マルコ・パンターニ
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マルコ・パンターニ(Marco Pantani、1970年1月13日 - 2004年2月14日)はイタリア・チェゼナーティコ出身のプロロードレースの選手。享年34。
プロ通算36勝を挙げたイタリアのヒーローであり、1998年にジロ・デ・イタリア、ツール・ド・フランスの2大ステージレースで個人総合優勝したクライマーとして日本でも有名な選手である。
スキンヘッドにヒゲをたくわえた個性的な容貌やレースに対する求道的な姿勢から「海賊 (il Pirata)」「走る哲学者」といった愛称で呼ばれた。
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[編集] 経歴
幼少の頃はサッカー選手に憧れていたが、挫折し自転車をはじめる。1992年にベビー・ジロ(アマチュア版ジロ・デ・イタリア)に優勝し、一躍名を上げ、同年プロデビュー。
当初はなかなか勝てず、1993年のジロ・デ・イタリアでも膝痛でリタイアといった苦戦が続く。だが1994年にジロ・デ・イタリアでステージ2勝を記録し、総合で2位。同年のツール・ド・フランスでも個人総合3位に入り、最優秀若手選手賞(マイヨ・ブラン)を獲得。一躍トップ選手の仲間入りを果たす。
翌1995年はジロ・デ・イタリアこそ事故で欠場するも、ツール・ド・フランスではステージ2勝。総合では13位に入り、2年連続でマイヨ・ブランを獲得したほか、世界選手権でも3位に入る活躍を見せた。だが、その直後に開催されたミラノ〜トリノにおいて、峠の下りでコースを逆走してきた車と正面衝突。左足の下腿骨が折れて、皮膚から飛び出すほどの大けがをし、1996年のシーズンを棒に振ることになった。
さらに1997年にメルカトーネウノに移籍し、心機一転して臨んだジロ・デ・イタリアでも第8ステージで前に飛び出してきた猫をかわそうとしたはずみに落車してリタイアしてしまう。
しかしそんな暗雲を払うようにツール・ド・フランスでは、ラルプ・デュエズへの山頂ゴールが設定された第13ステージでは37分35秒という最短登坂記録で優勝(この記録は未だに破られていない)。さらに第15ステージでも優勝し、総合3位。完全復活を遂げた。
1998年には選手生活の絶頂を迎え、ジロ・デ・イタリアでパヴェル・トンコフと最終ステージまでもつれ込むデットヒートを繰り広げながら、見事に総合優勝し山岳賞(マリア・ヴェルデ)も同時獲得。さらにツール・ド・フランスでも終盤の第15ステージの氷雨降るガリビエ峠で、マイヨ・ジョーヌを着るヤン・ウルリッヒに対してアタックを仕掛け、逆転に成功。総合優勝を飾り、2大グランツールを制覇。史上7人目となる「ダブルツール」を達成する偉業を達成した。
1999年もジロ・デ・イタリアでステージ4勝を挙げ、総合2連覇も目前だった。だが、大会最終日前日6月5日、UCI の検査とは別に、イタリアが独自で行った抜き打ちのメディカルチェックでヘマトクリット値(赤血球濃度)が、UCIの定めた50%という数値を超える52%を示し、出場停止となってしまう。同年はこの後、レースに出場することはなかった。
そして2000年のジロ・デ・イタリアで復帰。総合優勝を遂げたステファノ・ガルゼッリのアシストを積極的に努め、自分も総合28位に入り、復活をアピールした。しかしツール・ド・フランスではランス・アームストロングの前に苦戦。それでも2勝を挙げるが、結局途中棄権。シドニーオリンピックでも69位に沈んだ。
追い討ちをかけるように翌2001年にはドーピング疑惑が再燃。本人は一貫して薬物の使用を否定するも、UCIから2003年3月までのレース出場停止処分を受けることになった。
出場停止処分が明けた2003年のジロ・デ・イタリアでは、総合14位に入り、ツール・ド・フランスへの出場にも意欲を見せたが、突如チームメイトたちの前から姿を消す。結局この年は再びレースに参加することはなかった。
そしてパンターニがメンタルクリニックに通っている、夜中に道で泣いているといった報道が切れ切れにされるなか、2004年2月9日、イタリア北東部の小さな街・リミニのホテル「Le Rose」にチェックイン。5階にあるたった28平方メートルの5-D号室に閉じこもり、どこにも外出しないまま2月14日の夜9時30分、床に倒れて死亡しているのを発見された。当初は死因不明の自殺とされていたが、調査の結果、コカイン中毒により脳と肺に水腫ができていることが判明。コカインの常用によるオーバードーズが原因で死亡したと発表された。
自転車競技界からは才能を、家族からは財産を搾り取られ、マスコミに追い立てられて神経衰弱とコカインに蝕まれた挙げ句、頼れるものもなく孤独な死を遂げた悲劇のヒーローとも言える彼の死は大きな波紋を呼び、生まれ故郷のチェゼナーティコで営まれた葬儀には数千人が参列した。
現在もイタリアで彼の人気は絶大であり、ジロ・デ・イタリアでは、2004年から「チマ・パンターニ(パンターニの山)」を設定。彼に縁の深い山をコースに組み込むようになっているほか、コース途中などに彼の功績をたたえる像やイラスト、横断幕などが多数設置されている。また、チェゼナーティコでは、彼の名を冠したレース「メモリアル・パンターニ」が2004年から毎年開催されている。
[編集] ドーピング疑惑について
一般にヘマトクリット値(赤血球濃度)が非常に高い場合、激しい運動により水分を失うと血管が詰まりやすくなり、命の危険がある。そのため1999年の出場停止処分は、パンターニの安全を確保するためにとられた措置であり、必ずしもドーピング検査に引っかかったとはいえないものだった。
