ベルリンの壁

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東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁(1961年11月)

ベルリンの壁(ベルリンのかべ、ドイツ語: Berliner Mauer)とは、冷戦の真っ只中にあった1961年8月13日ドイツ民主共和国(東ドイツ)政府によって建設された、西ベルリンを包囲する壁である。1989年11月10日に破壊され、1990年10月3日東西ドイツが再統一されるまで、この壁がドイツ分断や冷戦の象徴となった。

概要[編集]

西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所

1945年5月8日第二次世界大戦ドイツの降伏により、ドイツは占領地域に当たり資本主義を名目とした西ドイツと、ソ連占領地域に当たり共産主義を名目とした東ドイツに分断された。

ベルリンは、米・英・仏・ソ連によって分割占領されたが、米・英・仏の占領地域である西ベルリンは、周囲を全て東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となったことで、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次いだ。かかる住民流出に危機感を抱いたソ連共産党ドイツ社会主義統一党(東ドイツ政府)は、住民の流出を防ぐために壁を建設した。壁は両ドイツ国境の直上ではなく、全て東ドイツ領内に建設されていた。同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。

冷戦の象徴、そして分断時代のドイツの象徴であったが、1989年11月9日にベルリンの壁の検問所が開放され、翌11月10日破壊され始め、一部が記念碑的に残されている以外には現存しない。

建設前[編集]

ベルリンの壁の人工衛星画像。黄色の線がベルリンの壁を示している。
西ドイツ、東ドイツ、ベルリンの位置関係 中央右上の赤いエリアがベルリン市。ブランデンブルク州に囲まれている。
1961年8月13日のブランデンブルク門。この日まで門の下には東西ベルリンを行き交う車や人が通っており東ドイツ国民の流出が続いていたが、この日開始されたベルリンの壁建設により門は通行禁止となり周辺は無人地帯となった

分割前[編集]

時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。そもそも、ベルリンは全域が東ドイツの中に含まれており、西ドイツとは完全に離れていた。そしてベルリン東側は、ドイツ帝国当時からヴァイマル共和国ナチス・ドイツ時代を経て、冷戦中、即ち1945年5月8日に分割占領されてから1990年10月3日ドイツ再統一まで、引き続き東ドイツの首都となった。

つまり、東ドイツに囲まれていたベルリンが、国としてのドイツの東西分断とは別に、さらにベルリンとしても東西に分断されたのである。この時、分断されたベルリンの東側部分(東ベルリン)はそのまま「東ドイツ領」となり、一方西側部分(西ベルリン)は「連合軍管理区域」(≒西ドイツ)として孤立した。これにより西ベルリンは(あたかも西ドイツの飛地であるがごとく)地形的に周りを東ドイツに囲まれる形となってしまった。

これは第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ連)に分割統治されることになった際、連合国はドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治したことに由来する。つまり、ドイツだけでなくベルリンも東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断した。

分割後[編集]

分割後まもなく米・英・仏など資本主義陣営(西側諸国)とソ連など共産主義陣営(東側諸国)が対立する冷戦に突入し、1948年6月からベルリンへの生活物資の搬入も遮断された(ベルリン封鎖)。西側諸国は輸送機を総動員し、燃料・食料を始めとする生活物資を空輸し西ベルリン市民を支えたため(空中架橋作戦)、翌1949年5月に封鎖は解除された。

なお、ドイツが分断されて東西で別の国家が誕生すると東ベルリンは(東ドイツを統治していた)旧ドイツ民主共和国の首都となったが西ベルリンは地理的に西ドイツと離れていたことから形式上「(西ドイツを統治していた)ドイツ連邦共和国民が暮らす、米・英・仏3か国の信託統治領」となり西ドイツ領とはならなかった。

そのためドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れが禁止となるなどの制限はあったが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地であった。

西ベルリンと西ドイツとの往来は指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)と空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが上記のように西ベルリンに入れる航空機は米・英・仏のものに限られ、西ドイツのルフトハンザは入れなかった。

また、東西ベルリン間は往来が可能で通行可能な道路が数十あったほかUバーンSバーンなど地下鉄や近郊電車は両方を通って普通に運行されており、1950年代には東に住んで西に出勤する者や西に住んで東に出勤する者が数万人にのぼっていた。東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所A(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)があり、Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られていた。

建設へ[編集]

しかし上述の往来の自由さゆえ、毎年数万から数十万人の東ドイツ国民が、ベルリン経由で西ドイツに大量流出した。特に自営農民や技術者の頭脳流出は、東ドイツ経済に打撃を与えた。こうして西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設されることになる。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁といえ、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。その名から誤解を招きやすいが、東西ベルリンの国境上だけに壁があったわけではない

長らく壁建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした[1]

ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのケネディ米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認するよう求めたが、米側は拒否。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。

通史[編集]

壁の建設[編集]

壁と無人地帯の構造
1987年、壁を訪れ演説するアメリカ合衆国のロナルド・レーガン大統領

1961年8月13日0時、東ドイツ政府は東西ベルリン間68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で、最初の「壁」の建設を開始した。6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。

