遠藤保仁
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 本名 | エンドウ ヤスヒト | ||||||
| 愛称 | ヤット | ||||||
| ラテン文字 | ENDO Yasuhito | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1980年1月28日(32歳) | ||||||
| 出身地 | 鹿児島県桜島町(現:鹿児島市) | ||||||
| 身長 | 178cm | ||||||
| 体重 | 75kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | ガンバ大阪 | ||||||
| ポジション | MF (OH, CH) | ||||||
| 背番号 | 7 | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月3日現在。 2. 2012年2月24日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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遠藤 保仁(えんどう やすひと、1980年1月28日 - )は、鹿児島県桜島町(現:鹿児島市)出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属。日本代表。ポジションはミッドフィールダー。実兄は元サッカー選手の遠藤彰弘。
国際Aマッチ出場数は歴代3位の114試合。2009年アジア年間最優秀選手。Jリーグベストイレブン最多受賞選手(9回)。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り前
鹿児島県桜島町に三兄弟の末弟として生まれ、6つ年上の長男・拓哉と4つ年上の次男・彰弘に影響され、物心ついた頃から自宅の庭でボールを蹴り、高校選手権やワールドカップのビデオを見ては、気に入ったプレーを真似していたという[1]。鹿児島実業高等学校では1年生時の1995年に高校選手権優勝。2年生時の1996年には高円宮杯優勝、U-16日本代表に選出された。1997年の高校選手権では優秀選手に選ばれ、U-18日本代表にも選出された。
[編集] 横浜F・京都
高校卒業後の1998年に横浜フリューゲルスへ入団。3月21日、リーグ開幕戦の横浜マリノス戦でいきなりプロデビューを果たし、8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点を挙げ、1年目でリーグ戦16試合に出場するなど順調な滑り出しを果たしたが、同年限りでクラブが消滅したため、手島和希、大島秀夫、辻本茂輝ら他の新人選手とともに1999年に京都パープルサンガへ移籍。当時のチームメイトには三浦知良、パク・チソン、松井大輔等がいた。京都ではレギュラーに定着するも2000年に京都がJ2へ降格したため、2001年にガンバ大阪へ完全移籍した。
[編集] ガンバ大阪
ガンバでは2002年に就任した西野朗監督の下、攻撃的なスタイルを標榜するチームの中心選手になっていき、ガンバに移籍して3年目の2003年に初めてJリーグベストイレブンを受賞する。2005年のナビスコカップ決勝の千葉とのPK戦では立石智紀相手にプロ入り以来初めてPKを失敗してしまいナビスコカップ優勝を逃すも[2]、この年自身初のシーズン2桁得点を記録し、リーグ最終節の川崎戦では、PKでガンバにとって初のタイトルとなるJリーグ優勝を決める決勝ゴールを挙げ、自身にとっても初となるJリーグ優勝を経験。
2006年からは、二川孝広・橋本英郎に加えこの年新加入した明神智和とで構成された抜群のパスワークで相手を圧倒する中盤は「黄金の中盤」と称され[3]、ガンバの攻撃陣を牽引していたが、10月に日本代表でのインド遠征中に発熱してから体調が戻らず、後にウイルス性肝炎と判明したことで[4]、シーズン終盤は1ヶ月以上の戦線離脱を余儀なくされた。12月2日に行われたリーグ最終節の浦和戦で復帰するも、チームは敗れリーグ連覇を逃した。2007年はシーズン通して大きな体調不良もなく、リーグ戦全34試合にフル出場し、ナビスコカップ優勝にも貢献。
