パトリック・クライファート
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| 名前 | |||||||
| 本名 | パトリック・ステーフェン・クライファート | ||||||
| 愛称 | 黒いファン・バステン ドン・キホーテ、気まぐれの天才 |
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| ラテン文字 | Patrick KLUIVERT | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1976年7月1日(35歳) | ||||||
| 出身地 | アムステルダム | ||||||
| 身長 | 188cm | ||||||
| 体重 | 81kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | FW | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 | |||||||
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| 監督歴 | |||||||
| 2008-2009 2010-2011 2011- |
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パトリック・ステーフェン・クライファート(Patrick Steven Kluivert、1976年7月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。オランダ代表の歴代最多得点者である。現役時代のポジションはFW。オランダ語読みに近いクライフェルトと表記されることもある。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 初期の経歴
1976年7月1日、パトリック・クライファートはオランダの首都アムステルダムに生まれた。スリナムのCalcutta出身の父親はプロサッカー選手であり、母親も父親同様スリナム出身である[1]。ストリートサッカーで技術を習得し、Schellingwoude というクラブに1年間通った後、7歳の時にアヤックス・アムステルダムの下部組織に入団した。この頃はディフェンダーなどのポジションでもプレーしていた。技術の高さやインテリジェンス、スピードなどが持ち味であったが、調子に波がありすぎることが欠点だった[2]。
[編集] 現役時代
[編集] クラブ
- アヤックス
アヤックス・アムステルダムの下部組織出身であり、1994年8月21日、18歳の時にトップチームのルイス・ファン・ハール監督に見出され、オランダ・スーパーカップのフェイエノールト戦でデビューした。この試合でトップチーム初得点を決めると、デビューシーズンの1994-95シーズンは高い得点能力を発揮し、デニス・ベルカンプ、エドガー・ダーヴィッツ、クラレンス・セードルフ、エドウィン・ファン・デル・サールなど同じ下部組織出身の若手選手たちとともにUEFAチャンピオンズリーグで旋風を巻き起こし、ついには優勝を果たした。ウィーンで行われた決勝のACミラン戦では途中出場して85分に決勝点を決め、クラブにとって22シーズンぶりとなる欧州でのタイトルを獲得した。1995年夏にはオランダ・スーパーカップとUEFAスーパーカップというふたつのスーパーカップを制覇し、1995年冬のインターコンチネンタルカップではグレミオをPK戦の末に破って世界一の座に輝いた。1995-96シーズンにはエールディヴィジ2連覇を果たした。
- ACミラン
1997年、ボスマン・ルールを行使してイタリア・セリエAのACミランに移籍した。ユヴェントスとの親善試合で鮮烈なデビュー弾を決めて見せたが、1997-98シーズンはわずか6得点に終わった。1997年、激しい自動車事故を起こし、同乗していた演出家のカートン・パットマンが死亡した。クライファートは故殺罪で起訴され、運転免許の剥奪と社会奉仕活動を課された。
- FCバルセロナ
1998年8月28日、移籍市場が閉まる直前にスペイン・リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナと4年契約を結んだ[3]。移籍金は875万ポンド。アヤックスで指導を受けたファン・ハール監督と再会し、1998-99シーズンのリーグ戦を制した。1999-2000シーズンにはリーグ戦3連覇を逃したものの、チーム内得点王となる15得点を挙げた[4]。1998-99シーズンからはリバウド、ルイス・フィーゴと3トップを組むことが多く、2001-02シーズンにはリバウド、ハビエル・サビオラと3トップを組むことが多かった。トップ下としてプレーしたこともある。1998-99シーズンから2002-03シーズンまで5シーズン連続でリーグ戦15得点以上を挙げたが、2003年夏にフランク・ライカールト監督が就任して脱オランダ化を図り、パリ・サンジェルマンFCからロナウジーニョが加入したこともあって出場機会が減少した。2003-04シーズンはリーグ戦21試合の出場にとどまり、FCバルセロナ移籍後最少となる8得点に終わった。FCバルセロナでは6シーズンでリーグ戦182試合に出場して90得点を挙げた。2004年3月4日、FIFA100に選出された。
- ニューカッスル・ユナイテッドFC
2004年7月21日、イングランド・プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍し、チームの象徴であるアラン・シアラーとコンビを組んだ。ニューカッスルと契約した理由として、FCバルセロナ時代にUEFAチャンピオンズリーグの試合でニューカッスルと対戦し、その際に強い感情を受けたためだとしている。FAカップでは、2005年2月20日のチェルシーFC戦(1-0)[5]や3月13日のトッテナム・ホットスパーFC戦(1-0)[6]などで重要かつ華麗な得点を決め、ともに1-0で勝利している。2004-05シーズンには公式戦通算13得点を挙げたが、リーグ戦では14位に沈み、契約延長には至らなかった。
