エディ・メルクス

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エディ・メルクス(1966年の世界選手権にて)

エディ・メルクス(Eddy Merckx)とは、

  1. ベルギー出身の自転車プロロードレースの選手(1945年6月17日 - )。
  2. 上記の人物が経営する会社が販売する高級スポーツ自転車のブランド名。

本項ではその両方について説明する。

目次

[編集] 最強のロードレース選手、エディ・メルクス

ツール・ド・フランスジロ・デ・イタリアをそれぞれ5回ずつ、ブエルタ・ア・エスパーニャを1回制覇しており、ツール・ド・フランス通算ステージ34勝、単年ステージ8勝、マイヨ・ジョーヌ着用日数96日はいずれもツール・ド・フランスにおける最高記録である。

また世界選手権でも3回(アマチュア時代も含めれば4回)優勝。さらにミラノ〜サンレモを7回、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュを5回制するなどクラシックでも数多くの記録を残し、1シーズン54勝というシーズン最多勝記録も保持している(ちなみにシーズン50勝以上を3回達成している)ほか、パトリック・セルキュとタッグを組んでトラック競技でも勝利を重ね、16年間の競技生活で通算525勝(うちプロ時代に425勝)をあげた。

ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1970年、72年、74年の3回達成。74年はさらに世界選手権も制して「トリプルクラウン」を史上初めて達成した選手でもある。

全盛期だったモルテニ所属時代には、その攻撃的な走り、出場する全てのレースで勝利を目指した貪欲さから、他の選手たちに「人食い(The Cannibal)」の異名で恐れられた(但し、本人曰く、他の選手からこの名で呼ばれたことはないとのこと。インタビューより)。

その数々の偉業により、ロードレース・ファンからはファウスト・コッピと並んで「カンピオニッシモ」(伊:Campionissimo―チャンピオンの中のチャンピオン)と呼ばれている。

[編集] 経歴

1961年に16歳で競技を始めたが、1964年には19歳の若さで東京オリンピックのベルギー代表のロード選手に選ばれ来日。さらにアマチュア世界選手権を制するなど、すでに大器の片鱗を見せ始めていた。

1965年にプロに転向。翌1966年にいきなりミラノ〜サンレモで優勝して衝撃のデビューを飾ったものの、この年は、大きな勝利はこの1つにとどまった。しかし1967年はミラノ〜サンレモの連覇を皮切りにヘント〜ウェヴェルヘムフレッシュ・ワロンヌなどのビッグレースで優勝。ジロ・デ・イタリアではステージ2勝を挙げ、世界選手権も制し、一気にトップレーサーとなる。

1968年にはパリ〜ルーベを制覇したほか、ジロ・デ・イタリアで初めての総合優勝を遂げ、1969年はパリ〜ニースの総合優勝を皮切りにクラシックレースも次々制覇。その勢いのままツール・ド・フランスでもステージ6勝を含む総合優勝を達成。

そして1970年にはジロ・デ・イタリアツール・ド・フランスの両方を制して「ダブルツール」を達成。最強の座を確たるものにした。

1971年もツール・ド・フランスの連覇を始め、ミラノ〜サンレモフレッシュ・ワロンヌリエージュ〜バストーニュ〜リエージュジロ・ディ・ロンバルディアと数々のクラシックで優勝。さらには世界選手権で2度目の優勝を達成した。

1972年には自身二度目の「ダブルツール」達成。さらにメキシコでアワーレコードに挑戦。49.43195kmの新記録を叩きだし、世間からは「これを塗り替えることは永遠に不可能」とまで言われた。

さらに1973年はジロ・デ・イタリアブエルタ・ア・エスパーニャで優勝したほかパリ〜ルーベで3回目、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュで4回目の優勝を飾るなどクラシックでも大活躍した。

1974年には前人未到となる三度目の「ダブルツール」を達成。ツール・ド・フランスでは史上最多となるステージ8勝という圧倒的な成績を残した。さらにこの年は世界選手権も制して史上初の「トリプルクラウン」を達成。栄光の絶頂を極めた年となった。

そして1975年も春のクラシックシーズンを絶好調で終えるが、ツール・ド・フランスでは、ベルナール・テブネの前に苦杯を喫し、2位に終わる。しかし、これはメルクスの力が衰えたからではなく、第14ステージの山頂ゴール手前でメルクスを嫌う観客にボディブローを叩きこまれたのが原因であり、これによって次のステージから急激に体調を崩したうえ、落車して顎を骨折。ものを咀嚼できない状態になった。そのため体調はさらに悪化し血を吐くまでになり、誰もがリタイアすると思ったが最後まで走りぬき、しかも優勝をあきらめずに何度もアタックをかけ、周りを驚かせた。

しかし、その無茶がたたって、以後は急速に走りに精彩を欠くようになり、1976年に7回目のミラノ〜サンレモ制覇を達成したのを最後に大きなレースでの勝利からは見放されてしまう。結局1978年に引退。

