アビスパ福岡

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アビスパ福岡
原語表記 アビスパ福岡
愛称 アビスパ、アビ、蜂
クラブカラー      ネイビーブルー[1]
     シルバー[1]
     ブルーベールダンス[1]
創設年 1982年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン2
クラブライセンス J1・J2
ホームタウン 福岡県福岡市[1]
ホームスタジアム
レベルファイブスタジアム1.jpg
レベルファイブスタジアム[1]
収容人数 22,563
運営法人 アビスパ福岡株式会社[1]
代表者 大塚唯史[1]
監督 スロベニアの旗 マリヤン・プシュニク
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
アビスパ福岡株式会社
Avispa Fukuoka Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 813-8585[1]
福岡市東区香椎浜ふ頭1-2-17[1]
設立 1994年9月29日
業種 サービス業
事業内容 サッカークラブの運営
代表者 大塚唯史[1]
資本金 1億2,599万円
売上高 12億4,600万円 (2012年1月期)[2]
経常利益 1億3,100万円 (2012年1月期)[2]
営業利益 1億2,400万円 (2012年1月期)[2]
純利益 1億3,000万円 (2012年1月期)[2]
純資産 2億1,700万円 (2012年1月期)[2]
総資産 5億1,500万円 (2012年1月期)[2]
決算期 1月期
主要株主 福岡市他
外部リンク http://www.avispa.co.jp
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アビスパ福岡(アビスパふくおか、Avispa Fukuoka)は、福岡県福岡市にホームを置く[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

概要 [編集]

雁の巣練習場にあるクラブハウス

運営会社はアビスパ福岡株式会社(2006年に福岡ブルックス株式会社から商号変更)[1]であり、1996年にJリーグへ加盟した[1]。ホームタウンは福岡県福岡市である[1]

チーム名のアビスパは、スペイン語で「熊ん蜂(スズメバチ)」の意味[1]。ハチの持つ集団的行動や俊敏性が「軽快で統制のとれた多様なグループ攻撃」という、チームの目指すスタイルを象徴する[1]

また、福岡市の姉妹都市でもあるボルドーフランス)をホームタウンするFCジロンダン・ボルドーリーグ・アン)と技術提携し、若い選手の短期留学やコーチングスタッフの交流などを行っている[3]

ホームスタジアムはレベルファイブスタジアム[1]、練習場は福岡市東区福岡市雁の巣レクリエーションセンター球技場である[1](詳細は#スタジアムを参照)。

コカ・コーラウエスト、福岡市、セコム三洋信販リコー大都技研といった企業・自治体が大株主として出資している(2008年9月現在)[4]中央防犯サッカー部時代の名残で株主に静岡県に本社を持つ企業も見受けられる。なお、クラブスポンサーの所在地は福岡市に偏っている。これは同じ福岡県内にギラヴァンツ北九州があることや、隣接している県にも鳥栖熊本大分と多数の近接クラブとのスポンサー獲得競争を繰り広げねばならず、広域的なスポンサーを獲得するのが難しいことが影響している為である[要出典]。過去にアビスパ福岡のユニフォームスポンサーであったゼンリン(本社:北九州市)は現在ギラヴァンツ北九州のユニフォームスポンサーである。また、久留米市で創業したブリヂストンサガン鳥栖のユニフォームスポンサーであり、活動地域の関係から鳥栖の名が使えない為、ブリヂストンの名を冠して久留米市でサッカースクールを開設している。

チームの在籍選手数が少ないことや日程調整などの問題を理由に、2007年を最後にJサテライトリーグから撤退した。現在は、若手選手に試合経験を積ませる必要性などから、九州地区にホームを置く他のクラブと共同で九州チャレンジャーズリーグを開催している。

歴史 [編集]

前身 [編集]

1982年に静岡県藤枝市で創部された中央防犯サッカー部が前身であり[1]1991年日本サッカーリーグ2部[1]1993年ジャパンフットボールリーグ1部に昇格した[1]。1994年に「中央防犯FC藤枝ブルックス」と改名してJリーグ昇格をめざしたが[1]、ホームスタジアムである藤枝市民グラウンド球技場のJリーグ基準への改修が困難であることや、藤枝市総合運動公園サッカー場の完成が2002年になるためなどといった理由から、Jリーグクラブ誘致に動いていた福岡市の要請を受け、1995年に福岡市にホームタウンを移し、チーム名を「福岡ブルックス」と改名して[1]Jリーグ準会員となった。

