パベル・ネドベド
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| 名前 | |||||||
| 愛称 | チェコの大砲、デュラセル | ||||||
| ラテン文字 | Pavel Nedved | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1972年8月30日(39歳) | ||||||
| 出身地 | |||||||
| 身長 | 177cm | ||||||
| 体重 | 70kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | MF (SH, OH) | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2007年8月現在。 2. 2006年8月20日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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パベル・ネドベド(チェコ語: Pavel Nedvěd, 1972年8月30日 - )はチェコ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。オフェンシブなポジションでの出場が多い。日本語表記はパヴェル・ネドヴェド、ネドビェドと書かれる場合もある。イタリア1部リーグセリエAのラツィオ、ユヴェントスなどに所属していた。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
パベル・ネドベドはチェコスロバキアの首都プラハで生まれスカルナで育った。父バツラフは、当時チェコスロバキア2部リーグに所属していたヘプのサッカー選手で、クラブの練習が終わると息子のパベルにサッカーを教えていた。
[編集] スパルタ・プラハ時代
14歳となった1986年からスコダ・プルゼンという地元のクラブに入団。デュクラ・プラハというクラブを経てチェコ屈指の名門スパルタ・プラハに入団。 当初はチームに馴染めず、監督のカロル・ドビアシュからも低い評価を受けていたが、周囲の視線を気にせず着実に力をつけたネドベドは2シーズン目には主力としてリーグ連覇に貢献。更に1994年6月のアイルランド戦で代表デビューを果たし、EURO 96にも出場。チームの顔は同僚のカレル・ポボルスキーだったが、着実なプレーで欧州におけるネドベドの評価を高めた。
[編集] ラツィオ時代
EURO 96での活躍が認められ、同年セリエAのラツィオに移籍。当時のラツィオは中堅クラブを脱するか否かのステージにいたが、毎年活発な選手補強を行いシニシャ・ミハイロヴィチやフェルナンド・コウト、セバスチャン・ベロン、エルナン・クレスポといった選手を揃えて一躍ビッグクラブ並の布陣となる。その中でネドベドはスタミナを武器に大車輪の活躍を見せ、1999-2000シーズンにリーグ優勝を果たした。
2000-01シーズン終了後、クラブ側は長期の契約延長をネドベドに提示し、彼もこれを受け入れ合意に至ったが、会長のセルジョ・クラニョッティがオーナーを務める大手食品会社チリオの業績悪化の影響で、チームは急きょ資金調達と高額な年俸を支払っている主力選手の放出を余儀なくされた。ネドベドも例外ではなく、休暇から戻ってきたネドベドは急転直下、ユヴェントスへの移籍を言い渡された。この一連の流れはチームの顔であったアレッサンドロ・ネスタを手放す程の主力組の大放出劇であった。
[編集] ユヴェントス時代
2001-02シーズン序盤ユーベは低迷しており、ネドベド自体もフィットしていないと評され、優勝争いからも脱落すると思われた。しかし、シーズン終盤を迎えるとこのシーズン最強と評されたインテルを抜き去ってスクデットを獲得。決してネドベドの貢献が大きかったとは言えないが、この勢いをベースにした手ごたえは翌シーズンに発揮されることになった。
2002-03シーズン、ユーベの大黒柱と化したネドベドは、故障者が続出して危機的なチーム状況の中ほとんどの試合にフル出場し、シーズン終盤には「バロンドール間違いなし」と批評家から評価を受ける程の活躍ぶりを見せた。チームも2年連続のスクデットを獲得した。 そのシーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、ユヴェントスは決勝に進むも、ネドベドは準決勝のレアル・マドリード戦でイエローカードをもらい累積2枚目となったため、決勝には出場することが出来なかった。なお、ユヴェントスはPK戦の末にACミランに敗れ優勝を逃した。 [1]
2006-07シーズン、ユーベは不正疑惑の為にセリエB降格の処分が下され、主力だったカンナヴァロ、テュラムらが次々とユヴェントスを去り、自らにも多くのクラブからオファーがきた。シーズン終了前は引退も口にしていたネドベドだったがデル・ピエロ、ブッフォンに続き、「世話になったクラブに恩返しをしようと思う」と現役続行と残留を表明、チームを1シーズンで再昇格させる原動力となる活躍を見せた。
2007-08シーズン、新加入のチアゴにレギュラーの座を脅かされていたが、35歳という年齢ながらレギュラーを死守した。
2009年2月25日、2008-09シーズンをもって現役を引退することを発表した。
[編集] 代表
2002年日韓W杯欧州予選では、カレル・ポボルスキー、ヤン・コレル、ロシツキー、ヤンクロフスキらチェコ代表史上最高と言われるタレントらと共にプレーオフまで進出するが、闘将マルク・ヴィルモッツを擁するベルギー代表にホーム、アウェイと立て続けに敗れ、W杯出場のチャンスを逃す。
EURO 2004はチェコ代表のベスト4に貢献したが、準決勝のギリシャ戦で足を負傷し交代、チェコ代表はその後延長戦で敗れた。
EURO後、「代表とクラブの両方を掛け持ちできなくなった。代表で怪我をすればクラブに迷惑がかかる。」とコメントし一度代表を引退していた。ネドベドのいないチェコは2006年ドイツW杯最終予選でオランダに1位通過を許し、プレーオフに回ることになった。母国のワールドカップ出場のためネドベドはプレーオフ2試合限定で代表に復帰すると宣言。ノルウェーとのプレーオフを制し、チェコはスロヴァキアとの分裂後初のW杯本大会出場権を獲得。その後、代表引退をワールドカップ敗退後まで延長し、5月15日本選出場メンバーに選出。グループリーグ3試合全てにフル出場を果たしたが、FWのヤン・コレルの怪我やミラン・バロシュの不調、さらに快勝したアメリカ戦以外の2試合は共に前半の早い段階で退場者を出し数的不利になったこともあり決勝トーナメント進出は果たせずに敗退した。
