フランツ・ベッケンバウアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
フランツ・ベッケンバウアー Football pictogram.svg
Franz Beckenbauer 2006 06 17.jpg
名前
本名 フランツ・アントン・ベッケンバウアー
愛称 皇帝(der Kaiser)
ラテン文字 Franz BECKENBAUER
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
オーストリアの旗 オーストリア
生年月日 1945年9月11日(66歳)
出身地 バイエルン州ミュンヘンギーシング
身長 181cm
体重 75kg
選手情報
ポジション DF/MF
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1964-1977
1977-1980
1980-1982
1983
西ドイツの旗バイエルン・ミュンヘン
アメリカ合衆国の旗ニューヨーク・コスモス
西ドイツの旗ハンブルガーSV
アメリカ合衆国の旗ニューヨーク・コスモス
427 (60)
105 (19)
28 0(0)
27 0(2)
代表歴
1965-1977 西ドイツの旗 西ドイツ 103 (14)
監督歴
1984-1990
1990-1991
1994
1996
西ドイツの旗西ドイツ代表
フランスの旗オリンピック・マルセイユ
ドイツの旗バイエルン・ミュンヘン
ドイツの旗バイエルン・ミュンヘン
1. 国内リーグ戦に限る。現在。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj
ノートでこのテンプレートの色について意見を募集しています。

フランツ・アントン・ベッケンバウアーFranz Anton Beckenbauer, 1945年9月11日 - )は、ドイツ(旧西ドイツ)・ミュンヘン出身の元サッカー選手サッカー指導者。現在のドイツサッカー連盟(DFB)副会長、バイエルン・ミュンヘンクラブ会長、及びバイエルン・ミュンヘン株式会社の監査役長。2006 FIFAワールドカップドイツ大会では組織委員長を務めた。現役時代はリベロ(攻撃に参加するスイーパー)システムを確立させ名声を得た人物である[1]

ピッチ上で味方の選手達を操る姿と、『神よ、皇帝フランツを守り給え』に詠われたオーストリア皇帝フランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世)と同じファーストネームであることから、der Kaiser(皇帝)と呼ばれた[2]

目次

[編集] 生い立ち

1945年9月11日、第二次世界大戦終結直後にミュンヘン東南部にあるギーシングで生まれる。郵便局員を務める父親は厳格な人物だった。物心ついたころから5歳上の兄や近所の子供たちと共に路地や空き地などでストリートサッカーに興じて技術を磨いた。

1954年、8歳の時にSCミュンヘン1906の下部組織に入団して本格的にサッカーを始める。当時のポジションは左ウイング[3]で、後にセンターフォワードを任せられるようになった。憧れの選手はフリッツ・ヴァルターワールドカップ・スイス大会優勝時の主将)[4]、地元のギーシング地区に本拠地をおくサッカークラブTSV1860ミュンヘンを応援する[5]サッカー少年だった。SCミュンヘン1906で5年間を過ごしたが、クラブの財政事情により育成年代のチームを維持できなくなったことを知るとチームメイトと共に1860ミュンヘンへ移籍することを考えるようになる[6]

1958年夏、SCミュンヘン1906での最後の試合としてミュンヘン近郊のノイビベルクで開催された14歳以下(U-14)大会に出場し決勝進出、決勝の相手は1860ミュンヘンとなった。この試合にてベッケンバウアーを警戒する相手選手との小競り合いの末に相手から平手打ちを受けるという事件が起こる[6]。これをきっかけにファンだった1860ミュンヘンではなく、同じバイエルンのシュヴァービング地区を本拠地とするバイエルン・ミュンヘンの下部組織に入団することを決意した[7]。ベッケンバウアーは、ここでもセンターフォワードを務め、入団最初のシーズンで100近い得点を記録した。

1960年、14歳でギムナジウム(中等教育機関)を卒業後、保険会社のアリアンツに就職[8]。社会人として生活を送る一方で引き続きバイエルンの下部組織でサッカーを学び、18歳の頃にはバイエルン州選抜や西ドイツユース代表に選出される。ユース代表では監督のデットマール・クラマーの下で公私共に指導を受けた。

[編集] 選手経歴

[編集] クラブ

[編集] 1960年代

1967年のベッケンバウアー(左側の人物)

