ファビオ・カンナヴァーロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ファビオ・カンナヴァーロ Football pictogram.svg
Fabio Cannavaro 2011.jpg
名前
愛称 ベルリンの壁Muro di Berlino[1]
カタカナ ファビオ・カンナヴァーロ
ラテン文字 Fabio Cannavaro
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 1973年9月13日(40歳)
出身地 CoA Città di Napoli.svg ナポリ
身長 176cm
体重 75kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-1995
1995-2002
2002-2004
2004-2006
2006-2009
2009-2010
2010-2011
イタリアの旗 ナポリ
イタリアの旗 パルマ
イタリアの旗 インテル
イタリアの旗 ユヴェントス
スペインの旗 レアル・マドリード
イタリアの旗 ユヴェントス
アラブ首長国連邦の旗 アル・アハリ
58 (1)
212 (5)
50 (2)
74 (6)
94 (1)
27 (0)
16 (0)
代表歴2
1993-1996
1997-2010[2]
 イタリア U-21
イタリアの旗 イタリア
21 (0)
136 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。2009年5月24日現在。
2. 2010年8月24日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ファビオ・カンナヴァーロFabio Cannavaro1973年9月13日 - )は、イタリアナポリ出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック)。 イタリア代表では、パオロ・マルディーニの代表引退後、キャプテンの座を引き継いだ。代表136キャップを誇り、これはジャンルイジ・ブッフォンが更新するまでイタリア代表の歴代最多出場であった。

2006年ワールドカップ・ドイツ大会でイタリアを優勝に導き、当年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)、イタリアサッカー連盟MVP、UEFAベストイレブンおよびFIFA最優秀選手賞にも選ばれた。

日本においてはカンナバーロなどと表記されることもある。

来歴[編集]

クラブ経歴[編集]

1988年、SSCナポリのユースに加入。ユース時代にトップチームの紅白戦に参加した際、ディエゴ・マラドーナに激しいプレーを行い、場の空気を凍りつかせた。しかしマラドーナ本人からは「いいぞ坊主、その意気だ」と逆に褒められた逸話を持つ。1991年、下部組織からナポリのトップチームに上がり、そのキャリアをスタートさせる。後にイタリアを代表する監督となり、カンナヴァーロと共にW杯を掲げることになる恩師、マルチェロ・リッピと出会ったのもナポリであった。デビュー当初から、激しく熱いDFで多くのサポータをすぐに虜にし、若くしてチームの象徴となった。

しかし、ナポリは極度の財政難に陥り、主力選手の流出が避けられない状況に陥った。本人は「たとえセリエBだろうがCだろうがナポリのためならプレーする」と涙ながらに何度もクラブオーナーや幹部に訴えたが、財政難の中にあって、セリエの強豪チームから高額オファーが舞い込んできたため、ナポリからの放出が決まる。パルマへの移籍が決まったと知らされた時には、ナポリの大通りでクラブのサポーターと共に泣き叫んだ。その後、オーナーと幹部の再三に渡る説得により、ようやく移籍を決意するが、サポーター達に「必ずもどって来るよ。たとえ何年、何十年かかろうが俺は愛するナポリに戻ってくる。ナポリ以外を心からは愛せない」と約束した。

既にナポリでもかなりの完成度にあったが、ACパルマへの移籍後、さらに数段DFとして成長することになる。1対1の強さに加え、インターセプトの技術、先読みの能力を伸ばし、完璧なDFの一人となったのである。特にマンマークの技術においては、当時のセリエAはおろか、世界でも最高だろうとの声に異論はなかった。また、このパルマで盟友ジャンルイジ・ブッフォンリリアン・テュラムとリーグ最高といわれる守備陣を形成し、自身の評価を世界的なものとする。テュラムとのチェック&カバーのタイミング、そしてブッフォンの的確な指示。まさに鉄壁との言葉そのままであった。

