活を送る中、病室に日参する初音に対し「二度と来るな!顔も見たくない。帰れ!!」と怒りをぶつけるも、翌日また看病に訪れた初音に「(内心)降参した」とラモスの方が折れ、この献身的な看病に感激して結婚を決意[13][14][15]。このケガにより1981年の後期を棒に振り、1982年シーズンは復帰したものの1得点のみに終わる。1983年には復活し、10得点で得点王を獲得。
1984年2月、初音とブラジルサンパウロにて挙式、結婚。同年11月3日、対古河電気工業サッカー部戦で、(プロ野球ほど派手ではないものの)両軍入り乱れての乱闘騒ぎを起こした[16]。その後、ほかの選手は2試合の出場停止だったのにもかかわらず、ラモスに対しては翌年3月末までの出場停止という重い処分が下された[16]。これらの背景には、プロ志向の強い読売クラブに対して日本サッカー協会や実業団チームからの妬みや反発が強く、読売クラブを代表してラモスが被害を受けたという面もある[17]。
1985年、サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招いたキリンカップでは日本代表と並んで読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明し、日本国外クラブに勝てないどころか、対読売クラブ戦にすら惨敗した日本代表とは対照的であった(当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身)。
この頃より日系ブラジル人の元選手であるセルジオ越後らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。日本サッカーが低迷する時代、読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)対日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。敵チームながら木村和司らと不遇の日本リーグ時代を支え、Jリーグ開幕、W杯出場へと日本サッカーを発展させた功労者の一人。当時のラモスを木村和司は「非常に汚い選手だった…うまいけどね」と振り返る。
当時、外国人出場枠3人に対して4人の外国人選手を抱えていた読売クラブはこの問題を解消するため日本国籍の取得条件(滞在年数、日本人配偶者)を満たしていたラモスに日本への帰化を勧める。漠然とではあるがいずれは妻の初音を連れてブラジルで所帯を構えようと[18]考えていたが、この帰化話を聞いてあまり良い顔をしなかったもののよくよく考えて「妻(初音)の両親は快く一人娘をガイジンの俺にくれた、俺はとんでもない馬鹿野郎だった。何かの形で日本に恩返ししないとこれでは筋が通らない。」と猛省して日本国籍取得の申請を届け出て1989年に日本国籍取得尚[19]。本名の「Rui」の当て字「瑠偉」は初音夫人の考案によるもの。
[編集] Jリーグ時代
1993年。Jリーグ開幕。読売クラブ時代のサッカー色そのままのヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)でプレイし空前のJリーグブームの真っ只中、ラモスの足技はスタジアムの観客を沸かせ、年棒も6千万円超となり母に家をプレゼント。日本代表にも選出され、中心選手として活躍。1993年、FIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア予選の日本代表に選出されるが、ブラジル流サッカーを信奉するラモスは、規律と組織を重視するハンス・オフト監督批判をマスコミ上で展開したため、一時期代表を外されかねない危機もあった[20]。オフトとの和解後は代表のキーマンとして活躍するも、「ドーハの悲劇」を経験し念願のワールドカップ出場はならなかった。年齢、体力的なものと戦術を巡っての確執で(仮に)この試合に勝ち、日本代表が本戦に出たとしても本人は代表を辞退する考えを固めており「代表をW杯に送り出すのが俺の役目」と腹をくくって望んだ対イラク戦がラモスの“全日本”最後の試合となった。
Jリーグの発足で、読売サッカークラブからヴェルディ川崎になっても中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続ける。1993年7月10日、当時ガンバ大阪に在籍していた賈秀全からファウルを受けた際、報復行為として賈秀全の顔面にボールを投げつけ大乱闘となった(ちなみにこのとき賈秀全は退場処分となったが、ラモスはイエローカードを受けるにとどまった)。1996年夏にヴェルディの監督に就任したエメルソン・レオンとは以前から確執があったことから、レオンの下でプレーする事に対して拒絶反応をあからさまに示し京都パープルサンガへ移籍する。しかし翌1997年夏にレオンが退任するとすぐさま古巣のヴェルディ川崎に復帰。