しかし、2008年6月末にウイルス性感染症により、再び1ヶ月以上の離脱を余儀なくされ[5]、オーバーエイジ枠でのメンバー入りが確実視されていた北京オリンピック日本代表を辞退することとなった[6]。さらに遠藤離脱後、ガンバはリーグ戦で不振に陥った。それでも、復帰後のACLではアシストを連発し、特に準決勝の浦和戦では2戦合計2ゴール2アシストと全得点に絡む活躍でクラブ初のアジア制覇に貢献し大会MVPを受賞した。同年11月には、イングランド2部のプリマスからオファーを受けるが、家族のことなどを考慮してガンバに残留した。同年12月に日本で開催されたFIFAクラブワールドカップでも、準々決勝のアデレード・ユナイテッド戦では決勝ゴールを挙げ、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦ではチームは敗れるも試合終盤にPKでゴールを挙げ、決定的なパスを前線に供給するなど攻守に活躍を見せた。この活躍により、同大会を優勝したマンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督からは「キト(決勝で対戦した南米王者)には遠藤と同じくらいのクオリティーを持った選手はいなかった。」と賞賛された[7]。さらに、同年度の天皇杯優勝にも貢献し、ガンバでは2005年のアラウージョ以来となる日本年間最優秀選手賞を受賞した。
2009年11月にはAFCから日本人では1993年の三浦知良、1995年の井原正巳、1997年、1998年の中田英寿、2002年の小野伸二以来5人目(6度目)となるアジア年間最優秀選手賞を受賞した(ちなみに、この前年も最終候補まで残っていたが受賞はならなかった)。リーグ戦では自身5年ぶりとなる2桁得点を記録し、2010年1月1日に行われた天皇杯決勝の名古屋戦では、2ゴール1アシストと圧巻の活躍を見せガンバの天皇杯連覇の立役者となった[8]。なお、この頃からポジションを代表と同じボランチに移すようになった。
2010年は代表との過密日程で開幕からコンディションが安定せず、2月27日に行われたゼロックススーパカップの鹿島戦では、PK戦で枠を外す失敗をしてしまい[9]、自身の不調と比例するかのようにチームもリーグ戦で低迷してしまう。それでも、南アフリカW杯後の復帰初戦となった浦和戦では試合終了間際に決勝ゴールを挙げ[10](このゴールはガンバの公式応援番組『GAMBA TV〜青と黒〜』の年末特別企画『GAMBA TV アウォーズ』で、選手とサポーターが選ぶベストゴール賞を受賞した)、その後は安定した活躍を見せた。
2011年Jリーグ開幕戦となったC大阪との大阪ダービーで、プロ14年目にして初となる開幕戦でのゴールを決めた。7月には3試合連続得点を記録するなど、優勝争いを続けるチームを牽引していたが、8月以降右内転筋痛によりプレースキックを蹴れない状態が続き[11]、さらにクラブ・代表の過密日程により十分な休養が取れないまま強行出場を続け、最終的に発熱で欠場した1試合を除くリーグ戦33試合に出場したが、シーズン終盤まで完治しなかった。11月26日、J1第33節仙台戦で史上7人目となるJ1通算400試合出場を達成[12]。
2012年、新監督ジョゼ・カルロス・セホーンから前年に退団した山口智に代わりガンバの副主将に指名された。
Jリーグベストイレブンには2003年から2011年まで9年連続で受賞しており、これは受賞回数及び連続受賞回数の最高記録である。
[編集] 日本代表
1999年、U-20日本代表としてナイジェリアで開催された第10回ワールドユース選手権に出場し、日本代表の準優勝に貢献。この代表メンバーは後にJリーグやA代表の中心的存在となる選手が多かったことから「黄金世代」と呼ばれている[13]。同年、シドニーオリンピック予選のU-22日本代表にも選出され、アジア1次予選、最終予選はスターティングメンバーとして戦ったが、2000年のシドニーオリンピック本大会では、予備登録メンバーとして選出されるも、出場機会はなかった。
2002年、当時の日本代表監督ジーコによってA代表に初招集され、11月20日のキリンチャレンジカップ・アルゼンチン戦で初出場を果たし、2003年8月20日のナイジェリア戦で代表初ゴールを挙げる。以後、代表に定着するが、当時の中盤は同期の小野伸二や稲本潤一を始め、中田英寿や中村俊輔といった海外組が多い激戦区であり、レギュラーを勝ち取るには至らず、2006年のドイツW杯ではフィールドプレーヤー(GK以外の選手)で、唯一ピッチに立つことがなかった[14]。
ドイツW杯後、新監督イビチャ・オシムからの指導でプレースタイルに磨きをかけ、代表の中心的存在に登りつめ[15]、ドイツW杯を最後に現役を引退した中田の背番号7を引き継いだ。オシムジャパンではボランチではなく、オフェンシブハーフとして起用されたのが特徴である(ガンバ大阪では同様の起用法は頻繁に見られるが、日本代表では主にボランチで起用されていた)。