そして、満を持して念願のスクデットを獲得するためにカンナヴァーロはインテルへと移籍する。しかし、周囲や自身の期待とは程遠くインテル時代は監督との確執により、本職でないサイドバックやボランチなどをやらされ、本来の能力を発揮することは難しかった。

一時、評価を落としたカンナヴァーロであったが、ユヴェントスFCに移籍してその輝きを取り戻す。2004-05シーズンには再びパルマ時代の同僚である、ブッフォン、テュラムなどと鉄壁の守備陣を形成し、セリエA最少失点およびスクデット獲得に大きく貢献した。ユーヴェの守備は世界一だ、とアーセン・ヴェンゲルジョゼ・モウリーニョも絶賛したほどであった。

レアル・マドリ-ドでのカンナヴァーロ

しかし、2006年のカルチョ・スキャンダルといわれた一連の八百長事件により、ユヴェントスは2004-05シーズンのスクデット剥奪、セリエB降格処分となった。カンナヴァーロ自身もブラジル代表MFエメルソンと共にレアル・マドリードへ移籍することが決まった。移籍金は発表されていないが、エメルソンと合わせて2300万ユーロといわれている。自身の移籍について本人は、「僕の選手生活はもう決して長いものではないだろう。そんな中でセリエBでプレーするのは考えられなかった。ユーヴェは大好きだし、ティフォージも好きだったが、ナポリ以外を愛することは出来ないしね。また、セリエ以外のところで自分がどれほど通用するのかも確かめたかったんだ」と語っている。地元では引退したジネディーヌ・ジダンの着けていた背番号5を与えられたということでニュースになったが、それだけ期待の大きさが伺われる。

ワールドカップなどでの功績が認められ、2006年のバロンドールを受賞。これは基本的にDFを務める選手としてはフランツ・ベッケンバウアー(2回)、マティアス・ザマーに続く3人目、4回目の受賞である。しかし、彼らはリベロといわれるポジションであり、両者とも90分のほとんどをMFとしてプレーしていたことを考えると、純粋なDFとしては史上初の受賞である。また、イタリア人選手では1993年ロベルト・バッジョに続き5人目、更にイタリア人DFとしても、ドイツ人以外のDFとしても初の受賞でもある。

しかし、その後は精彩を欠き、2009年夏に3年間過ごしたマドリーを離れ、古巣ユヴェントスと1年契約で復帰した。この古巣復帰に際しては、以前のようなパフォーマンスは期待されないだろうとの評価からユーヴェサポーターとの関係も修復されず、シーズン開幕を迎えた。

2009-10シーズン終了後、UAEアル・アハリ・ドバイと2年契約した[3]。2011年6月にアル・アハリを退団。アル・アハリを退団した後、7月に膝の怪我のため現役引退。

イタリア代表[編集]

1993年、チェーザレ・マルディーニ率いるU-21イタリア代表に招集され、2度の欧州選手権優勝を果たす。1996年大会では、大会最優秀選手にも選ばれた。また同年、アトランタオリンピックにも出場した。

ナポリでのプロデビューから6年後の1997年、A代表に招集され北アイルランド戦でデビューを飾る。最初こそ、「あんな小さなやつがDFなんて出来るわけがない。俺ならフェイントなしで吹っ飛ばして抜けるよ」と同じイタリア代表のクリスティアン・ヴィエリに言われるものの、紅白戦において強引な突破を図ってくるヴィエリを逆に何度も吹っ飛ばし、完全に押さえ込んだ。この紅白戦の後にヴィエリに、「奴ほど大きいディフェンダーはいまだかつて見たことがない」と言わしめた。カンナヴァーロのこの驚異的なフィジカルとボディバランスの良さは、ナポリユース時代からのコーチの指導が的確であったからだと後に本人は語っている。

EURO2000ではパオロ・マルディーニアレッサンドロ・ネスタジャンルイジ・ブッフォンらと守備陣を形成し、決勝までの5試合を2失点に抑えた。フランスとの決勝戦も90分間を無失点に抑えたが、ロスタイムから同点に追いつかれ、延長線の末敗れた。