1998年11月14日の対柏レイソル戦(日立柏サッカー場)で現役を退く。41歳9ヶ月5日という最年長出場記録は2009年に中山雅史に抜かれるまではJリーグ記録だった。1999年8月には三浦知良や武田修宏、北澤豪などのヴェルディ・オールスターズとJリーグ選抜軍によるJリーグ初の公認引退試合が国立霞ヶ丘競技場で開催された。この試合の最後のあいさつでファンに向けて「生まれかわっても、日本に来て早く帰化してワールドカップへ出たい」と涙ながらに語った。
[編集] フットサル日本代表に
サッカー引退直後の1999年2月、フットサル日本代表に招集された。同年3月、マレーシアで開かれた第1回AFCフットサル選手権に主将として出場、4位となった[21]。
[編集] 引退後
[編集] 評論家
引退後は評論家として活動。一時期解説業も行っていたが、気持ちがこもるあまり強い口調になってしまうことがたびたびあるため、テレビ局側から敬遠されている。まだ現役の頃だが、1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会においてNHKの解説を行っていた際、日本代表のふがいない戦いぶりから、試合後「何ニヤニヤしてんだよ!ワールドカップは戦争だヨ!」「こんなサッカーじゃオナニーしてんのと同じだヨ!」と、有働由美子アナウンサーのフォローを無視して激高したことがあり。中田英寿のセリエAプレー解説を務めたときも精神論を全面に押し出したコメントで「大和魂を見せろ」「あんなプレーでは相手にナメ(見下さ)られる」「気持ちを強く」と辛辣なコメントを連発してフジテレビのサッカーコーナーから姿を消す事となり、タレントの明石家さんまから「お前はサッカー熱が過ぎて精神論だけが先行しボロカス言うから、テレビから干される」と指摘され苦笑いしながら頭を抱えていた。2000年にブラジル政府より「リオ・ブランコ勲章」を受勲。
[編集] 沖縄かりゆしFC監督・FC琉球アドバイザー時代
2001年に、沖縄かりゆしFC(九州サッカーリーグ所属)のテクニカルアドバイザー兼任の形で現役復帰を果たすが、2002年シーズン終了後の経営陣との対立からの退団でチーム内選手の集団退団騒動にまで発展した。またこの年、連続テレビ小説『さくら』に居酒屋の主人役で出演した。かりゆしFC退団後は、退団選手が中心で、恩人・与那城ジョージが監督を務めるFC琉球(日本フットボールリーグ)のテクニカルアドバイザーを務める。
[編集] 柏レイソルコーチ時代
2004年10月にJリーグの監督を務めるために必要な公認S級コーチの資格を取得。2005年にビーチサッカー日本代表の監督に就任し、ビーチサッカーワールドカップではベスト4の躍進に貢献。同年9月13日、J1リーグで残留争いの真っ只中にあった柏レイソルのコーチに就任。古巣ヴェルディのJ2降格を決定させる試合の対戦相手として引導を渡す役目になるという皮肉な巡り合わせもあった。柏では監督の早野宏史よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、チームはヴェルディともどもJ2降格となりコーチを辞任。
[編集] 東京ヴェルディ1969監督時代
2006年からはJ2落ちした古巣の東京ヴェルディ1969の監督に就任。前年度のレギュラーの殆どを失うチーム状況の中、「1年でJ1復帰」を掲げ、J2に加えACL出場のため登録メンバーを大幅に増やして臨んだが日程は過密となり、前年からの課題であったディフェンス面での不安を解消することが出来ず、J2初年度は7位で終了したが、2007年も指揮を執ることが早々と決定。
この年、チームは名波浩や服部年宏など実績あるベテランを獲得。在籍メンバー大半を入れ替える大型補強を行い、開幕前にはJ1昇格候補の筆頭に挙げられた。体制発表の際にクラブの萩原代表からは、圧倒的な強さを見せられなかった場合は早期解任の可能性まで示唆されており、背水の陣で臨むシーズンとなった。開幕5試合で4勝1分とスタートダッシュに成功したが、その後課題のディフェンス面の不安が露呈し連敗を重ね、第7節(対アビスパ福岡戦)から第12節(対サガン鳥栖戦)まで6連敗を喫してしまい、「(この先)2連敗なら解任」などといった厳しい状況に追い込まれた。
そのような状況の中、第13節(対水戸ホーリーホック戦)も大敗を喫しクラブワーストタイの7連敗となり、しかも不調の水戸に大量得点での今期初白星を献上するという失態に、次節の結果に関係なく解任濃厚(後任はコーチの柱谷哲二の昇格が有力)と報道された。しかし、続く第14節(対京都サンガF.C.戦)で4-1と大勝し、一転続投が決まった。
その後こだわり続けた4-4-2から3-5-2へとシステムを変更、守備の立て直しを図り、以後は安定して勝ち点を得られるようになった。9月頃からはフッキを1トップに据えた4-5-1へとシステムを変更したがこれが功を奏し、8連勝を記録するなど追い上げを見せ、2位でシーズンを終了。J1復帰を成し遂げた。なお、J1昇格を決めたセレッソ大阪戦は、監督に就任してちょうど100試合目(リーグ、ACL、天皇杯を含め)であった。シーズン終了後に監督を退任。