1995年JFL優勝主要メンバー

1995年(JFL) [編集]

福岡市に移転しての初めてのシーズンになった1995年、監督に1978 FIFAワールドカップアルゼンチン代表であったホルヘ・マリオ・オルギンが就任。

鳥栖フューチャーズよりディエゴ・マラドーナの実弟ウーゴ・マラドーナを獲得、引き続き中央防犯時代より所属の元アルゼンチン代表ペドロ・トログリオらを擁し、京都パープルサンガ、鳥栖F、ヴィッセル神戸などとJリーグ昇格を争い、24勝6敗の成績でJFLで優勝して1996年からのJリーグ昇格を決めた[1]。なお、シーズン終了後にオルギンが監督を退任した。

また、Jリーグ昇格に合わせチーム名を「アビスパ福岡」に改めた[1]。これはブルックスが紳士服メーカー「ブルックス・ブラザーズ社」の商標で商標権侵害の恐れがあるための措置。ただしこのときは運営会社名は福岡ブルックスのまま据え置かれた。従って、「福岡ブルックス」というチームは1年限りで幕を下ろした。

1996年 - 1998年(Jリーグ) [編集]

1998年 J 2nd 第04節 対清水戦
(年間総合順位最下位)
1997年 J 1st 第02節 対磐田戦
1996年 J 第02節 対 浦和戦
(Jリーグホームゲーム初戦)

1996年、横浜M元監督の清水秀彦が監督に就任。

マラドーナ、トログリオ、マジョールの3外国籍選手らが残留。元日本代表の都並敏史広島から森秀昭などベテラン選手、中払・藤本・久永・石丸ら新人も入団した。攻撃はマラドーナ、トログリオらの個人技もありなかなかの得点力を誇ったが、守備は失点を重ねる試合が多く、勝利に結びつかなかった。その結果、順位は15位となった。

1997年は17位、1998年は18位と2年連続シーズン最下位。東福岡高等学校3年千代反田充を強化指定選手第1号(現在の特別指定選手)として受け入れたがJ公式戦出場皆無だった。1998年末のJ1参入決定戦J1参入決定予備戦川崎、第3参入クラブ決定戦で札幌を破り、J1参入を決めた。

1999年 - 2001年(J1) [編集]

1999年 [編集]

1999年。監督にフロントの菊川凱夫が就任。前年、監督を務めた森孝慈はGMに就任。

平塚のGK小島伸幸や、鹿島のDF水筑優文広島のDF小島光顕横浜FMのMF野田知市原のMFネナド・マスロバルV川崎のMF三浦泰年などを補強したが、最終順位は14位。

2001年 J1 2nd 第10節 対F東京戦
(J2降格前最終勝利)
2000年 J1 1st 第11節 対清水戦
(好調時)
1999年 J1 2nd 第08節 対浦和戦
(連勝時)

2000年 [編集]

元福岡所属で、前年アシスタントコーチのネストール・オマール・ピッコリが監督に就任。

例年下位に低迷するチーム状態からの脱却を目指すことを念頭に置き、キャンプは朝・昼・晩練習することや戦術面などはそこそこにし砂浜での走り込みなどを中心にまず徹底してフィジカルトレーニングを課して精神・肉体面の基礎力向上(スキルアップ)を選手に求めた。

そのようなこともあり監督の求める「戦う姿勢」がチーム全体に浸透。第2ステージでは最後まで優勝争いに絡む活躍をみせ、結果として6位とクラブ史上最高の成績を収めた。

新加入の高卒ルーキー平島崇が主力として機能したことや、外国人も元横浜MのMFダビド・ビスコンティ平塚で活躍したバデア、エースフォワードのモントージャも活躍するなど明るい話題も多かった。

2001年 [編集]

ピッコリ体制2年目。元韓国代表で広島C大阪でも活躍したMF盧廷潤、アトランタ五輪代表のFW松原良香を補強したが、年間成績15位となりJ2へ降格。なお、前年度活躍した平島が児童買春等禁止法違反で逮捕された(当時は未成年だったため、実名では報じられていない)。