東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張し、対ファシスト防壁 (Antifaschistischer Schutzwall) とも呼んでいた。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。壁は、後に数度作り変えられ、1975年に完成した最終期のものはコンクリートでできていた。壁の総延長は155kmに達した。

映像などを通じて広く知られている西ベルリンに面した壁に加え、東ドイツ側にもう一枚同様のコンクリート壁があった。すなわち、西ベルリンは二重の壁で囲まれていたのである。その2枚の壁の間は数十メートル無人地帯となっており、東ドイツ当局の監視のもと壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた。

また無人地帯に番犬を放したり、コンクリート壁の上部を蒲鉾型に膨らませて乗り越えにくくしたりという工夫もなされていた。さらに自動車による強行突破に備えて、要所要所にロードブロックや堀も設けられた。なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような高圧電流を流した剥き出しの金属線ではなかったとされている。また1970年には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷、自動発砲装置ドイツ語版クレイモア地雷と原理において同じ)も設けられたが、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。

壁崩壊後2枚の壁が沖縄県宮古島市上野(旧上野村)のテーマパーク「うえのドイツ文化村」に寄贈され、この時に地下を含む構造が明らかになった。地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためと思われる。1963年6月26日、西ベルリンを訪問したアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは有名な「Ich bin ein Berliner」(私はベルリン市民である)の演説を行った。この中で大統領は「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリンの市民である」と語り、これはドイツの戦後史での名セリフとしてドイツ国民に長く記憶されることになった。

東ドイツからの亡命[編集]

満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れるという実に都合のいい理由が背景にあった(一種の棄民)。

それ以外に東ドイツ政府に移民申請をして許可が下りれば、他国への合法的移住が可能である。しかし言うまでもなく許可は滅多におりず、65歳まで待つことが出来ないため非合法の亡命という手段をとった者が圧倒的に多い。

壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺された。死亡者数は合計192人。ただしさまざまな方法で壁の通過に成功、生きて西ベルリンに到達した東ドイツ国民は5,000人を超える。

東ドイツは逃亡者をなるべく殺害せずに逮捕するようにしていたため、3,000人を超える逮捕者に比べると死亡者の数は少ない。可能な限りの身柄確保を図ったのは、逃亡の背後関係を調べるためであったと考えられている。

ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した[2]。1968年時点では、総勢8,000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、「ベルリンの壁」担当の警備兵となっていた[3]。12時間勤務であり、2人1組で行動することが求められていた[3]。銃撃により逃亡を阻止するばかりでなく、逃亡を試みる者から銃撃されることもあり、勤務中に射殺された警備兵は16人であったが[3]、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった[3]。 ドイツ再統一後、逃亡者の射殺に関与した国境警備隊員は、被害者遺族からの訴えにより、連邦裁判所によって殺人罪で起訴されて裁判に掛けられたが、大半の被告が執行猶予付の判決を受けたため、現在服役している者はいない。

西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車にパスポートなしで乗り込み国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。政治犯の一人当たりの買取価格は9万5,847マルク1977年以降。壁崩壊時のレートで約700万円)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払ったという[4]

他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。

1989年2月6日クリス・ギュフロイドイツ語版の射殺を最後に犠牲者は出なくなった。

崩壊へ[編集]

壁の「崩壊」を祝うベルリン市民
壁が撤去された跡の路面に残された刻銘

1989年になると、東ヨーロッパ諸国が相次いで民主化された(東欧革命)。同年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーネーメト首相がオーストリアとの国境を開放するとハンガリー経由での亡命に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪問した。

8月19日ピクニック事件が発生。欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの支援とネーメトらハンガリー指導部の改革派の後援により、東ドイツ国民がオーストリアへの越境に成功した。このニュースは瞬く間に広まり、西ドイツ・オーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアには東ドイツ国民が殺到した。

ハンガリー経由での出国が可能になった以上、もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり東ドイツ国内でもデモが活発化していた。さらには9月11日にはネーメト内閣は正式に東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させるようになった[5]

こうした国民の大量出国やライプツィヒ月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたにもかかわらず、最高指導者のホーネッカーは改革には背を向け続けていた。しかし10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典にために東ベルリンを訪問したミハイル・ゴルバチョフはその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカについて演説をしたのに対し[6]、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし[7]、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツ(政治局員・治安問題担当書記・国家評議会副議長)やギュンター・シャボウスキー(政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した[8]。10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚した。

後継者となったクレンツ率いる東ドイツ政府は、1989年11月9日、党の中央委員会で翌日から施行予定の出国規制緩和策を決定した。その日の夕方、クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。

この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などがこれを報道し、同日夜には東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日深夜に独断で検問所を開放した。査証の確認などは実行されず、壁は意味を失った。このことから、ベルリンの壁がなくなった日は東西の行き来が法的に可能になった1989年11月10日ではなく、その前日の1989年11月9日であるとされることが多い。

11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊された。のちに東ドイツによって壁はほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、東西ドイツの融合を加速した。

