エウゼビオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
エウゼビオ Football pictogram.svg
EusebioSLB.jpg
名前
本名 エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラ
愛称 黒豹、黒い真珠
ラテン文字 Eusébio da Silva Ferreira
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 1942年1月25日
出身地 ポルトガルポルトガル領東アフリカ・ロレンソマルケス(現・モザンビークマプト
没年月日 2014年1月5日(71歳)
身長 175cm
体重 76kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
代表歴
1961-1973[1] ポルトガルの旗 ポルトガル 64 (41)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
SLベンフィカ時代のエウゼビオ。

エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラ(Eusébio da Silva Ferreira, 1942年1月25日 - 2014年1月5日)は、ポルトガル領東アフリカ・ロレンソマルケス(現在のモザンビークマプト)出身、ポルトガル国籍サッカー選手。ポジションはFW。現役当時、日本のマスコミ等では「オイセビオ」と表記されていた。これは当時の日本代表コーチのデトマール・クラマーがスペルの「Eusébio」をドイツ語読みで「オイセビオ」と読んだのが由来とされる[2]SLベンフィカはエウゼビオの功績を称え、毎年夏にエウゼビオ・カップという親善大会を開催している。

人物・プレースタイル[編集]

黒豹The Black Panther)または黒い真珠(The Black Pearl)の愛称で呼ばれた[3]1960年代から1970年代を代表するフォワード。同時代にプレーしたペレとも並び称された選手で、現役通算727試合に出場し715得点を記録した。また、国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)には20世紀で最も偉大な選手の9位に選ばれた[4]

陸上スプリントでも通用すると言われるほどの爆発的な加速力を誇り[3]、屈強で柔軟な身体から放たれる強烈なシュートゴールを量産した。シュートの際、軸足をボールの前に大きく踏み出すエウゼビオのシュートフォームは釜本邦茂に強い影響を与えた。

人格的にも非常に優れた人物で、試合終了後には相手選手を称える事を忘れず、他の選手からも愛された選手であった。

略歴[編集]

1942年、当時ポルトガル領だったモザンビークで生まれ、1957-60年までスポルティング・ロレンソ・マルケスに所属。1960年ジョゼ・カルロス・バウエルに見出され、ベンフィカのスカウトによってにポルトガルへ連れて来られ、直後に契約。ベンフィカ在籍中の15シーズンでリーグ優勝10回、カップ優勝5回、得点王7回(1963-64、64-65、65-66、66-67、67-68、69-70、72-73)、ゴールデンブーツを1969-70(42得点)、72-73(40得点)の2度獲得、1965年にはバロンドールも受賞した。ポルトガル代表通算64試合41得点。2005年ペドロ・パウレタに抜かれるまで代表最多得点記録だった。

ベンフィカでのデビュー戦はペレ擁するサントスFCとの試合だったがいきなりハットトリックを達成。1961年10月8日にはルクセンブルク戦でポルトガル代表デビューを果たす。1962年UEFAチャンピオンズカップ決勝でベンフィカは、エウゼビオの挙げた2得点を含む5点を記録し、5-3でレアル・マドリードを下して優勝した。翌年のUEFAチャンピオンズカップでもベンフィカは決勝まで勝ち進み、エウゼビオは前半18分に先制点を決めるも、後半にジョゼ・アルタフィーニが2得点を挙げて最終的に1-2でACミランの前に敗れた。1966年イングランドワールドカップ準々決勝・北朝鮮戦ではサッカー史に残る驚愕のプレーをやってのける。前半24分までに0-3とリードされるが前半27分、42分に得点を決め、後半56分に同点ゴール、直後の59分にはPKを決め1人で4連続得点を叩き出し試合をひっくり返してしまった。試合は更に1点を追加したポルトガルが5-3で大逆転勝利を収めた。最終順位は3位、自身も6試合出場9得点で得点王になった。その後1975年のロードアイランド・オーシャニアーズ(USA)を皮切りに北中米のクラブを渡り歩き、1978年現役を引退した。

2014年1月5日心不全のため死去[5]。71歳没。

所属クラブ[編集]

代表歴[編集]

個人タイトル[編集]

脚注[編集]