同年9月15日に母がリオデジャネイロの病院で心臓発作のため82歳で死去した。だがこのことを選手にも伝えず、帰国もしないで指揮を執り続けた。
[編集] 監督退任後
エグゼクティブディレクター(マスコミなどでは「常務」の肩書)として東京Vのフロント入り。2009年4月に退任すると、5月には東京Vスーパーバイザーに就任した。2010年4月より、TBSテレビ『S☆1』でサッカー解説者(「S☆1ファミリー会員No.10」)として準レギュラー出演。
[編集] ビーチサッカー代表監督
2009年7月にはビーチサッカーの日本代表監督に就任。元サッカー日本代表の前園真聖らを代表に加え、10月にアラブ首長国連邦・ドバイで開催されたワールドカップではグループステージを1位で通過するもポルトガルに破れベスト8となった。
[編集] 人物
1977年に来日。1989年に日本に帰化。1984年に結婚した初音夫人との間に1男1女。左肩に妻の名前とハートマークに弓矢の刺さったタトゥーを施しており、Jリーグ開幕前後に多数あったスポーツニュース系番組での密着取材の際に愛情の証としてたびたび披露していた。
ブラジルのサンバが好きで、外苑前にあった「コパ東京」(後に成増へ移転)というシュハスカリア(シュハスコ料理店)では、月1回程度のペースでパゴーヂ(サンバの一種:少人数で演奏される)を自ら演奏し歌っていた。楽器はタンタンを担当。またラモスが出演するパゴーヂは俗にラモパゴと呼ばれる。なお2008年1月に、念願であった自身がオーナーであるブラジルレストラン、「Restaurante Carioca by R.Ramos」をオープンさせた。別の店ではあるがラモパゴも今後不定期で行う予定。過去、暴力事件の罰則で長期に渡り出場停止になるが、本人と、ブラジル大使館員、ブラジル料理店従業員、友人、知人が集まりスタンドでサンバを演奏。スタジアムにおいて応援チームの鼓舞を行うサンバの演奏は、これが始まりになる。
サッカーにおいては執拗な勝負欲と、敵を激昂させミスを誘う目的の罵声と嘲りで一時期は「粗暴な悪役外人選手」のレッテルを貼られ白眼視された。チームメイトに対しても同じで都並敏史は「ボロカスに貶されて毎日泣きそうになった」と漏らしているが、ラモスの口撃に刃向い口論となった田口孝弘はすぐに気に入られて仲良くなっている。さらに試合でのトラブルは自分が率先して引き受けて報復を行い、チームメートがラモスに相談無く勝手に報復プレーを行った時は手厳しく諫め、報復プレーに代役で参加していた。本人も良く口にする「ナメんじゃないよ」はブラジル時代からのもので、60年代のブラジルでサッカー漬けになった子供らは切った張ったが当たり前で、少しでも弱みを見せると、そこに付け入れられて責め立てられた。ラモスのこの「やられたらやりかえす」「ケンカも売るし、売られたケンカも全て買う」はサンパウロ当時は当たり前の行為で、妨害行為には実力行使、因縁には報復とサッカーとケンカは二つで一つという環境で育った。
2011年7月19日、最愛の妻であったラモス初音が日本女子サッカーW杯の優勝を見届け、夫のビーチサッカーも世界一になるようエールを送った後に転移性肝ガンのため52歳の若さで他界。ラモスは初音の最期を看取った際、言葉を発することなく大きなショックを受けた。ラモスの希望により、瑠偉初音夫人の葬儀・告別式は2人の結婚式が行われた聖イグナチオ教会で7月22日に行われた。
[編集] 帰化した経緯
ラモスの自著である『ラモスの黙示録』によれば、来日当初のラモスは日本人になるとは全く考えておらず、来日した正直な理由はお金のためだった[22]。その後日本で長く暮らし日本人女性と結婚したものの、読売クラブのコーチから帰化を勧められた際には、自身の人生がクラブ事情(外国人枠)と天秤にかけられているように感じて始めはムッとした[23]。帰化を決意したきっかけは一人娘である妻やその家族のためであると述べている[24][25]。帰化した時点では日本代表に選ばれるとも思っていなかったため、日本代表に初招集されたときには、夢のようで嬉しくて涙がこぼれたとも述べ[26]、もうブラジル人ではなく日本人になったのだと実感したと語っている[27]。
[編集] 日の丸
「日の丸」への愛着をたびたび語っている。自著『ラモスの黙示録』では3ページにわたって日の丸への思いをつづり、国を代表し家族や仲間のために日の丸を背負ったからこそ、頑張れたと述べている[28]。ラモスが初めて日本代表に招集された当時の代表ユニフォームには日の丸がどこにもなく、左胸にJFAのシンボルマークである「カラス(八咫烏)エンブレム」だけであったが、選手達の発案により左腕に日の丸が入るようになった[29]。ドーハでのイラン戦の際、国歌斉唱が終わった直後にユニホームの袖を引き寄せ、日の丸に口づけし気合を入れるラモスの映像がテレビで流れている。2010 FIFAワールドカップの日本代表ユニフォームが発表された際には、自身のブログにおいて「やっと日の丸が胸についた! 最高だ!」と大変喜んでいた[30]。同時に日本代表には青のユニフォームではなく日の丸と同じ赤と白のユニフォームにしてほしいと述べている[31]。
