大黒将志
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| 大黒 将志 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | オグリ | |
| カタカナ | オオグロ マサシ | |
| ラテン文字 | OGURO Masashi | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1980年5月4日(29歳) | |
| 出身地 | 大阪府豊中市 | |
| 身長 | 177cm | |
| 体重 | 73kg | |
| 血液型 | B型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | 東京ヴェルディ | |
| ポジション | FW | |
| 背番号 | 9 | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1999-2005 2002 (loan) 2005-2006 2006-2008 2008途-現在 |
ガンバ大阪 コンサドーレ札幌 東京ヴェルディ |
101 (48) 4 (0) 19 (6) 10 (0) 14 (2) |
| 代表歴 | ||
| 2005-2008 | 22 (5) | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月8日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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大黒 将志(おおぐろ まさし、1980年5月4日 - )は、大阪府豊中市出身のサッカー選手。Jリーグ・東京ヴェルディに所属。ポジションはフォワード。
目次 |
[編集] 来歴
豊中市立上野小学校、第十一中学校、大阪府立少路高等学校出身。小学校1年生の時より豊中SS(サッカースクール)に所属し、小学校3年生より元日本代表FW釜本邦茂が代表を勤めていた釜本FC(ガンバ大阪ジュニアの前身)でもプレー。小学生4年生時からは、釜本FCより移管されたガンバ大阪ジュニアでのみプレー。
中学入学同時に、ガンバ大阪ジュニアユースに所属。高校進学と同時にガンバ大阪ユース所属となるなど、まさに生粋のガンバ大阪生え抜きの選手である。ガンバユース所属時にはFWやMFでもプレー。3年生時にはFWとして定着し、同じくガンバユース出身で同学年の二川孝広とともにクラブユース選手権で優勝。その後に開催された高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会では、決勝戦に進出し藤枝東高校と対戦。その試合は今でもファンの間では語り草となる激戦となり、惜しくも2-3の敗戦。準優勝を果たしている。そのころから豪快なゴールは印象的で、将来有望なFWとして期待を集めていた。1999年に昇格し、ガンバのトップチーム所属となる。
2001年、試合出場経験を積みたいため自ら志願してコンサドーレ札幌にレンタル移籍後、翌年ガンバに復帰。当初は中盤の攻撃的なポジションを担当していたが、ユース時代からの本来のポジションであるFWでサッカー選手として最後の勝負をさせてほしいと、西野朗監督に直訴しFWとして復活。2004年シーズンには才能が開花し、Jリーグでリーグ2位の20得点(日本人選手最多)を挙げ、この頃よりサポーターの間で代表待望論が高まった。
Jリーグでの活躍が認められ、2005年にワールドカップドイツ大会のアジア予選で得点力不足と嘆かれていた日本代表に初選出。代表として2戦目となった2月9日のアジア最終予選・対北朝鮮戦で後半残り10分から途中出場し、1対1のスコアで迎えた後半ロスタイムに決勝ゴールをあげる活躍を見せた。この試合のテレビ中継の瞬間最高視聴率が57.7%(関東地区)を記録したことに伴い、その知名度が瞬く間に急上昇した。その後も順調な働きを見せ、日本代表では2005年の1年間で最多となる5得点を挙げている。またこの年Jリーグではアラウージョ、フェルナンジーニョと組んでガンバの攻撃の核としてフル回転。リーグ6位の16得点を上げ、ガンバ大阪のJリーグ初優勝に貢献した。
大黒天と名前が同じ文字であることから「大黒様」「大黒神」と呼ばれる事も多く、また、ガンバのホームタウン・吹田市にあるガンバ大阪のオフィシャルショップ内にはその大黒天にあやかった「ガンバ大黒(だいこく)神社」が2005年3月23日に建立された。2006年に移籍となったが大黒神社(北千里サティ)の大黒像が移籍後も残っている。
2006年1月には日本企業「インデックス」がオーナーをつとめるフランスリーグ2部のグルノーブルへ完全移籍。5試合のフル出場を含め19試合6得点(2005 - 2006:17試合5得点、2006 - 2007:2試合1得点)。
2006年5月、ワールドカップドイツ大会日本代表メンバーに選出、グループリーグ3試合に全て途中出場した。しかし出場時間は短く(オーストラリア戦1分、クロアチア戦5分、ブラジル戦24分)、得点は挙げられなかった。
