ミヒャエル・バラック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミヒャエル・バラック
2014年のバラック
名前
愛称 ミヒャ、バッカ、バレ、小皇帝
ラテン文字 Michael BALLACK
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1976-09-26) 1976年9月26日(47歳)
出身地 東ドイツの旗 東ドイツゲルリッツ
身長 189cm
体重 85kg
選手情報
ポジション MF(OMF/CMF)
利き足 右足
ユース
1983-1995 東ドイツの旗ドイツの旗 カール=マルクス=シュタット/ケムニッツ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-1997 ドイツの旗 ケムニッツII 18 (5)
1995-1997 ドイツの旗 ケムニッツ 49 (10)
1997-1998 ドイツの旗 カイザースラウテルンII 17 (8)
1997-1999 ドイツの旗 カイザースラウテルン 46 (4)
1999-2002 ドイツの旗 バイエル・レバークーゼン 79 (27)
2002-2005 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 107 (44)
2006-2010 イングランドの旗 チェルシー 105 (17)
2010-2012 ドイツの旗 バイエル・レバークーゼン 35 (2)
代表歴
1996-1998 ドイツの旗 ドイツ U-21 19 (7)
1999-2010 ドイツの旗 ドイツ 98 (42)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
バイエルン・ミュンヘン時代

ミヒャエル・バラック(Michael Ballack, 1976年9月26日 - )は、ドイツザクセン州ゲルリッツ(旧東ドイツ)出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダーで、ドイツ代表であった。

経歴[編集]

クラブ[編集]

1997年、ブンデスリーガ・1.FCカイザースラウテルンに入団。2年目よりレギュラーとして定着し、能力の高さを発揮する。1999年バイエル・レバークーゼンへ移籍するとドイツ代表にも招集された。2001-02シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ・国内リーグ・国内カップ戦でそれぞれ準優勝に貢献した。

2002年にはブンデスリーガの強豪クラブであるバイエルン・ミュンヘンに加入し、中盤の核として活躍。

その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・フランツ・ベッケンバウアーの後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「皇帝」に準え、バラックは「小皇帝 (kleiner Kaiser) 」と呼ばれていた。

2006年5月プレミアリーグチェルシーFCに移籍。

2007年4月、ニューカッスル戦で相手選手との接触により左足首を負傷。以降、2度に渡って手術を行い、8ヶ月の戦線離脱となる。しかし、足首の負傷が完治した2007年12月以降はパフォーマンスも向上し、完全に復調。イングランドのスタイルにも適応し、チャンピオンズリーグではクラブ史上初の決勝進出への原動力となった。

2009-10シーズンは32試合に出場し、チェルシーの4シーズンぶりのプレミアリーグ優勝に貢献。しかし、シーズン最終戦であるFAカップ決勝のポーツマスFC戦で、ブンデスリーガ時代から因縁があったケヴィン=プリンス・ボアテングに右足首を踏みつけられた際に靭帯を痛め、2010 FIFAワールドカップ出場が絶望となった。チェルシーでは4シーズンでリーグ戦105試合に出場した。2010年夏、契約満了によりチェルシーを退団、同年6月25日にブンデスリーガの古巣バイエル・レバークーゼンへ復帰した。

2012年6月末でレバークーゼンとの契約が満了し、2012年10月に弁護士を通して現役引退を発表[1]2013年6月5日、ライプツィヒにて、かつての同僚や友人が集まる中で引退試合が開催された。

2000年代を代表する選手の一人であり、長らくドイツ代表の中心選手であったが、国際タイトルとは無縁のまま引退することとなった。

引退後は、解説者業やPR活動に携わっている[2]

代表[編集]

1999年4月28日スコットランド戦で代表デビューを果たす。2002 FIFAワールドカップ準決勝の韓国戦では、イエローカードをもらうと累積警告で決勝に出場できなくなることを知りながら、味方のミスをカバーするために戦術的ファウルを犯し、イエローカードをもらう。直後にチームを決勝へと導くゴールを挙げた。欠場した決勝には敗れて準優勝に終わった。バラックは大会最多となる4アシストをマークした[3]

ユルゲン・クリンスマンが2004年に代表監督に就任すると東ドイツ出身の選手として初めてキャプテンに指名された。自国開催となる2006 FIFAワールドカップでは得点こそできなかったが、その構成力とキャプテンシーで自国を3位に導く活躍を見せた。

EURO2008ではグループリーグのオーストリア戦で決勝点を挙げるなどチームの準優勝に貢献した。

2010 FIFAワールドカップは、前述5月の負傷により欠場となった。ポーツマスMFのケヴィン=プリンス・ボアテングによるタックルによるもので、右足首靭帯断裂と診断された[4]。2011年6月には、ドイツサッカー連盟から代表引退が発表された[5]。しかし、バラック自身はこの発表に不満を持っており、引退試合への出場も拒否した[6]

人物[編集]

プレースタイル[編集]

ピッチ全体から攻撃のチャンスを見つける広い視野とパス、ドリブル、シュートなどに優れてテクニックを持つ[7]

シルバーコレクター[編集]

「世界で最も不運なプレーヤー」「シルバーコレクター」など不名誉な呼び方をされることがある。クラブレベルではリーグ優勝の経験があるものの、クラブでも代表でも主要な国際大会での優勝経験は無い。チャンスが無かったわけでは無く、UEFAチャンピオンズリーグでの準優勝が2回、FIFAワールドカップUEFA欧州選手権でも準優勝の経験があり、いずれもあと一歩で涙を飲んでいる。特に、2001-02シーズンにはレバークーゼンでブンデスリーガ2位、DFBポカールとUEFAチャンピオンズリーグで準優勝、ドイツ代表ではワールドカップ準優勝、2007-08シーズンにはチェルシーでプレミアリーグ2位、カーリングカップ準優勝とUEFAチャンピオンズリーグで準優勝、代表ではEURO準優勝となっており、2度もシルバー4冠(あるいは裏4冠)を経験した。逆に言えば、それは長い間、強豪チームで主力として活躍して来た証とも言える。[8][9]