[編集] 読売・ヴェルディへの愛着
読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎)に強い愛情を持ち、「読売はオレのサッカー人生そのもの」と述べている[32]。監督との確執で移籍したことはあってもクラブを嫌いになったことはなく、「嫌いになれと言われてもなれない、心底愛しているから」と述べている[33]。日本リーグの二部にいた時代から同クラブを支えており、ラモス自身は「ヴェルディ」ではなく「読売」と呼称している。
読売グループのクラブ運営撤退後、経営危機に陥っている古巣について、「日本サッカー界の輝ける歴史を作って引っ張ってきたこのチームが消えてなくなってしまうなんてありえない」「心あるお金持ちの人いないのかなあ」とクラブの行く末を案じている[34][35]。
[編集] 背番号10へのこだわり
読売への愛着同様、背番号10もかなりの愛着を持っており、日本代表は勿論、背番号固定制施行以前も主に10番を背負い(読売時代は長らく背番号8を付けていた。)、ラモスの代名詞とも言える番号だった。その事はほかの選手も認識しており、当時ヴェルディのチームメートであったビスマルクは、彼への敬意から、こだわりのあった背番号10ではなく、7番を自ら選択するほどであった(ラモスが日本代表で離脱したときに一度だけ10番をつけている)。前述にも書かれたとおり、1996年に彼は京都に移籍し、後の10番は当時若手だったFW石塚啓次が背負うことになった。が、後に石塚は1997年にコンサドーレ札幌にレンタル移籍したことで欠番となり、その後ヴェルディに復帰したラモスがやはり再び10番を付けている。
[編集] 特徴・評価
技術・攻撃的能力が高く、FW、攻撃的MF、ボランチと中盤から前ではどのポジションでも一流の実績を残した。当時の同僚たち[誰?]は「ラモスのように正確でやわらかいパスを出せる選手はその後現れていない」との言葉を残している。
現役引退後でも、親交のある選手(いわゆる「ドーハ組」など)の引退試合などに招待出場する機会があると、現役選手に混ざっていても色あせないプレーを見せ周囲を驚かせる。生田智子(中山雅史の妻)はテレビ番組で「ラモスさんは技術があったから40歳まで(現役を)続けた」とコメントしている。
2007年にTBS『スーパーサッカー』の企画にて、現役サッカー女子日本代表を揃えた「なでしこオールスターズ」を相手に、元日本代表で固めた「スーパーサッカーオールスターズ」の一員として参加。年下の小倉隆史や福田正博をさしおいて当時49歳とは思えないプレーでチームの挙げた得点の半分である5得点を叩き出し衰えない技術を披露。この活躍ぶりに加藤浩次から賞賛の意味で「今季は(ヴェルディで)プレイングマネージャーでいけるんじゃない?」とコメントをもらった。
[編集] 所属クラブ
- 1975年-1977年 サージFC(ブラジル)
- 1977年-1996年 読売クラブ/ヴェルディ川崎(日本)
- 1996年-1997年 京都パープルサンガ(日本)
- 1997年-1998年 ヴェルディ川崎(日本)
[編集] 個人タイトル
- 日本年間最優秀選手賞 2回(1990年、1991年)
- JSL得点王 2回(1979年、1983年)
- JSLアシスト王 3回(1979年、1991年、1992年)
- JSLベストイレブン 6回(1979年、1983年、1987年、1990年、1991年、1992年)
- Jリーグベストイレブン 2回(1993年、1994年)
- 功労選手賞 (1998年)
- 1993年日本プロスポーツ大賞・殊勲賞
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1975 | サージ | ||||||||||
| 1976 | サージ | ||||||||||
| 1977 | サージ | ||||||||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1977 | 読売 | 8 | JSL2部 | 4 | 5 | ||||||
| 1978 | 読売 | JSL1部 | 0 | 0 | |||||||
| 1979 | 読売 | 8 | JSL1部 | 15 | 14 | ||||||
| 1980 | 読売 | 8 | JSL1部 | 15 | 7 | ||||||
| 1981 | 読売 | 8 | JSL1部 | 9 | 1 | ||||||
| 1982 | 読売 | 8 | JSL1部 | 13 | 1 | ||||||
| 1983 | 読売 | 8 | JSL1部 | 14 | 10 | ||||||
| 1984 | 読売 | 8 | JSL1部 | 16 | 9 | ||||||
| 1985 | 読売 | 8 | JSL1部 | 18 | 7 | ||||||