2007年12月、オシム監督が病に倒れ退任、急遽監督に就任した岡田武史は、当初、オシムのチームを引き継ぐという立場であったため、遠藤もオシム時代同様にオフェンシブハーフでの起用が多かったが、岡田が「俺のやり方でやる」と宣言した2008年の南アフリカW杯アジア3次予選から、長谷部誠とダブルボランチを形成。守備陣と攻撃陣のパイプ役を担って、南アフリカW杯予選突破に貢献し、岡田からは「チームの心臓」と称された[16]。その後も、代表でのレギュラーの座を不動のものにしていたが、W杯直前にリーグ戦やACL、さらには日本代表戦など、連戦による過密日程をこなすことで大きくコンディションを落とし、2010年2月の東アジア選手権や親善試合のセルビア戦では低調なパフォーマンスに終わり、クラブに戻っても数試合は休養を取らざるを得なかった。
2010年5月10日に南アフリカW杯のメンバーに選出され、6月の本大会ではグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合にスタメン出場を果たした。6月25日のグループリーグ第3戦のデンマーク戦では直接フリーキックを決めてW杯初得点を挙げ、4試合トータルでチーム1の走行距離を記録するなど、日本代表初のアウェーでのベスト16入りに大きく貢献した。このフリーキックについて遠藤本人は、「(本田圭佑が蹴る事を希望していたが)圭佑は1本目決めてたんで、俺に蹴らせろみたいな感じ」で自身が蹴る事にしたと語っている[17]。ちなみに、W杯で1試合2本のフリーキック成功は44年ぶりであった[18]。
2010年10月12日、親善試合の韓国戦で、井原正巳、川口能活、中澤佑二に次ぐ4人目、GKとDF以外のポジションの選手では初となるA代表100試合出場を達成[19]。
南アフリカW杯後に日本代表監督に就任したアルベルト・ザッケローニからもレギュラーとして起用され、2011年1月に開催されたアジアカップでは全6試合にスタメン出場を果たし、チーム最年長、チーム最多CAP選手として若いチームを引っ張り、中盤の底から決定的なパスを何本も供給し、ゲームをコントロールし続けた大車輪の活躍で、日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に大きく貢献し[20]、大会MVPに輝いた本田圭佑は、MVPについて感想のコメントを求められ「個人的にはヤットさん(遠藤)だと思う。ああいう人がいなかったら勝負は紙一重だった」と遠藤を讃えた[21]。
2011年3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、先制点となるフリーキックを決めた[22]。
[編集] プレースタイル
ボールキープが巧みでタメをつくることができ、正確なパスを散らすゲームメーカー[23]。短距離~やや長い浮き球のパスを得意とし、中央からの散らしに関しては足元・スペースを正確に突く、特に短距離のパスは相手の重心と反対の方向へ出すことでカットされにくく、日本でも屈指の精度を誇る。また、ガンバの戦術上、中・長距離のパスは用いることは少ないが、これも非常に高い精度を持つ[23]。
ポジションは主に攻撃的MFおよびセントラルMF。スピードやフィジカルに頼ったプレーやヘディングは得意ではないが[24]、プレースキックの精度が高く、直接得点したりアシストする場面が頻繁に見られる。直接フリーキックはプロ入り初期はそれほど蹴っていなかったが、日本代表に選出された後、監督のジーコからプレースキッカーの役割を担うよう提言を受け、以降はクラブや代表でもプレースキックを任されることが多く、強い回転系のシュートを得意としており[18]、ペナルティエリアやや外くらいからゴールマウスを的確にとらえられる高精度のミドルシュートを持つ。また、テクニックタイプではあるがボディーコンタクトも強い。
運動量も豊富であり、攻守において貢献度が高い選手である(2010 FIFAワールドカップで計測された4試合389分での走行距離は47.02km。同大会に出場した日本代表選手での中で本田圭佑(45.48km)、長友佑都(45.43km)らを抑え最長を記録した[25])。また、状況判断力にも長け、パスを供給する位置やタイミングを自在に把握する広い視野と戦術眼も併せ持っており[26][27]、本人の何事にも動じない落ち着いた性格からどんな状況でも常に慌てることなくプレーできるなどメンタル面も強い[26]。
