平山相太
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| 平山 相太 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ソータ | |
| カタカナ | ヒラヤマ ソウタ | |
| ラテン文字 | HIRAYAMA Sota | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1985年6月6日(24歳) | |
| 出身地 | 福岡県北九州市 | |
| 身長 | 190cm | |
| 体重 | 87kg | |
| 血液型 | B型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | FC東京 | |
| ポジション | FW | |
| 背番号 | 13 | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 2005-2006 2006途-現在 |
FC東京 |
32(8) 46(8) |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月8日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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平山 相太(ひらやま そうた、1985年6月6日 - )は、福岡県北九州市小倉南区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・FC東京に所属。ポジションはフォワード。長崎県立国見高等学校卒業、筑波大学中退。
目次 |
[編集] 経歴
小学校2年よりサッカーを始め、抜きん出た体格と素質を示す。高校サッカーの名門・国見高校に入学後、エースとして活躍。3年時の11月にはワールドユース・UAE大会の日本代表に1年代下から抜擢され、1次リーグ最終戦・エジプト戦では決勝トーナメント進出を決める貴重な決勝点を挙げるなど、4試合2得点。その後、12月〜1月に行われた第82回全国高校サッカー選手権では大会前から注目を集め、長崎県代表・国見高の中心選手としてゴールを量産。大会史上初となる2年連続得点王を引っさげ、アテネオリンピックアジア最終予選の日本代表に高校生として唯一選抜された。その年の第82回天皇杯では、1回戦の山形中央高校戦でハットトリックを記録。2回戦で国士舘大学を破り高校チームながら3回戦でJリーグ王者のジュビロ磐田と対戦するなど話題をさらった。
高校卒業を前に、Jリーグだけでなくヨーロッパのクラブからもオファーが来ていたが、国見高校の恩師小嶺忠敏総監督(当時)のアドバイスもあり、全てのオファーを断って2004年4月からの筑波大学への進学を決断。この選択は、プロスポーツやサッカー界を取り巻く環境面についての議論を呼び、セルジオ越後は自身の持つサッカー誌での連載コラムにて「Jリーグに夢が無いからだ」と記した[1]。
2004年4月17日の大学リーグデビュー戦(関東大学リーグ1部・対流通経済大学戦)は注目を集め、駒沢陸上競技場にマスコミが多数集まりスポーツニュース等で報道された。なお、大学時代のチームメイトには2学年上に藤本淳吾、3学年上にFW鈴木達也とMF兵働昭弘らがいた。
U-23日本代表としては、同年2月8日の国際親善試合・U-23イラン戦で初先発し初ゴールを挙げる。8月にはサッカー競技としては史上最年少の19歳2ヶ月でアテネオリンピックに出場。しかし山本昌邦監督が平山を起用したのは予選リーグ初戦・パラグアイ戦の終盤16分間のみで、チームも1勝2敗で決勝トーナメント進出はならなかった。
2005年6月には、自身2度目のワールドユース・オランダ大会に主力メンバーとして出場し、チームの成績は振るわなかったものの1得点を挙げる。この大会終了後の同年7月、オランダリーグ・フェイエノールトの練習生として短期留学。その後8月にこのシーズンから1部入りしたヘラクレス・アルメロに3年契約で入団することが決まり、筑波大学を休学する事になる。
同年8月20日、オランダでのデビュー戦となった対デン・ハーグ戦は後半途中から投入。出場から2分後、味方のフリーキックからヘディングで押し込みプロ初ゴールを挙げ、その後コーナーキックの折り返しを再び頭で合わせて2得点、デビュー戦でチームを逆転勝利に導いた。同年11月20日には対RBC戦で見事なボレーシュートを決め、現地のサッカー番組の中でベストゴールにノミネートされた。2005-06シーズンは途中出場も多い中、チーム最多の8ゴールを挙げる活躍。なお、のちに来日し2008年からジェフ千葉のレギュラーCBとなるエディ・ボスナーは、このヘラクレス時代の2年間チームメイトであった。
2006年1月27日、FIFAが選出する「ベスト・ヤング・プレーヤー・オブ・ワールドカップ2006」にノミネート。4月30日には、サッカーに専念するため、休学中であった筑波大を自主退学。プロサッカー選手としてのキャリアに専念することとなった。オフにはポジション争いをしていたFWタメルスの放出により、主軸となることが期待されたが、欧州の移籍期限終了後の9月5日、所属していたヘラクレスを「ホームシック」を理由に突然退団を表明。
日本に帰国後にはJリーグの複数チームから獲得の打診があり、「学業の両立」が可能で、かつ、「すぐ試合に出られるチーム」を条件に絞り込み、9月10日にFC東京への加入が決定。しかしヘラクレス側は平山のこの行動を不服とし、「説明が無い限り(公式戦出場に必要な)国際移籍証明書を発行しない」という声明を発表したが、期限前に証明書は発行され無事に2006年のJリーグ公式戦に出場できる運びとなった。国際移籍証明書がなかなか発行されなかったために日本サッカー協会が選手登録の締切り期限を1日延長した。
