ダニエレ・デ・ロッシ
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| 名前 | ||||
| ラテン文字 | Daniele De Rossi | |||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1983年7月24日(28歳) | |||
| 出身地 | ローマ | |||
| 身長 | 184cm | |||
| 体重 | 82kg | |||
| 選手情報 | ||||
| 在籍チーム | ||||
| ポジション | MF | |||
| 背番号 | 16 | |||
| 利き足 | 右足 | |||
| 代表歴 2 | ||||
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| 2. 2011年10月11日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子サッカー | ||
| 銅 | 2004 | サッカー |
ダニエレ・デ・ロッシ(Daniele De Rossi, 1983年7月24日 - )は、イタリア・ローマ(オスティア地区)出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(役割はレジスタ)。セリエAのASローマ所属。
イタリア代表としても活躍しており、2006 FIFAワールドカップの優勝メンバーの1人でもある。
目次 |
[編集] 略歴
ローマ生まれのローマ育ちで生粋のロマニスタであり、ASローマの下部組織に入団。徐々に頭角を表し、2001-2002シーズンの2001年10月に18歳でチャンピオンズリーグの対RSCアンデルレヒト戦でトップチームデビューを果たすと、続く2002-2003年シーズンの2003年3月に19歳の時にトリノ戦でセリエAデビューを果たす。このシーズンはセリエAで4試合に出場し2ゴールを記録した。
2003-2004シーズンはトップチームに定着しリーグ・カップ合わせて27試合に出場。また、U-21欧州選手権、2004年のアテネオリンピックにもイタリア代表として参加。アテネオリンピックでは日本戦でオーバーヘッドシュートを決めた。その数週間後にはA代表でのデビューも飾っている。
2004-2005年シーズン、続く2005-2006年シーズンはチームのミッドフィールドのファーストチョイスとしてリーグ・カップ合計82試合に出場し10得点。2006年にはセリエAの最優秀若手プレイヤーに選ばれる等、セリエAを代表するミッドフィールダーに成長し、2006 FIFAワールドカップ代表に選出された。ワールドカップではグループリーグ第2戦、対アメリカ戦において相手FWブライアン・マクブライドにひじ打ちを喰らわせた行為が悪質な反則として4試合の出場停止処分を下され、その後の当大会での出場は絶望視されたが(グループリーグ第3戦・決勝トーナメント1回戦・準々決勝・準決勝と出場停止となりチームが決勝または3位決定戦に進出しない限り出場停止が解けない為)、チームは見事決勝に進出し、決勝戦ではASローマのチームメイト・フランチェスコ・トッティに代わりピッチに立ち、PK戦では3番手のキッカーとして成功。優勝を果たす。
2006-2007年シーズンは前シーズンから監督を務めるルチアーノ・スパレッティの下、優勝こそインテル・ミラノに譲り2位に終わったものの、そのインテルの監督や選手も含め多くのサッカー関係者から「セリエAで最も美しいサッカーをする」と評されたゼロトップシステムを、中盤の核として支えた。
2007-2008年シーズンもチームの中心として2年連続のセリエA2位と、チャンピオンズリーグベスト8に貢献。しかしオールド・トラッフォードで行われたチャンピオンズリーグ準々決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では、PKを外して敗退の原因にもなった。EURO2008イタリア代表にも選出され、背番号10を背負う。グループリーグ突破をかけたフランス戦でゴールを決めるなど活躍。敗れた初戦のオランダ戦では、デ・ロッシを起用しなかったドナドーニ監督が批判されるなど代表における存在の大きさもみせた。同年9月10日のW杯予選グルジア戦では2得点を記録。この試合の前に義父を亡くしており「自分のキャリアでもドッピエッタ(1試合2得点)は初めてだと思う。この2得点は義父に捧げたい」と語った。
2008-2009年シーズンはローマは6位と低迷したものの、怪我で離脱することが多かったトッティに代わりチームを牽引し、オスカル・デル・カルチョのイタリア人サッカー選手賞を受賞した。