降格翌年も、ピッコリが指揮を執る方向で進んでおりそれゆえの発言もされていたが結局解任という形になり、続いて年俸が比較的高い三浦泰年らベテランは運営費縮小に伴い軒並みチームを離れていった。

2002年 - 2005年(J2) [編集]

2003年 J2 第39節 対広島戦
(成績安定期)
2002年 J2 第09節 対大阪戦
(チーム低迷期)

2002年 [編集]

名古屋グランパスエイトでコーチ経験を持つ今井雅隆が監督に就任。

チームの顔でもあった中払大介山下芳輝ら若手の主力を放出。一方、呂比須ワグナー内藤就行盧廷潤などベテラン選手は残し、横浜FMから古賀誠史ジュビロ磐田から元日本代表GKの大神友明などを補強し1年でのJ1復帰を目指したが、後半戦はわずか3勝に留まり、J2で8位。

2003年 [編集]

松田浩が監督に就任。短絡的な補強をしそれらの選手を中心として戦うチーム構成から、将来を見据えユースや若手選手を育成し中心に据えていく方針への変化に踏み切った。 前半戦は下位に低迷したが、千代反田・米田・宮崎・古賀・宮原・林ら若手を辛抱強く使い、後半戦は5連勝を含む16勝3分3敗(後半戦だけの成績ではトップ)の成績を残し、シーズン4位の成績を収めた。

2005年 J2 第27節 対京都戦
2004年 J2 第35節 対大宮戦

2004年 [編集]

松田体制2年目。前年に行ったサポーターへのアンケートを受けてユニフォームの色を変更した(1stがシルバー、2ndがネイビーだったのを逆にした)。

リーグ戦では前半戦・中盤戦と好不調の波が激しく安定した結果が残せずなかなか上位3チームに食い込めなかったが、シーズンも終盤にさしかかった第37節から最終節まで8連勝。最終節で山形を破りシーズン3位となり、J1・J2入れ替え戦に進出。なお、入れ替え戦はにホーム、アウェイ共に敗戦し、昇格はならなかった。

2005年 [編集]

松田体制3年目。チームの育成路線が実を結び高卒2年目の中村・同じく2年目ユース出身の田中が主力として定着。他にも個々の選手の実力が開花したことや新加入の元ブラジルユース代表だったグラウシオもチームメイトと融合。11月23日のホームでの第42節徳島戦を引き分けて2位を確定。5年ぶりのJ1復帰を決めた。

また6月の2005 FIFAワールドユース選手権中村北斗柳楽智和が日本代表として出場した。

2006年(J1) [編集]

2006年 J1 第09節 対新潟戦
(J1復帰後初勝利)

松田体制4年目。薮田光教(前神戸)、布部陽功久藤清一(共に前C大阪)などベテラン選手を補強したが、リーグ戦序盤は1勝6敗5分の16位と下位に沈み、5月22日に松田を監督から解任。後任にV川崎神戸の元監督の川勝良一が就任。

2006 FIFAワールドカップによるリーグ戦中断期間に神戸からバロンを完全移籍、また大宮から佐伯直哉東京Vから飯尾一慶を期限付き移籍で獲得。シーズン成績は16位となり、J2・3位神戸とのJ1・J2入れ替え戦に回った。入れ替え戦では、第1戦アウエーで0−0、第2戦ホームで1−1(2戦合計1-1)、アウェーゴール差で敗れ、1年でのJ2降格が決まった。

なお、川勝はシーズン終了後に監督を辞任した。5回戦へ勝ち残っていた天皇杯沖野等が代行監督を務めた。

2007年 - 2010年(J2) [編集]

2007年 [編集]

2007年 J2 第43節 対山形戦

シドニーFC元監督のピエール・リトバルスキーが監督に就任。GK水谷雄一、DF千代反田充新潟にそれぞれ移籍。さらに前年キャプテンを務めたMFホベルトが退団した。一方で、ブラジルからFWリンコン、かつてリトバルスキー監督の下でプレイしたDFチェッコリを獲得した。そのリンコン、アレックスのコンビは2007年チームにとって重要な得点源となった。