現在では攻守に万能なタイプとしてアジアトップレベルの選手であるが、元々は中盤の底からゲームメイクをし、運動量はそれほど多くなく、どちらかといえばバランサータイプであったが、2006年に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムから「チームのために走りなさい」と指導され、以降は自らドリブル突破やゴール前でのワンツーからの飛び出しなど仕掛ける動きが目立つようになり、攻撃的な役割を担う部分が多くなった[14]。
これらなどから遠藤はクラブ・代表双方において必要不可欠な存在とされており、様々なところから「遠藤不在」が不安視され[26][28]、後継者不足も指摘されている[29]。
[編集] PKに関して
遠藤はPKを蹴る際、しばしば遅めの球速で蹴る場合がある。ボールがピッチ上をコロコロ転がりゴールマウスに向かう様子からメディアやファンからは通称「コロコロPK」と呼ばれている[30]。助走時間を長く取ってゆっくりとボールに近づき、ボールは一切見ず相手ゴールキーパーの動きを最後まで見ることで相手の重心の動きを見極め[2]、ゴールキーパーが動いた方向とは逆方向にインサイドキックでボールを転がすように蹴る[31]。もしゴールキーパーが動かなかった場合はサイドに強く蹴る[31]。
国内のリーグ戦やカップ戦では何度か失敗したことがあるが、リーグ戦での成功率は9割以上である[30]。さらに、2008年のFIFAクラブワールドカップ準決勝のマンチェスター・ユナイテッドとの対戦では、コロコロPKで元オランダ代表のファン・デル・サールからゴールを奪い[30]、2010年のFIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でも、1人目を任されて成功させる(ただし、この時はジャブラニがコロコロPKに合わないという理由でサイドに鋭く蹴った)[32]など、代表での試合を含め国際大会においては未だに失敗をしたことがない[30]。
[編集] 人物・エピソード
- 憧れの選手はという問いには「2人の兄」を挙げており[33]、6つ上の長男・拓哉は鹿児島実業高校では前園真聖と共にプレーし[34]、大学選抜や実業団で活躍、4つ年上の次男・彰弘は横浜FMや神戸で活躍し、アトランタオリンピックでは10番を背負ったなど、サッカー界では有名な「遠藤3兄弟」として知られている[33]。
- 夫人は高校時代の同級生で[35]、3人の子供(娘2人、息子1人)がいる[36]。
- フジテレビ『ポンキッキシリーズ』のマスコット「ガチャピン」と容姿が似ていることから、スタジアムでガチャピンのイラストや人形を掲げて応援するサポーターも多い[37]。2005年9月24日放送の「ポンキッキーズ」に出演した際、本物のガチャピンと共演し、「僕に似てるって言われるでしょ」と質問をされ、「昔は良く似てるって言われてました」と答えた[38]。2010年には所属するガンバ大阪やフジテレビKIDSで、遠藤とガチャピンのコラボグッズが発売された[39]。2010年9月8日にはガンバのホーム万博記念競技場へガチャピンが来場し[40]、2011年9月25日にはガンバの練習場に訪れたガチャピンにサッカーを教えた[41]。2011年12月4日に万博記念公園で行われたファン感謝祭では、自らガチャピンの着ぐるみを着て登場し、「本物です」「(似ているといわれて)嬉しいです」と答え、会場を沸かせた[42]。
- 性格はマイペースでおっとりしている。鹿児島実業高校時代の恩師・松澤隆司監督によると「運動能力が高く、持久走では1番になれる力がありながら、いつも3~4番」とあまり目立とうとしないタイプで[43]、親友の中村俊輔いわく「プレッシャーをかけてもゆっくり」とのこと。本人は「緊張はしないし、慌てたりすることもない。ストレスは感じない方。人の話をあまり聞いてないところが欠点」と自己分析している[44]。
- 2010年の南アフリカワールドカップでの活躍で、セリエAのジェノアが獲得に乗り出したと地元メディアで報じられたが、本人は「レベルの高いところでやりたい気持ちはあるけど、イタリアの(守備的な)スタイルは嫌い」と苦笑いしていた[45]。
- 2011年3月6日、アメーバブログに遠藤を名乗る偽ブログが掲載される騒動が起こった。8日にガンバ側が遠藤本人のブログではないことを公表し[46]、同日中にブログは閉鎖された。本人は「ブログには興味がない」と語っている[47]。
