ランス・アームストロング
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| ランス・アームストロング Lance Armstrong |
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| 個人情報 | |
| 本名 | ランス・エドワード・アームストロング Lance Edward Armstrong |
| 愛称 | The Boss |
| 生年月日 | 1971年9月18日(37歳) |
| 国籍 | |
| 身長 | 179cm |
| 体重 | 74kg |
| チーム情報 | |
| 所属 | アスタナ |
| 分野 | ロードレース |
| 役割 | 選手 |
| 特徴 | オールラウンダー |
| プロ所属チーム | |
| 1992-1996 1997 1998-2004 2005 2009- |
モトローラ コフィデス USポスタル ディスカバリーチャンネル アスタナ |
| 主要レース勝利 | |
ツール・ド・フランス 通算24勝 ドーフィネ・リベレ 総合優勝 (2002,2003) ツール・ド・スイス 総合優勝 (2001) クラシカ・サンセバスティアン (1995) フレッシュ・ワロンヌ (1996) |
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| 最終更新日 | |
| 2009年6月2日 | |
ランス・アームストロング(Lance Armstrong , 1971年9月18日 - )、本名ランス・エドワード・アームストロング(Lance Edward Armstrong )は、アメリカ合衆国テキサス州プラーノ出身の自転車プロロードレース選手。精巣腫瘍との闘病の後、ツール・ド・フランスで前人未到の7年連続総合優勝(1999年から2005年)を達成した。
その活躍は世界的に広く知られ、2002年にはスポーツ・イラストレイテッド誌の年間最優秀スポーツマン(Sportsman of the Year)に輝き、2002年・2003年のAP通信年間最優秀男性アスリート、2003年・2004年のESPNのESPY賞最優秀男性アスリート、2003年のBBC年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門の各賞を受賞している。
近年ではTREKの株主として、新型モデルの開発などに関わっていたが、2009年のツアーダウンアンダーから一年間、現役に復帰することとなった。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち~プロデビューまで
ランスの誕生時、父親はおらず、彼は母によって育てられた(母の自立の精神は、自分にも強い影響を与えたと彼自身しばしば言及している)。3歳の時、母の再婚により現在の姓であるアームストロングを名乗ることになった。しかし継父との関係は良好とはいかなかった。子どものころはアメリカンフットボールが人気だったが、自分にはその才能がないと悟ったランスは、トライアスロンを始める。
その身体能力は非常に高く、12歳のときから一般カテゴリーに参戦していたほどであり、16歳でプロに転向。1987~88年は19歳以下のトライアスリートのランキング1位に輝き、1989~90年にはアメリカ選手権のスプリント部門で2連覇を果たした。
この後ほどなくして自転車競技に専念することを決め、アマチュアサイクリストとして1991年のアメリカ合衆国チャンピオンとなったほか、バルセロナオリンピックのロードレースでも14位に食い込んだ。ちなみにこの時金メダルを獲得したのがファビオ・カサルテッリである。
[編集] 競技生活前半
これらの実績をひっさげて1992年にプロに転向。翌年、ツール・ド・フランスの第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントの末に勝利。数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くもグランツールでの勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。
そしてオスロで行われた世界選手権のロードレース種目では単独の逃げを決め、ミゲル・インドゥライン、オラフ・ルードヴィッヒ、ヨハン・ムセウといった並み居る強豪を抑えて優勝。史上最年少の21歳という若さで世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。
1995年は前年2位に入っていたツアー・デュポンで優勝したほか、クラシカ・サンセバスティアンでも優勝。ツール・ド・フランスではチームメイトのファビオ・カサルテッリをレース中の落車事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にステージ優勝を遂げた。