1964年、バイエルン・ミュンヘンの会長を務めるヴィルヘルム・ノイデッカーの推薦もあって[9]トップチームに昇格しプロ契約を締結。しかし少年時代から選手としての優れた資質を発揮する一方で未熟な体躯であったことから、指導者からは「素質はあるがファイターではない」と評されていた[10][11]

ベッケンバウアーがバイエルンのトップチームに昇格した当時、クラブは中堅クラスの実力を有していた[12]が、最上位リーグであるブンデスリーガに所属するトップレベルのクラブとの実力差は歴然としていた[12]。また同じ都市を本拠地とする1860ミュンヘンというライバルクラブが大衆的なクラブとして人気を得ており[13]、先にブンデスリーガ入りを果たしていたことや西ドイツ代表選手を数人有していたこともあり実力の面でも差を付けられていた[13]

監督のズラトコ・チャイコフスキーはベッケンバウアーに「君はクルップ社のようなになれる素材だが、今は生クリームのようだ。それでは、いくら優れたボールテクニックを身に付けていても何の意味もない」と評し[14]、フィジカルを向上させるための様々なトレーニングを課して、選手としての成長を促した[15]。チャイコフスキーはベッケンバウアーの他にもGKのゼップ・マイヤーやFWのゲルト・ミュラーといった10代の有望な若手選手を育成し後の成功に至る基盤を築くことになった[12]

同年6月6日、1963-64シーズンブンデスリーガ昇格ラウンド[16]第3節のFCザンクト・パウリ戦でトップチームへデビュー。ベッケンバウアーは左ウイングとしてスタメン出場を果たし4-0と勝利を収めデビュー戦を飾った[17]

同年9月、1964-65シーズンレギオナルリーガ南部開幕戦のMTVインゴルシュタット戦でリーグ初得点を記録すると、その後はポジションをフォワードから中盤に下げ、マイヤーやミュラーらと共にブンデスリーガ1部昇格に貢献。昇格初年度の1966年にはDFBポカールを制すると翌年も連覇。1966-67シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝、1968-69シーズンにはブンデスリーガ初優勝に貢献した。ベッケンバウアーの貢献度の高さからファンからはバイエルンミュンヘンの事を「FCベッケンバウアー」、イギリスのサッカージャーナリストからは「ベッケンバウアー株式会社」と呼ぶようになった[18]

[編集] 1970年代

1970年代に入るとドイツ国内ではヘネス・バイスバイラーが監督を務めるボルシア・メンヒェングラートバッハ(以下ボルシアMG)との2強時代に突入した。ベッケンバウアー擁するバイエルンは、ギュンター・ネッツァーベルティ・フォクツらといった選手を擁して攻撃的なサッカースタイルを標榜した[12]ボルシアMGとの間で鎬(しのぎ)を削ったが、1971-72シーズンからリーグ3連覇。国際舞台においても1972-73シーズンからUEFAチャンピオンズリーグ3連覇を達成。1976年のインターコンチネンタルカップ優勝などの実績を残した。自身も西ドイツ代表での活躍もあってバロンドール受賞2回(1972年、1976年)、ドイツ年間最優秀選手賞を4回(1966年、1968年、1974年、1976年)を受賞した。

1977年5月、北米サッカーリーグニューヨーク・コスモスへ移籍。同年限りでの引退を表明していたペレの後継者を探していたコスモス側からのオファーを受けたもので、契約期間は4年、移籍金は250万ドル(当時の金額)とも言われた。コスモスではリベロではなく中盤でプレーをし、同年のサッカーボウル(北米リーグチャンピオン決定戦)で優勝。選手投票によるリーグMVPにはペレを抑えベッケンバウアーが選出された。ペレの引退もあって翌年は優勝を逃したものの、1979年と1980年にはサッカーボウル連覇を果たし米国での人気を不動のものとした。一方でアメリカの競技場の人工芝の堅いピッチは柔らかい天然芝のピッチに馴染んでいたベッケンバウアーの肉体を徐々に蝕んでいった[19]