9月30日の対アルビレックス新潟戦でJリーグデビュー(スタメン出場)したが、体調管理不足による動きの悪さ、運動量の少なさなど多数の指摘を受ける。しかも翌日には800万円相当のBMW車を購入したことが報道され、自他共に認める“遊び人”という一面を誇張された形で写真週刊誌に取り上げられ、サッカーに対する熱心さが足りないのではと揶揄されるなど帰国時はほぼバッシングに近い記事も多く書かれ、プレー面でも課題の残る苦いJリーグデビューとなった。
10月7日の対名古屋グランパス戦でJリーグでの初ゴールを記録。ゴール後、スポンサーの看板(三井住友海上)を蹴り壊してしまい、クラブに損害請求される珍事が起こった。本人曰く「あんな簡単に壊れるとは思わなかった」。後のインタビューで約15万円で弁償した事を告白している。
10月25日、オリンピック代表に招集され出場した対U-21中国代表との親善試合(国立霞ヶ丘)では、相手GKと交錯したボールを手で押し込んでゴールを奪い、中国の監督は試合後「マラドーナスタイルにやられてしまった」と皮肉をこめたコメントを残した。
2008年からFC東京の監督に城福浩が就任。開幕戦ではスタメンで起用されたが、赤嶺真吾の台頭もあり、その後はサブとしてゲーム後半からの途中出場が多くを占めた。長年期待されてきた北京五輪代表候補にも招集されなくなっていたが、体が絞れ多少キレが戻ったナビスコカップの東京ダービーでハットトリックを決め、最後の滑り込み招集に一縷の望みを託したが、反町康治五輪代表監督は平山を招集しなかったため、オリンピック2大会連続出場は叶わなかった。
FC東京加入以来、未だにフルシーズンでのレギュラー獲得は出来ていないが、高校時代に世間を騒がせたストライカーとしての姿とは別にカボレとコンビを組むポストプレーヤーとしても著しく成長しており、更なる進化が期待されるところである。
[編集] プレースタイル
190cmの長身ではあるが、それほどヘディングは得意では無い。フィジカルは強く、体と手を使ったポジションキープや突破力も備えており、相手DFを吹き飛ばすようなプレーもよく見られる。足元の技術は高く、トラップも器用であり、並の選手なら届かない位置のボールを巧みにトラップし、シュートまで持って行くことが出来る。[2]、。FC東京所属以前は日本人に多い運動量と守備意識を持ち味とするタイプではなく、運動量も少なく消えている時間帯も多いが、点を取ることに特化してるというストライカータイプであったが、最近は守備意識も強くなり、高いパス精度により味方選手を生かすプレーが増えている。特に俊足ではないが、ボールへの寄せは早く、トラップからキックへの予備動作が少ない上で強く振り抜くことが出来るため、シュートに相手守備陣が反応し切れない状態も見られる。
[編集] エピソード
- 国見高校から付き合いがある中村北斗は親友で公私ともに親交がある。身長差がかなりあるためデコボココンビとして知られる。2009年から中村がFC東京に移籍し、再びチームメイトとなった。
- 尊敬する選手はファン・ニステルローイ。
- 趣味は映画鑑賞・DVD鑑賞。デンゼル・ワシントンのファン。
- 国見高校時代は「10年に一人の逸材」と呼ばれ、期待は中田英寿相当のものであった。
[編集] 代表歴
- 2002年 U-18日本代表 一次予選(6得点)
- 2002年 U-19日本代表 AFCユース・カタール大会(準優勝)
- 2003年 U-20日本代表 FIFAワールドユース・UAE大会(ベスト8)
- 2003年 U-22日本代表 アテネ五輪アジア最終予選(6試合中5試合出場)
- 2004年 U-23日本代表 アテネオリンピック (グループリーグ敗退)
- 2004年 U-19日本代表 AFCユース・マレーシア大会(3位)
- 2005年 U-20日本代表 FIFAワールドユース・オランダ大会(ベスト16)
- 2006年 U-21日本代表
- 2007年 U-22日本代表
- 2008年 U-23日本代表
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
プロ経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2001 | 国見高 | 14 | - | - | - | 2 | 1 | 2 | 1 | ||
| 2002 | 国見高 | 14 | - | - | - | 3 | 3 | 3 | 3 | ||
| オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2005-06 | ヘラクレス | 17 | エールディヴィジ | 31 | 8 | ||||||
| 2006-07 | ヘラクレス | 9 | エールディヴィジ | 1 | 0 | ||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006 | FC東京 | 39 | J1 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 |
| 2007 | FC東京 | 13 | J1 | 20 | 5 | 2 | 0 | 3 | 2 | 25 | 7 |
| 2008 | FC東京 | 13 | J1 | 24 | 2 | 8 | 4 | 3 | 2 | 35 | 8 |
| 2009 | FC東京 | 13 | J1 | ||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 51 | 9 | 10 | 4 | 6 | 4 | 67 | 17 | |
| 日本 | 他 | - | - | 5 | 4 | 5 | 4 | ||||
| オランダ | エールディヴィジ | 33 | 8 | ||||||||
| 総通算 | 84 | 17 | |||||||||
[編集] 脚注
- ^ 週刊サッカーダイジェスト「セルジオ越後の天国と地獄」
- ^ 2007年9月15日、J1第25節 横浜FC戦では、後半40分からの出場ながら、フィールド中央からドリブルでの5人抜きゴールを決めた。
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