ロナウド
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 本名 | ロナウド・ルイス・ナザリオ ・ジ・リマ |
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| 愛称 | フェノーメノ(超常現象) | ||||||
| ラテン文字 | Ronaldo Luís Nazário de Lima |
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| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1976年9月22日(35歳) | ||||||
| 出身地 | リオデジャネイロ | ||||||
| 身長 | 183cm | ||||||
| 体重 | 95kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | FW | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2010年2月6日現在。 2. 2011年5月19日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ(ポルトガル語:Ronaldo Luís Nazário de Lima、1976年9月22日 - )は、ブラジル連邦共和国リオデジャネイロ市出身の元サッカー選手。ポジションはFW(CF)。90年代から2000年代を代表するゴールスコアラーの1人。
ブラジル代表の一員として4度のFIFAワールドカップ(1994年アメリカ大会(ピッチには立たず)、1998年フランス大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会)に出場。MVPに選ばれたフランス大会では準優勝、得点王になった日韓大会では優勝に大きく貢献した。W杯通算15得点は史上最多記録であり、ブラジル代表通算62得点は77得点のペレ、66得点のジーコに次ぐ第3位。怪我以降トップコンディションに戻ることはなかったが、それでも高いゴールへの嗅覚を発揮し多くの得点を挙げた[1]。
また、若くしてヨーロッパに渡り、FCバルセロナ、インテル・ミラノ、レアル・マドリード、ACミランといったビッグクラブでプレー。それぞれのクラブでタイトルを獲得したほか、個人としてもFIFA最優秀選手賞を3度、バロンドールを2度受賞するなど、大きな成功を収めた。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] ブラジル時代
1976年9月18日(出生登録が遅れ戸籍上は9月22日)[2]、リオデジャネイロ郊外のイタグアイの診療所に生まれた[3]。幼少の頃の憧れの選手はジーコだった。リオのクラブでプレーしていた少年時代、ロナウドの噂を聞いたジャイルジーニョが訪れ試合を観戦していたが、その試合で大活躍したロナウドの利き足が左右どちらなのか最後まで分からなかった。
16歳でミナスジェライス州の強豪クルゼイロECに入団[4]。ブラジル全国選手権で13試合出場12得点を記録した。ミナスジェライス州選手権では、最大のライバルアトレチコ・ミネイロとの一戦ではハットトリックを決め、3-1の勝利と優勝に貢献した。また、チーム初のコパ・ド・ブラジル優勝にも貢献した。1994年クルゼイロECの一員として来日。ジュビロ磐田とのプレシーズンマッチに出場しハットトリックを達成(試合は3対1)。なおこの際の試合会場は東京ドームである。
[編集] ヨーロッパでの活躍
1994年、わずか1年でブラジルを離れ、オランダのPSVアイントホーフェンに60万ドルで移籍。一年目から30得点を挙げる活躍をみせ、在籍3シーズンで公式戦通算57試合出場55得点(うちリーグ戦通算46試合出場42得点)を記録した。1996年にはKNVBカップ優勝に貢献した。
オランダでの活躍が認められ、1996年にスペインのFCバルセロナへ移籍した。移籍金は1700万ドル。バルセロナには1シーズンしか在籍しなかったが、UEFAカップウィナーズカップ、スペイン国王杯の優勝に貢献し、リーグ戦では37試合出場34得点を記録し、リーガ得点王に輝いた[5]。コンポステーラ戦で約60メートルをドリブルで次々とDFを交わしながら決めたゴールはナイキ社のCMにも使用され、知名度が飛躍的に上がるきっかけとなった。バルセロナに所属していた当時、「攻撃の戦術が無い」と批判されたボビー・ロブソン監督が「私の戦術はロナウドだ」と言い返したのは有名な逸話である。