[編集] 1980年代

1980年ハンブルガーSV へ移籍。同年11月15日のVfBシュトゥットガルト戦でブンデスリーガ復帰を果たすとリーグ通算18試合に出場し往年のテクニックを披露した。しかし翌1981-82シーズンはチームはブンデスリーガ優勝を果たしたものの、ベッケンバウアー自身は、アキレス腱断裂などの度重なる怪我に苦しみ、治療の為に試合出場がかなわない状態だった。ここでトップレベルでのプレーが出来ないと判断しハンブルクからの退団を決意。1982年7月1日、ハンブルクフォルクスパルクシュタディオンで行われた西ドイツ代表対ハンブルガーSVによる「ベッケンバウアー感謝試合」では前半は西ドイツ、後半はハンブルクの選手としてプレー。試合は4-2で西ドイツが勝利を収めベッケンバウアーはドイツのファンに別れを告げた。また、この試合に先立ち西ドイツサッカー連盟のヘルマン・ノイベルガー会長から代表チーム名誉キャプテンの称号が贈られた[19]

1983年、再びニューヨーク・コスモスへ移籍。サッカーボウルで準々決勝ラウンドで敗退すると、このシーズン限りで現役引退を表明した。

[編集] 西ドイツ代表

1974 FIFAワールドカップ決勝、オランダ戦でのベッケンバウアー

1965年西ドイツ代表に招集。同年9月26日、敵地のストックホルムで行われたワールドカップ・イングランド大会出場をかけたスウェーデン戦で代表デビューを飾る。この試合を2-1で勝利を収め本大会出場に貢献したベッケンバウアーはヘルムート・シェーン監督の下でレギュラーに定着して行った

1966年、ワールドカップ・イングランド大会出場。ベッケンバウアーは20歳で迎えた初のワールドカップの舞台にて中盤の要としてゲームをコントロールすると共に得点を重ね、グループリーグ初戦のスイス戦で2得点、準々決勝のウルグアイ戦と準決勝のソビエト連邦戦でそれぞれ1得点の合計4得点を挙げる活躍で決勝進出に貢献。決勝戦では地元イングランドとの対戦となり、この試合でベッケンバウアーはイングランドのエースのボビー・チャールトンのマンマークを担当。チャールトンを封じる事には成功したものの、延長戦の末に2-4で敗れ準優勝。この結果に専門家からは「チャールトンを封じる事に囚われ、ベッケンバウアー本来の攻撃面を発揮する事が出来なかった。西ドイツの作戦ミスなのではないか」との批判を受けた[18]

1968年6月1日ハノーファーで行われたイングランドとの親善試合。イングランドとは2年前のワールドカップ決勝で対戦した因縁の相手であり、1908年以来、0勝2分10敗と大きく負け越すなど苦手意識を抱えていた。この試合でベッケンバウアーは82分に決勝点を決めサッカーの母国に対し初勝利を収めると共に長年の苦手意識を払拭した。

1970年、2度目のワールドカップとなったワールドカップ・メキシコ大会では準々決勝で前回優勝国のイングランドを延長戦の末に3-2で下し2大会連続の準決勝進出。準決勝のイタリア戦は追いつ追われつの試合展開で、延長戦の末に3-4で競り負けたがサッカーファンからは世紀の一戦(Game of the Century)と評された。ベッケンバウアーはこの試合途中に右肩を脱臼したが交代枠が残っていなかったため、右肩から右腕をテーピングで固定した状態でプレーし続ける。ダイビングヘッドでクリアをするなど気迫を見せたが、決勝進出には手が届かなかった。

1971年4月25日トルコ戦において26歳で西ドイツ代表のキャプテンに就任。また所属クラブとは異なり代表チームでは中盤でプレーする機会が多かったが、この時期からリベロとしてプレーをするようになった。

1972年UEFA欧州選手権1972準々決勝ラウンドでイングランドを相手に敵地で完勝し本大会進出に導くと、ベルギーで開催された本大会では準決勝で地元ベルギーを2-1、決勝ではソビエト連邦を3-0で下し大会初優勝。この時のリベロを務めるベッケンバウアーとゲームメーカーを務めるネッツァーのコンビネーションや流れるようなパスワーク、選手個々の身体能力とラテン系を彷彿とさせるテクニックを融合したサッカーを披露した事から「夢のチーム」と称えられた[20][21]

1973年11月24日シュトゥットガルトで行われたスペイン戦においてウーヴェ・ゼーラーの持つ西ドイツ代表通算最多出場記録(73試合)を更新(試合は2-1で西ドイツの勝利)。

