マルチナ・ヒンギス

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マルチナ・ヒンギス
Martina Hingis, 2006.jpg
マルチナ・ヒンギス、2006年
基本情報
ラテン文字名 Martina Hingis
国籍 スイスの旗 スイス
出身地 チェコスロバキア・コシツェ
居住地 スイス・トリュバッハ
生年月日 1980年9月30日(31歳)
身長 170cm
体重 59kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1994年
引退年 2007年
ツアー通算 80勝
シングルス 43勝
ダブルス 37勝
生涯通算成績 834勝187敗
シングルス 548勝133敗
ダブルス 286勝54敗
生涯獲得賞金 $20,130,657
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1997-1999)
全仏 準優勝(1997・1999)
全英 優勝(1997)
全米 優勝(1997)
優勝回数 5(豪3・英1・米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1997-99・2002)
全仏 優勝(1998・2000)
全英 優勝(1996・98)
全米 優勝(1998)
優勝回数 9(豪4・仏2・英2・米1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 優勝(2006)
優勝回数 1(豪1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 1位(1997年3月31日)
ダブルス 1位(1998年6月8日)

マルチナ・ヒンギスMartina Hingis, 1980年9月30日 - )は、スイスの女子プロテニス選手。チェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェに生まれる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。安定したバックハンドのストレートを武器にする、融通のきく頭脳プレーの名手である。

ヒンギスは早熟選手であったことから、女子テニス界における数々の最年少記録を保持している。16歳の時に達成した4大大会初制覇(1997年全豪オープンに16歳3ヶ月で優勝)、世界ランキング1位(16歳6ヶ月)、4大大会年間3冠獲得はすべて歴代最年少記録である。彼女は1998年に女子ダブルスの年間グランドスラムを達成したこともあり、シングルス・ダブルスともに世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。

目次

[編集] プロフィール

1980年9月30日、チェコスロバキアコシツェで生まれる。誕生時に、当時チェコスロバキアの代表選手だった母親メラニーが、同じチェコスロバキア出身の名選手マルチナ・ナブラチロワにあやかって娘を「マルチナ」と命名した。(この当時ナブラチロワは24歳で、1978年1979年のウィンブルドン選手権に2連覇していた)。母親の影響で2歳の頃からテニスを習い、早熟な才能を開花させた。スロバキア人であった実の父親とは、マルチナが7歳の時に別れている。8歳の頃にスイスへ移住した。

[編集] 選手経歴

[編集] 天才少女の活躍

1993年、12歳の若さで全仏オープンジュニア女子シングルス優勝。1994年には全仏オープンウィンブルドンのジュニア女子シングルスで優勝した。

1994年10月14日、14歳の誕生日の2週間後にプロデビュー。直ちに1995年全豪オープン4大大会に初出場を果たし、同年の女子テニス協会「最優秀新人賞」を受賞する。

1996年10月にドイツ・フィルダーシュタットの「ポルシェ・グランプリ」でWTAツアー初優勝。女子ツアー年間最終戦(当時の名称は「チェイス選手権」)に大会初出場で準優勝、年末の最終ランキングを4位に上げる。この2回戦で、ヒンギスは日本の伊達公子の現役最後の相手となった(スコア:ヒンギスの 6-1, 6-2)。

1997年1月25日、4大大会史上最年少の「16歳3ヶ月」で全豪オープン初優勝を達成。同年3月31日に「16歳6ヶ月」で史上最年少の世界ランキング1位になり、こうしてヒンギスはモニカ・セレシュが持っていた2つの最年少記録を更新した。(セレシュの記録:1990年全仏オープンに16歳6ヶ月で優勝、1991年3月に17歳3ヶ月で世界ランキング1位)その後ウィンブルドン全米オープンも制覇し、史上最年少の16歳で4大大会3冠を達成した。

ヒンギスは少女時代から日本での広告出演で人気を獲得し、グリコの「カフェオーレ」(1996年)やタニタのヘルスメーター、日本食研の「バランスデイト」(ともに1998年)のテレビCMで日本語を披露したことで、日本のお茶の間にも広く浸透した選手になった。

[編集] パワーテニスの到来から引退へ

しかしながら、あまりにも早くして頂点に上り詰めたせいか、ヒンギスは徐々にテニスへの情熱を失っていく。この頃から女子テニス界は、リンゼイ・ダベンポートビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹などのパワーテニスの時代になりつつあった。情熱を失ったヒンギスは、彼女たちに押されてゆき、少しずつテニス成績が降下していった。1999年全豪オープンを最後に、ヒンギスは4大大会のシングルス優勝から見放されてしまう。