開幕戦の鳥栖とのダービーで攻撃的布陣が機能し5-0で完勝するなど幸先の良いスタートをきって第1クールを1位で終えた。第2クールに入って以降も上位に入っていたが、第36節京都戦から第40節東京V戦まで5年ぶりとなる5連敗。第48節の仙台戦に敗れてJ1昇格が消滅。最終順位は7位で終了した。なお、シーズン終了後にチーム統括グループ長の小林伸二、同副長の中村重和、育成統括の沖野等を解任した。

この年限りでチーム創設時からユニフォームの胸スポンサーを務めてきたコカ・コーラウエストジャパン(GEORGIA)が撤退した[5](チーム自体への支援はプレミアムパートナーとして継続中)。

2008年 J2 第40節 対横浜FC戦

2008年 [編集]

リトバルスキー体制2年目。前年の登録メンバー31人の半数以上にあたる16人(レンタル選手、外国籍選手含む)と契約を結ばなかったため、選手が大幅に入れ替わった。また、外国籍選手については全員解雇し、新たにいずれもオーストラリア出身のDFルダン、MFタレイ、FWグリフィスを獲得した。また、アビスパから京都に移籍したMF中払大介が復帰、千葉からFW黒部光昭横浜FCからDF中島崇典C大阪からGK吉田宗弘らが加入。横浜FMからハーフナー・マイクから大久保哲哉の両FWをレンタル移籍で獲得し、鈴木惇大山恭平の両名をユースチームからトップに昇格させた(鈴木は2007年シーズンに2種登録で出場済)。

2008年シーズンは、勝ち点が伸び悩み、4月12日の岐阜戦では5分間で4失点[6]するなど守備が崩壊、第1クールは15チーム中14位に終わった。また、第16節の仙台戦では、サポーターが応援を放棄する事態となった(結果は2-0でアビスパ福岡の勝利)。7月11日、成績不振により監督・リトバルスキー、ヘッドコーチ・クルーク、フィジカルコーチ・クレアを解任し、篠田善之が監督に就任したが、最終順位は8位に終わった。

なお同年6月には、パチスロ機メーカー大手の大都技研がクラブに資本参加・ユニフォームスポンサーとなるとの方針が報道され[7]、同社の関連会社がパチンコホール経営を行っていることなどを理由に一時Jリーグ側が難色を示したが[8]、同年9月に正式に同社の資本参加が発表された[9]

2009年 J2 第51節 対横浜FC戦

2009年 [編集]

篠田が監督を続投。中村北斗FC東京へ完全移籍した他、昨季所属した外国籍選手もすべて退団。一方で熊本からFW高橋泰磐田から元日本代表DFの田中誠を獲得。シーズン序盤は、この年よりJリーグに加盟した岡山にJ2初勝利を献上するなど、第1クール(17試合)終了時点で4勝5分け8敗の勝ち点17。その後も第41節の徳島戦の引き分けにより、J2残留が決定。最終順位も11位となり、特に九州ダービーではクラブ史上初めて鳥栖に未勝利で終わった。その一方でJ2を優勝した仙台に対しては2勝1敗と勝ち越した。

なお、開幕から1ヶ月ほど経った4月初めにチームの財政状況が芳しくないという状況の中、[10]昨季から空だったユニフォームの胸スポンサーが「エバーライフ」に決定した[11]。表記は「everlife皇潤」となる。また、背スポンサーもオデッセイ コミュニケーションズに決まった[12]

2010年 [編集]

2010年 J2 第34節 対大分戦

篠田体制3年目。前年度のオフに吉田宗弘黒部光昭らベテランを中心に選手9人との契約を打ち切り、監督以外のコーチ陣も一斉に退団。30歳を越える選手が久藤、田中誠だけと大きく若返り、下部組織から昇格した朝鮮籍孫正倫以外は日本人選手だけでシーズンに臨んだ(7月に韓国人の李鍾民が加入)。なおシーズン直前の1月27日にJ1時代の2006年途中からクラブ社長に就いていた都筑興が辞任し、3月4日に後任として電通九州大分支社長の大塚唯史が就任した。