そして翌1996年もツアー・デュポン連覇をはじめ、パリ~ニース総合2位、フレッシュ・ワロンヌ優勝などの好成績をおさめ、一時は世界ランク1位を記録するなど成功は続いた。しかしシーズン中盤以降はツール・ド・フランスを途中棄権したほか、アトランタオリンピックでも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。
[編集] 癌
身体の不調を感じ、診断を受けたランスは1996年10月2日、医師から自分が精巣腫瘍に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%であることを告げられる(ナイキによって2005年から発売されている彼のブランド「10//2」やトレック社「1/2 Series」はこれが由来)。
精巣腫瘍には化学療法を施すのが一般的だが、治療薬のブレオマイシンには肺毒性があり、間質性肺炎を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があるため、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否。結局インディアナ大学医学部で心肺機能へのダメージは少ないが、より過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することとなった。
その後、幸運にも治療は成功し、小康状態となったという診断を受けてトレーニングを再開。しかし所属していたコフィデスからは、再起不能とみなされて事務的に解雇された。
[編集] 競技生活後半
その後もリハビリとトレーニングを続け、デビュー時に所属していたモトローラが、1997年に解散したのに伴い、新たに結成されたUSポスタル・サービスと契約し、翌年にプロとして復帰。同年のブエルタ・ア・エスパーニャで総合4位に入り、復活をアピールした。山岳ステージの厳しさではツール・ド・フランスを上回るとされる同レースで、上位入賞を果たしたことにより、彼はステージレースを戦い抜く自信を抱いたといわれている。
そして1999年、ドーフィネ・リベレを総合8位(ステージ1勝)で終え、好調のままツール・ド・フランスに出場したランスはプロローグステージの個人タイムトライアルで優勝。そのままステージ4勝をあげて総合2位のアレックス・ツェーレに7分以上の差をつけて圧勝。ツール・ド・フランス7連覇へ第一歩を記した。
2000年も最大のライバルとみなされていたヤン・ウルリッヒに6分以上の差をつけてツール・ド・フランス2連覇。さらにシドニーオリンピックでは個人タイムトライアルで銅メダルを獲得した。また同年5月には癌との闘いと復活を綴った『It's Not About the Bike(日本語題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)』を出版。アメリカをはじめ各国でベストセラーとなった。
2001年はツール・ド・スイスで総合優勝。ツール・ド・フランスでは第8ステージで大逃げが決まり、一時は総合で35分差をつけられたが、逆転して3連覇を達成。続く2002年もドーフィネ・リベレで総合優勝を達成し、ツール・ド・フランス4連覇も果たした。
2003年もドーフィネ・リベレを連覇し、ミゲル・インデュラインに並ぶ5連覇の期待がかかるなかでツール・ド・フランスに出場。しかしこの年はヤン・ウルリッヒが絶好調で、第12ステージの個人タイムトライアルでは、ランスを1分以上も上回って優勝。さらに次の第13ステージではウルリッヒのアタックにランスが付いていけずに遅れるという事態が発生。マイヨ・ジョーヌこそ守ったものの、第14ステージ終了時点で両者の差は15秒、さらに3位のアレクサンドル・ヴィノクロフとも18秒差というかつてない危機をランスは迎えることになった。
そして次の第15ステージでウルリッヒたちとアタック合戦を繰り広げていたゴール手前9.5km地点で、ランスのハンドルに沿道の観客の持っていた袋が絡み付いて落車してしまうアクシデントが発生。ウルリッヒは紳士協定にのっとり、落車したランスを待ったものの、誰もがこれでランスのマイヨ・ジョーヌはなくなったと確信した。
ところが立ち上がったランスは、勢い余ってペダルから足が外れて再び倒れかけるほどの激しいアタックを開始。そのままウルリッヒを置き去りにして、先頭を走っていたシルヴァン・シャヴァネルも追い越し、ステージ優勝。ウルリッヒに40秒差をつけることに成功し、この差を守りきって5連覇を達成。
また、この年にナイキと契約し、LIVESTRONGプロジェクトとして、黄色のリストバンドを発売し、その売上げを癌患者の支援にあてる運動を始めた。
2004年は、天候不順や落車でライバルたちが次々脱落していくなか手堅くタイムを刻んでいき、後半の山岳ステージで勝利を量産。チームタイムトライアルでの1勝を含む5勝をあげて見事総合優勝を果たし、インデュラインを超える6連覇を達成した。