- 2012年BSで特集された”ドーハは悲劇だったのか?”番組内において元日本代表監督のハンス・オフトは今一番会いたい選手として遠藤を指名し、対談する。その席上にて『遠藤の素晴らしさを日本で理解している人はまだまだ少ない。君は選手として全ての才能を持つ。状況判断、技術、メンタル。全てだ。』と賞賛した。また別の日にインタビュアーから『日本サッカーは何処を目指すべきか?W杯ベスト4か?それとも優勝か?』と問われ『まずは日本は世界のベスト10を目標にするべき。それは遠藤のような選手を11人そろえれば必ずなれる。』とここでも遠藤を賞賛していた。遠藤は『ここまで評価して頂いているとは思わなかった。監督をして欲しいくらい。』と喜びを表現していた。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- プロ経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1997 | 鹿児島実高 | 7 | - | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | ||
| 1998 | 横浜F | 27 | J | 16 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 20 | 1 |
| 1999 | 京都 | 14 | J1 | 24 | 4 | 2 | 0 | 2 | 0 | 28 | 4 |
| 2000 | 29 | 5 | 6 | 1 | 1 | 0 | 36 | 6 | |||
| 2001 | G大阪 | 19 | 29 | 4 | 4 | 0 | 3 | 1 | 36 | 5 | |
| 2002 | 30 | 30 | 5 | 8 | 1 | 1 | 0 | 39 | 6 | ||
| 2003 | 7 | 30 | 4 | 6 | 0 | 2 | 0 | 38 | 4 | ||
| 2004 | 29 | 9 | 0 | 0 | 3 | 0 | 32 | 9 | |||
| 2005 | 33 | 10 | 4 | 0 | 2 | 0 | 39 | 10 | |||
| 2006 | 25 | 9 | 0 | 0 | 4 | 1 | 29 | 10 | |||
| 2007 | 34 | 8 | 8 | 1 | 4 | 0 | 46 | 9 | |||
| 2008 | 27 | 6 | 1 | 0 | 3 | 0 | 31 | 6 | |||
| 2009 | 32 | 10 | 2 | 0 | 4 | 3 | 38 | 13 | |||
| 2010 | 30 | 3 | 0 | 0 | 2 | 2 | 32 | 5 | |||
| 2011 | 33 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 33 | 4 | |||
| 2012 | |||||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 401 | 82 | 45 | 3 | 31 | 7 | 477 | 92 | |
| 日本 | 他 | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | ||||
| 総通算 | 401 | 82 | 45 | 3 | 32 | 7 | 478 | 92 | |||
その他の公式戦
- 2006年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2007年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2009年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2010年
- スーパーカップ 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | FIFA | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | クラブW杯 | ||||
| 2006 | G大阪 | 7 | 5 | 3 | - | |
| 2008 | 10 | 3 | 3 | 2 | ||
| 2009 | 6 | 1 | - | |||
| 2010 | 3 | 0 | - | |||
| 2011 | 7 | 1 | - | |||
| 2012 | - | |||||
| 通算 | AFC | 31 | 8 | 3 | 2 | |
その他の国際公式戦
- 2006年
- A3チャンピオンズカップ 3試合1得点
[編集] 経歴
- Jリーグ