| 1986-87 | 読売 | 8 | JSL1部 | 15 | 4 | ||||||
| 1987-88 | 読売 | 8 | JSL1部 | 17 | 4 | ||||||
| 1988-89 | 読売 | 8 | JSL1部 | 17 | 3 | ||||||
| 1989-90 | 読売 | 10 | JSL1部 | 22 | 5 | 3 | 3 | ||||
| 1990-91 | 読売 | 10 | JSL1部 | 21 | 2 | 2 | 0 | ||||
| 1991-92 | 読売 | 10 | JSL1部 | 18 | 2 | 5 | 0 | ||||
| 1992 | V川崎 | - | J | - | 8 | 1 | |||||
| 1993 | V川崎 | - | J | 30 | 4 | 1 | 0 | 1 | 0 | 32 | 4 |
| 1994 | V川崎 | - | J | 26 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 29 | 3 |
| 1995 | V川崎 | - | J | 23 | 2 | - | 0 | 0 | 23 | 2 | |
| 1996 | V川崎 | - | J | 9 | 0 | 0 | 0 | - | 9 | 0 | |
| 京都 | - | J | 10 | 0 | 9 | 0 | 2 | 2 | 21 | 2 | |
| 1997 | 京都 | 10 | J | 10 | 0 | 2 | 0 | - | 12 | 0 | |
| V川崎 | 10 | J | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 12 | 0 | |
| 1998 | V川崎 | 10 | J | 29 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 30 | 0 |
| 通算 | ブラジル | ||||||||||
| 日本 | J | 147 | 9 | 24 | 1 | ||||||
| 日本 | JSL1部 | 210 | 69 | ||||||||
| 日本 | JSL2部 | 4 | 5 | ||||||||
| 総通算 | |||||||||||
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 5試合2得点
- 1991年
- コニカカップ 1試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 2試合0得点
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1994年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 1995年
- Jリーグチャンピオンシップ 1試合0得点
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 1得点(1990-1995)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1990 | 3 | 0 |
| 1991 | 2 | 0 |
| 1992 | 10 | 0 |
| 1993 | 14 | 1 |
| 1994 | 0 | 0 |
| 1995 | 3 | 0 |
| 通算 | 32 | 1 |
[編集] 指導歴
- 2002年 沖縄かりゆしFC:テクニカルディレクター
- 2005年 ビーチサッカー日本代表:監督
- 2005年9-月12月 柏レイソル:コーチ
- 2006年-2007年 東京ヴェルディ1969:監督
- 2009年- ビーチサッカー日本代表:監督
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
| 2006 | J2 | 東京V | 7位 | 48 | 71 | 21 | 8 | 19 | - | 3回戦敗退 |
| 2007 | J2 | 東京V | 2位 | 48 | 89 | 26 | 11 | 11 | - | 3回戦敗退 |
| J2通算 | - | 96 | - | 47 | 19 | 30 | ||||
[編集] 出演したテレビ番組
- 花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜卒業式&7と1/2話スペシャル(フジテレビ、2008年10月8日) - サッカー監督 役
- スポーツクライシス 〜香取慎吾×真実のアスリートたち〜(関西テレビ、2010年12月12日)
- 有名人の皆様ゴメンなさい…ビートたけしの超国民的バラエティ噂のあの人この事件 そこまでバラすか! ウワサの真相 年内決着スペシャル(テレビ朝日系、1993年12月31日)
