ジョアン・ヴィエイラ・ピント

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ジョアン・ピント Football pictogram.svg
名前
本名 ジョアン・マヌエル・ヴィエイラ・ピント
ラテン文字 João Manuel Vieira Pinto
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 1971年8月19日(42歳)
出身地 ポルトガルの旗 ポルト
身長 171cm
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1990
1990-1991
1991-1992
1992-2000
2000-2004
2004-2006
2006-2008
ボアヴィスタFC
アトレティコ・マドリードB
ボアヴィスタ
ベンフィカ
スポルティング・リスボン
ボアヴィスタ
スポルティング・ブラガ
19 (2)
x (x)
43 (8)
302 (90)
142 (32)
62 (13)
33 (3)
代表歴
1991-2002 ポルトガルの旗 ポルトガル 081 (23)
1. 国内リーグ戦に限る。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

ジョアン・マヌエル・ヴィエイラ・ピント (João Manuel Vieira Pinto, 1971年8月19日 - ) は、ポルトガル共和国ポルト出身の元サッカー選手である。現役時代のポジションはフォワードジョアン・ピントと呼ばれる。

ポルトガル代表黄金世代と呼ばれた世代のひとりであり、フェルナンド・ブラサルド(Fernando Brassard) とともに、FIFAワールドユース選手権優勝を2度経験した。フル代表でもUEFA欧州選手権FIFAワールドカップなどの大会に出場した[1]

経歴[編集]

ユース時代[編集]

ジョアン・ピントはポルト市内東部のカンパーニャに所在するクラブ、バイーロ・ド・ファルカン (Bairro do Falcao) およびアグイアス・ダ・アレオサ (Aguias da Areosa) でプレーした後、FCポルトのユースチームのセレクションを受験した。しかし合格する事ができなかったため、ボアヴィスタFCのユースチームに入団する事となった。1988年からトップチームでも登録されるようになり、17歳でスーペル・リーガのリーグ戦に出場するようになった。

1990-91年度はスペインに渡り、アトレティコ・マドリードのBチームで過ごしたが、シーズン終了後ボアヴィスタに復帰した。この年度では43試合に出場して8得点を挙げた他、1992年度のポルトガルカップ優勝を経験し、ポルトガル年間最優秀選手賞を受賞した。シーズン終了後SLベンフィカと契約し、移籍した。

ベンフィカ時代[編集]

ベンフィカ移籍後の1992年、ジョアン・ピントは1994 FIFAワールドカップ予選を戦うポルトガル代表の一員として選出され、スコットランドに遠征したが、その期間彼は気胸の症状に苦しんだ。後に治癒はしたものの、1992-93年度は試合に出る事ができなかった。1993-94年度から復帰し、チームの主力選手のひとりとして活躍した。

エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデで開催されたスポルティング・リスボンとのダービーマッチではハットトリックを達成 (試合は6-3でベンフィカの勝利) したのを始めとしてベンフィカの勝利に貢献し、同シーズンをベンフィカは優勝という結果で終えた。

1995年、ピントは引退するアントニオ・ヴェローゾ (António Veloso) の後を継いで主将に就任した。しかし1995-96年度はカップ戦で優勝はしたものの、リーグタイトルは逃した。翌年度以降もベンフィカはタイトルから遠ざかったが、それでもピントはマヌエル・ルイ・コスタともども、ポルトガル代表では主力選手のひとりとしてあり続けた。

2000年、年俸を巡って会長のジョアン・ヴァレ・エ・アゼヴェド (João Vale e Azevedo) と争った末、ピントはベンフィカとの契約を解除した。それはUEFA欧州選手権2000の1週間前の事であった。ピントは無所属のまま同大会に臨み[2]、大会準優勝に貢献した。

スポルティング・リスボン時代[編集]