- 初出場 - 1998年3月21日 J1.1st第1節 vs横浜マリノス (日産スタジアム)
- 初得点 - 1998年8月1日 J1.1st第15節 vs鹿島アントラーズ (日産スタジアム)
- 100試合出場 - 2002年3月10日 J1.1st第2節 vs京都パープルサンガ (西京極陸上競技場)
- 150試合出場 - 2003年9月23日 J1.2nd第7節 vs東京ヴェルディ1969 (万博記念競技場)
- 200試合出場 - 2005年7月2日 J1第13節 vs東京ヴェルディ1969 (万博記念競技場)
- 250試合出場 - 2007年4月7日 J1第5節 vs川崎フロンターレ (万博記念競技場)
- 300試合出場 - 2008年9月28日 J1第27節 vs東京ヴェルディ (味の素スタジアム)
- 350試合出場 - 2010年7月28日 J1第15節 vsヴィッセル神戸 (ホームズスタジアム神戸)
- 400試合出場 - 2011年11月26日 J1第33節 vsベガルタ仙台 (万博記念競技場)
- 50得点 - 2006年9月9日 J1第22節 vsセレッソ大阪 (万博記念競技場)
- 日本代表
- 初出場 - 2002年11月20日 キリンチャレンジカップ vsアルゼンチン戦 (埼玉スタジアム2002)
- 初得点 - 2003年8月20日 キリンチャレンジカップ vsナイジェリア戦 (国立競技場)
- 50試合出場 - 2007年7月16日 AFCアジアカップ2007 vsベトナム戦 (ハノイ)
- 100試合出場 - 2010年10月12日 国際親善試合 vs韓国戦 (ソウルワールドカップ競技場)
[編集] タイトル
[編集] 高校
- 鹿児島実業高校
- 全国高校選手権:1回 (1995年)
- 高円宮杯全日本ユース選手権:1回 (1996年)
[編集] クラブ
- 横浜フリューゲルス
- ガンバ大阪
- Jリーグ ディビジョン1:1回 (2005年)
- ナビスコカップ:1回 (2007年)
- 天皇杯:2回 (2008年, 2009年)
- ゼロックススーパーカップ:1回 (2007年)
- AFCチャンピオンズリーグ:1回 (2008年)
- パンパシフィックチャンピオンシップ:1回 (2008年)
[編集] 代表
[編集] 個人
- Jリーグ優秀選手賞:9回 (2003年 - 2011年)
- Jリーグベストイレブン:9回 (2003年 - 2011年) ※歴代最多
- AFCチャンピオンズリーグMVP:1回 (2008年)
- 日本年間最優秀選手賞:1回 (2008年)
- アジア年間最優秀選手賞:1回 (2009年)
[編集] その他
- 週刊サッカーマガジン 年間最優秀選手賞 (クリスタルアウォード賞):1回 (2008年)
- 報知プロスポーツ大賞 Jリーグ部門:1回 (2008年)
- テレビ朝日 第43回ビッグスポーツ大賞「日本サッカー応援宣言!やべっちF.C.賞 (サッカープロジェクト賞) 」:1回 (2008年)
- 関西スポーツ賞 特別賞:1回 (2009年)
- 感動大阪大賞(知事賞詞):1回 (2010年)
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会
- U-16日本代表
- U-18日本代表
- U-19日本代表
- 1998年 - アジアユース (準優勝)
- U-20日本代表
- 1999年 - ワールドユース (準優勝)
- U-23日本代表
- 1999年 - シドニーオリンピック最終予選
- 2000年 - シドニーオリンピック予備登録メンバー
- 日本代表
- 2003年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2003 (グループリーグ敗退)
- 2003年 - 東アジアサッカー選手権2003 (準優勝)
- 2004年 - AFCアジアカップ2004 (優勝)
- 2005年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005 (グループリーグ敗退)
- 2005年 - 東アジアサッカー選手権2005 (準優勝)
- 2006年 - 2006 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 2007年 - AFCアジアカップ2007 (4位)
- 2008年 - 東アジアサッカー選手権2008 (準優勝)
- 2010年 - 東アジアサッカー選手権2010 (3位)