2006年8月、ヨーロッパの移籍期限間近である8月31日にセリエAのトリノへの移籍。契約は2年で年俸は約4500万円。大黒自身の以前からの夢であったセリエAへの移籍が実現されたが、練習試合で得点を重ねアピールするも公式戦ではノーゴールに終わり、イタリア挑戦は消化不良に終わった。
2008年6月、東京ヴェルディに完全移籍で加入することが発表され日本復帰。ポルトガルへ移籍したエースFWフッキの穴を埋める事が期待されたが、チームにフィットするのに時間を要したこともありチームは低迷しJ2降格を経験する事となった。
[編集] プレースタイル
オフ・ザ・ボールの動きに優れ、またドリブルやパスなども器用にこなす。ミッドフィールダーとしての経験もある。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- 1987年 - 1992年 豊中SS 釜本FC[1]
- 1993年 - 1995年 ガンバ大阪ジュニアユース
- 1996年 - 1998年 ガンバ大阪ユース
- 1997年 日本クラブユースサッカー選手権大会3位
- 1998年 日本クラブユースサッカー選手権大会優勝、全日本ユースサッカー選手権準優勝、国民体育大会(大阪代表)出場
- プロ経歴
- 1999年 - 2000年
ガンバ大阪 - 2001年
コンサドーレ札幌(期限付き移籍) - 2002年 - 2005年
ガンバ大阪 - 2006年1月 - 2006年8月
グルノーブル(フランス2部) - 2006年9月 - 2008年6月
トリノ(セリエA)
- 9月10日 開幕戦のパルマ戦でセリエAデビュー
- 2008年7月 - 現 在
東京ヴェルディ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999 | G大阪 | 29 | J1 | 11 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 13 | 0 |
| 2000 | G大阪 | 29 | J1 | 7 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 10 | 1 |
| 2001 | 札幌 | 17 | J1 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 |
| 2002 | G大阪 | 16 | J1 | 6 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 8 | 2 |
| 2003 | G大阪 | 16 | J1 | 26 | 10 | 5 | 3 | 2 | 0 | 33 | 13 |
| 2004 | G大阪 | 16 | J1 | 30 | 20 | 7 | 4 | 2 | 6 | 39 | 30 |
| 2005 | G大阪 | 16 | J1 | 31 | 16 | 4 | 0 | 2 | 2 | 37 | 18 |
| フランス | リーグ戦 | リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
| 2005-06 | グルノーブル | 9 | リーグ・ドゥ | 17 | 5 | ||||||
| 2006-07 | グルノーブル | 9 | リーグ・ドゥ | 2 | 1 | ||||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | トリノ | 16 | セリエA | 7 | 0 | 0 | 0 | - | 7 | 0 | |
| 2007-08 | トリノ | 16 | セリエA | 3 | 0 | 1 | 0 | - | 4 | 0 | |
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2008 | 東京V | 36 | J1 | 14 | 2 | - | 0 | 0 | 14 | 2 | |
| 2009 | 東京V | 9 | J2 | 25 | 13 | - | |||||
| 通算 | 日本 | J1 | 129 | 50 | 23 | 8 | 7 | 8 | 159 | 66 | |
| 日本 | J2 | - | |||||||||
| フランス | リーグ・ドゥ | 19 | 6 | ||||||||
| イタリア | セリエA | 10 | 0 | 1 | 0 | - | 11 | 0 | |||
| 総通算 | 144 | 54 | |||||||||
[編集] 代表歴
- 出場大会
- 2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会、東アジア選手権
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ
- 試合数
- 国際Aマッチ 21試合 5得点(2005 - 2008)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2005 | 15 | 5 |
| 2006 | 6 | 0 |
| 2008 | 1 | 0 |
