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| ピエール・リトバルスキー |
| 名前 |
| 愛称 |
リティ、ドリブラルスキー |
| ラテン文字 |
Pierre LITTBARSKI |
| 基本情報 |
| 国籍 |
ドイツ |
| 生年月日 |
1960年4月16日(49歳) |
| 出身地 |
ベルリン |
| 身長 |
168cm |
| 体重 |
64kg |
| 選手情報 |
| ポジション |
MF |
| 利き足 |
右足 |
| 代表歴 |
| 1981 - 1990 |
ドイツ |
73 (18) |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ピエール・リトバルスキー(Pierre Littbarski、1960年4月16日 - )はドイツ・ベルリン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。愛称は「リティ」。
[編集] 略歴
1980年代のドイツを代表するドリブラー。1981年に西ドイツ代表に選出されると3度のワールドカップに出場し、優勝1回(1990年)、準優勝2回(1982年、1986年)を経験した。そして代表から退くまで73試合に出場し18得点を記録した。
特に1982年ワールドカップスペイン大会準決勝の対フランス戦ではドイツの3得点の全てに絡む活躍を見せた(前半17分、相手GKの弾いたボールを蹴りこんだ先制点のシーンは今もよく映像として流される)。中堅になってからは代表では控えに回ることが多くなったが、1990年大会では決勝トーナメント以降レギュラーとなり、決勝戦でもフル出場し3度目の世界制覇に貢献している(西ドイツ代表では背番号7がトレードマークであった)。
クラブでは選手生活の大半を1.FCケルンで過ごし、背番号10を付けキャプテンを務めるなど、サポーターの支持を集めた。
その後、1993年にジェフユナイテッド市原へ移籍。創成期のJリーグにおいて健在振りをアピールした。1994年に一度引退したが、1996年に現役復帰してブランメル仙台で2年間プレーした。1997年、JFA 公認S級コーチ資格を取得した。
現役引退後は指導者の道へ進み、日本サッカー協会公認S級ライセンスを取得。1999年には誕生したばかりの横浜FC初代監督に就任。2年連続でJFL優勝を果たし、横浜FCをJリーグに導いた。ここで一旦退任し、ドイツ・ブンデスリーガ でコーチ・監督を経験し、2003 - 2004年には再び横浜FCを率いたが、このときは指して目立った成績を残せず退任した。2005年にはオーストラリアサッカープロリーグのシドニーFCを指揮。同年のオセアニア・クラブチャンピオンシップ優勝に導き、チームは世界クラブ選手権に出場した。
2007年より、J2に降格したばかりのアビスパ福岡の監督としてJリーグに復帰。1年でのJ1復帰を至上命題として臨み、第1クールを首位で折り返すなど序盤は快調に勝利を重ねたが、中盤以降負けが増えだすとそれを立て直すことができず、昇格争いに戻ることの出来ないまま7位で終わった。このシーズン終了後、福岡は主力を含む選手16人(登録メンバー31人の過半数)を戦力外にする大改革を行ったが、これには選手とリトバルスキーの確執も大きく絡んでいたとされる。
大幅に選手を入れ替えて迎えた2008年シーズンだったが、今度は開幕から全く調子が上がらず、チームは1クールから10位以下をうろつく迷走状態に陥る。なりふり構わない守備的戦術を敷くなどして少しずつ調子を上向かせたものの、結局7月に成績不振により解任された。契約が延長された理由である前年からの継続性も何もなく、クラブのビジョン、監督の能力両面の低レベルさを露呈したといえる。
2008年7月には、イラン・サイパFCの監督に就任。しかし、国内リーグでは最下位に低迷、就任前に決勝トーナメント進出が決まっていたAFCチャンピオンズリーグでは1回戦で敗退と、全く結果を残せず、3ヵ月後の10月には解任された。同年11月にスイスリーグ・FCファドゥーツの監督に就任した。
[編集] プレースタイル
ドイツ人プレイヤーには珍しく、非常に小柄ながら繊細なボールタッチでしなやかなドリブルを得意としたテクニシャン。そのため「ドリブラルスキー」というニックネームもついている。サイドを崩してセンタリングを上げるプレーもさることながら、中央に切れ込んでのミドルシュートも得意としていた。
ポジションは、若手時代は右ウィング、後に中盤に下がり攻撃的MFとしてプレーした。ブランメル仙台では、入団当初はディフェンダーのポジションでプレーしていた。またケルン時代は、背番号10でキャプテンを務めていた。
1993年に来日する際に、理想のプレーはと聞かれ「フィールドプレイヤーを全員ぶっちぎってから、相手キーパーのまわりをドリブルして周り、ヒールキックでゴールを決めるのが理想」と語っている。
[編集] 所属クラブ
[編集] エピソード
ドイツ人の前妻との間に2女、日本人の現夫人との間に2男をもうけている。
インタビュー等ではドイツ語で話しているが、普段は日本語を使っており、サッカー番組のトークや、解説などをやっていた時は、日本語で話すことが多い。
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 |
| 年度 |
クラブ |
背番号 |
リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
オープン杯 |
期間通算 |
| 出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
| ドイツ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
DFBポカール |
期間通算 |
| 1978-79 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
16 |
4 |
|
|
|
|
|
|
| 1979-80 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
34 |
7 |
|
|
|
|
|
|
| 1980-81 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
32 |
6 |
|
|
|
|
|
|
| 1981-82 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
33 |
15 |
|
|
|
|
|
|
| 1982-83 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
34 |
16 |
|
|
|
|
|
|
| 1983-84 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
33 |
17 |
|
|
|
|
|
|
| 1984-85 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
28 |
16 |
|
|
|
|
|
|
| 1985-86 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
24 |
8 |
|
|
|
|
|
|
| フランス |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
フランス杯 |
期間通算 |
| 1986-87 |
ラシン・パリ |
|
ディヴィジョン・アン |
32 |
4 |
|
|
|
|
|
|
| 1987-88 |
マトラ・ラシン |
|
ディヴィジョン・アン |
2 |
0 |
|
|
|
|
|
|
| ドイツ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
DFBポカール |
期間通算 |
| 1987-88 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
31 |
8 |
|
|
|
|
|
|
| 1988-89 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
30 |
5 |
|
|
|
|
|
|
| 1989-90 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
34 |
8 |
|
|
|
|
|
|
| 1990-91 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
15 |
2 |
|
|
|
|
|
|
| 1991-92 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
36 |
1 |
|
|
|
|
|
|
| 1992-93 |
1.FCケルン |
|
ブンデス1部 |
26 |
3 |
|
|
|
|
|
|
| 日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算 |
| 1993 |
市原 |
- |
J |
35 |
9 |
|
|
|
|
|
|
| 1994 |
市原 |
- |
J |
28 |
1 |
|
|
|
|
|
|
| 1996 |
B仙台 |
|
旧JFL |
27 |
5 |
- |
|
|
|
|
| 1997 |
B仙台 |
|
旧JFL |
2 |
0 |
|
|
|
|
|
|
| 通算 |
ドイツ |
ブンデス1部 |
406 |
116 |
|
|
|
|
|
|
| フランス |
ディヴィジョン・アン |
34 |
4 |
|
|
|
|
|
|
| 日本 |
J |
63 |
10 |
|
|
|
|
|
|
| 日本 |
旧JFL |
29 |
5 |
|
|
|
|
|
|
| 総通算 |
532 |
135 |
|
|
|
|
|
|
[編集] 指導歴
[編集] 外部リンク