引退後はウーゴ・デローザに指導を受け、ブリュッセル郊外でバイクフレームの制作工場を興した。

そのほか現在ベルギーの自転車関係の団体の委員を歴任。1996年にはベルギーの国威高揚に貢献したということでベルギー王室からも男爵の爵位を贈られている。

[編集] 人物

  • 勝利に対する執着はすさまじく、時には愛娘と遊んでいるときの競争でさえ勝ちを譲らないこともあった。また、レースでは、よくスタート直前までリアスプロケット部分を隠していた(歯数が多ければ登りで勝負、少なければ平地で逃げを狙うかスプリントに絞っているなど、どんな作戦を立てているかをある程度推察されてしまうため)。
  • かつてツール・ド・フランスでは全ステージ優勝を狙って走っていたと発言したことがある。実際、1968年の ジロ・デ・イタリアと1969年のツール・ド・フランスでは総合優勝に加えて山岳賞とポイント賞まで独占するという空前絶後(現在でも唯一無二)の結果を残しているほか、1970-72年のツール・ド・フランス、1973年のジロ・デ・イタリアブエルタ・ア・エスパーニャでも複数の賞を獲得しており、奪える勝利は全て奪う姿勢を貫いていた。
  • 他人どころか自分に対しても容赦がなく、1970年のモン・ヴァントゥ峠への頂上ゴールでは、ゴール後に酸素ボンベを必要とするほどのペースで走り、ステージ優勝こそしたもののダメージは大きく、危うくリタイアしかけた。
  • 彼のそうした貪欲な勝ち方に反感を持つ人も多く、1973年にはツール・ド・フランスの主催者から「参加するとメルクスを嫌う人たちが何をするか分からないので」という理由で出場を辞退するよう要請(実質上は強要だが)されたほどである。73年だけブエルタ・ア・エスパーニャに出場しているのはこれが原因であり、この出来事がなければ6連覇を達成していたと見る人も多い。
  • 1975年のツール・ド・フランスでの無茶が彼の選手生命を縮めたことは間違いなく、本人も「あれをしなければもう少し走れただろう」とその旨を認める発言をしている。また、1968年のツール・ド・フランスについても出場していたら優勝できただろうと語っており、もし妨害などがなければ1968-1975年にわたって8連覇(あるいはそれ以上)を達成していた可能性も十分にあった。
  • 選手のドーピングに関しては厳しい非難をしているが、ランス・アームストロングが薬物使用を疑われたときには、真っ先に擁護した(しかしデビュー当時のランスはメルクスのことを知らず、所属していたモトローラチームが使用していたフレームの「Eddy Merckx」のロゴを見て、「エディ・マークスって誰?」と言って周囲を驚かせたことがある)。
  • 1969年ジロ・デ・イタリア第15ステージを勝利しながらも、同レース終了後のドーピング検査で陽性が発覚したため、マリア・ローザ着用のまま、レースから除外された[1]
  • 選手時代からタバコを吸っており、アワーレコード挑戦後にも一服つけていた。引退後も変わらず、サポートカーや審判車に乗りながらタバコを吸っている光景が時折、映し出されていた。
  • 息子のアクセル・メルクスも父と同様プロのロードレーサーとなった。もっぱらアシストとしての仕事が多かったため成績は父に遠く及ばないが、2000年のベルギー選手権優勝、2004年アテネオリンピック銅メダル(オリンピックのメダルは父が獲得することができなかった数少ない勲章である。もっとも自転車競技がオリンピックでプロに開放されたのは1996年のアトランタオリンピックからであり、父は東京オリンピック以外は出場権がなかった。)、などの成績を残し、2007年のツール・ド・フランス完走を最後に引退した。

[編集] エピソード

1972年、メキシコでのアワー・レコード挑戦時に使用し、世界新記録(49.43195km/h)を達成した自転車(コルナゴ製)(ブリュッセル)
  • 現役時代は機材に異常なこだわりを見せる選手として有名であり、レースの前日であろうとフレームの改良を指示して、当日朝一番で届けさせることもしょっちゅうだった。デビュー当初はチームで使用しているフレームが気に入らず、自費で別メーカーのフレームを購入し、チームカラーにペイントして使用していたこともある。
  • ポジション調整にもこだわりを見せており、スタート直前まで微調整をしていることは日常茶飯事で、レース中に逃げを決めている時にも関わらず、一度自転車を降りてチームメカニシャンを呼びサドル高を調整させたという伝説まで残している(この様子は市販のDVDで確認出来る)。こうしたこだわりは彼自身の性格もあるが、1970年にトラックレースの最中、クラッシュに巻き込まれて背中と腰を痛めてしまい、以後その痛みに悩まされ続けたためでもある(この時は頭部も強打して一時意識不明になっていた)。
  • 軽量化にも熱心で、現在に至るロードバイクの軽量化はメルクスから始まったといえる。ギアやハンドルなどのパーツに穴をあけて肉抜き加工を施すことも多く、72年のアワーレコード挑戦時には5.75kgという極限まで軽量化を実現したチタンパーツを使用したスペシャルバイクを使用した(当時のロードバイクの平均重量は10kg前後)。このバイクはベルギーブリュッセルの地下鉄にある、彼の名を冠した「エディ・メルクス駅」のホームに展示されている。
  • このように自転車に対しては革新的な姿勢を見せたメルクスだが、着るサイクルウェアについては保守的で、ウール素材のレーサージャージを愛用し続けた。ファンからは「メルクスと言えばウール」とまで評されたのは有名である。
  • メルクスがアワーレコード(49.431km)を記録した時、これを破れる選手はいないと言われていた。その後ファニーバイクを用いたアワーレコードの記録更新が相次いだが、2000年の国際自転車競技連合(UCI)の規則改正により、アワーレコードには「通常のロードレース用自転車を用いること」が義務付けられたため、それらの記録は全て無効とされている。とはいえ、2007年現在のアワーレコード(49.700km)とメルクスの記録の差はわずかであり、通常のロードレース用自転車においても機材の進歩が著しいことを考えれば、メルクスの残した記録がいかに圧倒的だったかが分かる。

