アドリアン・ムトゥ

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アドリアン・ムトゥ Football pictogram.svg
Adrian Mutu 2.jpg
名前
本名 Adrian Mutu
カタカナ アドリアン・ムトゥ
ラテン文字 Adrian MUTU
基本情報
国籍 ルーマニアの旗 ルーマニア
生年月日 1979年1月8日(33歳)
出身地 ピテシュティ
身長 180cm
体重 74kg
選手情報
在籍チーム イタリアの旗 ACチェゼーナ
ポジション FW / MF
背番号 10
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1996-98
1998-99
1999-00
2000-02
2002-03
2003-04
2005-06
2006-2011
2011-
Piteşti FCアルジェシュ
Bucureşti ディナモ・ブカレスト
Inter インテル
Verona ヴェローナ
Parma パルマ
Chelsea チェルシー
Juventus ユヴェントスFC
Fiorentina ACFフィオレンティーナ
Cesena ACチェゼーナ
41 (11)
33 (22)
10 0(0)
57 (16)
31 (18)
27 0(6)
33 0(7)
91 (50)
4 (1)
代表歴 2
2000- ルーマニアの旗 ルーマニア 72 (34)
1. 国内リーグ戦に限る。2010年2月1日現在。
2. 2011年10月7日現在。
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アドリアン・ムトゥ(Adrian Mutu, 1979年1月8日 - )は、ルーマニアピテシュティ出身の元同国代表セリエAACチェゼーナサッカー選手。ポジションはフォワード及びミッドフィールダー

目次

[編集] 人物

ゲオルゲ・ハジ引退後のルーマニアサッカー界の牽引者であり、パルマFCACFフィオレンティーナでの活躍から2000年代のセリエA外国人選手を代表する選手である[1]。多くの観客を魅了すると同時に多くのスキャンダルにも見舞われ、2004年に自らが引き起こしたドーピング問題(コカイン摂取)では解雇、長期に渡る出場停止処分と、自身のキャリアに多大な影響を与えることとなった[2]。2006年には間接的にではあるがカルチョーポリに巻き込まれる。その後のフィオレンティーナにて復活を果たすも、前述のドーピング問題における訴訟や、2010年には再びドーピング問題を引き起こす[3][4]など波乱に満ちたサッカー人生を送る。プレイヤーとしてはセカンドトップトレクァルティスタとしてフィオレンティーナを牽引する存在であり、フィオレンティーナのティフォージからは敬意を込めてフェノメーノFenomeno※イタリア語で「超常現象」や「怪物」の意)と呼ばれる[5]。また、キャリアを通じて自らを救ったチェーザレ・プランデッリファビオ・カペッロの両監督には深く感謝していると語っている。

[編集] 来歴

[編集] クラブ

[編集] ルーマニア時代

1996年、地元のクラブチームであるFCアルジェシュ・ピテシュティでキャリアをスタートさせる。1997年3月15日にはルーマニアのトップリーグであるリーガ1に初出場しプロデビューを果たす。同クラブでは41試合に出場し11得点、多くのアシストを決めた。1998年にルーマニアの強豪クラブディナモ・ブカレストへ移籍し、33試合出場中22得点し才能の高さを証明する。

[編集] イタリア時代

翌年、1999年にセリエA・インテルへ移籍。イタリアでの初得点は、コッパ・イタリアでの対ACミラン戦であった。渡伊1年目はリーグ戦は無得点に終わるものの10試合出場し、カップ戦では計2得点する。2000年にはエラス・ヴェローナFCに共同保有の形で移籍。移籍後1年目はカンピオナートのSSラツィオ戦、SSCナポリ戦、にそれぞれ重要な得点をし、ASバーリ戦ではドッピエッタ(2得点)を達成した。2年目には1シーズン12得点をマークし、ムトゥ自身は再びセリエAの上位クラブから注目を集めるが、チームは低迷し2001-2002シーズン終了後セリエBに降格してしまう。クラブは降格に伴い、ムトゥの保有権を売却することになる。2002-2003シーズンはパルマでプレーし、攻撃の要として活躍。アドリアーノ中田英寿と3トップを形成し、リーグ戦で31試合出場18得点と渡伊後最高の成績でシーズンを終える。UEFAカップにおいても4試合出場中4得点する。