1974年、3度目のワールドカップ出場となったワールドカップ・西ドイツ大会では地元開催の重圧からグループリーグ第3戦の東ドイツ戦を0-1で落すなど苦境に立たされた。この敗戦の後、チームを立て直すべくベッケンバウアーはリーダーシップを発揮しシェーン監督との二頭体制でチームの修正を図る[22]。調子の上がらないネッツァーに代わってヴォルフガング・オフェラートを中盤の核とすることや、ベルント・ヘルツェンバインライナー・ボンホフの起用を進言するなど[23]、チームの再編成に着手した。そして2次リーグを3戦全勝で突破し決勝進出に導くと決勝戦ではヨハン・クライフの率いるオランダを2-1で下し、1954年大会以来となる2度目のワールドカップ制覇を成し遂げた。

1976年UEFA欧州選手権1976では予選ラウンドを突破し、ユーゴスラビアで開催された本大会に出場。地元のユーゴスラビアを退け2大会連続の決勝進出に導くが、決勝戦ではダークホースのチェコスロバキアにPK戦の末に敗れ準優勝に終わった。この試合で西ドイツ代表選手として初の100試合出場を達成したベッケンバウアーは、1977年2月23日のフランス戦(試合は0-1で西ドイツの敗戦)で代表から退くまで国際Aマッチ103試合に出場し14得点を記録し、50試合でキャプテンを務めた。西ドイツ代表での戦績は69勝18分18敗。代表通算出場記録は後にローター・マテウスによって塗り替えられるまで、ドイツ歴代最多記録だった。

なお1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会と1982年のワールドカップ・スペイン大会でも招集される可能性が残されていた。1978年大会は所属するニューヨーク・コスモス側の「ワールドカップ期間中のみの参加を認める」意見と「直前のテストマッチや合宿への参加」を要請するドイツサッカー連盟との意見は真っ向から対立し、再度両者間で交渉を試みるも決裂したため参加を断念[22]。1982年大会は度重なる怪我の影響もあって出場を断念した。

[編集] 引退後経歴

[編集] 監督

西ドイツ代表監督時代のベッケンバウアー

1984年7月14日、西ドイツ代表監督に就任。同年6月に行われたUEFA欧州選手権1984ではグループリーグ敗退した責任を取り、監督のユップ・デアヴァルが辞任した事を受けてのものだった。ベッケンバウアー自身は監督のライセンスを取得していないためチームシェフという肩書きで代表チームを指揮する事となり[24]、アシスタントコーチをホルスト・ケッペルが務めることになった。しかし当時の西ドイツ代表を取り巻く評価は概ね低く、4年前のワールドカップ・スペイン大会では結果的に準優勝に終わったが、グループリーグ初戦のアルジェリア(1-2で敗退)、同最終戦のオーストリア戦(1-0で勝利したものの、談合が行われたとの批判を受けた)で失態を演じて以来、国民からの信頼は地に落ちていた。「回復の見込みのない病人を治す魔術師のような役割を期待されての監督就任[24]」と見られていた。

同年9月12日、デュッセルドルフで行われたアルゼンチンとの親善試合が監督として初采配となったが、この試合を1-2で落す。翌1985年にかけて行われたワールドカップ・メキシコ大会予選では苦戦を続けながらも、かろうじて本大会出場を果たした。

1986年、ワールドカップ・メキシコ大会前の下馬評は低く、エースのカール=ハインツ・ルンメニゲは負傷を抱え、メディアでは代表合宿での選手間の対立が盛んに報じられた。かつての同僚であるパウル・ブライトナーからは「ベッケンバウアーは茨の道を進もうとしている」と辛らつな評価をされていた[25]が、ベッケンバウアーは芸術家タイプの選手を廃し労働者タイプの選手を多く重用[26]したことが功を奏し準優勝に導いた。ドイツのメディアは、この時の選手達の見せたプレーを「素朴なサッカーへの回帰」と呼んだ[26]