[編集] 所属チーム

  • 66-67年 プジョー-BP
  • 68-70年 ファエマ(68-69年Faema、70年Faemino-Faema)
  • 71-76年 モルテニ
  • 77年 フィアット
  • 78年 C&A

※78年引退

[編集] 主な戦績

獲得メダル
1964 アマ・個人ロードレース
1967 へーレン プロ・個人ロードレース
1971 メンドリシオ プロ・個人ロードレース
1974 モントリオール プロ・個人ロードレース

[編集] グランツール

  • ツール・ド・フランス 通算34勝
  • ジロ・デ・イタリア 通算24勝
  • ブエルタ・ア・エスパーニャ 通算6勝


1967年
ジロ・デ・イタリア9位(2勝)
1968年
ジロ・デ・イタリア 総合優勝 ポイント賞 山岳賞(4勝)
1969年
ツール・ド・フランス 総合優勝 ポイント賞 山岳賞(6勝)
1970年
ジロ・デ・イタリア 総合優勝(3勝)
ツール・ド・フランス 総合優勝 山岳賞(8勝)
1971年
ツール・ド・フランス 総合優勝 ポイント賞(4勝)
1972年
ジロ・デ・イタリア 総合優勝(4勝)
ツール・ド・フランス 総合優勝 ポイント賞(6勝)
1973年
ジロ・デ・イタリア 総合優勝 ポイント賞(6勝)
ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合優勝 ポイント賞 (6勝)
1974年
ジロ・デ・イタリア 総合優勝(2勝)
ツール・ド・フランス 総合優勝(8勝)
1975年
ツール・ド・フランス 総合2位(2勝)

※( )内はステージ優勝数

[編集] ステージレース

1968年
ツール・ド・ロマンディ総合優勝 カタルーニャ一周総合優勝
1969年
パリ〜ニース総合優勝
1970年
パリ〜ニース総合優勝(4勝)
1971年
ドーフィネ・リベレ総合優勝
1974年
ツール・ド・スイス総合優勝(3勝)

※( )内はステージ優勝数


[編集] ワンデーレース

世界選手権

 1964年 優勝(アマチュア)
 1967年 優勝(プロ)
 1971年 優勝(プロ)
 1974年 優勝(プロ)


クラシックレース

1966年
ミラノ〜サンレモ 優勝
1967年
ミラノ〜サンレモ 優勝
フレーシュ・ワロンヌ 優勝
ヘント〜ウェヴェルヘム 優勝
1968年
パリ〜ルーベ 優勝
1969年
ミラノ〜サンレモ 優勝
ロンド・ファン・フラーンデレン 優勝
リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ 優勝
1970年
パリ〜ルーベ 優勝
フレーシュ・ワロンヌ 優勝
ヘント〜ウェヴェルヘム 優勝
1971年
ミラノ〜サンレモ 優勝
フレーシュ・ワロンヌ 優勝
リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ 優勝
ジロ・ディ・ロンバルディア 優勝
1972年
ミラノ〜サンレモ 優勝
リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ 優勝
ジロ・ディ・ロンバルディア 優勝
1973年
パリ〜ルーベ 優勝
ヘント〜ウェヴェルヘム 優勝
アムステルゴールドレース 優勝
リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ 優勝
1975年
ミラノ〜サンレモ 優勝
ロンド・ファン・フラーンデレン 優勝
アムステルゴールドレース 優勝
リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ 優勝
1976年
ミラノ〜サンレモ 優勝

[編集] トラックレース

[編集] その他

[編集] ブランドとしてのエディ・メルクス

メルクスは引退後、現役中に使用していたフレーム制作を依頼していたウーゴ・デローザに師事した後、自身の名を冠したフレームメーカーを創業した。 現在では、ただ有名選手の名を冠しただけのメーカーでは無く、積極的にフレームの改良を行い、ビギナー向けからTT用のフレームまで制作するレーシングブランドとして確立した。

2008年現在、日本での輸入代理店は深谷産業。

[編集] 脚注

  1. ^ http://www.cyclingrevealed.com/timeline/Race%20Snippets/GdI/GdI_1969.htm

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク