家長昭博
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| 家長 昭博 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | アキ | |
| カタカナ | イエナガ アキヒロ | |
| ラテン文字 | IENAGA Akihiro | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1986年6月13日(23歳) | |
| 出身地 | 京都府長岡京市 | |
| 身長 | 173cm | |
| 体重 | 70kg | |
| 血液型 | A型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | 大分トリニータ | |
| ポジション | MF | |
| 背番号 | 14 | |
| 利き足 | 左足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 2004 - 2007 2008 - |
ガンバ大阪 大分トリニータ |
87(5) 4 (0) |
| 代表歴2 | ||
| 2007 | 1 (0) | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月30日現在。 2. 2007年3月24日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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家長 昭博(いえなが あきひろ、1986年6月13日 - )は、大分トリニータ所属のサッカー選手。 兵庫県生まれ、京都府育ち。ポジションはミッドフィールダー(トップ下、左右サイドハーフ、左ウイングバック)、ディフェンダー(左サイドバック)。
目次 |
[編集] 来歴
地元長岡京市の長岡京サッカースポーツ少年団からガンバ大阪ジュニアユースに入団。高校2年時にトップ昇格、高校3年時には完全にユースを卒業し、7月26日にプロ契約を結ぶ。同クラブユースではエースとして活躍し、2007年までガンバ大阪トップチームに所属。2004年6月26日にはJリーグ史上初となる二種登録選手によるデビュー戦初得点を挙げている。当時のオシム代表監督からフル代表に選ばれるほどの才能を持ちながらも、ガンバ大阪では他選手の活躍やポジション変更などの諸事情によりなかなか結果を出せず、出番を求めて2008年に大分トリニータへ期限付き移籍した。ただ、怪我が癒えた2009年もレギュラーとはいいきれない状態
2007年3月24日の国際親善試合ペルー戦で後半40分から途中出場し、A代表(オシムジャパン)初出場を果たした。
2008年2月8日、実戦形式の練習中、右膝前十字靭帯損傷により全治6ヶ月の重傷を負った。
同年12月、入団テストを兼ねてイングランド2部リーグ、プリマス・アーガイルの練習に約2週間参加。 首脳陣から高い評価を受け獲得を検討される。 しかし、2009年1月16日、労働許可証取得の申請が却下されたため、1月の移籍期間中の獲得が不可能になったとプリマスが発表した[1]。 2009年1月29日、大分トリニータと契約を延長した。
[編集] プレースタイル
派手なフェイントや抜群のスピードを持つわけではないが、マークについた相手選手を観察し、一瞬の隙を突いて抜き去るドリブルが持ち味。プロになる前から、ドリブルの練習だけは日々かかさなかったと言う。運動量の少なさ、守備が下手なところが難点であり、近年、サブで使われるのも、その影響がかかわっている。左利きであるがために左サイドのウイングとしての経験値が最も高いが、左サイドバック、3トップの右ウイング、トップ下の経験もある。
ガンバ大阪の西野監督からは「トップパフォーマンスはメッシ以上」との評価を貰ったこともあり、メッシと同じ右ウイングの位置で使われたこともあった。しかし、急なポジション変更のせいもあってなかなか結果を出すことができず、後日に同監督から「奴の狙いが分からん」と批判されるなど、出来不出来の波が非常に激しい選手である。「好調時はメッシ以上、不調時は二川以下」などとも評された。
2005年のFIFAワールドユースでは日本選手が相手強豪国の選手に圧倒されるシーンが多くあったものの、家長は淡々と左サイドで仕事をこなし、大熊監督からは「唯一世界に通用していた選手」と評価された。
[編集] 人物
- 小学生の頃はスルーパスを得意とする司令塔タイプの選手だったが、パスに追いつけない選手に対してふてくされた態度をとった為、当時所属していた長岡京SSの監督からスルーパスを禁止される。そして「1対1の状況では自分で仕掛けろ」と諭され、ドリブルの練習を始める。この出来事が今のようなドリブラーとなるきっかけになった。
- ガンバ大阪でユースチーム在籍中にトップ昇格した選手としては稲本潤一、新井場徹に次いで3人目。
- 本田圭佑とはガンバ大阪ジュニアユース時代の同期で、小学校時代に対戦し(前田俊介もその関西選抜で一緒だったため、今でも仲が良い)一緒にプレーしたいと思ったことが、ガンバJY入りを選んだ理由と話している。2人は偶然にも利き足と生年月日が一緒である。安田理大のブログによれば、本田と家長はしょっちゅう喧嘩をしていたとのこと。
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
- 1993年 - 1998年 長岡京SS
- 1999年 - 2001年 ガンバ大阪ジュニアユース
- 2002年 - 2004年6月 ガンバ大阪ユース
プロ経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2004 | G大阪 | 28 | J1 | 8 | 1 | 3 | 0 | 2 | 0 | 13 | 1 |
| 2005 | G大阪 | 14 | J1 | 24 | 0 | 5 | 1 | 3 | 0 | 32 | 1 |
| 2006 | G大阪 | 14 | J1 | 28 | 2 | 2 | 0 | 4 | 2 | 34 | 4 |
| 2007 | G大阪 | 8 | J1 | 27 | 2 | 7 | 1 | 3 | 0 | 37 | 3 |
| 2008 | 大分 | 14 | J1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 |
| 2009 | 大分 | 14 | J1 | 6 | 2 | ||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 91 | 5 | 23 | 4 | 13 | 2 | 127 | 11 | |
| 総通算 | 91 | 5 | 23 | 4 | 13 | 2 | 127 | 11 | |||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2006 | G大阪 | 14 | 6 | 1 |
| 通算 | AFC | 6 | 1 | |
[編集] 経歴
- Jリーグ初出場、初得点 - 2004年6月26日 J1リーグ 1st-15 vs アルビレックス新潟
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 年代別
- 2005年 FIFAワールドユース
- 2007年 北京オリンピックアジア予選
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(2007 - )
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2007 | 1 | 0 |
| 通算 | 1 | 0 |
[編集] 出演
[編集] CM
[編集] 脚注
- ^ 時事通信 (2009-01-17). "プリマス、家長獲得見送り=英労働許可証下りず-イングランド・サッカー". 同日 閲覧。
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