- バレンシアCF
2005年夏、スペインのバレンシアCFに移籍した。2005-06シーズンは絶えず負傷に悩まされて202分間しか出場できず、2006年7月には移籍先を探すことを許された。
- PSVアイントホーフェン
2006年夏には古巣アヤックスへ復帰する噂もあったが、移籍市場終了直前の8月31日にアヤックスのライバルであるPSVアイントホーフェンと1年契約を結んだ。アヤックスの時と同じようにフェイエノールト戦(2-1)で途中出場してデビューすると、ライバルクラブ出身のクライファートに対してスタンディングオベーションが贈られた。2006-07シーズンは前半戦だけで2度の負傷に悩まされ、出場機会を阻まれた。フィリップス・スタディオンで行われたアヤックス戦では古巣相手に得点したが、古巣に対しての愛情からゴールセレブレーションを拒否した。2007年7月、契約満了によりPSVを離れた。
- LOSCリール・メトロポール
2007年7月25日、イングランドのシェフィールド・ウェンズデイFCのトライアル受験に誘われたが、これを拒否し[7]、フランス・リーグ・アンのLOSCリール・メトロポールと契約を結んだ[8]。若いチームに自身の経験を伝え、先発出場は10試合だったが4得点を挙げ、価値あるアシストを何度も決めてチームに貢献した。2008年5月、クロード・ピュエル監督に対してチームを離れる意向を示し、現役引退を発表した。
[編集] 代表
U-15、U-16、U-17オランダ代表に選ばれた経験がある[2]。
- UEFA欧州選手権1996
1995年にオランダA代表としてデビューし、UEFA欧州選手権1996出場メンバーにも選ばれたが、膝の負傷で満足にプレーできなかった。それでもグループリーグのイングランド戦ではデニス・ベルカンプのアシストから得点し、スコットランドを得点数の差で上回って決勝トーナメント進出を決めた。準々決勝のフランス戦はPK戦の末に敗れ、大会からの敗退が決まった。
- 1998 FIFAワールドカップ
1998 FIFAワールドカップにも出場したが、ベルギー戦ではロレンツォ・スターレンスに挑発され、肘打ちを見舞って退場処分を受けた。準々決勝のアルゼンチン戦では改心し、先制点を挙げて準決勝進出に貢献した。準決勝のブラジル戦でも輝きを見せ、ヘディングで同点ゴールを挙げたが、PK戦で敗れた。
- UEFA欧州選手権2000
UEFA欧州選手権2000にも出場し、準々決勝のユーゴスラビア戦(6-1)ではハットトリックを達成して相手を粉砕した。準決勝のイタリア戦で、オランダ代表は90分の間に2度もペナルティキックを蹴る機会があったが、2本とも外し(1本はクライファート)、PK戦にもつれ込んだ。PK戦でもオランダ代表の選手はなかなかゴールネットを揺らせず、2年前のブラジル戦や4年前のフランス戦と同じくPK戦の末に敗れた。自身は大会通算5得点を挙げ、ユーゴスラビア代表のサボ・ミロシェビッチとともに大会得点王に輝いた。
- UEFA欧州選手権2004
UEFA欧州選手権2004にもやはり、背番号9を付けて臨んだ。しかし、頑固なディック・アドフォカート監督はクライファートに出場機会を与えず、オランダ代表のフィールドプレーヤーとして唯一、試合に出場することがなかった選手であった。
- 2006 FIFAワールドカップ
UEFA欧州選手権2004後に就任したマルコ・ファン・バステン監督はクライファートを無視し、2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選には1試合も招集されなかった。
[編集] 指導者時代
2008年4月29日、オランダメディアはクライファートがオランダサッカー協会(KNVB)の指導者養成コースに参加する可能性があると報じた[9]。2008年7月18日、Goal.comはクライファートがAZアルクマールのコーチングスタッフの一員となる可能性を報じ、2009年3月21日にはサッカーAMのインタビューにてAZアルクマールでフォワードを指導している事を認めた。2010年1月24日、オーストラリア・Aリーグのブリスベン・ロアーFCで2週間限定で指導を行うことを発表した[10]。同年5月19日、現役復帰の可能性があり得ないことをジャーナリストに伝えた[11]。2010年8月、NECナイメヘンのアシスタントコーチに就任し、チームのフォワードを指導した。2011年6月にはFCトゥウェンテのユースチームの監督に就任した[12]。
[編集] 人物
最初の妻との間に3人の息子がいる。2007年9月24日、再婚相手との間に4人目となる息子が生まれた。オランダ代表のチームメイトであったルート・ファン・ニステルローイとは生年月日(1976年7月1日)が一緒である[13]。
[編集] 所属クラブ
[編集] 選手
- 1994-1997
アヤックス・アムステルダム - 1997-1998
ACミラン - 1998-2004
FCバルセロナ - 2004-2005
ニューカッスル・ユナイテッドFC - 2005-2006
バレンシアCF - 2006-2007
PSVアイントホーフェン - 2007-2008
LOSCリール・メトロポール
[編集] 指導者
[編集] タイトル
[編集] クラブ
アヤックス・アムステルダム
- オランダ・スーパーカップ 1994, 1995
- エールディヴィジ 1994-1995, 1995-1996
- UEFAチャンピオンズリーグ 1994-1995
- UEFAスーパーカップ 1995
- インターコンチネンタルカップ 1995
FCバルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ 1998-1999
PSVアイントホーフェン
- エールディヴィジ 2006-2007