翌1997年夏、1900万ポンドという破格の移籍金でイタリアのインテル・ミラノへ移籍。決勝戦でゴールを決め、UEFAカップのタイトルに獲得に貢献した。移籍初年度に25ゴールを挙げ、同リーグにおいて1年目の外国人選手によるものとしての最多ゴール記録を樹立した。この記録は未だに破られていない。二年連続でFIFA最優秀選手賞を受賞し、現地のマスコミによって「イル・フェノーメノ(超常現象)」と渾名されるなど、当時のロナウドは絶頂期にあった。
しかし、1999年11月21日のレッチェ戦で右膝靭帯部分断裂の大怪我を負い、手術とリハビリのため長期の欠場を余儀なくされる。翌2000年4月12日に復帰するが、コッパ・イタリア決勝のSSラツィオ戦で再び同じ個所を完全断裂し、僅か7分間でピッチを去った。その後、20ヵ月間に及ぶリハビリの末、2002 FIFAワールドカップを控えた2001-02シーズン終盤のブレシア戦で復帰すると、チームを救う2ゴールをあげる。その後も10試合の出場ながら7ゴールを挙げた。
日韓ワールドカップの活躍で力を取り戻したことを証明したロナウドは、2002-03シーズン開幕前に3900万ドルでスペインのレアル・マドリードに移籍した。デビューは3ヶ月ほど遅れたが、デビュー戦のデポルティーボ・アラベス戦では途中出場して1分もしないうちにボレーシュートを決め、スティーブ・マクマナマンのパスを流し込みいきなり2ゴールをあげている。優勝が掛かった最終節のアスレティック・ビルバオ戦でも2得点の活躍をするなどリーグ戦23得点の活躍でリーグ制覇に貢献した。また、ブラジルの5度目のワールドカップ制覇に貢献したことも評価され、2002年暮に3度目のFIFA最優秀選手賞を受賞している。
2003-04シーズン以降、クラブの守備的選手が次々と放出されるが、それでも得点を重ね自身の好成績は保った。しかし、それとは裏腹にクラブは無冠が続き、不安定なチームバランスの中で運動量豊富な選手を横目にほとんど運動量のないロナウドは、得点できない試合では批判が集中することも多くなり、度々メディアからワースト選手候補として取り上げられた。レアル・マドリードでの晩年は、チームメートからも試合中に激怒されたり、試合後に「やる気のない選手は出て行った方がいい。」などとコメントされることもあり、ファンからは「ピッチの上でキノコ狩りでもしているんだろう。」という強烈な皮肉を言われることもあった。
2005年、クラブの外国人枠を空けるためにスペイン国籍を取得。2006年、ファビオ・カペッロがレアル・マドリードの監督に就任すると、年齢や太りすぎによる運動量の低下、ルート・ファン・ニステルローイの加入などから構想から外され出場機会が激減。本人も移籍を希望するようになる。シーズン途中の2007年1月30日、アンドリー・シェフチェンコの放出でストライカーを探していたACミランに、移籍金750万ユーロ、1年半の契約で移籍した[6]。ACミランとの契約に関し、ライバルクラブでありロナウドの古巣であるインテルのマッシモ・モラッティ会長が「不快である」とコメントした。
ロナウドのACミラン移籍時、チームの状態は悪かった。しかし彼の入団後から状況は好転に向かい順位上昇、一時は危ぶまれていたCL出場権獲得を果たした。既にレアル・マドリードでCLに出場していたためミランでのCL出場は出来なかったが、チームのエースであるカカの負担がロナウドの加入により軽減されたこと、ロナウドという存在が、憂慮なく主力メンバーをCLに投入出来るチーム状況を作った事などから、間接的にCLでの戦いに貢献したと評する声もある。
[編集] ブラジル復帰
2008年のシーズンオフ、契約満了にともないACミランを退団。その後ブラジルのフラメンゴでリハビリや練習を続けていたが、2008年12月、コリンチャンスに加入した。3月4日のブラジルカップで約1年ぶりに実戦復帰し、3月8日のサンパウロ州選手権・パルメイラス戦で約14ヶ月ぶりの得点を挙げた。復帰戦では、試合後に報道マイクが右目に当たって腫れるハプニングがあった。
2010年に、2011年シーズンを最後に、引退することを表明していたが[7]、2011年2月14日、記者会見にて、甲状腺に問題を抱えていたことを明らかにし、体力の限界を理由に現役から退くことを表明した[8]。
[編集] ブラジル代表
ブラジル代表としては1994年にレシフェで行われたアルゼンチンとの親善試合において17歳で代表デビューを飾った。同年6月のFIFAワールドカップ・アメリカ大会代表にも選出されたが、出場機会は無かった。
ブラジル五輪代表として1996年のアトランタオリンピック出場した。ロナウドを始め、ジーダ、ロベルト・カルロス、リバウドらを擁し、優勝候補の筆頭と目されたが、準決勝で今大会を制するナイジェリアに敗れ敗退。
