フース・ヒディンク
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| 名前 | |||||||
| ラテン文字 | Guus Hiddink | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1946年11月8日(65歳) | ||||||
| 出身地 | ヘルダーラント州 | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | MF | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 監督歴 | |||||||
| 1982-1984 1984-1987 1987-1990 1990-1991 1991-1994 1995-1998 1998-1999 2000 2001-2002 2002-2006 2005-2006 2006-2010 2009 2010-2011 |
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フース・ヒディンク(Guus Hiddink、1946年11月8日 - )は、オランダ・ヘルダーラント州オウデ・アイセルストレーク出身のサッカー指導者、元サッカー選手。日本では「ヒディング」と誤記されることがある。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 現役時代
現役時代はデ・フラーフスハップ、PSVアイントホーフェン、NECナイメヘン、NASLでプレーし、特にデ・フラーフスハップでは中盤の要としてチーム初のエールディビジ昇格に貢献、地元サポーターから最も信頼を集める選手だった。現役のプロサッカー選手をしながらも、体育教師になろうと専門学校にも通っていた。晴れて体育教師の資格をとった後、不良生徒や精神的に問題のある生徒がいる特殊学級の担当をプロサッカー選手との兼任で10年余りしていた[1]。
[編集] PSVアイントホーフェン
1982年に現役引退し、その後、指導者としてのキャリアをスタートさせた。84年からPSVアイントホーフェンのアシスタントコーチに就任する。86-87シーズンの途中にチームの不振から監督が辞任し、臨時として監督に昇格。低迷していたチームをリーグ優勝に導き、この功績が評価され正式に監督に就任することになった。この年を含むリーグ3連覇と共に、1988年にはUEFAチャンピオンズカップを優勝し、トレブルを達成した。
[編集] オランダ代表
フェネルバフチェ、バレンシアの監督を務めた後、1995年に母国オランダ代表監督に就任。UEFA欧州選手権1996ではベスト8、98フランスW杯では4位に輝いた。
[編集] スペイン時代
98年の夏からレアル・マドリードの監督を務めたが、トヨタカップを獲得したのみであり、フロント関係者との対立で1シーズンでチームを去った。その後、99-00シーズン途中の2000年2月に不振だったレアル・ベティスの監督となったが、チームを残留させることが出来ず2部降格となり解任された。
[編集] 韓国代表
スペインでの監督業を終えた後、2000年に2002 FIFAワールドカップでの躍進を狙っていた韓国代表に招かれ、2001年1月に監督に就任。本大会ではポルトガル代表、イタリア代表、スペイン代表といった強豪国を相手に4位という「快挙」を達成した。韓国では功績から準々決勝でスペインを破ったスタジアムである光州ワールドカップ競技場の名称を「フース・ヒディンク・スタジアム」と名称変更が検討されるほどであり、また名誉国民証を授与された[2]。
[編集] PSV復帰とオーストラリア代表
2002年からPSVの監督に復帰。韓国代表の監督時代に出会った朴智星を獲得するなどし、4年間でリーグ優勝3回、チャンピオンズリーグベスト4といった成績を残した。さらに2005年7月からはオーストラリア代表監督を兼任。大陸間プレーオフでウルグアイを破って、オーストラリアは32年ぶりにW杯出場を果たした。本大会ではベスト16入りを果たした。
[編集] ロシア代表・チェルシー
2006年にPSVの監督を退任後、ロシア代表監督に就任。EURO2008の予選では、終盤にイングランドと本大会出場を争い、一時は出場の望みは断たれたかに思われたものの見事に最終節で逆転して本大会出場を決めた。EURO2008本大会では、前評判の低さを覆してロシア代表にとって20年ぶりとなるベスト4に導いた。特に決勝トーナメント初戦では、グループリーグでイタリア、フランスに大差をつけて勝利していた優勝候補オランダを、延長戦の末3-1で破っている。
また08-09シーズンの途中、当時不振に喘いでいたチェルシーFCの監督にシーズン終了までの期間限定で就任(ロシア代表との兼務)。すぐさまチームを立て直しFAカップ優勝等の好成績をもたらしている。