メキシコ大会後はそれまで代表を支えていたルンメニゲらが退き、世代交代が進んだ。中盤のローター・マテウス、左ウイングバックのアンドレアス・ブレーメらの中堅を軸にユルゲン・クリンスマントーマス・ヘスラーユルゲン・コーラーらが新たに加わった代表チームを率いて地元開催となった1988年UEFA欧州選手権1988ではベスト4。 1990年6月のワールドカップ・イタリア大会では前回大会の決勝で敗れたアルゼンチンを退け3度目の優勝に導き、選手と監督してワールドカップ制覇を経験することになった。なお選手と監督双方でワールドカップ制覇を経験したのはブラジルのマリオ・ザガロに次いで2人目となった。

同年8月、フランスオリンピック・マルセイユのスポーツディレクターに就任した[27]。契約金は300万マルク(約2億8000万円)。これはベッケンバウアー自身がアディダスとの長いつながりがあったことと、マルセイユの会長を当時務めていたベルナール・タピがアディダスの経営権を握っていた縁によるものだった。当初、ベッケンバウアーはタピの「マルセイユを世界一のクラブにする」計画に興味を持ち、西ドイツ代表時代にコーチを務めたホルガー・オジェックと共にチームに参加したが、就任から2週間後に監督のジェラール・ジリが辞任したことを受けて1990-91シーズン途中の同年9月に監督に就任した[27]。なおジリは1988年から監督を務めリーグ2連覇、1990-91シーズンも開幕から負けなしで首位に立っていた。ベッケンバウアーの初采配は第10節のASカンヌ戦となったが0-1で敗戦。サポーターからは非難のブーイングと前任のジリを求めるコールが鳴り響いた[27]

マルセイユの監督就任に関して、当初からメディアでは「個人の自由を尊重し主張するフランスに規律と厳格さを求めるドイツ式のやり方はあわない」「西ドイツを優勝に導いた人物には危険な賭けである」と評されていた[27]。またクラブの周囲では八百長疑惑にまつわる噂が広まっており、後に自著の中で「よく考えもせずに、いつのまにかチームに加わっていた」[28]と振り返るように、マルセイユでの仕事に対し情熱を失っていった。翌1991年1月にベルギー人のレイモン・ゲタルスに監督の座を譲り、スポーツディレクターに復帰。シーズン終了後にマルセイユを退団した。

[編集] その後

1991年11月に古巣のバイエルン・ミュンヘンの副会長に就任。1994年には同クラブの会長に就任。一方で1993年12月28日から翌1994年6月30日までエーリッヒ・リベックの後任としてバイエルンの代理監督を務め、1993-94シーズンのブンデスリーガ優勝。1996年4月29日から6月30日までオットー・レーハーゲルの後任としてバイエルンの代理監督を務めUEFAカップ優勝に導いた。また2002年からは同クラブの監査委員会役員長も務めている。

1998年、ドイツサッカー連盟副会長に就任すると、地元ドイツへのワールドカップ招致に成功。2000年ワールドカップ・ドイツ大会組織委員会委員長に就任すると、2006年の本大会開催を成功に収めた。

2005年3月、国際サッカー連盟(FIFA)会長選挙ならびに欧州サッカー連盟(UEFA)会長選挙に出馬する噂が報じられた。FIFA会長選挙については現職のジョセフ・ブラッターが適任であるとして早々に噂を否定したが、UEFA会長選挙については現職のレナート・ヨハンソンが再選を狙わないことを条件に関心があることを示唆した[29]。ベッケンバウアーは最終的に立候補を辞退した。

2009年11月27日、バイエルン・ミュンヘンの会長職を退任。後任には同クラブのスポーツ・ディレクターを務めていたウリ・ヘーネスが就任した。また、同クラブの代表取締役を務めるカール=ハインツ・ルンメニゲから同クラブの名誉主将に任命することが発表された[30]

[編集] 人物

[編集] プレースタイル

ベッケンバウアーという選手をリベロ・システム抜きに語ることは出来ない。いわば「攻撃に参加するスイーパー」であるこのポジションは、「ディフェンダーは守備の専門」という従来の概念を覆すことになった。イタリアカテナチオにおけるスイーパーの役割がDFラインから一列下がり相手の攻撃の芽を摘み取る役割に徹していたのに対し、リベロ・システムは、そのDFライン後方の深い位置から効果的なパスを繰り出すなど攻撃の起点となり、また機を見て前線に攻め上がり得点機に絡んだ。