- 2010年 - 2010 FIFAワールドカップ (ベスト16)
- 2011年 - AFCアジアカップ2011 (優勝)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 114試合 9得点 (2002年 - )
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2002 | 1 | 0 |
| 2003 | 11 | 1 |
| 2004 | 16 | 2 |
| 2005 | 8 | 0 |
| 2006 | 8 | 0 |
| 2007 | 13 | 1 |
| 2008 | 16 | 3 |
| 2009 | 12 | 0 |
| 2010 | 15 | 2 |
| 2011 | 13 | 0 |
| 2012 | 1 | 0 |
| 通算 | 114 | 9 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2003年8月20日 | 日本、東京 | ○ 3-0 | キリンチャレンジカップ2003 | |
| 2. | 2004年2月7日 | 日本、鹿嶋 | ○ 4-0 | キリンチャレンジカップ2004 | |
| 3. | 2004年7月7日 | 日本、横浜 | ○ 1-0 | キリンカップサッカー2004 | |
| 4. | 2007年7月16日 | ベトナム、ハノイ | ○ 4-1 | AFCアジアカップ2007 | |
| 5. | 2008年2月6日 | 日本、埼玉 | ○ 4-1 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 6. | 2008年6月7日 | オマーン、マスカット | △ 1-1 | ||
| 7. | 2008年9月6日 | バーレーン、マナーマ | ○ 3-2 | ||
| 8. | 2010年2月14日 | 日本、東京 | ● 1-3 | 東アジアサッカー選手権2010 | |
| 9. | 2010年6月24日 | 南アフリカ、ルステンブルク | ○ 3-1 | 2010 FIFAワールドカップ |
[編集] 出演
[編集] CM・広告
[編集] 映画
- 名探偵コナン 11人目のストライカー (2012年)
[編集] 関連作品
[編集] 書籍
- 2009年2月 『自然体~自分のサッカーを貫けば、道は開ける』(小学館) ISBN 978-4098250226
- 2010年9月 『明日やろうはバカヤロー』(日本スポーツ企画出版社) ISBN 978-4930942975
- 2011年1月 『信頼する力 ジャパン躍進の真実と課題』(角川書店) ISBN 978-4047102699
- 2012年1月 『観察眼』(角川書店) ISBN 978-4041101100 ※今野泰幸との共著
[編集] DVD
- 2010年3月 『遠藤保仁 ヤットスタイル』(ポニーキャニオン)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ “【Jリーグ】桜島を訪ねて ~遠藤保仁の育成環境を探る”. J SPORTS (2009年4月23日). 2011年9月19日閲覧。
- ^ a b 【ヤマザキナビスコカップFINAL激闘録 PLAY BACK 2004-08】2005年 千葉 vs G大阪(後編)立石が仕掛けた PK戦前の駆け引き J's GOAL 2009.11.2付記事
- ^ 18歳・宇佐美、G大阪の「黄金の中盤」に新風日本経済新聞、2010年12月2日
- ^ MF 遠藤保仁選手の病状についてガンバ大阪オフィシャルサイト、2006年10月21日
- ^ “遠藤がV宣言! G大阪3発先勝/ACL”. goo スポーツ (2008年11月6日). 2008年11月24日閲覧。
- ^ “【Jリーグ】遠藤保仁のJリーグ復帰に思う”. J SPORTS (2008年8月8日). 2008年11月24日閲覧。
- ^ ファーガソン監督(マンチェスター・U)決勝後会見 TOYOTA プレゼンツ FIFA クラブワールドカップ ジャパン 2008スポーツナビ、2008年12月22日
- ^ “遠藤保仁の“凄み”とは何なのか?天皇杯に和製シャビ・アロンソを見た!”. Number Web (2010年1月10日). 2011年9月25日閲覧。
- ^ 疲労ピーク…遠藤PK外す/ゼロックス杯日刊スポーツ、2010年2月28日
- ^ 遠藤が決勝ゴール!G大阪 浦和を下すスポニチ、2010年7月18日