ただパンターニの場合は、初回の検査時にヘマトクリット値が規定より高かったことよりも、再検査において数値が当初の52%から48%と47.6%まで急激に下がっていたことが問題視された。ヘマトクリット値は疲労が蓄積した場合でも高まるが、その場合は短時間で数値の大きな変動はないことから、ドーピングを行っていた可能性が高いと判断され、裁判となってしまった。
しかし、当時のイタリアロードレース界においてはヘマトクリット値の規制はなかったうえ、エリスロポエチン (EPO) の使用も禁止されていなかった。そのため仮にパンターニが薬を使用していたとしても、規則上ではドーピングをしていたとは言えず、大半の選手からはその検査自体を疑問視されていた。
そのため1999年の裁判も正確にはドーピングについての裁判ではなく、「薬を使ってまで勝ちたいのか」というプロスポーツ選手としての姿勢・あり方を問う裁判であったが、結果としては証拠不十分で無罪となっているし、2001年にドーピング疑惑が再燃した時も同様に裁判となったが、やはり無罪判決が出ている。
しかし、その当時ロードレース界ではドーピング問題が深刻化していたことから、マスコミはこの出場停止を「パンターニがドーピングで失格になった」と騒ぎ立てることになった。そしてマスコミが絶え間なく浴びせる好奇の視線に、もともとマスコミ嫌いだったパンターニは不信感を高め、精神のバランスを崩していくことになったのである。
[編集] 彼の死について
- 死の前、彼の財産は家族の管理下におかれ、彼には生活費とクレジットカード1枚を手渡されただけだったと言う。これが理由かどうかはわからないが、パンターニは両親に対しても距離感を感じていた。また両親も同様だったのか、パンターニが死んだとき、両親はバカンス中で、彼の死を知ったのは2日後であった。
- 彼は死の直前に遺書ともとれる幾つものメモを残していたが、その中に「全ての人々が、自転車競技の実態を知りながら、僕だけを悪者にしようとした。」というものがある。自転車界にドーピングが蔓延していることを示す端的な事例であろう。
- このほかにも「4年間ずっと法廷に通う日々だった」「カメラは僕と僕の家族、僕の仲間たちに容赦ない仕打ちをした」「僕のプライベートそしてキャリアが犯された時、過ちを犯したことを痛感した」といった悲痛な言葉がメモには書き綴られていた。
- ホテルの滞在中、部屋にバリケードを築き誰も入ってこれないようにしたり、ずっとテレビをつけっぱなしにしていたりといった奇行が目立った。最後に注文した食事はチーズとマッシュルームのオムレツだったが、発見時に床に放り出されており、手をつけた形跡はなかったという。
[編集] 人物
- レース中のホテルも個室を好む(普通は相部屋)など、かなり神経質な性格だった。またパッドの貼られていないレーサーパンツを愛用するなど、非常に個性的なところがあった。
- よく知られるスキンヘッドにピアスというスタイルにしたのは1995年のこと。心機一転を図ったほかに、耳の形から「Elefantino(イタリア語で子象の意)」と呼ばれるのを嫌ったから、という話もある。
- シーズンオフには、3か月も自転車に乗らないことがあり、オンとオフの切り替えをはっきりさせていた。
[編集] エピソード
- ダンシングではハンドルバーの下を握り、大きく車体を振って軽やかに駆け上がるのが特徴だった。ゴール時には両手を広げて、天を仰ぐような、司祭が神に祈りを捧げるようなポーズを取るのが恒例だった。
- 山岳でなぜそんなに速く走ることができるのかという質問があった時に「一秒でも早くこの苦しさから解放されたいからさ」と答えている。
- 2000年のツール・ド・フランス、第12ステージでパンターニはランス・アームストロングと激戦を繰り広げ、勝利を収めた。しかしレースの後でランスは「ゴール直前でパンターニを先に行かせるように力を抜いた。勝利をプレゼントした」と発言。パンターニを激怒させ、以来、二人が会話をすることはなくなった。
[編集] 所属チーム
- 1992~1996年 カレラ
- 1992~1995年 Carrera Tassoni
- 1996年 Carrera Blue Jeans Longoni
- 1997~2003年 メルカトーネウノ
- 1997年 Mercatone Uno Wega Girmi Magniflex
- 1998年 Mercatone Uno Bianchi Girmi
- 1999年 Mercatone Uno Bianchi Albacom
- 2000年 Mercatone Uno Albacom
- 2001年 Mercatone Uno Stream Tv Wega
- 2002年 Mercatone Uno
- 2003年 Mercatone Uno Scanavino Valentini
[編集] 主な戦績
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 銅 | 1995 デュイタマ | 個人ロードレース |
- ジロ・デ・イタリア 通算8勝
- ツール・ド・フランス 通算8勝
- 1994年
- ジロ・デ・イタリア 総合2位、ステージ2勝
- ツール・ド・フランス 総合3位(新人賞)
- 1995年
- ツール・ド・フランス 総合13位(新人賞)
- ツール・ド・スイス ステージ1勝
- 世界選手権 3位
- 1997年
- ツール・ド・フランス ステージ2勝
- 1998年
- ジロ・デ・イタリア 総合優勝、ステージ2勝
- ツール・ド・フランス 総合優勝、ステージ2勝
- 1999年
- ジロ・デ・イタリア 大会期間中に出場停止処分、ステージ4勝
- 2000年
- ジロ・デ・イタリア 総合28位
- ツール・ド・フランス 途中棄権、ステージ2勝
- 2003年
- ジロ・デ・イタリア 総合14位