[編集] 個人
- UEFA欧州選手権2000得点王(タイ)
[編集] 個人成績
[編集] クラブでの出場成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1994-95 | アヤックス | エールディヴィジ | 25 | 18 | |||||||
| 1995-96 | アヤックス | 9 | エールディヴィジ | 28 | 15 | ||||||
| 1996-97 | アヤックス | 9 | エールディヴィジ | 17 | 6 | ||||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1997-98 | ACミラン | 9 | セリエA | 27 | 6 | ||||||
| 1998-99 | ACミラン | 9 | セリエA | 0 | 0 | ||||||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1998-99 | バルセロナ | 19 | リーガ | 35 | 15 | ||||||
| 1999-00 | バルセロナ | 9 | リーガ | 26 | 15 | ||||||
| 2000-01 | バルセロナ | 9 | リーガ | 31 | 17 | ||||||
| 2001-02 | バルセロナ | 9 | リーガ | 33 | 18 | ||||||
| 2002-03 | バルセロナ | 9 | リーガ | 36 | 16 | ||||||
| 2003-04 | バルセロナ | 9 | リーガ | 21 | 8 | ||||||
| イングランド | リーグ戦 | FLカップ | FAカップ | 期間通算 | |||||||
| 2004-05 | ニューカッスル | 11 | プレミアリーグ | 25 | 6 | ||||||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2005-06 | バレンシア | 9 | リーガ | 10 | 1 | ||||||
| オランダ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | PSV | 9 | エールディヴィジ | 16 | 3 | ||||||
| フランス | リーグ戦 | リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
| 2007-08 | リール | 9 | リーグ・アン | 13 | 4 | ||||||
| 通算 | オランダ | エールディヴィジ | 86 | 42 | |||||||
| イタリア | セリエA | 27 | 6 | ||||||||
| スペイン | リーガ | 192 | 90 | ||||||||
| イングランド | プレミアリーグ | 25 | 6 | ||||||||
| フランス | リーグ・アン | 13 | 4 | ||||||||
| 総通算 | 343 | 148 | |||||||||
[編集] 代表での年別得点
| オランダ代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1994 | 1 | 0 |
| 1995 | 5 | 3 |
| 1996 | 5 | 1 |
| 1997 | 5 | 2 |
| 1998 | 11 | 7 |
| 1999 | 8 | 4 |
| 2000 | 14 | 12 |
| 2001 | 9 | 4 |
| 2002 | 6 | 3 |
| 2003 | 11 | 4 |
| 2004 | 4 | 0 |
| 通算 | 79 | 40 |
[編集] 脚注
- ^ Dutch bio公式サイト
- ^ a b English bio公式サイト
- ^ Hicks, Danny (1998年8月30日). “Nou Camp becomes Little Holland”. London: The Independent 2010年8月4日閲覧。
- ^ F.C. Barcelona - Squad season 1999-2000LFP.es
- ^ “Newcastle 1-0 Chelsea”. London: BBC. (2005年2月20日) 2009年9月2日閲覧。
- ^ “Newcastle 1-0 Tottenham”. London: BBC. (2005年3月13日) 2009年9月2日閲覧。
- ^ Owls fail to woo striker Kluivert BBC Sport
- ^ Ligue 1 - Lille announce Kluivert signing - Yahoo! Eurosport UK
- ^ Kluivert lines up coaching courseTeam Talk.com
- ^ Kluivert joins coaching staff at Brisbane RoarESPN Soccernet
- ^ Kluivert quits football career definitivelyVoet Balcentraal.nl
- ^ クライファート氏がトゥエンテへGoal.com、2011年6月10日
- ^ Kerngezonde zoon voor Patrick Kluivert en Rossana - Telegraaf.nl
[編集] 外部リンク
- パトリック・クライファート - FIFA主催大会成績
- Patrick Kluivert.com
- FootballDatabase provides Patrick Kluivert's profile and stats
- Patrick Kluivert at PSV by Tvw
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