1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会では4得点を挙げ決勝進出に導いたが、決勝戦前日に胃痙攣に襲われて病院に担ぎ込まれ、一時は出場が危ぶまれた[1]。試合に出場することはできたが、満足なプレーが出来ず開催国のフランスに0-3で敗れ、優勝を逃す。しかし、同大会を通じての活躍によりMVPに選ばれた。
2002年のFIFAワールドカップ・日韓大会では8得点を挙げ得点王に輝くと共にブラジルの5度目のワールドカップ制覇に貢献。準々決勝のイングランド戦以外の全試合で得点をあげ、決勝のドイツ戦では2得点を決める活躍であった。
2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会では、体重の増加や、グループリーグの第1戦、第2戦における低調なパフォーマンスもあって、母国を始めとしてメディアや評論家から「レギュラー失格」の烙印を押され非難を集めたが、監督のカルロス・アルベルト・パレイラは一貫してロナウドを起用し続けた。グループリーグ第3戦の日本戦で2得点を挙げて批判を沈静化させると、2006年6月28日(日本時間)のドイツW杯の決勝トーナメント一回戦ブラジル対ガーナ戦で、今大会3得点目、W杯通算15得点目となるゴールを挙げ、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)が打ち立てた14得点の大会得点記録を更新した。しかし、準々決勝のフランス戦では0-1で敗れた。
ドイツW杯後は、ブラジル代表の元主将のドゥンガが代表監督に就任したが、同監督の構想から外れ、以後は代表に招集されなかった。一時は2010 FIFAワールドカップでの現役引退を希望していたが叶わなかった。
[編集] ワールドカップでのゴール
[編集] 現役引退後
引退後は代理人業務に就いており、同時にTV解説者や映画出演の仕事も受けている。2011年6月7日、国際親善試合のブラジル対ルーマニア戦がロナウドの引退試合として行なわれ、ロナウドは前半30分から15分間ピッチに立った。
[編集] 人物
[編集] 名前の表記・読み
出産に立ち会った医師、および代父に決まっていた友人の名をとって「ロナウド」と名付けられた[9]。また、リオデジャネイロの戸籍では7730人目のロナウド・ルイス・ナザリオ・デ・リマであった[3]。
“Ronaldo”は、日本では「ロナウド」と表記・呼称されることが多いが、これはイベリアポルトガル語(ポルトガル本国で話されるポルトガル語)読みとブラジルポルトガル語(ポルトガル語のブラジル方言)読みが混同されたものである。ブラジルは国土が広いため地域によって差異があるが、一般的なブラジルポルトガル語では“R”の発音はラ行ではなく無声軟口蓋摩擦音(音声上は日本語のハ行に近い)で発音される地域が多い。したがって彼の出身であるリオデジャネイロ州における発音に準ずれば「ホナウド」、イベリアポルトガル語読みに準ずれば「ロナルド」となる。
なお、デビューしてしばらくの間は「小さなロナウド」という意味の愛称(アペリード)で、 「ロナウジーニョ」と呼ばれていた。1996年のアトランタオリンピックにブラジル代表として出場したときも、登録名称はロナウジーニョだった。なお、俗にマイアミの奇跡と呼ばれる同大会の日本戦にも途中出場している。
[編集] 家族
1999年4月にモデルでサッカー選手のミレーネ・ドミンゲスと結婚。翌年4月には長男(ロナウド)が生まれるが、2003年9月に離婚した[10]。
[編集] 怪我との戦い
インテル時代の1999年、レッチェ戦で右膝十字靭帯を部分断裂。2000年、リハビリののち復帰した直後のSSラツィオ戦で、ドリブル中に再び同じ箇所を完全に断裂するという悪夢のような出来事に見舞われた。このような怪我は膝を特に駆使するスキーやバレーボールの選手に多く、外部から局所的に強い衝撃が加わらない限りサッカー選手に起こるのは稀とされており、一説にはロナウドの地を蹴るパワーが強すぎて起こってしまったのではないかと言われている。一時は現役引退も囁かれたが、1年半以上に及ぶ長いリハビリの末に2002年に復帰し、2002年ワールドカップにおいて、8得点で得点王になりブラジルの優勝に貢献し復活を果たした。
復帰後はリハビリで膝の筋肉を鍛えたため体重が増加した。一時は100kgを越える体重を記録したこともあった。しかし、足元のテクニックは相変わらず世界でもトップクラスであり、シュートの決定力やゴール前での狡猾さ・冷静さは若い頃より増した感がある。ロナウド自身も「走力は落ちたが、ゴール前での冷静さや状況判断は良くなっている」と述べている。
2007-2008シーズンはACミランでまた怪我に泣かされる。そして、最悪の事態が再び訪れることになった。2008年2月13日、セリエA・第16節延期分のリボルノ戦で右膝に続き左膝の腱を断裂という1999年、2000年と同じような症状の大怪我を負ってしまった。その後、ロナウドはブラジルに帰国し、コリンチャンスでプレーした。