そして2005年4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役を引退することを発表。危なげないレース運びで見事7度目の総合優勝を獲得し、これを花道にいったん現役を退いた。
[編集] 現役復帰
その後、トレック社のアドバイザーを務めたり、チャリティー活動の一環でニューヨークシティマラソンに参加するなどしていたが、2008年9月に現役復帰することを表明。「家族や親しい友人と話した結果、がんの苦しみに対する世界の人々の意識を高めるため、プロとしての自転車競技への復帰を決めたことを、喜んで発表する」というコメントを発表し、9月25日にアスタナ・チームへの加入が正式に発表された。
2009年1月、ツアー・ダウンアンダーに出場して現役復帰を果たした。同年のジロ・デ・イタリアに初出場。しかし、3月に出場したスペインのレース、ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンで落車し鎖骨を骨折した影響か序盤は調子が上がらず、第5ステージで大きく遅れてマリア・ローザ争いから脱落。その後はチームのエースであるリーヴァイ・ライプハイマーのアシストに徹する形となり、自身は総合12位となった。
[編集] 成功の理由
ツール・ド・フランス7連覇において、2位との差は2003年にヤン・ウルリッヒと1分01秒差であったのを除けば、いずれの年も6分を超えている。
これほど圧倒的な差がついた理由としては、トライアスリート時代の成績が証明するように、肉体的にずば抜けた素質を持っていたことに加え、生い立ちやガンとの闘病で得た強靭な精神力を兼ね備えていたことも大きい。
ランスの強みが最大限に発揮されるのは山岳ステージである。それまでの中心だった重いギアをゆっくり踏んでいくという走り方に対し、ランスは当時としては極めて小さなギア(フロント51T/リア12-23等)を選択し、ケイデンスを上げるという正反対の走り方でステージ優勝を量産。この走り方は、後にエネルギー効率や筋肉への負担軽減の点などからも正しいことが証明され、コンパクトクランクが普及するきっかけとなったが、たとえ同じ機材を使っていても、ランスが上り坂で勝負に出れば誰もついていくことは出来なかった。
山岳ステージで積極的にタイム差を広げる戦術は過去の偉大な王者たちには見られなかったもので、この点ではランスはいくら賞賛されても良い。
また、ランスは登り坂だけでなく、タイムトライアルにも非常に強く、多くのタイムトライアルステージで勝利をものにしているが、これはスポンサーのナイキがランスのために莫大な予算を投じて風洞を用いた空気抵抗の少ないフォームの研究やスキンスーツの開発を行っていたことも要因の一つと考えられている。
この他に所属していたUSポスタルやディスカバリーチャンネルチームが、ヨハン・ブリュイネール監督の元、ランスがツール・ド・フランスで総合優勝することに専念できるようなチーム体制を作り、維持していたことも要素として挙げられる。
アシストも他チームならばエースを務めるような選手がそろっており、タイムトライアルに強いビアチェスラフ・エキモフやタイラー・ハミルトンが平地などで活躍。ケビン・リビングストン、マヌエル・ベルトランをはじめ、ロベルト・エラスやパオロ・サヴォルデッリといった実力者が山岳での牽引役を務め、石畳などパンクが懸念されるコースでは、クラシックでの経験が豊富なジョージ・ヒンカピーが先頭を走る、という具合に全ての環境に対応できる重厚な布陣が敷れており、2004年のツールでもライバルと目されたイバン・マヨが、石畳のコースでアシストを受けられずに大きく遅れてしまい、優勝争いから脱落したのとは対照的であった。
[編集] 人物
自らの著書でも語っているが、少年期~20代前半までの時期には、周囲との衝突を繰り返したり、レースにおける無謀なアタックをたびたび仕掛けたりと攻撃的で負けず嫌いな性格だった。
例としては、プロデビュー直後に出場した地中海一周レースにおいて、自身の名前を別のアメリカ人選手と混同したモレノ・アルゼンティンに対してわざと別の名前で呼び返し、「くそったれ、俺の名前はアームストロングだ。このレースが終わるころには、俺の名前を知ることになるさ」と暴言を吐いた事件があげられる。アルゼンティンは世界選手権を制した経験を持っており、アームストロングの発言は通常では考えられないものであった。
しかし、癌の闘いとその克服、レースへの復帰、そしてツール・ド・フランス連覇を経験していく中で、彼は精神的にも大きく成長し、選手生活の晩年は、無茶なアタックをすることもなく、計算し尽くされた老練な戦略のもと、集団内でライバルの様子をうかがいながら走るクレバーなタイプの選手となっていた。
プロとしての紳士的な一面も持っている。2001年ツールの第13ステージではカーブを曲がりきれず草むらの中へ突っ込んだウルリッヒをスピードを緩めて合流するまで待った。2003年の第15ステージでランスが落車した際、ウルリッヒが合流するまで待ったことも2001年のことがあったからとされている。他にも、山岳ステージの合間の平坦ステージなどでは、総合順位に関係ない選手たちの逃げが決まると、チームとしてそのまま逃がしてアシストを休めることもあった。そのため、20分以上の大逃げが決まってしまうこともあった。
