グレッグ・レモン
| 獲得メダル | ||
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マイヨ・ジョーヌを着たグレッグ・レモン (1990年ツール・ド・フランス最終ステージのスタート地点にて) |
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| 世界自転車選手権 | ||
| 金 | 1983 オルテンレイン | プロ・個人ロード |
| 金 | 1989 シャンベリー | プロ・個人ロード |
| 銀 | 1982 グッドウッド | プロ・個人ロード |
| 銀 | 1985 ジャベラ・ディ・モンテロ | プロ・個人ロード |
| ジュニア世界選手権 | ||
| 金 | 1979 | 個人ロード |
グレッグ・レモン(Greg LeMond、1961年6月26日 - )は、アメリカ合衆国の元自転車プロロードレース選手。1986年、1989年、1990年にツール・ド・フランス個人総合優勝を達成したほか、1983年、1989年の世界選手権を制している。
日本ではしばしば彼の苗字「LeMond」は第一音節に高アクセントを置いて発音される事が多いが(果物のレモンと同じ)、本来の発音は第二音節に強アクセントを置く。
目次 |
レース戦歴 [編集]
アマチュア時代 [編集]
レモンはもともと、スキー選手として活躍しており、夏場のトレーニングの一環として自転車に乗っていた。しかしそこで非凡なる成績を示し、1979年のジュニア世界選手権の代表に選出された。ここでロードで金メダル、そして他競技でも銀と銅を獲得し、わずか18歳でオリンピック代表に選出された。しかし、モスクワ五輪はアメリカがボイコットしたため、実際にオリンピックでその姿を見ることは叶わなかった[1]。
プロに転向 [編集]
レモンは1981年に、プロとしての一歩を踏み出した。前述したのジュニア世界選手権・個人ロードで優勝したレモンの才能を、当時ベルナール・イノー、ローラン・フィニョンが所属していたルノー・エルフ=ジタンチームの監督であったシリル・ギマールが見いだしたことがきっかけであった。プロ入り2年目の1982年の世界選手権で、レモンは優勝目前と見られながらも、最後は優勝したジュゼッペ・サローニの強烈なスプリント力に屈した。しかし、経験ではなく実力で2位になれることを証明し、翌1983年のアメリカ人初の世界選手権優勝へと繫がってゆく。
ツール・ド・フランスでの活躍 [編集]
1984年のツール・ド・フランスで、レモンは初参戦ながら3位でゴールし、マイヨ・ブラン(新人賞)を獲得する。1985年のツールでは第21ステージでアメリカ人初となるステージ優勝を飾る。さらに、1986年のツール・ド・フランスでは、ヨーロッパ以外の出身の選手として初となる総合優勝を飾ったが、これにはツール史上稀にみる、同一チームの選手による争いが伴った(以下に詳述)。
イノーとの確執 [編集]
1985年ツール [編集]
2度目の参戦となった1985年のツール・ド・フランスでは、ラ・ヴィ・クレールのチームで、それまでツール4勝を挙げていたエース、ベルナール・イノーのアシストを務めることになった。その後イノーはレースをリードしていたが、ステージ途中の転倒事故で負傷していた。
第17ステージでレモンは、イノーを置き去りにして先頭集団についていった。このため監督であったパウル・ケヒリは、レモンに対し後方に下がるよう指示を出した。しかしステージ終了後、レモンはイノーに2分25秒の差をつけてリードしていた。
このため当日の夜、緊急のチームミーティングが開かれた。そこで、オーナーにより「イノーに総合優勝させる」「レモンにはボーナス(日本円にして約3,000万円)を支給する」というチームオーダーが決定された[2]。
このツールでレモンはイノーに次ぐ2位(1分42秒差)でレースを終えたが、イノーのツール・ド・フランス5勝のために、自らの勝利はあきらめざるを得なかった。
その後レモンはインタビューで、チームマネジャーとコーチのポール・コークリが、レモンに嘘を伝えていたと暴露した(大切なステージ中、イノーとのレモンの差は+3分以上あると伝えていた)。