[編集] エピソード
- 2002年の日韓ワールドカップの途中に、前髪のみを三角形に残して残りの髪を全部剃るという奇抜な髪型にしたことがある(日本では、三角の前髪を海苔に見立てて「おにぎりカット」、またはドラマ『子連れ狼』の登場人物から「大五郎カット」と呼ばれた)。本人は非常に気に入っていたようだが、世界中のファン、果ては自分の息子からも「変だ」と総バッシングを食らった。が、それは自身が緊張するあまりフランス大会で活躍できなかった轍を踏むまい、そして仲間達に踏ませまい、との心遣いだった。事実、当時のキャプテンのカフーから「史上最悪の髪型だな」と揶揄されるほどだったが、セレソン全てが和む事が出来、決勝戦での勝利という最高の形に繋げる事が出来た。また、2002-2003シーズンの終盤にも再び同じ髪型にして試合に臨んだ。ちなみにこの髪型はブラジルの漫画のキャラクターがモデルである[11]。
- 2002年のワールドカップ優勝の翌日、ロナウド1人が夜遊びから宿泊ホテルになかなか戻らず、このためチーム全員の出発時間が遅れた。また、帰国に際して、空港でちょんまげのかぶり物をかぶりながら飛行機に乗りこんだ。
- レアル・マドリードでのチームメイトだったジダンとともに、2003年から国連開発計画(UNDP)の親善大使を務めており、貧困撲滅キャンペーンへの協力とチャリティマッチを開催している。
- リベリーノは全盛期のロナウドに対し「ロナウジーニョのプレーを子供たちは真似をする、しかしロナウドのプレーは真似など出来る訳ない」と評していた。
- 趣味にF1観戦があり、ヨーロッパで開催されるレースを中心にしばしば姿を見せているほか、2005年には、この年に開幕した国別対抗チームによる自動車レース選手権A1グランプリでブラジル代表チームの共同出資者の1人として名を連ねている。その他、ゴルフを趣味としている。
- 坊主頭が印象的だが、18歳の時に当時の代理人から、見栄えを良くするためにスキンヘッドになることを勧められた。その後の活躍でブラジル国内でもロナウドを真似て坊主頭にするサポーターが増えた。ミラン入団後、ガリアーニ副会長から「髪をのばしてみたらどうか」と勧められ、少しずつ髪を伸ばしている。
- ゴール後は2002年ごろまでは両手を広げたり、ガッツポーズをする喜び方をしていたが、その後は片手の人差し指を振るようになった。一時期額に腕を当てるパフォーマンスをしていたが、恋人との破局後はやめたようだ。
- ロナウドのファッションについてある雑誌では、「ベッカムの真似をしているだけ」という評価をされてしまった。
- コリンチャンスと契約する以前、リオ・デジャネイロでリハビリをしていた時期に騒動を起こした。キャバクラで3人の女性と知り合い、ホテルへ連れて行ったが、その女性がオカマだと判明した。ロナウドはオカマ達を追い出したが、ニュースなどでは関係を持ったとされ、一晩で世界中に知れ渡ってしまった。後にオカマ達はワイドショーなどに出演し、ロナウドと関係をもったとなどと公開した。ロナウド自身最初は否定していたが、のちに、酔っていて違いが分からなかったと自白した。
[編集] 代表チームにおける経歴
| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 サッカー | ||
| 銅 | 1996 | サッカー |
- 代表
- 代表デビュー 1994年3月24日 アルゼンチン代表戦
- 1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会 - 優勝(出場機会は無し)
- 1996 アトランタオリンピック - 3位(銅メダル)
- 1998 FIFAワールドカップ・フランス大会 - 準優勝・MVP
- 1999 コパ・アメリカ- 優勝・得点王(5得点)
- 2002 FIFAワールドカップ・日韓大会 - 優勝・得点王(8得点)
- 2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会 - ベスト8
[編集] クラブチームにおけるタイトル
- コパ・ド・ブラジル : 1993
- ミナスジェライス州選手権 : 1994
- オランダ・カップ : 1995-96
- スペインスーパーカップ : 1996
- スペイン国王杯 : 1996-97
- UEFAカップウィナーズカップ : 1996-97
- UEFAカップ : 1997-98
- トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ : 2002
- リーガ・エスパニョーラ : 2002-03, 2006-07
- スペインスーパーカップ : 2003
[編集] 主要な個人タイトル
- 1996 FIFA最優秀選手賞受賞、世界最優秀選手賞受賞