2010FIFAワールドカップ予選では、グループリーグでドイツに次いで2位となった結果プレーオフにまわり、スロベニア代表と対戦。「戦力的には優位」との下馬評通り、ホームでは2-1と勝利するが、アウェイゴールを許してしまう。それが大きく響き、敵地に乗り込み臨んだ試合では0-1で敗れ、勝ち数・合計得点で並ばれることとなりアウェイゴールの差で本大会出場を逃してしまった。
[編集] トルコ代表
ロシア代表のプレーオフ敗退後、2010年6月末までのロシアサッカー連合との契約を延長せずに、トルコサッカー連盟と2年の契約を結んだ(さらに2年間の延長オプションを含む)。同年8月1日からサッカートルコ代表監督に就任することが決まった。なお、ロシアのメディアによればトルコ代表監督としての年俸は375万ユーロ(約4億6700万円)で、ロシア代表監督時代の年俸の700万ユーロ(約8億7170万円)から半減するとのこと[3]。2011年11月15日にUEFA欧州選手権2012のプレーオフ敗退によって退任した。
[編集] 人物
8人家族で6人兄弟の3男。父親は市役所の職員や教師をしていた地元の名士であり、父親が校長を務めている小学校に息子のヒディンクも通っていた。また父親はナチス・ドイツへのレジスタンス運動に加わっていた頃もあった。母親も人望を集める人物だったという。少年期は学校の午後の授業をサボる等、問題児であった。スポーツ教育大学に通っていた頃の友人に、後にアヤックス・アムステルダムやレアル・マドリードの監督を務めたレオ・ベーンハッカーがいる[4]。
韓国でのW杯4位、欧州の中では決して強豪とはいえないPSVを率いてのUEFAチャンピオンズカップ優勝、国内リーグ優勝、国内カップ優勝の三冠達成(87-88シーズン)、二度目のPSV就任時のUEFAチャンピオンズリーグベスト4進出(04-05シーズン)、オーストラリア代表でのW杯出場権獲得とベスト16進出、EURO08でのロシア代表のベスト4進出など、比較的戦力の劣るチームを躍進させた手腕と、オランダ、韓国、オーストラリア、ロシアといった言語も文化も人種も違う国に溶け込みチームをまとめる手腕は「ヒディンク・マジック」と呼ばれ、高く評価されている。
彼の采配は、オランダ・サッカーのトータル・フットボールの系脈を継ぎ、徹底したゾーンプレス、両サイドをワイドに使った攻撃、状況に応じては即座に守備を固める柔軟性の守備などの両立を軸にしている。この戦術は無尽蔵なスタミナ、圧倒的なフィジカルの強さ、選手間の完璧な意思疎通が必要となる。
また不良生徒や精神的に問題のある生徒がいる特殊学級の担当をしていた経験から人心掌握術にも長けており、PSV時代に指導したロマーリオ、韓国代表を指揮した当時のメンバーだった安貞桓や朴智星を始めとする韓国代表の選手達、チェルシーの選手達から多大なる支持を集めている。
[編集] 戦績・獲得タイトル
- 1986年-1990年 - PSVアイントホーフェン(
オランダ)
- オランダリーグ1部優勝 3回(1986-87,1987-88,1988-89)
- KNVBカップ優勝 3回(1987-88,1988-89,1989-90)
- UEFAチャンピオンズカップ優勝 1回(1987-88)
- 1995年-1998年 - オランダ代表
- 1998年-1999年 - レアル・マドリード(
スペイン)
- トヨタカップ優勝 1回(1998年)
- 2001年-2002年 - 韓国代表
- 2002 CONCACAFゴールドカップ 4位
- 日韓W杯 4位
- 2002年-2006年 - PSVアイントホーフェン(
オランダ)
- オランダリーグ1部優勝 3回(2002-03、2004-05、2005-06)
- KNVBカップ優勝 1回(2004-05)
- UEFAチャンピオンズリーグ ベスト4(2004-05)
- 2005年-2006年 - オーストラリア代表
- ドイツW杯 ベスト16
- 2006年-2010年 - ロシア代表
- EURO2008 ベスト4
- 2009年 - チェルシーFC
- FAカップ優勝
[編集] スキャンダル
自身の韓国代表監督時の広告収入や印税を過少申告し、またアイントホーフェン監督時に、ベルギーに自宅を購入したことを伏せてベルギーに住んでいるように見せ掛けてオランダ当局への税金を逃れるなどして2億円以上の脱税を行った容疑でオランダ検察から起訴され、日本時間2007年2月28日、罰金約4万5000ユーロ(710万円)と禁錮刑(執行猶予)の有罪判決が下った[5]。
[編集] 著書
- 『ヒディンク自伝―韓国を変えた男』文藝春秋(2003年)
[編集] 脚注
- ^ 著書『ヒディンク自伝―韓国を変えた男』P36
- ^ http://www.47news.jp/CN/200206/CN2002062501000386.html
- ^ ヒディンク監督、次の職場はトルコ代表と報道・ラジオ局「ロシアの声」HP 2010年2月17日付
- ^ 著書『ヒディンク自伝―韓国を変えた男』第1章
- ^ http://www.news24.jp/articles/2007/02/28/0978321.html
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