2006年8月15日、翌日に行われる国際親善試合、対セルビア戦を最後に代表引退を発表した。前半終了間際で交代をしたときは目に涙を浮かべながらベンチに下がった。
[編集] エピソード
- 一時期サッカー選手よりも医者になることを目指していた。チェコの名門スパルタ・プラハがネドベドをスカウトした際に、彼自身は大きな興味を示し、結果的には入団することになるが、まだ学生という身分を理由に周囲の人間からは猛反発された。また、スパルタ・プラハに入団してからも会計士の勉強に力を入れ、着実な道を歩もうとしていた。[2]
- サッカー選手を目指す前は、国内で最も人気のスポーツであるアイスホッケー選手になるのが夢だった。サッカーを選んだ理由は、ホッケーに比べて用具代が安いから[要出典]。
- ラツィオ所属時にPKを得たにも関らず、自らPKでないとアピールしたことがある
- 努力家として知られる。本人によると、少年時代には家から60マイル(およそ96km)離れたサッカースクールに通っていたという。にも関わらず当時練習時間は毎日12時間を費やしていた。さらに趣味と聞かれると「練習」と言うくらいの練習の虫である。「サッカーをしてない時は?」と聞かれた際には家族サービスと回答している。
- 朝は7時に起床し、朝食前にランニング、チーム練習は常に最後まで残り、夜10時には就寝するというスタイルを長年続けている。[3]
- 無尽蔵のスタミナで試合中走り回り、当たりに強い体格のため、あだ名は「鋼鉄のロボット」である。
- パトリック・ベルガー、トマーシュ・ジェプカとは犬猿の仲で、このために二人は早期に代表引退している。カレル・ポボルスキーとは親友である。
- 引退後はプロの監督業としてでなく、子供達のサッカーの指導に携わりたいと言っていたことがある。
- タイトルがかかった重要な試合などには出場が出来ないことが多い。試合中に熱くなり過ぎるのが原因である。
- ハビエル・サネッティはキャリアで対戦した中で最も厄介だった相手としてラツィオ時代のネドベドを挙げており、その理由にサイドを何度も上下するスタミナを挙げている[4]。
[編集] タイトル
[編集] クラブ
- スパルタ・プラハ
- チェコスロバキアリーグ (1992-93)
- ガンブリヌス・リーガ (1993-94, 1994-95)
- チェコカップ (1996)
- ラツィオ
- セリエA (1999-2000)
- コッパ・イタリア (1997-98, 1999-2000)
- ユベントス
- セリエA (2001-02, 02-03)
- セリエB (2006-07)
[編集] 個人
- バロンドール (2003)
- セリエA最優秀選手 (2003)
- セリエA最優秀外国人選手 (2003)
- チェコ最優秀選手 (1998, 2000, 01, 03, 04)
- UEFAベストイレブン (2003, 04, 05)
- チャンピオンズリーグ最優秀MF (2003)
- 英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手(2003)
- ゴールデンフット賞 (2004)
- FIFA100
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| チェコ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1991-92 | デュクラ・プラハ | 19 | 3 | ||||||||
| 1992-93 | スパルタ・プラハ | 18 | 0 | ||||||||
| 1993-94 | 23 | 3 | |||||||||
| 1994-95 | 27 | 6 | |||||||||
| 1995-96 | 30 | 14 | |||||||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1996-97 | ラツィオ | 18 | セリエA | 32 | 7 | ||||||
| 1997-98 | 18 | 26 | 11 | ||||||||
| 1998-99 | 18 | 21 | 1 | ||||||||
| 1999-00 | 18 | 27 | 5 | ||||||||
| 2000-01 | 18 | 31 | 9 | ||||||||
| 2001-02 | ユヴェントスFC | 11 | 32 | 4 | |||||||
| 2002-03 | 11 | 29 | 9 | ||||||||
| 2003-04 | 11 | 30 | 6 | ||||||||
| 2004-05 | 11 | 27 | 7 | ||||||||
| 2005-06 | 11 | 33 | 5 | ||||||||
| 2006-07 | 11 | セリエB | 33 | 11 | |||||||
| 2007-08 | 11 | セリエA | 31 | 2 | |||||||
| 2008-09 | 11 | 29 | 7 | ||||||||
| 通算 | チェコ | 117 | 26 | ||||||||
| イタリア | 382 | 84 | |||||||||
| 総通算 | 499 | 110 | |||||||||
[編集] 脚注
- ^ 金子義仁 『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』 フットワーク出版社、2004年、88頁-91頁。
- ^ 金子義仁『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版社、2004年、88-89頁。
- ^ 金子義仁『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版社、2004年、88頁。
- ^ サネッティ:「最も厄介なのはネドヴェドだった」 Goal.com 2011年1月15日
[編集] 外部リンク
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