| 通算 | 22 | 5 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2005年、2月9日 | 日本 | ○2-1 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 | |
| 2. | 2005年、6月8日 | タイ | ○2-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 | |
| 3. | 2005年、6月19日 | ドイツ | ○1-0 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 | |
| 4. | 2005年、6月22日 | ドイツ | △2-2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 | |
| 5. | 2005年、8月17日 | 日本 | ○2-1 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 |
[編集] 個人タイトル
- 2004年 - Jリーグベストイレブン
- 2005年 - Jリーグフェアプレイ個人賞
[編集] 背番号
ガンバ大阪時代の背番号は「16」。自身がファンである阪神タイガースの元選手・岡田彰布(前阪神監督)の現役時代の背番号と同じとあって、特別な思い入れを持っている。ちなみにコンサドーレ札幌に1年間在籍していた時の背番号は「17」であった。
日本代表としての最初の背番号は「31」。これも阪神の元選手・掛布雅之と同じ番号であり、16同様気に入っていたようである。2005年6月15日からはガンバと同じ「16」に変更。
2006年1月から8月まで所属したグルノーブルでは「9」。2006年9月から所属のトリノでは再び「16」。
2008年8月から所属の東京ヴェルディでは2008年度が「36」。2009年度は再び「9」。
[編集] CM
- Panasonic「Strada」
- 『先読むナビ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
- 『簡単ツートップ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
- ダイハツ「ムーヴ カスタム」【今年を代表するCM大賞2005 受賞】
- 『ヒーローインタビュー篇』(2005年、2006年)
[編集] その他
- ニックネームはオグリ。少年時代にかなりの俊足だったことから、当時活躍していた競走馬・オグリキャップにちなんで付けられた。
- 三人兄弟の次男で本人曰く「自分は、中黒ですわ」。余談ではあるが父親はボクシング経験者で記者によると話しかけるのも憚られるような物凄い強面との話。
- 岡田武史から「練習でゴールを決められない奴は、試合でもゴール出来ない」と言われ得心する。しかし練習でゴールを決めると練習後のミーティングが長くなると中澤佑二がボヤいていた。
- 大黒のミスで反省の意味も込めて丸刈りにしたところ、あまりに凶悪な風貌になり、チームメイトを恐怖に陥れる。
- 夫人は、かつて「藤原みわ」という芸名でタレント活動(田辺エージェンシー所属)をしていたことがあり、大阪のラジオ番組で、FUJIWARA、つんく♂と共演していた。姉さん女房。
- 「二人の愛する家族」はチワワのラオウと、クリリン。名前は大好きな漫画「北斗の拳」と「ドラゴンボール」に登場するキャラクターのラオウとクリリンから付けた。
- 愛車は青のBMW。サーキットでの走行会に参加するほどの車好きだが、日本代表選出以降は自粛している。
- カードゲームの「UNO」好きで、2005年には日本ウノ協会から「UNO大使」に任命された。
- 2005年12月26日放映の毎日テレビ系「関口宏の東京フレンドパークII 弾丸ゴール!日の丸イレブン!炎のキックオフSP」にサッカー日本代表選手の一員として出演する予定だったが、壁に向かってジャンプする人気コーナー「ウォールクラッシュ」のリハーサル中に右足をひねり、大事を取って出演を見合わせた。
- 兄と弟もガンバ大阪ユースに所属する選手だった。弟の大黒聡はサラリーマンを辞めてまでジェフ・クラブの入団テストを受けたが、合格には至らなかった。 なお大黒聡は、2007年シーズンに徳島ヴォルティス・アマチュアへ入団したが、1年で退団した。
- セリエAへの移籍は、ドイツW杯で中田英寿にイタリア移籍を相談したところ、中田の代理人を紹介されたのがきっかけとなった。
- 所属マネジメント事務所はサニーサイドアップ。
- 出場機会を求めてコンサドーレ札幌に移籍したものの、当時の監督である岡田武史の構想から外れ、ほとんど出場機会は与えられなかった。しかし、代表でブレイクした際のインタビューで「札幌での経験が、自分のサッカー人生において良い肥やしになった。」と語っている。「あの時岡田さんに言われたことが、今の自分に本当に役に立っている。」とも述べた。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 釜本FCは1990年に現在の「ガンバ大阪ジュニア」に移管
[編集] 外部リンク
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