東京Vから加入した永里源気が得点源として、更には大卒選手の中町公祐(高校卒業後の2004年 - 2007年に湘南在籍)と末吉隼也がボランチコンビを形成し中盤の要として、移籍2年目の田中誠が守備の中心としてチームを牽引した。

開幕戦で甲府に3-1と快勝。4月には4連敗を喫したが、5月5日の11節熊本戦で6-1と大勝するとそれ以降は順調に勝ち点を積み上げて9月12日に千葉、11月20日に東京Vと昇格争いのライバル相手にホームゲームで劇的な勝利を収め、アウェイで岐阜を破った11月23日に4位の千葉が草津に敗れ3位以内が確定、5年ぶりのJ1復帰を決めた(最終順位は3位)。外国籍選手は李と孫の2人のみであったため、この年のリーグ戦での全得点を日本人選手が挙げた(ちなみに天皇杯では孫が1ゴールを挙げている)。

天皇杯では広島大宮とJ1勢を連覇して15年ぶりでアビスパ福岡となってからは初のベスト8へ進出(準々決勝はFC東京に延長戦の末に2-3で敗退)。

2011年(J1) [編集]

2011年 基本布陣

篠田体制4年目。長年在籍した久藤清一が引退、前シーズン15ゴールを挙げた永里源気が甲府へ、中島崇典へ、大久保哲哉山形へ、柳楽智和FC東京へ、阿部嵩JFL金沢へ移籍、大山恭平平石健太が退団した。

補強は、千葉から和田拓三磐田から成岡翔横浜FMから清水範久が完全移籍で、磐田から松浦拓弥、FC東京から重松健太郎がレンタル移籍で加入。キム・ミンジェ畑本時央牛之濱拓が新加入した。また丹羽大輝のレンタル移籍期間も延長した。

開幕戦で新潟に敗れて以降、開幕から9連敗(Jリーグ杯・磐田戦を含めると公式戦10連敗)。6月15日の第15節(リーグ10戦目)の神戸戦に引き分けて初の勝ち点を得た。その後、3連敗で13試合連続勝ち無しとなったが、7月2日の甲府戦に1-0で勝利し、リーグ戦14試合目にして初勝利。その後、山形、磐田(ナビスコ杯)、名古屋とのホーム3連戦に全敗した事が決定打となり篠田は解任され、8月からヘッドコーチから昇格する形で浅野哲也が監督に就任した。

10月22日に新潟に敗戦してJ2降格が決定[13]。最終順位は17位でシーズンを終えた。天皇杯は3回戦で仙台に敗退した。

2012年 -(J2) [編集]

2012年 [編集]

3度目のJ2降格となった2012年は、クラブOBでヴォルカ鹿児島の監督やゼネラルマネージャーを務めた前田浩二が監督に就任した。田中誠が引退、田中佑昌千葉へ、岡本英也鹿島へ、中町公祐六反勇治横浜FMへ、山形辰徳栃木SCへ完全移籍、丹羽大輝G大阪へ復帰)、松浦拓弥磐田へ復帰)、重松健太郎FC東京へ復帰)がレンタル移籍期間満了、清水範久ハマゾッチが退団した。一方で横浜FCから西田剛C大阪から尾亦弘友希、磐田から古賀正紘、FC東京から坂田大輔浦和から堤俊輔を完全移籍で、大宮から木原正和、G大阪から河田晃兵、磐田から岡田隆をレンタル移籍で獲得、 呉昌石津大介が新加入した。

