ミオドラグ・ベロデディチ

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ミオドラグ・ベロデディッチ Football pictogram.svg
Belodedici.JPG
名前
愛称 Belo、東欧のベッケンバウアー
ラテン文字 Miodrag Belodedici
基本情報
国籍 ルーマニアの旗 ルーマニア
生年月日 1964年5月20日(50歳)
出身地 ソコル
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1982-1988
1989-1992
1992-1994
1994-1995
1995-1996
1996-1998
1998-2001
ルーマニアの旗ステアウア・ブカレスト
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗レッドスター
スペインの旗バレンシアCF
スペインの旗レアル・バリャドリード
スペインの旗ビジャレアルCF
メキシコの旗アトランテFC
ルーマニアの旗ステアウア・ブカレスト
167 (15)
63 (3)
48 (0)
31 (0)
16 (0)
65 (3)
69 (6)
代表歴
1984-2000[1] ルーマニアの旗 ルーマニア 55 (5)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj


ミオドラグ・ベロデディチ(Miodrag Belodedici、1964年5月20日 -)は、ルーマニア出身の元サッカー選手サッカー指導者。ポジションはDFリベロ)。

選手時代には往年のフランツ・ベッケンバウアーに準え「東欧のベッケンバウアー」「ベッケンバウアーの再来」と称された[2]

経歴[編集]

セルビア国境に近いソコルという村で、セルビア人の家庭に生まれた。1982年にステアウア・ブカレストに入団すると、1986年UEFAチャンピオンズカップ1987年UEFAスーパーカップ、4度のルーマニアリーグ(1985年、1986年、1987年、1988年)優勝などに貢献。1984年からはルーマニア代表にも選出された。その後、両親の祖国であるユーゴスラビアレッドスター・ベオグラードでのプレーを希望したが、当時の共産主義政権では選手の国外移籍は30歳になるまで認めていなかったため、この申し出は取り下げられた[2]

1988年にユーゴスラビアに亡命しレッドスターへの入団を果たした。ヨーロッパサッカー連盟からこの移籍が法的に問題があるとして、規定により公式戦の1年間出場停止処分を受けた。またこれとは別にルーマニア政府は彼を国家反逆罪の罪で懲役10年の判決を下した。

1989年ルーマニア革命が起こり、共産主義政権が打倒されると、この罪は取り下げられ、また1年間の出場停止処分が明け、レッドスターへの移籍が認められると、直ぐにクラブの中心選手となった[2]1991年のUEFAチャンピオンズカップでは再び決勝に進出し、フランスのオリンピック・マルセイユをPK戦で下し優勝に導いた。この活躍により欧州の有力クラブからオファーが殺到する様になり、1992年にスペインのバレンシアCFへ移籍した。また同年には亡命騒動以来遠ざかっていたルーマニア代表へも4年ぶりに復帰を果たし、1994年FIFAワールドカップ・アメリカ大会ベスト8進出に貢献した。同大会では鋭い読みでバルデラマアスプリージャリンコンらの攻撃陣を1点に封じ込めた初戦のコロンビア戦、完封したグループリーグ最終戦米国戦での活躍が光った。

その後、複数のクラブを渡り歩いた後の1998年に古巣のステアウア・ブカレストへ復帰し、2001年に現役引退した。引退後の現在はルーマニアサッカー協会に勤務し、ルーマニアU-20代表を指揮している。

獲得タイトル[編集]

クラブ[編集]

ステアウア・ブカレスト

レッドスター・ベオグラード

脚注[編集]

  1. ^ “Miodrag Belodedici - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/belodedici-intl.html 
  2. ^ a b c 宇都宮徹壱『ディナモ・フットボール--国家権力とロシア・東欧のフットボール』みすず書房、2002年、217-218頁

外部リンク[編集]