DFの攻撃参加自体は既に1960年代頃からイタリアのジャチント・ファッケッティによりなされていた。厳密にはファケッティのポジションは中央ではなくサイドバックだったが、ベッケンバウアーは中央に位置するスイーパーにも出来ないはずがないと、ファケッティの攻撃的なスタイルに触発された結果が攻撃的なスイーパー=リベロの誕生へと繋がった[31]

ベッケンバウアーは少年時代にセンターフォワードを務めていたが、所属するバイエルン・ミュンヘンの下部組織では戦術で雁字搦めにすることはなく、伸び伸びとプレーをさせていた。ある試合でストッパーの役割を任せられたベッケンバウアーは、守備だけには飽き足らず力を持て余すと、気をみてゴール前に攻めあがって得点を決めてしまうこともあった[18]。その後もストッパーの役割だけに留まらず中盤に上がれば効果的なパスを繰り出し、前線に攻めあがることを繰り返したという。こうした行動はDFは守備の専門家という定石を無視したものであったが、後に「君のプレーは全ての指導法に反するものだが、そのまま続けなさい」と認められそのままプレーを続けた[32]。自身が確立させるリベロ・システムの原型や選手としてのユーティリティー性は少年時代から培われていたのだった[18]

[編集] 私生活

ベッケンバウアーは3度の結婚歴があり5人の子供がいる。17歳の時に当時交際していた保険会社の同僚の女性との間に子供が生まれた[33]が、この女性とは暫くして別れ、2人の間に生まれた子供は後にベッケンバウアーが引き取って育てる事になった。

1966年、最初の妻ブリギッテと結婚しミヒャエルとシュテファンという2人の息子が生まれた。 息子のシュテファンは元サッカー選手で1990年代まで現役を続けていたが大成することはなかった。引退後は指導者に転じ、バイエルン・ミュンヘンの下部組織のコーチを務めている。

1977年1月、収入の一部をスイスの銀行に預金していた事が所得隠しであったとして問題となり、税務署の家宅捜査を受ける事になった。この問題は西ドイツの連邦議会でも取り上げられ、またこの騒動に単を発しマスコミからは連日のようにゴシップ報道、パッシング報道が行われるようになる[34]と、同年5月こうした騒動を避けるように北米リーグのニューヨーク・コスモスへ移籍した。妻とはこの一連の騒動がきっかけとなって別居生活に入り1990年1月に離婚。

1982年オーストリアチロル州に移住。1990年4月にドイツサッカー連盟に勤務していた女性と2度目の結婚をし1990年代前半にはオーストリア国籍を取得。2人目の妻とは2004年に離婚した。

2006年6月23日にバイエルン・ミュンヘンで秘書をしていた21歳年下のハイディ・ブルメスターと結婚。ドイツW杯期間中に結婚式を挙げたということで話題になった。ベッケンバウアーにとっては、これが3度目の結婚となる。ハイディとの間には既に2児をもうけていたが、W杯期間中であるにもかかわらず大急ぎで結婚式を挙げた。結婚式当時ハイディは40歳、ベッケンバウアーは61歳であった[35]

[編集] エピソード

  • ギムナジウムを卒業後、保険会社に就職をしたベッケンバウアーは17歳の時に同僚の女性との間に子供が生まれていた。ベッケンバウアーは当時、西ドイツユース代表に選ばれていたが「ユース代表選手に子供がいる」ということが前代未聞だとしてドイツ・サッカー連盟や教育者の間で論議の的となった。当時、ユース代表の監督だったデットマール・クラマーは、ベッケンバウアーを擁護するために奔走した。クラマーがベッケンバウアーの教育係となることで、周囲を納得させ批判を抑える形となった[36]
  • 少年の頃からサッカーだけでなくテニスなどの球技も得意とした。クラマーはベッケンバウアーがサッカー選手を引退する際に「テニス選手になっていたら、ウィンブルドン選手権を制していただろう」と発言している[36]
  • ベッケンバウアーと同じくバイエルン・ミュンヘンに在籍(2002-2006)したミヒャエル・バラックは、ベッケンバウアー後継者との評価も高く、彼のニックネームに準え、「kleiner Kaiser」(小皇帝)と呼ばれることがある。
  • 2007年に公開されたドキュメンタリー映画ペレを買った男」に出演している。

[編集] 語録

強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ[注 1][37]

