佐藤由紀彦

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佐藤 由紀彦 Football pictogram.svg
名前
愛称 ユキヒコ、プリンス
カタカナ サトウ ユキヒコ
ラテン文字 SATO Yukihiko
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1976年5月11日(35歳)
出身地 静岡県富士市
身長 177cm
体重 70kg
選手情報
在籍チーム V・ファーレン長崎
ポジション MF
背番号 10
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1995-1997
1998
1999-2002
2003-2004
2005-2006途
2006-2007
2008
2009-
清水エスパルス
モンテディオ山形
FC東京
横浜F・マリノス
清水エスパルス
柏レイソル
ベガルタ仙台
V・ファーレン長崎
2(0)
29(14)
104(14)
43(3)
12(1)
41(4)
27(2)
23(3)
1. 国内リーグ戦に限る。2010年1月13日現在。
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佐藤 由紀彦(さとう ゆきひこ、1976年5月11日 - )は、静岡県富士市出身のプロサッカー選手(MF)で、日本フットボールリーグ(JFL)のV・ファーレン長崎所属。

目次

[編集] 経歴

清水商時代に背番号10をつけて多くの全国大会で優勝を経験、高校卒業の1995年清水エスパルスに入団。地元育ちの生え抜きスター候補との期待を背負っての入団であった。しかしなかなかポジションを勝ち獲れず、実戦機会を増やす為にブラジルの名門グレミオに長期サッカー留学に行かされる等、下積み時代が続いた。この状況を打破すべく1998年に自ら志願して当時ジャパンフットボールリーグモンテディオ山形レンタル移籍石崎信弘監督の薫陶を受けて成長し、ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となった。同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞。

1999年、本籍は清水に残したまま、当時J2FC東京にレンタル移籍。それまでトップ下が定位置であったが、大熊清監督により右サイドアタッカーのポジションを与えられ、クロサーとしての能力が開花。開幕からレギュラーとして攻撃を引っ張り、J1昇格に大きく貢献した。翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、FC東京フロント、サポーターの熱心な引き留めもありFC東京へと完全移籍した。この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。翌2001年にチームに加入したトップ下・ケリーとのコンビネーションプレーによって一層佐藤の能力も引き出され、得点に直結するクロスを武器とする右サイドのスペシャリストとして、チームのJ1定着、中堅チームとしてのポジションを築く事に貢献。フィリップ・トルシエ監督により日本代表候補の合宿にも招集された。しかし2002年に就任した原博実監督は、佐藤がケガで離脱した際に横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。石川の活躍により、2002年シーズン後半は怪我から復帰したものの右サイドのポジションを奪われ出場機会が激減した。

2003年、出場機会を得るために横浜F・マリノスにレンタル移籍。岡田武史監督の下、右サイドのポジションをつかみ、J1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。また、シーズン途中には、石川直宏と入れ替わる形で完全移籍となった。

2004年も再び横浜FMで活躍したが、シーズン後半になって同じ右サイドの田中隼磨が台頭し控えに回ることも増え、2005年にはプロ選手としての起点である清水に移籍することとなった。しかし移籍直後に怪我を負って出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いていた。再び出場機会を求めていたところ、恩師石崎監督から誘われ、2006年6月にJ2柏レイソルへレンタル移籍、自身2度目となるJ1昇格を経験する事となり、12月には柏へ完全移籍することが発表された。石崎監督は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏へ移籍後はトップ下およびボランチで起用された。2007年シーズンをもって契約満了となり退団。

2008年1月7日、ベガルタ仙台への移籍が決定し、同年は仙台でプレーするが、12月1日にクラブから契約非更新が発表され、1年で退団。12月にJリーグ合同トライアウトに参加した。ベガルタを去る際に残した言葉は次のようなものだった。

「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。」

2009年3月1日、この年からJリーグ準加盟クラブとして承認を受けた日本フットボールリーグV・ファーレン長崎に加入。シーズン中盤にはキャプテンマークを付ける等、活躍。

2011年B級コーチライセンスを取得している[1]

[編集] 人物

  • FC東京時代のコーチであり、移籍後も親交のある長澤徹からは、「サッカーに熱く、ひたすら練習する。しかも若手を引き連れて練習するため、(彼が行くチームは)どのチームもチーム力が上がり、力を落とさずに1シーズンを戦い抜ける」と評されている[2]
  • 実家は洋食料理店を営んでおり、子供の頃の将来の夢はシェフだった。インタビュー等で「もしサッカー選手になっていなかったら?」という問いには「100%、コックさん」とも答える。
  • 端正な顔立ち、右サイドから正確なクロスを上げる事から、FC東京在籍時に「東京のベッカム」、2003年に移籍した横浜F・マリノス所属時は「ハマのプリンス」とよばれた。
  • 甘いマスクとは裏腹に、出場機会を求めてJ2や新旧JFLを含めて7クラブを渡り歩いた苦労人であり、ヒーローインタビューにおいて「J2は魂が磨かれる場所」という言葉を残した。
  • 同い年の松田直樹安永聡太郎と親友である。
  • 2002年に結婚し、2008年現在3児の父である。
  • 2012年1月に第4子男の子が誕生し、前年に亡くなった親友の名をつけたと言われている(本人からの発表はない)。

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1995 清水 - J 1 0 - 0 0 1 0
1996 - 1 0 0 0 0 0 1 0
1997 12 0 0 2 0 1 0 3 0
1998 山形 7 旧JFL 29 14 - 4 3 33 17
1999 FC東京 14 J2 35 6 7 2 4 2 46 10
2000 J1 28 5 2 0 0 0 30 5
2001 28 3 2 0 0 0 30 3
2002 13 0 3 0 0 0 16 0
2003 横浜FM 7 27 1 7 1 3 0 37 2
2004 16 2 7 1 1 0 24 3
2005 清水 20 12 1 1 0 0 0 13 1
2006 0 0 0 0 - 0 0
42 J2 19 2 - 2 1 21 3
2007 14 J1 22 2 3 0 1 0 26 2
2008 仙台 24 J2 27 2 - 2 0 29 2
2009 長崎 28 JFL 23 3 - 2 0 25 3
2010 26 5 - 2 2 28 7
2011 10 32 4 - 1 0 33 4
2012 -
通算 日本 J1 148 14 27 2 6 0 181 16
日本 J2 81 10 7 2 8 3 96 15
日本 旧JFL 29 14 - 4 3 33 17
日本 JFL 81 12 - 5 2 86 14
総通算 339 50 34 4 23 8 398 62

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2004 横浜FM 7 4 0
通算 AFC 4 0

その他の国際公式戦

[編集] 個人タイトル

[編集] 脚注

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  1. ^ 2010(平成22)年度 公認B級コーチ養成講習会 合格者 【431名】 (PDF) 日本サッカー協会 2011.04.14
  2. ^ 小宮良之『アンチ・ドロップアウト 簡単に死なない男たちの物語』集英社、2010年、126-127頁

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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