私生活[編集]

バラックという名前はソルブ語に由来している.[10]。彼は、エンジニアで3部リーグでサッカーをプレイしていたこともある父親ステファンと秘書で水泳選手だった母親カリンの間に生まれた一人息子である[11]

2008年7月14日、バラックは長年付き合っていたシモーネ・ランベと結婚し[12]、ルイ(2001年生まれ)、エミリオ(2002–2021年)、ジョルディ(2005年生まれ)の3人の子供に恵まれたが[13]、エミリオは、2021年8月5日に四輪バイクの事故で亡くなっている[14]。また、夫婦は2012年に離婚している。

個人成績[編集]

クラブ個人成績[15][16]
クラブ シーズン リーグ 国内リーグ 国内カップ戦 リーグカップ 大陸 その他 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ケムニッツFC 1995–96 ツヴァイテリーガ 15 0 1 0 - - - 16 0
1996–97 レギオナルリーガ 34 10 1 0 - - - 35 10
通算 49 10 2 0 - - - 51 10
カイザースラウテルン 1997–98 ブンデスリーガ 16 0 2 0 - - - 18 0
1998–99 30 4 2 0 - 6 0 1 0 39 4
通算 46 4 4 0 - 6 0 1 0 57 4
バイエル・レバークーゼン 1999–2000 ブンデスリーガ 23 3 0 0 - 2 2 - 25 5
2000–01 27 7 2 0 - 5 2 1 0 34 9
2001–02 29 17 4 0 - 16 6 1 0 50 23
通算 79 27 6 0 - 23 10 2 0 110 37
バイエルン・ミュンヘン 2002–03 ブンデスリーガ 26 10 5 4 - 7 1 - 38 15
2003–04 28 7 3 2 - 8 0 1 2 40 11
2004–05 27 13 4 3 - 9 2 2 2 42 20
2005–06 26 14 5 1 - 6 1 - 37 16
通算 107 44 17 10 - 30 4 3 4 157 62
チェルシー 2006–07 プレミアリーグ 26 5 3 1 6 0 10 2 1 0 46 8
2007-08 18 7 2 0 - 9 2 - 29 9
2008-09 29 1 6 3 1 0 10 0 - 46 4
2009-10 32 4 4 1 2 0 6 0 1 0 45 5
通算 105 17 15 5 9 0 35 4 2 0 166 26
バイエル・レバークーゼン 2010-11 ブンデスリーガ 17 0 0 0 - 3 2 - 20 2
2011-12 18 2 1 0 - 6 1 - 25 3
通算 35 2 1 0 - 9 3 - 45 5
ドイツ通算 316 87 30 10 - 68 17 6 4 420 118
イングランド通算 105 17 15 5 9 0 35 4 2 0 166 26
総通算 421 104 45 15 9 0 103 21 8 4 586 144

獲得タイトル[編集]

チェルシー時代のバラック(2008年)

個人 

代表

カイザースラウテルン

バイエルン・ミュンヘン

チェルシーFC

脚注[編集]

  1. ^ バラックが現役引退 goal.com、2012年10月3日
  2. ^ 元教え子でバイエルンOBのバラック氏が、アンチェロッティ監督を擁護 kicker日本語版、2017年9月9日
  3. ^ Most Assists World Cup 2002-planet World cup 1982
  4. ^ バラック、ワールドカップ絶望 UEFA.com、2010年5月17日
  5. ^ バラックが代表引退 ドイツ代表主将務める”. 共同通信 (2011年6月16日). 2011年6月18日閲覧。
  6. ^ バラック、ドイツ代表引退試合への出場を拒否「偽善行為そのもの」”. スポーツナビ (2011年6月18日). 2011年6月18日閲覧。
  7. ^ 田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、112ページ、ISBN 4-591-09115-5
  8. ^ 【世界で最も不運なプレーヤー】ミヒャエル・バラックを知らないあなたへ”. サッカー好きのための拾い読みウェブサイト. 2022年8月9日閲覧。
  9. ^ 【"シルバーコレクター"の異名ぬぐえず、バラック「とても悲しい」”. ゲキサカ (2008年6月30日). 2022年8月9日閲覧。
  10. ^ Die Welt (2006年). “Ballack, das Plappermaul”. Die Welt. 2022年7月20日閲覧。
  11. ^ Hannah Cleaver (2006年4月15日). “The secret life of Germany's poster boy”. Telegraph. オリジナルの2022年1月12日時点におけるアーカイブ。. https://ghostarchive.org/archive/20220112/https://www.telegraph.co.uk/sport/football/european/2335321/The-secret-life-of-Germanys-poster-boy.html 
  12. ^ Cadwalladr, Carole (2006年6月4日). “Meet the real footballers' wives”. The Guardian (UK). オリジナルの2010年4月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100418162521/http://www.guardian.co.uk/football/2006/jun/04/worldcup2006.sport37 2009年5月10日閲覧。 
  13. ^ Personal Data”. Michael Ballack (2009年1月16日). 2009年1月16日閲覧。
  14. ^ Steinbuch, Yaron (2021年8月5日). “Son of former German soccer star Michael Ballack killed in quad-bike crash” (英語). New York Post. 2021年8月5日閲覧。
  15. ^ Laufbahn kicker
  16. ^ Stats ESPN

外部リンク[編集]