ネストール・オマール・ピッコリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ピッコリ | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 本名 | ネストール・オマール・ピッコリ | |
| カタカナ | ピッコリ | |
| ラテン文字 | Piccoli | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1965年1月20日 | |
| 出身地 | アルゼンチン | |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
ネストール・オマール・ピッコリ(Nestor Omar Piccoli、1965年1月20日-)はアルゼンチン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
目次 |
[編集] 来歴
1982年にアルゼンチンのリバープレートでプロデビュー、1987年にJSLの全日空(後の横浜フリューゲルス)に入団、一旦アルゼンチンに戻ったが1992年に中央防犯ACM藤枝SC(現-アビスパ福岡)に入団した。球団が福岡に移転した1995年にはJリーグ昇格に貢献、この年限りで現役引退した。
1996年以降もアビスパ福岡とチーム名が変わったクラブに残り育成担当に就任、1998年からU-18監督となった。さらに1999年はトップチームのアシスタントコーチも兼務、2000年から監督に就任した。
就任後はチームに闘争心を植え付け、激しいサッカーを目指し2000年のセカンドステージではシーズン終盤まで優勝争いに絡むなど周囲の評価を覆す躍進を見せた。しかし翌2001年は成績は伸び悩み、所属選手の不祥事による動揺もあってJ2降格となり解任された。
2000年4月12日のナビスコカップ・湘南ベルマーレ戦ではスタメン、ベンチ入りメンバーの大半を入れ替え、実質上サテライトチームの編成で試合に臨み「最強のメンバーをもって試合に臨む」とのリーグ規約に抵触するのではと物議を醸した。(後述)
サポーターからは漫画・ドラゴンボールの登場人物、ピッコロ大魔王になぞらえて、ピッコリ大魔王とも呼ばれていた。また、長い在日経験により日本語をある程度理解できるため、相手チームのサポーターからの野次に怒りを示す事もあった。
2003年末には日本フットボールリーグ(新JFL)昇格を目指す静岡FCに監督として招かれ、全国地域リーグ決勝大会で指揮を執ったが、JFL昇格はならず、大会後に辞任した。以後、アルゼンチンに在住。2004年には、日本サッカー協会のS級コーチライセンス獲得のためにリバープレートでコーチ研修を行った都並敏史を現地で迎え、通訳兼コーディネーターとして支援したとされる。なお、都並は1996年から1年余り福岡に在籍し、ピッコリとは面識があった。
[編集] 所属クラブ
- 1982年-1986年 リバープレート(アルゼンチン)
- 1987年-1990年 全日空(日本)
- ヒムナシア・ラ・プラタ(アルゼンチン)
- 全日空(日本)
- 1992年-1995年 中央防犯ACM藤枝SC/福岡ブルックス(日本)
[編集] ピッコリ事件
2000年4月10日、アビスパの練習場だった雁ノ巣での練習後ピッコリは「12日のナビスコカップ開幕戦湘南ベルマーレは控え組で臨む」と発言。当時の福岡の戦力を考えれば妥当な戦略であり、ピッコリ自身は「技術のある選手がベストメンバーではない。90分質の高いプレーをするのが選手がベストだ。選手を使い続けて疲れさせていいのか?」と主張した。
しかしJリーグ側は発言が新聞に掲載された事で事態を問題視。Jリーグ側はカップ戦の権威が落ちる事に対するスポンサーへの配慮もあってアビスパ側を問い質ししつづけた。この時はいわゆるJリーグバブルが終わり日本経済も冷え込みを続けた時期でスポンサー離れ等危機感が大きくJリーグ側が問題視したと考えられる。
これがきっかけで、Jリーグ規約第42条の「最強のチームによる試合参加(ベストメンバー)を」定めた項目に補足基準「次の試合(J1・J2・ナビスコカップ)における先発メンバー11人は、当該試合直前のリーグ試合5試合のうち、1試合以上先発メンバーとして出場した選手を6人以上含まなければならない(但し、負傷・出場停止等の例外規定もあり)」という規則改正にまで発展した。
福岡サポーターの一部は当時を振返り「サポーターはピッコリ支持で一つに固まっていた。文句を言う人間はだれも居ない」と語っている。ちなみにこの時の相手湘南とは4月12日に平塚競技場で3-2で福岡が勝利。4月19日はホーム博多の森で0-0の引き分け2回戦に進出した。
なお、同年の同大会でジェフユナイテッド市原も福岡と同じようなケースでその前の公式戦のメンバーから先発9人を交換し試合に臨んだが(4月12日開催)、市原側は先発交換に関して態度を軟化させたこともありJリーグからお咎めは無かった。 (参考文献・エル・ゴラッソ 2007年3月21日発行分。なお、同紙ではこの事件に因み、ナビスコカップにおける先発メンバーの変更率を「ピッコリ度」と呼んで指標としている)
※ピッコリが「控え組で臨む」と言った背景には、問題となった4月12日の試合前後が過密日程だったことも考慮する点があったのではないかと思われる。
- 4月5日 ヴェルディ川崎戦(博多球)、4月8日 ジュビロ磐田戦(磐田)
- 4月12日 湘南ベルマーレ戦(平塚)、4月15日 柏レイソル戦(博多球)
- 4月19日 湘南べルマーレ戦(博多球)、4月22日 ガンバ大阪戦(万博)
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属リーグ | 試合数 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | チーム |
| 2000年 | J1-1st | 15 | 18 | 6 | 9 | 0 | 14位 | アビスパ福岡 |
| J1-2nd | 15 | 23 | 7 | 6 | 2 | 6位 | ||
| 2001年 | J1-1st | 15 | 14 | 5 | 10 | 0 | 12位 | |
| J1-2nd | 15 | 13 | 4 | 9 | 2 | 15位 |
|
|
|
|