- 1997 ヨーロッパ・ゴールデンブーツ受賞、FIFA最優秀選手賞受賞、バロンドール受賞、世界最優秀選手賞受賞、オンズドール、ブラヴォー賞
- 1998 セリエA最優秀選手、セリエA最優秀外国人選手、ブラヴォー賞
- 2002 FIFA最優秀選手賞受賞、バロンドール受賞、世界最優秀選手賞受賞、UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー、オンズドール
- 2004 FIFA 100
- 2006 ゴールデンフット賞受賞
- 2009 カンピオナート・パウリスタベストプレイヤー
リーグ
- 1994-95 エールディヴィジ得点王(33試合30得点・PSVアイントフォーヘン)
- 1996-97 リーガ・エスパニョーラ得点王(ピチーチ賞)(37試合34得点・FCバルセロナ)
- 2003-04 リーガ・エスパニョーラ得点王(ピチーチ賞)(32試合24得点・レアル・マドリード)
代表
- 2002 FIFAワールドカップ 得点王(7試合8得点)
[編集] 個人成績
[編集] 国内大会
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | 期間通算 | |||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||||
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | 期間通算 | ||||||||
| 1993 | クルゼイロEC | 1部 | 14 | 12 | 5 | 1 | 19 | 13 | |||
| オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | 期間通算 | ||||||||
| 1994-95 | PSV | エールディヴィジ | 32 | 30 | 1 | 2 | 33 | 32 | |||
| 1995-96 | PSV | 9 | エールディヴィジ | 13 | 12 | 3 | 2 | 16 | 14 | ||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | 期間通算 | ||||||||
| 1996-97 | FCバルセロナ | 9 | プリメーラ | 37 | 34 | 5 | 8 | 42 | 42 | ||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | 期間通算 | ||||||||
| 1997-98 | インテル | 10 | セリエA | 32 | 25 | 4 | 3 | 36 | 28 | ||
| 1998-99 | インテル | 9 | セリエA | 19 | 14 | 3 | 0 | 22 | 14 | ||
| 1999-00 | インテル | 9 | セリエA | 7 | 3 | 1 | 0 | 8 | 3 | ||
| 2000-01 | インテル | 9 | セリエA | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
| 2001-02 | インテル | 9 | セリエA | 10 | 7 | 1 | 0 | 11 | 7 | ||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | 期間通算 | ||||||||
| 2002-03 | R・マドリード | 11 | プリメーラ | 31 | 23 | 1 | 0 | 32 | 23 | ||
| 2003-04 | R・マドリード | 9 | プリメーラ | 32 | 24 | 7 | 3 | 39 | 27 | ||
| 2004-05 | R・マドリード | 9 | プリメーラ | 34 | 21 | 1 | 0 | 35 | 21 | ||
| 2005-06 | R・マドリード | 9 | プリメーラ | 23 | 14 | 2 | 1 | 25 | 15 | ||
| 2006-07 | R・マドリード | 9 | プリメーラ | 7 | 1 | 2 | 1 | 9 | 2 | ||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | 期間通算 | ||||||||
| 2006-07 | ACミラン | 99 | セリエA | 14 | 7 | 0 | 0 | 14 | 7 | ||
| 2007-08 | ACミラン | 99 | セリエA | 6 | 2 | 0 | 0 | 6 | 2 | ||
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | 期間通算 | ||||||||
