ゲイリー・フィッシャー

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ゲイリー・フィッシャー

ゲイリー・クリストファー・フィッシャーGary Christopher Fisher1950年-)はマウンテンバイクを創り出した一人[1]とされている。

なお、本項ではゲイリー・フィッシャーらが創設したゲイリー・フィッシャー(自転車ブランド)についても記述する。

ロードレースへの参加[編集]

12歳の頃より自転車競技を始める。10代の頃はロックを愛するヒッピー少年であったらしく、長髪のヘアースタイルのために1968年には競技の参加を差し止められたこともあるが1972年には競技に復帰、当時強豪のロードレース選手であったという。しかしながら当時のロードレース界の堅苦しさをわずらわしく思い、仲間達と「ヴェロ・クラブ・タマルパイアス」を結成した。

ビーチクルーザーの改造[編集]

マウンテンバイクを考案するきっかけとなったのは一説にはモロー・ダート・クラブに所属していたラス・マホンの改造ビーチクルーザーであったと伝えられている[2]。彼はこの後1975年に変速機のない単純な構造の1930年代に作られたビーチクルーザーモトクロス用のブレーキ、ツーリング車用の変速機などを装着するなど現在のマウンテンバイクにつながる改造をした。当時の彼の家にはパーツごとに分解されたビーチクルーザーが壁、天井のいたるところに引っ掛けられており、食事する場所すらなかったという。

1976年には、当時『リパック[3]』と呼ばれていたダウンヒルレースに参加、またこのレースは当時一緒に住んでいた友人チャーリー・ケリーの主催によるものであった。当時の改造クルーザーはフロントブレーキもなく、ドリフトしながら速度を制動させつつ急斜面を下るというものであったという。フィッシャーは常にこの競技の上位にあった。

マウンテンバイクへ[編集]

最初に自作のマウンテンバイクを作ったのはジョー・ブリーズであった。仲間達がジョーにマウンテンバイクの製作を依頼する中、フィッシャーは競技仲間で優れたフレームビルダーでもあったトム・リッチーに製作を依頼、これを『マウンテンバイク』と名づけたという。そしてケリーと共同で会社を設立、今までマニアしか知られていなかったマウンテンバイクを積極的に販売した。当時の価格で1300ドルと非常に高価なものであった。

会社を始めた当初は年間160台しか売られていなかったが翌年には多くの注文が殺到、需要は非常に高かったが流通の整っていなかったパーツの安定した供給に苦労して内情はかなり厳しく、1983年に会社は自然消滅、ケリーが抜けて「フィッシャー・マウンテンバイクス」となる。1993年に彼の会社はトレック・バイシクルの傘下に入ることになるが[4]、彼は以降もマウンテンバイクに関わり、第一人者として認められている。

また彼は既存の規格に囚われない斬新な発想をする人物でもあり、初期のマウンテンバイクの強度を上げるためにヘッドパーツ部分を巨大にした「フィッシャーサイズ」と呼ばれる規格を発案したり、最近では平地での高速巡航能力を上げ、同時に不整地での走行を容易にするために既存の26インチとは異なる29インチのホイール(リム部はロードバイクと同じ700cである)を装着したマウンテンバイク「29er(『ツーナイナー』と呼ぶ)」を考案提唱したりしている。

その他[編集]

アーレン・ローの小説『ナイーブ・スーパー』に「自転車に乗る人は、だれでもぼくの友人だ」という発言が引用されている。

A study of bicycle/motor-vehicle accidents などの著作がある、研究者のゲイリー・フィッシャーとは同姓同名の別人である。

脚注[編集]

  1. ^ 他にはジョー・ブリーズトム・リッチーなどがおり、ともにアメリカ合衆国カリフォルニア州マリン郡出身である。
  2. ^ 映画『KLUNKERZ』によるとシクロクロス競技に参加した改造クルーザーに影響されたという。彼の周りの者はフィッシャーも影響を受けたのだろうと言っているが、本人は競技に集中していたと否定している。
  3. ^ 斜面を下り終えるとドラムブレーキのオイルが焼け燃え、グリスを「詰めなおす(repack)」必要があったことから「リパック」(Repack )と名づけられていた。もっともこれは「競技」というよりも「遊び」の趣向が強いものであった。
  4. ^ 自転車ブランドとしてのゲイリー・フィッシャーは2010年モデルをもって消滅し、2011年モデルからはトレックブランド内のゲイリー・フィッシャーコレクションとなっている

外部リンク[編集]