ルイス・アントニオ・コレイア・ダ・コスタ

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ミューレル
名前
本名 ルイス・アントニオ・コレイア・ダ・コスタ
Luiz Antônio Correia da Costa
ラテン文字 MÜLLER
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1966-01-31) 1966年1月31日(58歳)
出身地 カンポ・グランデ
身長 178cm
体重 72kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
代表歴
1986-1998 ブラジルの旗 ブラジル 56 (20)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ミューレル(Müller)こと、ルイス・アントニオ・コレイア・ダ・コスタ(Luiz Antônio Correia da Costa、1966年1月31日 - )は、ブラジルマットグロッソ・ド・スル州カンポ・グランデ出身の元サッカー選手

愛称のミューレルは「爆撃機」と呼ばれた元ドイツ代表の名ストライカーゲルト・ミュラーに由来する[1][2]

経歴[編集]

オペラリオFC (マットグロッソ・ド・スル州)のユースチームで本格的にサッカーを始めた[2]。1985年、18歳時、サンパウロ州選手権の決勝、ポルトゲーザ戦で決勝ゴールを決めて注目されるようになった[3]

1988年、アントン・ポルスターの後釜としてトリノが獲得した[2]。入団会見では、「リーグ優勝をするためにここに来た。」と宣言した[2]。トリノはこの時、もう一人のブラジル人である、エドゥー・マランゴンを獲得した[2]。開幕のサンプドリア戦では1アシストを決め、10月30日のフィオレンティーナ戦で初得点を決めた[2]。プライベートでは、婦人と毎晩の様にディスコに繰り出し、疲れて力の無い状態でトレーニングに参加したり、トレーニングに遅れることもあった[2]。また、婦人がトリノでの生活に退屈し、ブラジルに子供を連れて帰国したり、ミューレルもクリスマス休暇でブラジルに帰国したまま、帰国予定日になってもチームに戻らず、ユヴェントスとのダービーを欠場した[2]。それでも、リーグ戦31試合で11ゴールを挙げたが、チームはセリエBに降格した[2]。シーズン終了後、ASローマからオファーを受けたが、チームの新会長が残留を望んだため残留した[2]。セリエBの舞台で27試合で11得点を挙げ、翌シーズンのセリエA複帰に貢献、フィオレンティーナ、ナポリも獲得に興味を示していたが、チームと3年間の契約延長をした[2]。1990-91シーズン途中、ACミラン戦で戦術的理由でベンチスタートとなると、退団を求め、ブラジルに帰国した[2]

1991年2月にサンパウロFCへ複帰[2]。1992、1993年にリベルタドーレスカップトヨタカップの優勝に貢献した。1992年のトヨタカップ、FCバルセロナ戦ではライーのゴールをアシスト[4]、1993年大会のACミラン戦では決勝点を決め、3-2での勝利の立役者となった[5]。サンパウロ所属時、ブラジルリーグでの最高年俸となる、8000万円を得ていた[6]

1986年3月12日にはブラジル代表として、ドイツ戦で代表デビューを果たした[2]FIFAワールドカップには3大会に出場、1986年大会は5試合に出場、1990年大会ではグループリーグのコスタリカ戦、スコットランド戦でそれぞれ1ゴールを決めている[2]1994年USA大会ではトップコンディションを維持していたものの[3]ロマーリオが大会を前にツートップを組みたくないと宣言したこともあって[7]、試合出場は僅か1試合のみあったが[3]、世界一に輝いた。

1995年に柏レイソルに移籍、「新しい刺激と挑戦を求めてレイソルを選んだ。自分が試合に出た時は全力を尽くす。」と意気込みを見せていた[3]。ゼ・セルジオ監督は「カレッカがプレー出来ない試合ではカレッカの役割でプレーさせたい、カレッカとのツートップは他チームにとっては恐ろしいものになるはずだ。」と話していた[3]。そのカレッカとは数試合でツートップを組んだ。第3節ヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決め[8]、このゴールによりレイソルはJリーグ加入後初勝利を挙げた[9]。第4節横浜フリューゲルス戦で2ゴール、しかし家庭の事情で[10]、12節セレッソ大阪戦でのプレーを最後に退団した。以降ペルージャなどでプレー。

人物[編集]

最初の婦人ジュサラは、ブラジルのテレビ番組「Cassino do Chacrinha」のダンサーで、3人の子供をもうけたが、後に離婚した[2][11]。その後もう一度離婚歴がある[11]。2022年現在は、ブラジルのテレビ局のコメンテーターを務め、3回目の結婚で一緒になった婦人と静かな生活を送っている[2]

所属クラブ[編集]

ユース経歴
プロ経歴

代表歴[編集]

個人成績[編集]

[12]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1983 オペラリオ-MS
1984 サンパウロ
1985 15 4
1986 30 11
1987 15 10
1988
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1988-89 トリノ 31 11
1989-90 27 11
1990-91 7 2
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1991 サンパウロ
1992 6 4
1993 19 5
1994 5 2
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 - J 11 5 - 0 0 11 5
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1995 パルメイラス
1996 20 8
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1996-97 ペルージャ 6 0
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1997 サントス 27 10
1998 バイーア 22 5
1998 クルゼイロ
1999 16 2
2000 2 0
2000 コリンチャンス 6 1
2001
2001 サンカエターノ 12 4
2002
2003 トゥピ
2003 ポルトゥゲーザ
2004
2004 イパチンガ
2015 フェルナンドポリス 1 1
通算 ブラジル
イタリア
日本 J 11 5 0 0 0 0 11 5
総通算

脚注[編集]

  1. ^ トヨタカップ 1992年 大会公式パンフレット p.38
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Luis Müller: talento bizzoso in Italia, campione del Mondo con San Paolo e Brasile”. GOAL (2022年12月20日). 2023年9月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e NUMBER 1995/3/16 p.34
  4. ^ サッカー世界遺産「南米最後の最強クラブ、サンパウロ」ページ2”. soccermagazine.jp. 2020年6月6日閲覧。
  5. ^ 週刊サッカーダイジェスト・メモリアルアーカイブ その3――1993年12月29日号”. soccerdigestweb.com. 2020年4月11日閲覧。
  6. ^ 世界の名門クラブで活躍した〝ラモス瑠偉の後継者〟アモローゾ ヴェルディ川崎はなぜ大魚を逃したのか”. 東京スポーツ (2022年6月23日). 203-7-23閲覧。
  7. ^ ワールドカップ WORLD CUP USA94 展望号 PART1 週刊サッカーダイジェスト5/24号 増刊 p.14
  8. ^ “95Jリーグサントリーシリーズ 第3節第1日”. /data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=1213 2020年4月8日閲覧。 
  9. ^ “日本のゴミ分別に苦しんだブラジル代表FW。柏でカレッカとコンビ”. sportiva. https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2021/01/05/post_2/index_2.php 2021年1月7日閲覧。 
  10. ^ “ビジャは何人目のW杯優勝経験者!? これまで日本サッカーに降臨した「世界チャンピオン」たち”. soccerdigestweb.com. https://www.soccerdigestweb.com/news/detail2/id=51043 2020年4月8日閲覧。 
  11. ^ a b La parabola di Muller idolo del Toro ora povero”. La Gazetta dello Sport. 2023年9月3日閲覧。
  12. ^ MüllerLuís Antônio Corrêa da Costa http://www.national-football-teams.com/player/13646/Muller.html

外部リンク[編集]