鹿児島市出身の前田を始めとして九州にゆかりのある人物で戦っていく「オール九州」の方針を打ち出し、同時に1年でのJ1復帰を目指したが、熊本町田相手に連勝スタートを切り、第2節終了時点で4位タイとなったのが最高順位で、その後はJ2ワースト2となる失点の多さ(68失点53得点 得失点差-15)や、先制しても逃げ切れないなど勝負弱さを露呈する試合が続いて早々と優勝争いやJ1昇格争いから脱落。第6節京都戦、第7節愛媛戦と連敗して5位→8位→13位と転落して以降は一度も一ケタ順位に復帰できず、第35節の熊本戦に敗れてJ1自動昇格となる2位以内の可能性が、続く第36節の横浜FC戦に引き分けてJ1昇格プレーオフに出場できる6位以内の可能性も消滅した。J2降格により2年ぶりに参加したバトルオブ九州においても、全てホームゲームだった前半3戦を終えた時点で2勝1分の首位だったものの、過去リーグ戦3戦全勝と相性の良かったギラヴァンツ北九州に初の敗戦を喫するなど、後半3戦で全敗し最終的に最下位となった。また、8月26日の第31節対松本山雅FC戦から10試合連続勝利なしとなった10月28日、第40節大分戦での敗戦後に前田を監督から解任、池田太が監督代行に就任したが、結局シーズン終了まで12戦連続勝利なし(5分7敗)のまま、J1在籍経験のあるクラブとして2011年横浜FCと並びシーズン終了時最低の順位となるJ2リーグ戦18位[14]でシーズンを終えた。天皇杯は3回戦で大宮に敗退した。

2013年 [編集]

新監督に、マリヤン・プシュニクが就任。選手では高橋泰和田拓三小原章吾ら8選手と契約を更新せず(小原と高橋は後日愛媛FCに移籍)、河田晃兵は期限付き移籍期間終了でクラブを離れ、成岡翔アルビレックス新潟へ、U-12からの生え抜き選手だった鈴木惇東京ヴェルディへそれぞれ完全移籍した一方、2006年まで福岡に所属していた水谷雄一京都サンガF.C.から7シーズンぶりに復帰、前年ギラヴァンツ北九州特別指定選手として所属した中原秀人福岡教育大学から加入した。

戦績 [編集]

タイトル [編集]

国内タイトル [編集]

※福岡ブルックスとして

個人別 [編集]

Jリーグ ディビジョン1
ジャパンフットボールリーグ

スタジアム [編集]

ホームスタジアムはレベルファイブスタジアムであるが、過去に東平尾公園博多の森陸上競技場2003年湘南戦が最後)や北九州市立本城陸上競技場2004年京都戦が最後)、熊本市水前寺競技場(1995年から1997年まで)、長崎県立総合運動公園陸上競技場2007年水戸戦)でホームゲームを開催した。

ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)所属時代の1995年には、博多の森球技場杮落し(第13節 対大塚FCヴォルティス徳島)までのホームゲーム3試合を平和台陸上競技場で行った。また、1995年夏季ユニバーシアード開催時は、博多の森球技場が同大会サッカー競技会場として使用されたため、中央防犯時代の本拠地である静岡県でホームゲームを5試合開催(静岡県草薙総合運動場陸上競技場2試合、藤枝市民グラウンド球技場3試合)した。

年度別観客動員記録 [編集]

年度 所属 合計
動員数
最多
動員数
最小
動員数
平均
動員数
ホーム
試合数
動員数
順位
1995 JFL 115,495 20,224 2,881 7,700 15 1位
1996 J 146,055 17,323 5,309 9,737 15 12位
1997 138,451 16,354 5,317 8,653 16 11位
1998 170,588 17,722 5,591 10,035 17 12位
1999 J1 172,007 19,094 5,295 11,467 15 7位
2000 204,174 21,084 7,498 13,612 15 4位
2001 207,332 21,281 8,294 13,822 15 11位
2002 J2 142,808 14,475 3,284 6,491 22 4位
2003 163,165 13,921 3,448 7,417 22 4位
2004 192,349 15,444 5,130 8,743 22 4位
2005 237,299 20,841 6,620 10,786 22 3位
2006 J1 253,300 21,545 8,585 14,900 17 12位
2007 J2 228,702 17,361 2,724 9,529 24 3位
2008 211,651 15,158 5,729 10,079 21 5位
2009 194,071 16,531 2,869 7,763 25 5位
2010 158,777 14,713 5,012 8,821 18 5位
2011 J1 177,054 19,421 4,028 10,415 17 16位
2012 J2 117,309 10,902 3,092 5,586 21 11位
3,230,587 21,545 2,724 9,971 324 -

スローガン [編集]