EURO 2000終了後より、ジョアン・ピントはポルトガル国外のクラブから複数獲得のオファーを受けていたが、いずれも受諾せず、スポルティング・リスボンに入団した。2004年にスポルティング・ブラガに移籍のため退団するまでの間に、4年間で142試合に出場して32得点を挙げた。特にマリオ・ジャルデウが加入した2001-02年度シーズンではジャルデウと共に活躍し、同年度リーグ優勝・ポルトガルカップ優勝に貢献した。しかし2002 FIFAワールドカップのグループリーグ戦第3戦 (対戦相手: 韓国) の最中、ピントは相手選手へのタックルでレッドカードを受けて退場処分となった上[3]、主審のアンヘル・サンチェス (Ángel Sánchez) に暴力行為を働き、6ヶ月間の公式試合出場停止処分を言い渡された (後4ヶ月に軽減)[要出典]

ボアヴィスタ (第2期)、およびブラガ時代[編集]

2004年にジョアン・ピントはボアヴィスタに戻り、2006年まで在籍した。在籍2年目の2005-06年度にボアヴィスタはリーグ6位の成績を挙げた。ピントは年間で9得点を挙げている。シーズン終了後の7月、スポルティング・ブラガとの1年間の契約に応じて移籍した[4]

ブラガ加入1年目の2006-07年度、ピントは24試合に出場して2得点を挙げた。クラブは年間4位の成績でシーズンを終え、ピントは契約延長により、2007-08年度もブラガでプレーする事となった[5]。しかし2008年2月、ピントはMLS所属のトロントFCの練習に参加し、同月22日、ブラガとの契約が解除された事が発表された[6]

トロントとの契約は破談となり、その後サウジアラビアアル・ヒラルとの交渉も破談となった。2008年7月22日、ジョアン・ピントは現役引退を表明した[7]

私生活[編集]

ジョアン・ピントは10代で結婚し、2人の子の父親となったが、03年に離婚した。 1988年に生まれた先妻の息子チアゴ・ピント (Tiago Miguel Baía Pinto) はSLベンフィカおよびスポルティング・リスボンの下部組織を経て、CDオリヴァイス・エ・モスカヴィーデで初めてプロ選手となった。現在はラシン・サンタンデール所属。チアゴは09年6月に交際していた女性と結婚し、2010年6月に息子が誕生した為ピントは祖父となった。 現在ピント自身はポルトガルのタレントと交際しており、彼女との間に息子が一人いる。

2歳下の弟セルジオ・ピント (Sérgio Pinto) もプロサッカー選手となった[8]

ポルトガル代表としてのキャリア[編集]

1989年、ジョアン・ピントはU-20ポルトガル代表に選出され、サウジアラビアで開催されたワールドユースに出場。グループリーグのナイジェリア戦で1得点を挙げた。1991年、再びU-20代表に選出され、開催国代表としてワールドユースに出場。主将として臨んだこの大会で6試合に出場した他、アイルランド戦で1得点を挙げた。

1991年にA代表デビューして以来、ピントは通算81試合に出場して23得点を挙げた。また代表選手として、UEFA欧州選手権に1996、2000年と2度出場しただけでなく、2002 FIFAワールドカップにも出場した。同大会終了後、ピントは代表から引退した。

成績[編集]

受賞歴[編集]

所属チーム[編集]

個人[編集]

  • ポルトガル年間最優秀選手賞: 3回 (1992, 1993, 1994)

脚注[編集]

  1. ^ Retirement beckons for Joao Pinto (英語) UEFA公式サイト
  2. ^ ただし登録上ではベンフィカ所属となっている。
  3. ^ Porto to ask Sporting questions
  4. ^ Braga bag Joao Pinto's experience
  5. ^ Joao Pinto prolongs career at Braga
  6. ^ Pinto expected on Monday
  7. ^ O adeus de João Vieira Pinto (ポルトガル語) record.xl 2008年7月22日付記事
  8. ^ Portuguese men-a-broad”. The Football Association (2002年9月4日). 2009年3月24日閲覧。

外部リンク[編集]