そのため、ともすればつまらない走り、と評されることも多かったが、2002年は2日続けての頂上ゴール制覇や2003年の第15ステージのアタック、2004年には山岳だけで4勝を含む6勝(TT、チームTT含む)をはじめとして山岳ステージでは、たびたび激しいアタックを見せていた。
また2000年のツール・ド・フランスでマルコ・パンターニと僅差で敗れた際に「(ドーピング騒動からの復帰に)敬意を表して最後は手を抜いたんだ」と発言してパンターニを激怒させたり、2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで、死の今際にいる母のためにツール・ド・フランスでの初勝利を渇望していたイヴァン・バッソと一騎打ちになったとき勝利を譲って、王者の貫禄を見せたかと思いきや、次の第13ステージで再び一騎打ちになった時は容赦なくスプリントしてステージ優勝するなど、かつての攻撃的な性格の一端を垣間見ることが出来るエピソードは多い。
[編集] エピソード
[編集] ツール・ド・フランスに関するもの
- 彼の7勝に次ぐ、5勝の実績を残しているのはジャック・アンクティル、エディ・メルクス、ベルナール・イノー、ミゲル・インドゥラインといった、そうそうたる人物ばかりである(ちなみにインドゥラインのみ5連覇)。彼らがワンデーレースにも積極的に参加していたのに対して、復帰後のランスはツール・ド・フランス以外のレースにはほとんど参戦しなかったために一概に比較は出来ないが、数年間に渡り闘病で苦しんだ事を考慮すれば、彼の業績は偉大なものである。
- 2003年の第15ステージで転倒した時、実はフレームが破損しており、レース復帰直後にペダルを踏み外してもう一度転倒しそうになったのもそれが原因だった(ペダルを踏み外した瞬間にフレームが通常ではありえない曲がり方をしているのが映像で確認できる)。
- 2004年の第17ステージではアシストを務めたフロイド・ランディスとともにライバルのヤン・ウルリッヒを封じ込め、決死のアタックをかけたアンドレアス・クレーデンをスプリントで差して5勝目を挙げたが、その後の「(4勝もしているのだから)勝利を譲ってもよかったのでは?」という質問に「考えてもいない("No gifts, no gifts this year.")」と言い切った。
- 2005年については、その前に引退する気持ちもあったが、メインスポンサーがUSポスタルから大手CS放送チャンネルのディスカバリーチャンネルに変わり、スポンサーの意向もあって出場することを決めたと語っている。
[編集] その他
- トライアスロン選手時代は自転車だけでなく水泳に関しても非凡な才能を発揮し、1500m自由形ではナショナルチームに入る一歩手前だった。
- もともとトライアスロン出身のため、プロデビュー当時は自転車競技に疎かったらしく、所属していたモトローラ・チームに供給されていた自転車のロゴを指して「エディ・マークス(エディ・メルクス)って誰だい?」と発言したことがある。
- プロに転向して初めてのレースは1992年のクラシカ・サンセバスティアンだったが、大会関係車両にクラクションであおられながら、最下位でゴールするという惨めなデビューだった。
- 現役時代の安静時心拍数は31~33と言われる。
- 癌からの復帰後、主治医の一人から、50%と言っていた生存確率は実はもっと低くて(一説には20%以下とも2%とも言われる)、生存への希望を保ってもらう目的でウソを言ったと告白された。
- 彼のあまりにも驚異的な成績に伴い、ドーピング疑惑が常に付きまとっていたが、彼がドーピングテストに引っかかることは一度も無く、ランス自身も、これまで一度として違反薬物を使用したことはないと否定している。当時のチームメイトの多くも彼がドーピング行為をしているところを見たことがないと証言している。
- 癌撲滅チャリティーの為に出場した2006年のニューヨークシティマラソンではほぼイーブンペースを保って、856位でゴール。2時間59分35秒の好タイムで、3時間を切るという目標を果たしたが、レース後に足の痛みを訴え検査したところ、それまでのトレーニングのせいで右脛骨が疲労骨折しており、そのまま参加、完走していたことが発覚した。
[編集] 家族
精巣腫瘍にかかったため、癌からの復帰後に凍結保存精子を用いた人工授精によって、妻との間に男の子を、2年後には双子の女児を授かった。しかし夫妻は5年間の結婚生活の後、2003年に離婚。
その後2005年9月には歌手シェリル・クロウと婚約したが、2006年2月に婚約を解消したことを発表した。
[編集] 機材
- 現役時代、機材に対しては、多くのプロ選手と同じく保守的な面を見せていた。