年度 スローガン
1995 iARRIBA! (上へ向かってさあ行こう)
1996年から1998年は、スローガン無し。
1999 MAS ARRIBA! (もっと上を目指そう)
2000 iJUNTOS,PODEMOS! (一丸となれば、やれる)
2001 iMAS JUNTOS,PODEMOS MAS! (もっと一丸となれば、もっとやれる)
2002 Just in ONE
2003 新生
2004 We WILL make it! 成し遂げる!
2005 挑戦 〜Try it again to J1 !
2006 Climb to the top !
2007 SUFFER FOR SUCCESS!
2008 ココロ粋 !
2009 結心 〜全ての心をひとつに〜
2010 福岡 維心
2011 福岡力! 〜Run with the ALL〜
2012 ガムシャラ!! 今年だから出せる力がある。2012福岡ヂカラ
2013 一燃蜂起 ~2013 福岡ヂカラ~

ダービーマッチ [編集]

九州クラシコ [編集]

福岡ダービー [編集]

バトルオブ九州 [編集]

スポンサー [編集]

ユニフォーム [編集]

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 紺×青[1] 紺×青
FP(2nd) 白×グレー[1] グレー 白×グレー
GK(1st) ライム ライム ライム
GK(2nd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー [編集]

  •      ネイビーブルー[1]
  •      シルバー[1]
  •      ブルーベールダンス[1]

2003年までは1stユニフォームがシルバー、2ndユニフォームがネイビーだったが、2004年からは前述のサポーターのアンケート結果を受けて、1stユニフォームがネイビー、2ndユニフォームがシルバーに変更、さらにその後、2ndユニフォームの色がシルバーからホワイトなった。

しかし、カラー入れ替え後の1stユニフォームに採用されたネイビーがDIC255という青にかなり近い物だったため、古くは福岡ブルックス時代から、最近では2003年の2ndユニフォームに使われていた本格的な濃紺を期待したサポーターの不満を抱く結果となった。

さらに2ndユニフォームへと変更されたはずのシルバーが、後に白やグレーに変更され、それ自体は単なるアクセントカラーとして利用されるなど、従来アビスパのチームカラーである紺とシルバーのツートンは過去の物へとなりつつある。

ユニフォームスポンサー [編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
西鉄グループ Nishitetsu Group 2012年8月 -
背中 なし
ふくや 博多中洲 ふくや 2011年7月 -
パンツ 西日本新聞 2011年7月 -

ユニフォームサプライの遍歴 [編集]

  • 1995年 リーグ戦・カップ戦共にアドミラル
  • 1996年 リーグ戦・ミズノ、カップ戦・アドミラル
  • 1997年 - 2010年 リーグ戦・カップ戦共にミズノ
  • 2011年 - リーグ戦・カップ戦共にスボルメ

歴代ユニフォームスポンサー年表 [編集]

年度 背中 パンツ サプライヤー
1995 GEORGIA 三洋信販 -(FUKUOKA) - Admiral
1996 RICOH Admiral/Mizuno
1997
1998 Mizuno
1999 RICOH 三洋信販
2000
2001
2002 ポケットバンク
2003 -
2004 九州電力
2005 J.COM
2006 ZENRIN
2007
2008 - .Rドッとあ〜る アクセス・ジャパン 九州電力
2009 everlife 皇潤 Odyssey
2010
2011 -/博多中洲 ふくや -/西日本新聞 svolme
2012 -/Nishitetsu Group 博多中洲 ふくや - 西日本新聞
2013 Nishitetsu Group

メディア [編集]

テレビ [編集]

ラジオ [編集]

問題・トラブル [編集]

李官雨入団問題 [編集]

1999年11月末、韓国漢陽大学校に所属していた李官雨(当時五輪韓国代表)の獲得を発表。しかし、この時点で本人は既に韓国国内Kリーグのドラフト(2002年廃止、2006年復活)への参加を表明しており、アビスパの獲得発表はKリーグ側からすれば重大な規約違反であった。Kリーグは12月3日のドラフトにより大田シチズンの指名権を認めて当然アビスパとの契約は認めなかった。この時Kリーグ側から裁判に持ち込むという話もあったが、アビスパは裁判で争ってまでの獲得を断念。結局、李官雨は大田へ入団。アビスパとは入団契約を交わしていた為、一度もユニフォームに袖を通さないまま契約を解除し退団する事となった。因みにKリーグとアビスパの両者合意の上での契約解除なので、違約金などは発生していない。