(バロンドールを獲得するために)私はこれ以上何をすればいいんだ[注 2][37]

プレッシャーに耐えられない者は何も勝ち取ることはできない [38]

[編集] 獲得タイトル

代表
クラブ
個人タイトル

[編集] 個人成績

[編集] クラブ

年度 クラブ リーグ リーグ カップ 欧州カップ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1964-65 バイエルン レギオナルリーガ 31 16 - - - 31 16
1965-66 ブンデスリーガ 33 4 6 1 - - 39 5
1966-67 33 0 5 0 9 0 - 47 0
1967-68 28 4 4 0 7 1 - 39 5
1968-69 33 2 5 0 - - 38 2
1969-70 34 6 3 0 2 0 - 39 6
1970-71 33 3 5 1 8 1 - 46 5
1971-72 34 6 3 1 7 0 - 44 7
1972-73 34 6 3 0 6 1 - 43 7
1973-74 34 4 4 0 10 1 - 48 5
1974-75 33 1 3 0 7 1 - 43 2
1975-76 34 5 7 2 9 0 2 0 52 7
1976-77 33 3 4 0 4 0 4 0 45 3
1977 ニューヨーク NASL 21 5 - - - 21 5
1978 33 10 - - - 33 10
1979 18 1 - - - 18 1
1980 33 5 - - - 33 5
1980-81 ハンブルガー ブンデスリーガ 18 0 2 0 0 0 - 20 2
1981-82 10 0 2 0 5 0 - 17 0
1983 ニューヨーク NASL 27 2 - - - 27 2
通算 ドイツ 455 60 52 5 74 5 6 0 587 70
アメリカ 132 23 - - - 132 23
合計 587 83 52 5 74 5 6 0 719 93

[編集] 代表での得点

# 開催日 会場 対戦国 スコア 結果 大会概要
1. 1966年3月23日 オランダロッテルダム オランダの旗 オランダ 4-2 勝利 親善試合
2. 1966年3月23日 オランダ、ロッテルダム オランダの旗 オランダ 4-2 勝利 親善試合
3. 1966年5月4日 アイルランドダブリン アイルランドの旗 アイルランド 4-0 勝利 親善試合
4. 1966年7月12日 イングランドシェフィールド スイスの旗 スイス 5-0 勝利 1966 FIFAワールドカップ
5. 1966年7月12日 イングランド、シェフィールド スイスの旗 スイス 5-0 勝利 1966 FIFAワールドカップ
6. 1966年7月23日 イングランド、シェフィールド ウルグアイの旗 ウルグアイ 4-0 勝利 1966 FIFAワールドカップ
7. 1966年7月25日 イングランド、リヴァプール ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 2-1 勝利 1966 FIFAワールドカップ
8. 1968年6月1日 西ドイツハノーファー イングランドの旗 イングランド 1-0 勝利 親善試合
9. 1970年6月14日 メキシコレオン イングランドの旗 イングランド 3-2(延長) 勝利 1970 FIFAワールドカップ
10. 1970年11月22日 ギリシャアテネ ギリシャの旗 ギリシャ 3-1 勝利 親善試合
11. 1971年6月22日 ノルウェーオスロ ノルウェーの旗 ノルウェー 7-1 勝利 親善試合
12. 1971年6月30日 デンマークコペンハーゲン デンマークの旗 デンマーク 3-1 勝利 親善試合
13. 1973年5月12日 西ドイツ、ハンブルク ブルガリアの旗 ブルガリア 3-0 勝利 親善試合
14. 1976年10月6日 ウェールズカーディフ ウェールズの旗 ウェールズ 2-0 勝利 親善試合

[編集] 著書

  • 『わたしにライバルはいない - ベッケンバウアー自伝』(原題:Einer wie ich、鈴木武士翻訳[39]講談社、1976年)
  • 『ベッケンバウアー自伝 - 「皇帝」と呼ばれた男』(原題:Ich - Wie es wirklich war、沼尻正之翻訳、中央公論新社、2006年)ISBN 4120037320
  • Tour de Franz(Goldmann Wilhelm GmbH、2000年)ISBN 3-442-15016-7
  • Nicht nur ein Spiel! (デットマール・クラマーとの共著、Rowohlt Verlag Gmbh、2006年) ISBN 978-3498006402