- ペダルについては、シマノのPD-7401を2001年まで愛用していたが、既に廃盤となっていたため、チームのメカニックは在庫が残っていないか、アメリカ中の小売店に電話をかけて探したという。さらには、シマノから派遣されていたメカニックが個人的に持っていたペダルを譲り受けてまで、同モデルを使い続けたというエピソードが残っている。その後シマノが「ランスほどの選手が廃盤モデルを使い続けるのは、マーケティング上問題がある」という理由で、SPD-SLペダルを新たに開発。2002年からはそれを愛用するようになった。ちなみに、このペダルの開発コードネームは「PDランス」。名前から分かるとおり、本来はランス専用モデルだった(SPD-SLはPD-7401同様にルック・タイプを元にしており、シマノがそれまで販売していたSPD-Rとは全く異なるビンディングの構造を持っていることからもそれが分かる)。
- サドルはサンマルコ社の定番モデルであるコンコール・ライトを愛用している。アームストロングが使用するのは特に、サドル上面に刺繍のないモデルであり、年々登場する新モデルを使用することはなかった。
- ハンドル・バーのクランプ径は近年登場した31.8mmのオーバーサイズではなく、旧来の26.0mmのものを、タイヤはユッチンソンの廃盤モデルであるOROを使い続けていた。
- ディスカバリーチャンネル所属時にチームが使用していたコンポーネントは、シマノのデュラエース。シマノはランスがトライアスロン選手時代から機材を供給しており、シマノ製品でツール・ド・フランスを制したのは、ランスが初めてだった(ランスが引退した後、残った選手の多数とブリュイネール監督が合流したアスタナは、引き続きトレック社のバイクを使用しているが、コンポーネントはSRAMに切り替えた)。
- 山岳ステージでは、STIレバーの左側をブレーキレバーに交換し、フロントディレイラーの変速には、ダウンチューブに装着した伝統的なシフター(Wレバー)を使って変速していた。こうしたセッティングは主に軽量化が目的とされ、ランス以外の選手でも行うケースがあったが、機材の最低重量がUCI規定で決まっており(6.8kg)、当時は既にSTIレバーを両方装着しても、最低重量に近い自転車を準備出来た。このような状況では、理論上は何のメリットも無い(これについて今中大介は重量上のメリットよりも一種のゲン担ぎではないかと著書に書いている)。
- 上記に関連するが、トレックが、ランスの現役時には、Wレバーに対応した最上級モデルのバイクを出荷していたが、2007年からは対応しなくなっており、影響の大きさをうかがい知る事が出来る。
[編集] 主な成績
[編集] グランツール
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 男子 自転車競技・ロード | ||
| オリンピック | ||
| 銅 | 2000 シドニー | タイムトライアル |
| 金 | 1993 オスロ | 個人ロードレース |
- ツール・ド・フランス 通算24勝
- 1993年 ツール・ド・フランス途中棄権(1勝)
- 1995年 ツール・ド・フランス総合36位(1勝)
- 1998年 ブエルタ・ア・エスパーニャ総合4位
- 1999年 ツール・ド・フランス総合優勝(4勝)

- 2000年 ツール・ド・フランス総合優勝(1勝)

- 2001年 ツール・ド・フランス総合優勝(4勝)

- 2002年 ツール・ド・フランス総合優勝(4勝)

- 2003年 ツール・ド・フランス総合優勝(2勝)

- 2004年 ツール・ド・フランス総合優勝(5勝)

- 2005年 ツール・ド・フランス総合優勝(2勝)

※( )内はステージ優勝数。2003~2005年の勝利は、それぞれチームタイムトライアルでの1勝を含む
[編集] ステージレース
- 1996年 パリ~ニース総合2位
- 1999年 ドーフィネ・リベレ総合8位(1勝)
- 2000年 ドーフィネ・リベレ総合3位(1勝)
- 2001年 ツール・ド・スイス総合優勝(2勝)
- 2002年 ドーフィネ・リベレ総合優勝(1勝)
- 2003年 ドーフィネ・リベレ総合優勝(1勝)
- 2004年 ツアー・オブ・ジョージア総合優勝(2勝)
※( )内はステージ優勝数
[編集] ワンデーレース
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- ランス・アームストロング(安次嶺佳子 訳): ただマイヨ・ジョーヌのためでなく(ISBN 4062102455)、講談社、2000年8月25日初版
- 原題 It’s not about the Bike(自転車の話じゃないんだ) (ISBN 0425179613)
- ランス・アームストロング、サリー・ジェンキンス(曽田和子 訳): 毎秒が生きるチャンス! (ISBN 4054024963)、学習研究社、2004年9月29日
- 原題 Every Second Counts (一瞬一瞬が大事)(ISBN 0385508719), Broadway Books 2003.
- 山口和幸 : シマノ 世界を制した自転車パーツ、光文社、2003年