主力温存(Jリーグ規定)問題 [編集]

2000年のJリーグカップ予選・湘南ベルマーレ戦(4月12日)で、アビスパは主力を温存し、若手・中堅選手が中心となって出場し、「最強メンバーで試合を戦うこと」というリーグ規定に反するのではないかということで問題になった。

サポーターのトラブル [編集]

  • 2002年4月10日東平尾公園博多の森球技場で行われたJリーグ ディビジョン2第39節のモンテディオ山形戦で盧廷潤に向かってバックスタンドのサポーターの一人が自分の着ていた韓国代表のユニフォームを投げ入れる。また、ピッチへ乱入して選手に掴み掛るなどの場面もあった。
  • 2005年11月6日横浜市三ツ沢公園球技場で行われたJ2第39節の横浜FC戦に於いて、試合終了後に選手がサポーターへ挨拶しに行った際、選手達に向かって潰された空き缶が投げ込まれ、岡山一成とサポーターが揉めた。しかし投げ入れた本人は特定されていない。一方、岡山は別の1人も同様に缶を投げ込もうとしたため制止しようとしたが、この行為がサポーターへの挑発と勘違いされたと後日コメントしている。
  • 2007年9月2日鳥栖スタジアムで行われたJ2第38節の鳥栖戦では試合終盤から、レフェリングに疑問を持ったサポーター達がペットボトルをピッチに投げ入れだし、試合後も収まらず最終的には多数のペットボトル(内、雨傘が1本)が投げ入れられた。試合終了後には一部のサポーターがピッチに乱入して審判団へ威嚇したり、ピッチに乱入する際に少年1人に怪我を負わせた。後日、クラブはピッチへの侵入者ら数名に無期限の入場禁止などの処分を課した。

その他 [編集]

ハットトリック [編集]

福岡移転以後、これまで5名(マラドーナが2回)が記録している。

その中で、江口倫司は自身が決めたハットトリックで3-0とリードした後にチームは5点取られ逆転負けを喫している。


1995年5月7日
JFL 第1節

福岡ブルックス 4 - 1 福島FC 平和台陸上競技場
マラドーナ 36分にゴール 36分55分68分

1995年6月11日
JFL 第7節

福岡ブルックス 6 - 0 NTT関東サッカー部 平和台陸上競技場
マラドーナ 15分にゴール 15分40分70分

2000年11月18日
J1 2nd 第13節

ジェフユナイテッド市原 4 - 3 アビスパ福岡 市原緑地運動公園臨海競技場
ビスコンティ 12分にゴール 12分44分82分

2002年07月24日
J2 第20節

アビスパ福岡 3 - 5 セレッソ大阪 東平尾公園博多の森球技場
江口倫司 19分にゴール 19分28分29分

2003年05月31日
J2 第15節

アビスパ福岡 5 - 2 サガン鳥栖 東平尾公園博多の森球技場
宮崎光平 19分にゴール 19分39分80分

2007年07月25日
J2 第30節

ザスパ草津 1 - 5 アビスパ福岡 群馬県立敷島公園県営陸上競技場
アレックス 11分にゴール 11分31分34分

その他 [編集]

スタジアムDJ [編集]

チームマスコット [編集]

  • アビー[1]
  • ビビー[1] (2000年2月27日「選手激励のつどい」にて初披露目)

2003年8月10日の広島戦(博多の森球技場)の試合開始前に結婚のお披露目を行った。立会人にはホークスの『ハリーホーク』と『ハニーホーク』。衣装は、香蘭女子短期大学の学生によって作られた。

アルゼンチン国籍の選手 [編集]

JFL福岡ブルックス時代も含め、アルゼンチン国籍の選手がJリーグクラブの中で最も多く在籍していた。1995年から2002年にかけて、15名が在籍。内訳は、DF:3名, MF:6名, FW:6名。2003年以降は獲得していない。

※選手名(ポジション, 背番号) - 1996年は固定背番号ではないため主に着用していた番号。


脚注 [編集]

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関連項目 [編集]

外部リンク [編集]