マイヨ・ジョーヌ

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2004年のマイヨ・ジョーヌのレプリカ。
2004年のツール・ド・フランスで、マイヨ・ジョーヌを着用するトマ・ヴォクレール

マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune) は、自転車ロードレースツール・ド・フランスにおいて、個人総合成績1位の選手に与えられる黄色のリーダージャージである。各ステージの所要時間を加算し、合計所要時間が最も少なかった選手がマイヨ・ジョーヌ着用の権利を得る。最終ステージの終了時点でマイヨ・ジョーヌ着用の権利をもっている選手がツールの総合優勝者となる。

誰がトップなのか一目で分かるようにという理由で1919年に初登場。色の由来はレース主催者であるスポーツ新聞『ロト』(L'Auto)=現在の『レキップ』(L'Equipe)=の紙面が黄色であったためと一般に説明される。このほか、主催者ができるだけ派手な色のジャージを所望したところ、仕立屋の手持ちには黄色い布しかなかったためとする説もある[1]

最初にマイヨ・ジョーヌを着用したのは、1919年大会の第11ステージ終了後のウジェーヌ・クリストフ(フランス)だった。しかしながらクリストフはその後のステージで、車体故障によるタイムロスを余儀なくされて総合優勝を逃した(詳細はフィルマン・ランボーの項を参照)。

1950年代以降、ルコックがジャージサプライヤーとなる。ジャージスポンサーについては、アイスクリーム会社「MIKO」、粉末ココア飲料「BANANIA」などが務めていたが、1987年からは黄色をイメージカラーとするフランスの銀行「LCL」(クレディ・リヨネ。のちクレディ・アグリコル傘下になった)がスポンサーとなっており、同行の名が一番大きく、かつ3箇所に書かれている。またマスコット(黄色のライオン)のぬいぐるみをジャージ着用者が持っているシーンもたびたび見られる。1990年代に入り、ジャージサプライヤーは何回か変更があり、1996年から2011年まではナイキが担当していた。2012年からはルコックがジャージサプライヤーとして復帰している。両肩に入っている大文字筆記体の「HD」は、ツールの創始者であるアンリ・デグランジュ (Henri Desgrange) のイニシャルである。

マイヨ・ジョーヌ着用選手不在の事例[編集]

1924年
「犬猿の仲」の間柄であったアンリ・デグランジュに反抗姿勢を示すため、前年総合優勝者のアンリ・ペリシエが、第1ステージ開始前にマイヨ・ジョーヌを脱ぎ捨て、自身が所属するチームのジャージを着用した。
1950年
第12ステージ終了後に総合首位に立ったスイスフェルディ・キュプラーが、イタリア選手全員が第12ステージ途中で棄権となった(第11ステージ時点の総合首位はフィオレンツォ・マーニだった)ことに対する観客からの暴動等を警戒して、自身がスイスの国内チャンピオンでもあったこともあり、スイスナショナルカラーのジャージを着用。
1971年
第14ステージでマイヨ・ジョーヌ着用のまま瀕死の重傷を負ってリタイアしたルイス・オカーニャを気遣い、総合首位のエディ・メルクスが第15ステージでは着用を拒否した。
1980年
オランダヨープ・ズートメルクが、第13ステージでマイヨ・ジョーヌ着用のまま途中棄権したベルナール・イノーを気遣って、総合首位に立ちながらも着用しなかった。
1991年
アメリカグレッグ・レモンは第8ステージで総合首位に立ったが、レース中のクラッシュによって第6ステージ途中にロルフ・ソレンセンがマイヨ・ジョーヌ着用のまま棄権を余儀なくされたことを気遣い、マイヨ・ジョーヌを着用しなかった。
2007年
ミカエル・ラスムッセンが、第16ステージ終了時点で総合首位にいながらも、居場所を虚偽報告していたことが判明し、ドーピング検査回避の疑いがもたれたことから、所属チームのラボバンクから解雇され、棄権を余儀なくされた。第17ステージではマイヨ・ジョーヌ着用者が不在の状況でレースが進められた。

脚注[編集]

  1. ^ 安家達也『ツール100話 -ツール・ド・フランス100年の歴史』、未知谷、2003年 ISBN 4-89642-079-9

関連項目[編集]