| 2009 | コリンチャンス | 9 | 1部 | 20 | 12 | 7 | 3 | 27 | 15 | ||
| 2010 | コリンチャンス | 9 | 1部 | 11 | 6 | 11 | 6 | ||||
| 通算 | ブラジル | 1部 | 45 | 30 | 12 | 4 | 57 | 34 | |||
| オランダ | エールディヴィジ | 45 | 42 | 4 | 4 | 49 | 46 | ||||
| スペイン | プリメーラ | 164 | 117 | 18 | 13 | 182 | 130 | ||||
| イタリア | セリエA | 82 | 56 | 10 | 3 | 92 | 59 | ||||
| 総通算 | 336 | 245 | 44 | 24 | 380 | 269 | |||||
- 太字はリーグ最多
[編集] その他
- ミナスジェライス州選手権1994 : 18試合出場 22得点
- サンパウロ州選手権2009 : 10試合出場 8得点
[編集] 国際大会
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| 南米サッカー連盟 | リベルタドーレス杯 | |||
| 1993 | クルゼイロEC | 12 | 10 | |
| UEFA | UEFA EL | |||
| 1994-95 | PSV | 2 | 3 | |
| 1995-96 | PSV | 9 | 5 | 6 |
| 1997-98 | インテル | 10 | 11 | 6 |
| 2001-02 | インテル | 9 | 5 | 0 |
| UEFA | UEFA CL | |||
| 1998-99 | インテル | 9 | 6 | 1 |
| 2002-03 | R・マドリード | 11 | 12 | 7 |
| 2003-04 | R・マドリード | 9 | 9 | 4 |
| 2004-05 | R・マドリード | 9 | 10 | 3 |
| 2005-06 | R・マドリード | 9 | 2 | 0 |
| 2006-07 | R・マドリード | 9 | 4 | 2 |
| 通算 | CONMEBOL | 12 | 10 | |
| 通算 | UEFA | 73 | 37 | |
※UEFAの通算成績にはUEFAカップウィナーズカップの成績も含まれる。
[編集] その他
- UEFAカップウィナーズカップ1996-97 : 7試合出場5得点
- トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ2002 : 1試合出場1得点
[編集] 脚注
- ^ a b reuters.com (2011年2月15日). “サッカー=「怪物」ロナウド引退、脅威の得点力で世界を席巻”. 2011年9月21日閲覧。
- ^ “ロナウドが30歳の誕生日「挑戦はまだ終わっていない」”. スポーツナビ (2006年9月22日). 2009年2月4日閲覧。
- ^ a b エンツォ・カターニア 『王者ロナウド』 利根川晶子、潮出版社、2003年。ISBN 4-267-01676-3。
- ^ 1970 FIFAワールドカップ優勝メンバーのジャイルジーニョが推薦した
- ^ なお、これ以降2008–09まで1シーズン30得点以上を記録した選手は現れなかった。
- ^ ロイター.co.jp (2007年1月31日). “ロナウド、ACミラン移籍が正式に決定”. 2009年9月24日閲覧。
- ^ sponichi annex (2010年2月24日). “ロナウド来年で引退…最後のW杯へ意欲”. 2010年6月24日閲覧。
- ^ ロナウド引退 肥満の原因甲状腺機能低下も告白 スポニチ
- ^ フランセスク・アギラール/シャビエル・トーレス 『21世紀の王者ロナウド』 坂路淳子、ベースボール・マガジン社、1998年。ISBN 4-583-03513-6。
- ^ http://www.elmundo.es/cronica/2002/362/1032770100.html
- ^ 47news (2002年8月18日). “ロナウド髪形は漫画のまね W杯優勝のブラジル代表”. 2009年9月24日閲覧。
[編集] 外部リンク
- Ronaldo - Official football website(英語)(スペイン語)(ポルトガル語)(イタリア語)
- Corinthians.com.br(英語)(スペイン語)(ポルトガル語)
- FIFA.com(英語)
- footballdatabase.com(英語)
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