- ^ 遠藤、負傷していた…右内転筋痛も強行出場スポニチ、2011年9月3日
- ^ G大阪・遠藤、7人目の400試合出場サンスポ、2011年11月26日
- ^ “<'99Wユース決勝> 黄金世代 「完敗から手にしたもの」”. Number Web (2010年3月26日). 2011年12月29日閲覧。
- ^ a b 遠藤 飄々ヤット、泥臭く朝日新聞、2009年10月9日
- ^ ワールドカップで遠藤に何ができるのか 世界を待ち望む司令塔の覚悟スポーツナビ、2010年2月15日
- ^ プロサッカー選手・遠藤保仁のお母さん:2 あんなに喜ぶ姿 初めて見た asahi.com 2010.9.7付記事
- ^ 【2010FIFAワールドカップ南アフリカ デンマーク vs 日本】試合終了後の遠藤保仁選手(G大阪)コメント J's GOAL 2010.6.25付ニュースリリース
- ^ a b 本田は無回転、遠藤は高速回転…日本のFK分析読売新聞、2010年6月26日
- ^ 史上4人目! 遠藤が100試合出場達成SOCCER KING、2010年10月13日
- ^ “【日本代表】代表最年長、遠藤保仁が示した「絶大な存在感」”. J SPORTS (2011年2月18日). 2011年7月15日閲覧。
- ^ MVPは本田圭 サッカーアジア杯優勝朝日新聞、2011年1月31日
- ^ 公式記録に載らない「歴史的な一夜」(2/2) 日本代表 2-1 Jリーグ選抜スポーツナビ、2011年3月30日
- ^ a b “アタッカー全盛の今だからこそ!!“現代的パッサー”遠藤保仁の再評価”. Number Web (2011年7月15日). 2011年7月15日閲覧。
- ^ 遠藤保仁選手インタビュー GAMBA TV〜青と黒〜 2009年9月28日放送分。
- ^ STATISTICS 7 Yasuhito ENDO FIFA.com
- ^ a b c “【日本代表】"本田不在"以上の悲劇をもたらす、"遠藤不在"対策を考える”. Sportiva (2011年10月13日). 2011年10月15日閲覧。
- ^ “【後藤健生コラム】37年ぶりの完勝。そして再確認した遠藤の価値”. J SPORTS (2011年8月11日). 2011年11月25日閲覧。
- ^ 遠藤不在響く…G大阪・西野監督「攻めの形が…」スポニチ、2011年10月10日
- ^ “【日本代表】ザック・ジャパンの世代交代。遠藤の後継者は柴崎か?”. J SPORTS (2011年5月28日). 2011年11月25日閲覧。
- ^ a b c d 魅せて決めるゾ!遠藤コロコロPKだデイリースポーツ、2010年6月11日
- ^ a b サッカーの科学 遠藤 GKの「本能」利用読売新聞、2010年6月27日
- ^ 目には涙…“職人”遠藤「PKはしょうがない」スポニチ、2010年6月30日
- ^ a b プロサッカー選手・遠藤保仁のお母さん ヤス子さん:2 ボール蹴り、ヨチヨチ歩きのころからasahi.com、2010年9月14日
- ^ 遠藤選手インタビュー あこがれの選手GAMBA TV〜青と黒〜 インタビュー
- ^ 遠藤保仁選手インタビュー 奥様GAMBA TV〜青と黒〜 インタビュー
- ^ 遠藤保仁 - サッカー日刊スポーツ
- ^ フォトニュース【J1:第21節 G大阪 vs 浦和 】 J's GOAL 2009.8.15付ニュースリリース
- ^ 遠藤とガチャピン、夢のコラボレーショングッズ発売へSOCCER KING、2010年7月21日
- ^ 「遠藤選手×ガチャピン」コラボグッズ、間もなく発売開始!ガンバ大阪オフィシャルサイト、2010年7月27日
- ^ 遠藤選手とぼくは……似てる?ガチャピン日記、2010年9月9日
- ^ 遠藤選手にサッカーを教えてもらったよ!ガチャピン日記、2011年9月26日
- ^ 【G大阪】監督がサポにたこ焼き振る舞う日刊スポーツ、2011年12月4日
- ^ 日本代表のキーマン 遠藤保仁のちょっと「イイ話」OCNスポーツ、2010年10月24日
- ^ 挑む23選手:サッカー・W杯日本代表/4 MF・遠藤保仁毎日新聞、2010年5月21日
- ^ ジェノアが遠藤獲り?本人苦笑いデイリースポーツ、2010年8月1日
- ^ 遠藤保仁選手の偽ブログについてガンバ大阪オフィシャルサイト、2011年3月8日
- ^ 遠藤に偽ブログ騒動…不自然さ満載で即閉鎖デイリースポーツ、2011年3月9日
[編集] 外部リンク
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