2010 FIFAワールドカップではグループリーグ初戦のパラグアイ戦でW杯初得点となる同点ゴールを挙げた[1]。しかし第2戦のニュージーランド戦、第3戦のスロバキア戦では低調なパフォーマンスに終わり、イタリアも1試合も勝利すること無く敗退した。ワールドカップ後最初の試合となったコートジボワール戦では初めてイタリア代表のキャプテンとしてプレーした。
[編集] エピソード
- ローマの下部組織に入る時、父親がコーチだったので当初は名前を偽って参加したという。
- イタリア代表では、代表を引退したトッティから背番号10を受け継いでいる。クラブでは16を着けておりこの番号も本人は気に入っているが、2004-2005シーズンには4番を着けていた。
- 所属するローマでは、副キャプテンを担う(2011年1月時点)。ちなみにローマ生まれ・ローマ育ち、ローマの下部組織出身という経歴からサポーター(ロマニスタ)に愛されている選手の1人であり、クラブのエース・フランチェスコ・トッティに次ぐ人気があるという。
[編集] 所属クラブ
ASローマ 2001-
[編集] 個人成績
| チーム | シーズン | リーグ | コッパ・イタリア | 国際大会1 | スーペルコッパ・イタリアーナ | 期間通算 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
| ASローマ | 2001–02 | — | 3 | 0 | 1 | 0 | — | 4 | 0 | ||
| 2002–03 | 4 | 2 | 3 | 0 | — | — | 7 | 2 | |||
| 2003–04 | 17 | 0 | 4 | 0 | 6 | 1 | — | 27 | 1 | ||
| 2004–05 | 30 | 2 | 5 | 1 | 3 | 1 | — | 38 | 4 | ||
| 2005–06 | 34 | 6 | 4 | 0 | 7 | 0 | — | 45 | 6 | ||
| 2006–07 | 36 | 2 | 8 | 2 | 10 | 2 | 1 | 0 | 55 | 6 | |
| 2007–08 | 34 | 5 | 6 | 0 | 10 | 0 | 1 | 1 | 51 | 6 | |
| 2008–09 | 33 | 3 | 2 | 0 | 7 | 0 | 1 | 1 | 43 | 4 | |
| 2009–10 | 33 | 7 | 4 | 1 | 12 | 3 | — | 49 | 11 | ||
| 2010–11 | 28 | 2 | 3 | 0 | 7 | 1 | 1 | 0 | 39 | 2 | |
| 通算 | 249 | 28 | 42 | 4 | 63 | 8 | 4 | 2 | 358 | 42 | |
1UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAヨーロッパリーグを含む。
[編集] 獲得タイトル
[編集] クラブ
- ASローマ
- コッパ・イタリア (2): 2006-07, 2007-08
- イタリアスーパーカップ (1): 2007
[編集] 代表
- FIFAワールドカップ : 2006
- UEFA U-21欧州選手権 : 2004
[編集] 個人
- セリエA若手サッカー選手賞 2006
- イタリア人サッカー選手賞 2009
[編集] 脚注
- ^ Italy v Paraguay, BBC Sport
[編集] 外部リンク
- ASローマ公式サイトのプロフィール (イタリア語)
- Daniele De Rossi - FIFA主催大会成績
- Profile on Italian FA official website
- FootballDatabase.com profile and stats
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1 ロボンツ | 2 シシーニョ | 3 J・アンヘル | 4 フアン | 5 エインセ | 7 マルキーニョ | 8 ラメラ | 9 オスヴァルド | 10 トッティ | 11 タッデイ | 14 ボージャン | 15 ピアニッチ | 16 デ・ロッシ | 18 クルチ | 19 ガゴ | 20 ペッロッタ | 21 ネゴ | 23 グレコ | 24 ステケレンブルフ | 29 ブルディッソ | 30 F・シンプリシオ | 31 ボリーニ | 44 シェアー | 77 カッセッティ | 87 ロージ | 92 ヴィヴィアーニ | 93 パグリアツェッリ | 94 ヴェッレ 監督: L・エンリケ |
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