これに対しイノーは、来年は自分がアシストに回ることを約束した。
1986年ツール [編集]
しかしながら1986年のツール・ド・フランスでは12ステージに、イノーは不調のレモンを置き去りにして逃げを決め、5分のアドバンテージをレモンに対し築いた。翌日もイノーは逃げを決めるが、約束を反故にされたことを激怒したレモンがじわじわと盛り返し4分半を取り戻した。パフォーマンスとしてラルプ・デュエズでの頂上ゴールで2人は手を取り合ってゴールして見せたが、イノーは執拗にアタックを続けた。
結果的にこの年のツールを制したのはレモンであったが、選手のみならず観客にとってもストレスの溜まるレースとなった。露骨なまでのチーム内での裏切り自体珍しいことだが、それをイノーのようなスター選手が行ったことは衝撃であった。
「彼はイオタでまったく僕をアシストしてくれなかった。彼にはもう尊敬の念の欠片すらないよ。それどころかこのレース後は彼とはもう友達でも無い。こんな裏切りはありえないよ。」とレース後にレモンは語っている[1]。
なお、イノーの行動については「レモンのライバル(特に、優勝候補として注目されていたローラン・フィニョン)を罠にかけるため、あえて陽動作戦を実施した」「(当時は前人未到であった)ツール六勝目に目がくらみ、自らの約束を果たさなかった」といった、様々な憶測がなされている[3]。
事故からの生還 [編集]
1987年のツール・ド・フランスを二ヵ月後に控えた1987年4月20日、レモンにとって不幸な事故がカリフォルニアで起きた。狩猟中、同行者の散弾銃の弾がレモンの胸に当たったのである[4]。レモンは大量に出血し、生死の淵をさまよった。一命をとりとめ、その後はリハビリに励むものの、都合2回、ツール・ド・フランス出場が不可能になった。
1989年のツール・ド・フランスで、レモンは37もの散弾片を体(いくつかは心臓のそば)に残したまま、20位以内を目標にした。最終ステージ、パリでの個人タイムトライアルで、レモンは総合2位。ローラン・フィニョン(1983年・1984年ツール・ド・フランス個人総合優勝者)にタイム差+50秒で迫っていた。
レモンは当時最新のエアロバーバイクでタイムトライアルに臨み、フィニョンにこのステージで逆転。総合で8秒差でマイヨ・ジョーヌを奪い、個人総合優勝を果たした[5]。
ちなみに最終ステージでレモンがマークした平均時速54.545kmは距離20km以上の個人タイムトライアルの最速記録として現在も残っている[6]。
数週間後、さらにレモンは世界選手権で2度目の優勝を果たす。レモンは自転車選手として初めて、『スポーツ・イラストレイテッド』誌の1989年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーの栄誉に輝いた。
さらにレモンは翌年のツール・ド・フランスでは、序盤はライバル達のマークに苦しみ、結局一度もステージ優勝はできなかったが、前年同様最終の個人タイムトライアル(この年は最終日前日)でマイヨ・ジョーヌを獲得し自身3度目の総合優勝を果たした。
後遺症による引退 [編集]
4勝目を狙った翌1991年のツール・ド・フランスは、総合優勝したミゲル・インドゥラインから13分13秒遅れの7位に終わった。1992年にレモンは、アメリカ人初のツアー・デュポン勝者となる。しかし、これはプロ選手として最後の優勝となった。
ツール・ド・フランスでは序盤ではそこそこの成績を残すものの、山岳コースや高速化した際に集団から千切れる事を繰り返し、1992年、1994年とリタイアに終わった。
このふがいない走りで「ハングリー精神を失い、自らが有するブランドの自転車を売り込むことばかり考えている」「アスリートではなくビジネスマン」等とマスコミに叩かれた。
しかし、その後の検査により、1987年の事故で体内に残された散弾の鉛が原因と考えられるミトコンドリア性筋肉疾患が進行していることが判明する。 日常生活では支障がないものの、高いレベルの運動を行った時には筋肉に酸素が供給されず、異常な疲労と体力低下を招くというアスリートにとって致命的な病であった。この検査結果を受けて、1994年12月にプロ自転車選手を引退した[4]。