その後、破壊された壁の破片は土産品として一般に販売されたりもして出回ることになるが壁の原料であるコンクリートには大量のアスベストが含まれており破片の取扱いには注意が要された。流通した中には墓石等を砕いただけの偽物の存在もあったと言う。

文化財保存[編集]

ほとんど全ての壁は破壊後に塵散りになった
ホーネッカーとブレジネフが接吻して挨拶する有名な写真のモチーフと、東ドイツの国民車トラバント(手前)(ベルリンの壁跡の落書き)

ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まりシュプレー川沿いの約1.3kmの壁(イースト・サイド・ギャラリードイツ語版)は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「ホーネッカーブレジネフの熱いキス」を描いた戯画も含まれる。

文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の落書きとその場しのぎの上塗りによる補修で保存は危機的状況に陥った。2000年には寄付によって壁の北側は修復され、2008年に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。2009年には残る部分の修復に着手している。

その他、ベルリン中央部のニーダーキルヒナー通りドイツ語版沿いの一帯(ゲシュタポ本部や国家保安本部があったあたり)には、再統一後に「テロのトポグラフィードイツ語版」という博物館が建てられ、この部分に沿って建っていたベルリンの壁も残されている。さらに記念品としてライン川畔のコブレンツに白い壁を2枚移設し、また日本には宮古島市上野うえのドイツ文化村に2枚移設してある。

2009年行われた世論調査によると旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったこと、旧東ドイツ出身者たちは旧西ドイツとの所得格差に不満を持ち7人に1人はベルリンの壁の復活を望んでいるという結果が出た[9]

刑事裁判[編集]

ベルリンの壁での射殺命令およびその実行に関して、現場の兵士および国境警備隊幹部そして東ドイツ首脳そして最高指導者に対して、1990年10月ドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われた。

殺害実行者[編集]

射殺したとされる兵士については、「的を外して撃った」との主張がなされることもある。射殺命令を実行したと認定された兵士に対しても、最終的には、執行猶予付きの判決が確定している場合がほとんどである[10]。「殺意なき殺人」として処理されている[10]

1962年8月17日に射殺されたペーター・フェヒターの事件で、1997年3月に、実行者の兵士、ロルフ・フリードリッヒに20か月、エーリッヒ・シュライバーに21か月、それぞれ、執行猶予のついた懲役の判決が下る。

1989年2月6日に射殺されたクリス・ギュフロイの事件で、実行者の兵士の1人のインゴ・ハインリッヒが起訴され、3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に執行猶予付きの2年の懲役が確定している。

ドイツ社会主義統一党幹部[編集]

1991年、内務大臣、国防大臣、閣僚評議会議長(首相)、国家評議会議長などを歴任したヴィリー・シュトフが、ベルリンの壁関連の殺人罪で逮捕されるが、翌年8月に健康上の理由で釈放され、最終的に審理停止となる。

1993年、射殺命令の責任者ということで、国家保安大臣だったエーリッヒ・ミールケが起訴される。別件の警官殺害の件で懲役6年の刑が下るものの、1995年に釈放され、2000年に死去する。

ベルリンの壁崩壊で、スポークスマンとして登場した当時政治局員で社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記(ベルリン支部長)だったギュンター・シャボウスキーにも、ベルリンの壁関連で3人の殺害の件で、1997年8月に懲役3年半の刑が下る。シャボウスキー本人が無実の人間が殺害されたことに対して責任を認めたことが考慮され収監期間1年ほどで釈放された[10]

1993年エーリッヒ・ホーネッカーの刑事裁判が免除される。翌年、ホーネッカーは逃亡先のチリで死去する。1976年より1989年10月まで東ドイツの最高指導者であり、ベルリンの壁建設当時からの最高責任者といわれたホーネッカーの刑事責任が、事実上追及できないこととなった。

1999年エゴン・クレンツに、懲役6年半の判決が確定する。党幹部としての責任(クレンツは治安問題担当書記を兼務していた)が問われているが、ベルリンの壁犠牲者に遺憾の意は表している。シュパンダウ刑務所での4年間のみの収監であり、昼間は刑務所外で働くことができるという半自由刑の扱いとなった。

シンボリズム[編集]

ベルリンの壁は、冷戦の象徴であった。そして、ドイツの分断の象徴でもあった。壁のあった時代には、「越えられない物」や「変えられない物」の喩えとして使われた。

落書き[編集]

彩られたベルリンの壁の西側(1986年

壁は東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の西側では壁の建設をなじり撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかなストリートアートが壁の西側を彩ることになった。

脚注[編集]

  1. ^ 読売新聞2011年8月14日 国際6面
  2. ^ YouTube - 3-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  3. ^ a b c d YouTube - 4-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~
  4. ^ 吉田一郎 『世界飛び地大全』 社会評論社、159頁。ISBN 9784784509713
  5. ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN4004302560)P82
  6. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8
  7. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9
  8. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P15
  9. ^ ドイツ人の7人に1人、「ベルリンの壁」の復活望む=調査 | 世界のこぼれ話 | Reuters
  10. ^ a b c YouTube - 6-6 ベルリンの壁 ~The Berlin Wall~

関連項目[編集]

外部リンク[編集]