ジョルジョ・ナポリターノとW杯優勝を祝福するカンナヴァーロ

キャプテンとして出場した2006 FIFAワールドカップでは、全試合にフル出場。GKのブッフォンと共に完璧に相手を抑え込む素晴らしいパフォーマンスを披露し、チームの優勝の功労者となった。同大会のシルバーボール賞(優秀選手投票第2位)も受賞している。また、同大会決勝戦をもって史上4人目となるイタリア代表通算100試合出場を達成した。

EURO2008ではキャプテンとして守備陣の柱となることを期待されていたが、練習中にジョルジョ・キエッリーニのタックルを受けた際に左足を負傷したため、出場することは絶望的となった。しかし、手術後はチームに帯同し、練習中に味方選手を叱咤激励したり、ボールや飲み物を運ぶなど献身的に働いた。

2009年のFIFAコンフェデレーションズカップブラジル戦でマルディーニの出場数を超え、イタリア代表最多出場記録を更新した。2010 FIFAワールドカップにもキャプテンとして臨んだが、チームはグループリーグ敗退。ワールドカップを最後に代表を引退した。

現役引退後[編集]

現役引退後も引き続きアル・アハリに残り、技術顧問兼アンバサダーの職に就いた。また、iTV sports2014 FIFAワールドカップゲストコメンテーターなどで活動。

人物[編集]

実弟のパオロ・カンナヴァーロもサッカー選手であり、2000年から2002年までパルマで共にプレーした。


代表歴[編集]

獲得タイトル[編集]

イタリアの旗 イタリア

スペインの旗 スペイン

イタリアの旗 イタリア代表

個人成績[編集]

クラブ リーグ シーズン リーグ戦 カップ戦 国際試合 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ナポリ セリエA 1992-93 2 0 1 0 0 0 3 0
1993-94 27 0 2 0 - - 29 0
1994-95 29 1 4 0 3 0 36 1
パルマ 1995-96 29 1 0 0 6 0 35 1
1996-97 27 0 1 0 2 0 30 0
1997-98 31 0 6 0 7 0 44 0
1998-99 30 1 7 0 8 0 45 1
1999-00 31 2 3 0 9 1 43 3
2000-01 34 0 7 0 6 0 47 0
2001-02 31 1 5 0 9 0 45 1
インテル 2002-03 28 0 0 0 12 1 40 1
2003-04 22 2 3 0 9 0 34 2
ユヴェントス 2004-05 38 2 0 0 9 1 47 3
2005-06 36 4 2 0 9 0 47 4
レアル・マドリード プリメーラ・ディビシオン 2006-07 32 0 1 0 6 0 39 0
2007-08 33 0 1 0 6 0 40 0
2008-09 29 0 1 0 7 0 37 0
ユヴェントス セリエA 2009-10 27 0 1 0 5 0 33 0
アル・アハリ UAEリーグ 2010-11 16 2 0 0 0 0 16 2
総通算 532 16 45 0 113 3 690 19

その他[編集]

  • 商業高校を卒業しており、簿記の資格を保有している。高校時代は授業をサボることが多く、そのたび両親が呼び出しを受けていた。堪忍袋の緒が切れた両親は彼にサッカーを1ヶ月間禁止し、彼が大事にしていたナポリのユニフォームを破いてしまった。
  • 坊主頭を気に入っており、チームメイトにも勧める。過去、ズラタン・イブラヒモビッチジェンナーロ・ガットゥーゾ等が彼の影響で頭を丸めた。
  • パンツェッタ・ジローラモ曰く、ナポリではカンナヴァーロの実家と隣同士らしい。
  • 南北格差人種差別意識が根強く残るイタリアにあって、自らの顔を黒く塗って雑誌に登場したことがある。

脚注[編集]

外部リンク[編集]