[編集] 脚注

[編集] 注釈

  1. ^ 1974年 西ドイツ大会優勝時
  2. ^ 1974年に西ドイツ代表とバイエルン・ミュンヘンのキャプテンとしてワールドカップ優勝、UEFAチャンピオンズカップ優勝という偉業を成し遂げたにもかかわらず、同年代のライバルであるヨハン・クライフバロンドールに選出された時に漏らしたコメント。

[編集] 脚注

  1. ^ FRANZ BECKENBAUER - International Football Hall of Fame
  2. ^ Des Kaisers falscher Schluß
  3. ^ ベッケンバウアー,1976.27頁
  4. ^ ベッケンバウアー,1976.30-31頁
  5. ^ ベッケンバウアー,1976.32-34頁
  6. ^ a b リヒテンベルガー,261-263頁
  7. ^ ベッケンバウアー,1976.34-35頁
  8. ^ ベッケンバウアー,1976.38-39頁
  9. ^ ベッケンバウアー,2006.13頁
  10. ^ ベッケンバウアー,1976.58頁
  11. ^ 鈴木,1982.111頁
  12. ^ a b c d リヒテンベルガー、263頁
  13. ^ a b ベッケンバウアー,2006.14頁
  14. ^ ベッケンバウアー,1976.60-63頁
  15. ^ 鈴木,1982.111頁
  16. ^ FC Bayern Munchen 1963/1964 - Die Spiele - Fussballdaten - Die Fusball-Datenbank
  17. ^ FC St. Pauli gegen FC Bayern Munchen 0:4 (0:1) - Die Aufstiegsrunde in die Bundesliga 1963/1964
  18. ^ a b c d 鈴木,1982.112頁
  19. ^ a b 鈴木,1983.132頁
  20. ^ 鈴木,1983.130頁
  21. ^ リヒテンベルガー,304-308頁
  22. ^ a b 第18回 シェーン去る - 優勝とひとつの時代の終わり
  23. ^ リヒテンベルガー,316-318頁
  24. ^ a b ベッケンバウアー,2006.156頁
  25. ^ ベッケンバウアー,2006.159頁
  26. ^ a b ベッケンバウアー,2006.158頁
  27. ^ a b c d ストライカー編集部「ベッケンバウアー(前西ドイツ代表監督)マルセイユの監督に就任!」『学研ストライカー』1990年12月号.46頁
  28. ^ ベッケンバウアー,2006.246頁
  29. ^ ベッケンバウアー、UEFA会長に立候補の可能性も
  30. ^ バイエルンがベッケンバウアー会長退任に伴い、レアルとの記念試合を決定
  31. ^ グランヴィル,218頁
  32. ^ ベッケンバウアー,1976.48-50頁
  33. ^ ベッケンバウアー,1976.44-46頁
  34. ^ ベッケンバウアー,2006.81-92頁
  35. ^ ベッケンバウアー氏、21歳年下と結婚 - 2006年ドイツW杯ニュース
  36. ^ a b クラマー取材ノートから(31)
  37. ^ a b 岩崎龍一『フットボールしかない--神髄を極める「魂のことば」』二見書房、2006年、129頁
  38. ^ ドイツ 2006 - インタビュー - ゴルツが質問します ... フランツ・ベッケンバウアー”. 連邦新聞報道庁. 2011年5月22日閲覧。
  39. ^ 全訳ではなく抄訳となっている。

[編集] 参考文献

  • 『わたしにライバルはいない - ベッケンバウアー自伝』(鈴木武士翻訳、講談社、1976年)
  • 『ベッケンバウアー自伝 - 「皇帝」と呼ばれた男』(沼尻正之翻訳、中央公論新社、2006年)
  • 鈴木武士「スーパースター列伝スペシャル フランツ・ベッケンバウアー Part.1」『サッカーダイジェスト』1982年12月号
  • 鈴木武士「スーパースター列伝スペシャル フランツ・ベッケンバウアー Part.2」『サッカーダイジェスト』1983年1月号
  • ブライアン・グランヴィル『決定版ワールドカップ全史』(田村修一、土屋晃、田邊雅之翻訳、草思社、1998年)
  • ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー『ブンデスリーガ--ドイツサッカーの軌跡』(秋吉香代子翻訳、草思社、2005年)

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語