[編集] CM出演
- 永谷園「Jリーグカレー」
- カレーを食べた少年がラモスに変身する。
- 永谷園「Jリーグふりかけ」
- 上記とほぼ同じで、ふりかけご飯を食べた子供達がラモスと同じような髪形になる。
- 永谷園「お茶づけ海苔」
- 永谷園「煮込みラーメン」
- 和田アキ子と共演していた。
- 東芝「BAZOOKA」
- 興和「バンテリン」
- 「こっちにはバンテリンがあるよ。これは有利です」(2002 FIFAワールドカップ直前)
- 久光製薬「エアーサロンパス」
- ダスキン「ミスタードーナツ」
- ダイハツ・テリオスキッド
- ホンダ・バモス
- 『バモス×ラモス篇』栗山かほりと共演(2007年2月 - )
- パチンコ・ABC(静岡県内のみの放映)
- ミロク情報サービス
- ソフトバンク(2010 FIFAワールドカップ直前)
[編集] 映画出演
- シュート!
- バブルへGO!! タイムマシンはドラム式
- 両作品とも本人役(カメオ出演)
[編集] 参考文献
- 鈴木洋史 (1998) : 天国と地獄―ラモス瑠偉のサッカー戦記 (文春文庫)
- ラモス瑠偉 (1999) : ラモスの黙示録 (ザ・マサダ)
[編集] 脚注
- ^ 太字はポルトガル読み
- ^ 鈴木洋史 (1998), p22
- ^ 鈴木洋史 (1998), p36
- ^ 鈴木洋史 (1998), p36-37
- ^ 鈴木洋史 (1998), p57
- ^ 鈴木洋史 (1998), p59
- ^ 鈴木洋史 (1998), p63
- ^ 鈴木洋史 (1998), p69
- ^ 鈴木洋史 (1998), p48
- ^ 鈴木洋史 (1998), p72
- ^ 鈴木洋史 (1998), p73-79
- ^ 鈴木洋史 (1998), p93
- ^ 鈴木洋史 (1998), p104-109
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p124-126
- ^ 病室内で二人がキスをしていたという目撃談があるが、本人は完全否定している。
- ^ a b 鈴木洋史 (1998), p141-143
- ^ 鈴木洋史 (1998), p144
- ^ 初音夫人はポルトガル語の日常会話程度を習得し、子供の一男一女もポルトガル語名を命名されている。
- ^ ブラジル政府は自国民の国籍放棄を一切認めておらず、日本国政府では二重国籍というのを認めていいないため、書類上ではブラジルと日本の正式な戸籍が現状では矛盾するながらも2つの国籍が存在する。
- ^ 鈴木洋史 (1998), p228-237
- ^ AFCフットサル選手権大会マレーシア1999、ストライカーDX、2007年4月27日発行。
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p48
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p88
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p89
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p130
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p113
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p91
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p36-38
- ^ カズの向こうに世界が見える。~Jリーグ開幕とW杯への夢~、ナンバーW杯傑作選、2010年5月7日発行。
- ^ 日の丸!、ラモス瑠偉公式ブログ、2009年11月14日発行。
- ^ ラモス瑠偉の「ふざけないでマジメにやれ!!」 vol.22、livedoor スポーツ、2009年12月9日発行。
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p40-45
- ^ ラモス瑠偉 (1999), p44
- ^ 古巣、ラモス瑠偉公式ブログ、2010年8月5日発行。
- ^ ラモス瑠偉「心あるお金持ちの人いないのかなあ」、サポティスタ、2010年8月10日発行。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ラモス瑠偉公式サイト
- ラモス瑠偉オフィシャルブログ CARIOCA Powered by Ameba
- ラモスフィールド|インドアフットサル
- 株式会社クレールエンタープライズ
- ラモス・レストラン Carioca.jp
- 東京ヴェルディ公式サイト
- ラモスクラブ|フットサルスクール
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