1997年のインタビューで、レモンは優勝し損ねた1985年ツール、そして狩猟事故後の1987~1988年のブランクによって失ったチャンスを悔やみ、「仕方がないけど、レースの歴史は書き換えられないからね。」「でも、ツールで5回は優勝できたはずなんだ。そう断言出来る。」とコメントしている。
引退後 [編集]
自転車競技とフィットネス分野の専門性を生かして、引退後はLeMond Bicycles(トレック・バイシクルの一部門であったが現在は離脱)やLeMond Fitnessなどの会社を起こした。また、一時期、運転技術を競うレースから離れられず数年間モータースポーツにはまっていた。2005年に行われた日本のアマチュアレース、ツール・ド・草津には特別ゲストとして参加し、日本のファンに元気な姿を見せた。2009年ツアー・オブ・ジャパンにも特別ゲストとして来日し、最終東京ステージではパレード走行時に先導役を務めた。現在はミネソタ州メディナ在住。
アームストロングへの批判 [編集]
2001年に、レモンは当時ツール・ド・フランスを連覇中であったランス・アームストロングの成功をドーピングの力によるものと示唆し、論争を巻き起こした[7]。
「アメリカ人によるツール総合優勝」「生命の危機からの奇跡の復帰」といった共通項を有する先輩が、ツールで活躍を続ける現役選手を批判したことは、世界的に衝撃を与えることになった。
さらに、アームストロングがツール連覇を続けた2004年7月にも、再び「もしもアームストロングがクリーンなら、まれにみる復活劇だ。そしてもしもクリーンではなかったとしたら、史上まれにみる茶番だ」とコメントした[8]。また「ランスにはなんでも秘密にしておける才能があるようだね。どうやってみんなに潔癖さを信じ込ませ続けているのか私には理解不能だ」と『ルモンド』紙へのコメントで語った[9]。
これに対しアームストロングは反論し、著書においても引用している[10]。 しかし、米国反ドーピング機関(USADA)は2012年8月24日に、ドーピング違反で告発したランス・アームストロングについて、7連覇を達成したツール・ド・フランスのタイトルが含まれる1998年8月1日から現在までの競技成績を剥奪、更に自転車競技からの永久追放処分を科す、と発表した。[11]
脚注 [編集]
- ^ a b http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=19191
- ^ 安家達也『ツール100話 -ツール・ド・フランス100年の歴史』p.230、未知谷、2003年 ISBN 4-89642-079-9
- ^ 安家達也・前掲p.233
- ^ a b http://www.kazg.net/kazg_htmls/about_gl.html
- ^ レモンが表彰台で喜びをあらわにするのとは対照的に、フィニョンは肩を落とし座り込んだ。フィニョンは特に言わなかったが、最終の何日かサドルによる股ずれに苦しんでいた。
- ^ ツール・ド・フランスのプロローグでの最速記録は、クリス・ボードマンが所持している55.152km/h (7.2km)である。なお、リック・フェルブリュッヘは2001年にジロ・デ・イタリアのプロローグで58.895km/h (7.6km)を達成している。[1]
- ^ http://sportsillustrated.cnn.com/cycling/news/2001/08/02/armstrong_lemond_ap
- ^ http://sports.espn.go.com/espn/news/story?id=1841300
- ^ http://sports.espn.go.com/oly/news/story?id=1840215
- ^ 『毎秒が生きるチャンス!』p.100 ランス・アームストロング / サリー・ジェンキンス
- ^ アームストロング氏のツール7連覇剥奪、米反ドーピング機関 - AFPBB News 8月25日付記事
外部リンク [編集]
- Greg LeMond, The Official Web Site
- グレッグ・レモン - サイクリングアーカイヴス (英語)
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