[編集] イングランド時代

翌シーズンにはチェルシーへ加入し、2003年のルーマニア最優秀選手に選出されるなど順風満帆かに思われたが、2004年10月にドーピング検査でコカインの陽性反応を示し、7ヶ月のプロ公式戦出場資格の剥奪と2万ポンドの罰金がイングランドサッカー協会から言い渡された[2]。長期の試合出場停止を余儀なくされ、チェルシーを解雇される。

[編集] 再びイタリアへ

再起後のムトゥ

2005年1月に所属クラブを失ったムトゥに目を付けたユヴェントスFCが5年契約を提示、ムトゥは同クラブと契約する。このシーズンの移籍市場で新たに外国人選手を登録する枠を使い切っていたユヴェントスは、一度リヴォルノにシーズン終了まで契約させることでムトゥを手元に置くことに成功する。再起を懸けファビオ・カペッロ監督の元で地道にトレーニングを積み、翌シーズンである2005-2006シーズンには32試合に出場し7得点をあげる。しかし、クラブはカルチョ・スキャンダルにより降格を余儀なくされ、主力選手を数人放出することになる。ムトゥもその中の1人であり、ムトゥはパルマ在籍時のかつての恩師であるチェーザレ・プランデッリが指揮をとるACFフィオレンティーナに800万ユーロの移籍金で移籍することになる[6]

加入1年目となる2006-2007シーズンはリーグ戦33試合出場で16得点、多くのアシストも決め、カルチョ・スキャンダルのペナルティにより15ポイント勝ち点を減らされたチームをリーグ5位の座に導く。このシーズン、ムトゥはイタリア全国紙のガゼッタ・デロ・スポルト紙の試合採点の平均点が最高の選手であり、イタリア放送協会やDatasportからはグッドプレーヤー賞を送られ[7]、かつての恩師の下で復活を果たした。2007-2008シーズンはリーグ戦29試合出場中17得点し、UEFAチャンピオンズリーグ出場権の得られるリーグ4位の座に貢献、加えてUEFAカップでは6得点を挙げ準決勝進出に導いた。ルカ・トーニが去った後のフィオレンティーナのエースストライカーとしての地位を確固たるものとした。

復帰後のキャリアを順調に築いていたが、2008年6月にFIFA特別委員会から約1700万ユーロの罰金をチェルシーに支払うことが命じられる。チェルシー在籍時に解雇理由となったドーピング検査におけるコカイン反応の陽性により、チェルシー側が「ムトゥは契約約款に違反し、クラブに1900万ユーロの経済的損失を与えた」と訴えていたためである[2]。その後、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴し[8]、処分は一時保留となった[9]。こういった流れを受け、2008-2009シーズンが開幕する直前には好条件を提示したASローマと一度はサインを交わすが、プランデッリ監督の強い要請により当時フィオレンティーナ会長のアンドレア・デッラ・ヴァッレが話を白紙に戻した[10]。このシーズンは新たに加わったアルベルト・ジラルディーノとのコンビでチームの好調を支えたが、代表戦で負った肘の怪我や、その復帰後には膝の治療等で長期離脱する。しかし出場すればチームに決定的なものを与え、リーグ戦19試合出場ながら13得点している。2009-2010シーズンはリーグ開幕戦の対ボローニャFC戦で得点する。多額の罰金問題を抱え、精神的に追い詰められていた状況であったがチャンピオンズリーグの対デブレツェニVSCおいても得点し、チームの決勝トーナメント進出に貢献した。

2010年1月10日バーリ戦後のドーピング検査で禁止薬物であるシブトラミンが検出され[3]、同月20日のコッパ・イタリア準々決勝・ラツィオ戦後のドーピング検査でも同薬品の陽性反応が出た[4]。この結果を受け、イタリア・オリンピック委員会(CONI)はムトゥに対し9ヶ月の出場停止処分を言い渡した[11]。同年、オフシーズンの6月14日に、チェルシーへの損害賠償の件でスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴していたものは退けられていたことがわかり、さらにスイス連邦裁判所に提訴したが、こちらも認められずに5年におよんだ法廷での争いが終わったと報道された[12][13]

2011年6月23日ACチェゼーナに2年契約で加入[14]

[編集] 代表

2000年3月29日ギリシャ戦で代表デビューを果たし、ゲオルゲ・ハジ引退後のルーマニアサッカー界の牽引者として注目を集める。UEFA欧州選手権2008では、チームのエースとして対イタリア戦で得点を決める。2011年8月11日に飲酒問題で代表から永久追放された[15]

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

シーズン クラブ NO. リーグ リーグ戦 カップ戦 CL UC/EL 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1996-97 FCアルジェシュ・ピテシュティ - ルーマニアの旗 リーガ1 5 0 - - - - - - 5 0
1997-98 21 4 - - - - - - 21 4
1998-99 15 7 - - - - 6 3 21 10
1998-99 ディナモ・ブカレスト - 15 4 - - - - - - 15 4
1999-00 18 18 - - - - 3 4 21 22
1999-00 インテルナツィオナーレ・ミラノ 16 イタリアの旗 セリエA 10 0 4 2 - - - - 14 2
2000-01 ヴェローナ 10 25 4 - - - - - - 25 4
2001-02 32 12 - - - - - - 32 12
2002-03 パルマFC 20 31 18 1 0 - - 4 4 36 22
2003-04 チェルシーFC 7 イングランドの旗 プレミア 25 6 4 3 7 1 - - 36 10
2004-05 2 0 - - - - - - 2 0
2004-05 ASリヴォルノ・カルチョ - イタリアの旗 セリエA - - - - - - - - 0 0
2004-05 ユヴェントスFC 30 1 0 - - - - - - 1 0
2005-06 18 32 7 3 1 8 1 - - 43 9
2006-07 ACFフィオレンティーナ 10 33 16 - - - - - - 33 16
2007-08 29 17 1 0 - - 8 6 38 23
2008-09 19 13 1 0 7 2 2 0 29 15
2009-10 11 4 2 4 6 3 - - 19 11
2010-11 20 4 0 0 - - - - 20 4
2011-12 ACチェゼーナ 10 - - - - - - - - - -
通算 ルーマニア リーガ1 74 33 - - - - 9 7 83 40
イタリア セリエA 222 91 12 7 21 6 14 10 269 114
イングランド プレミア 27 6 4 3 7 1 - - 38 10
総通算 323 130 16 10 28 7 23 17 390 164

[編集] 獲得タイトル

[編集] 個人

  • ルーマニア年間最優秀選手 4回受賞(2003、2005、2007、2008年)
  • 2007年 グエリン・ドーロ 受賞(※グエリン・スポルティボ紙が選ぶセリエA年間最優秀選手)

[編集] 出典・脚注

  1. ^ 2007年、2008年にはオスカル・デル・カルチョの最優秀外国人選手にノミネートされている。[1](イタリア語),2010-2-11閲覧
  2. ^ a b c Stangata per Mutu: paghi 17 milionicorriere.it(2008-8-15)(イタリア語),2010-2-1閲覧
  3. ^ a b ムトゥ、ドーピング検査で陽性反応Goal.com(2010-1-29),2010-2-1閲覧
  4. ^ a b ムトゥ、別日の検査でも陽性反応Goal.com(2010-1-30),2010-2-1閲覧
  5. ^ PAGELLE, Mutu Fenomeno, bene Babacarfirenzeviola.it(2010-1-14)(イタリア語),2010-2-1閲覧
  6. ^ 800万ユーロでムトゥを売却ユヴェントス公式(2006-7-10)(イタリア語),2010-2-1閲覧
  7. ^ Mutu è il miglioregazzetta.it(2007-5-29)(イタリア語),2010-2-1閲覧
  8. ^ CAS FIFAの罰金に対しムトゥが提訴したことを明らかにafpbb.com(2008-9-6),2010-2-1閲覧
  9. ^ ムトゥ、罰金処分が取り消し?goal.com(2009-10-6),2010-2-1閲覧
  10. ^ ローマが2000万ユーロでムトゥを獲得かgazzetta.it(2008-7-22)(イタリア語),2010-2-1閲覧
  11. ^ footballista、2010年5月12日号
  12. ^ ムトゥに19億円の賠償命ず スイスの裁判所sportsnavi.yahoo.co.jp(2010-6-14),2010-6-14閲覧
  13. ^ ムトゥ、1700万ユーロの支払いは避けられず?goal.com(2010-6-14),2010-6-14閲覧
  14. ^ Adrian Mutu è un giocatore del Cesenacesenacalcio.it(2011-6-23)(イタリア語),2011-6-23閲覧
  15. ^ ムトゥ、夜遊びでルーマニア代表から永久追放 Goal.gom、2011年8月12日

[編集] 外部リンク

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