唯一優勝がない全仏オープンでは、1997年の決勝ではクロアチアイバ・マヨリに 4-6, 2-6 のストレートで敗れ、2年後の1999年にはシュテフィ・グラフとの“新旧女王対決”の決勝で 6-4, 5-7, 2-6 の逆転で敗れてしまった。全豪オープンではシングルスで「6年連続」決勝進出の記録を持つが(1997年 - 2002年)、最初は大会3連覇、後は3年連続準優勝になっている。

2002年全米オープンの4回戦でモニカ・セレシュに完敗した後、同年10月の「ポルシェ・グランプリ」2回戦敗退を最後にツアーから離れ、2003年の全豪オープンの時期に新聞を通じて引退表明を行った。それ以後は日本で開催される「ヨネックス・テニス・フェスティバル」に参加するなど、競技とは異なる分野でテニス振興活動を続けてきたが、2005年11月に次年度からの現役復帰を表明する。

[編集] ツアー復帰後

2006年1月にオーストラリアゴールドコーストの「モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権」で現役復帰を果たし、フラビア・ペンネッタイタリア)との準決勝まで勝ち進む。全豪オープンで4大大会にも復帰し、1回戦でロシアベラ・ズボナレワに快勝して再出発を飾り、第2シードのキム・クライシュテルスとの準々決勝まで勝ち進んだ(スコア:クライシュテルスの 6-3, 2-6, 6-4)。同大会の混合ダブルスでは、ダブルスの名手であるマヘシュ・ブパシインド)と組み、決勝でダニエル・ネスターカナダ)&エレーナ・リホフツェワロシア)組を 6-3, 6-3 で破って優勝した。2月の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント東京体育館開催)にも4年ぶりに出場し、準決勝でマリア・シャラポワを 6-3, 6-1 で圧倒したが、2月5日の決勝戦でエレーナ・デメンチェワに 2-6, 0-6 で敗れた。奇しくも、2002年10月のポルシェ・グランプリ2回戦で敗れた最後の対戦相手がこのデメンチェワであり、東京では雪辱を果たせなかったことになる。

3ヶ月後の5月21日、イタリアローマで行われた「イタリア国際選手権」決勝でディナラ・サフィナマラト・サフィンの妹)を 6-2, 7-5 で破り、復帰5ヶ月目で復活優勝を飾った。5年ぶりの復帰となった全仏オープンでは第12シードを得たが、準々決勝でクライシュテルスに 6-7, 1-6 で連敗した。その後はウィンブルドン3回戦で杉山愛に敗れ、全米オープンは2回戦で止まったが、8月下旬の「カナダ・マスターズ」準優勝で世界ランキングトップ10にも復帰した。年末のWTAツアー選手権にも6年ぶりの出場を果たし、ヒンギスは世界ランキング「7位」の位置で2006年のシーズンを終えた(注:WTAツアー選手権は2003年から競技方式が大幅に変更されている。詳しくはこちらを参照)。同年11月に、幼なじみであるチェコの男子プロテニス選手、ラデク・ステパネクと婚約した。

2007年全豪オープンでは、2年連続でクライシュテルスに準々決勝で敗れたが、東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントの決勝でアナ・イバノビッチセルビア)を 6-4, 6-2 で破り、大会最多の5度目の優勝を遂げた。3月初頭にはカタールドーハ大会のダブルスでマリア・キリレンコロシア)とペアを組んで優勝し、復帰後のダブルス初優勝を果たした(2006年度はダブルスの優勝はなかった)。

8月、ヒンギスとステパネクは婚約の解消を発表する。11月1日、ヒンギスはウィンブルドン3回戦敗退後の検査で、薬物のコカインに陽性反応を示したことを明らかにした。本人は薬物使用を否定したが、情熱の喪失を理由に、2度目の現役引退を表明した。体力勝負のパワーテニスが優勢な時代にあっても、彼女ならではの頭脳的なテニスを高い水準で披露してきたが、復帰から2年での引退表明となった。

コカイン陽性反応に対する処分として、国際テニス連盟(ITF)は2008年1月4日、ヒンギスに対し2年間の出場停止、2007年ウィンブルドン以降の大会はすべて失格扱いとし、世界ランキングのポイントと賞金6万5500ポンド(約1400万円)を没収すると発表した。

[編集] 略歴

  • 1994年 14歳でプロデビュー。
  • 1995年 全豪オープンで4大大会初出場。女子テニス協会の「最優秀新人賞」を受賞。
  • 1996年 10月の「ポルシェ・グランプリ」でツアー初優勝。女子ツアー年間最終戦の「チェイス選手権」で準優勝。
  • 1997年 全豪オープンに「16歳3ヶ月」で初優勝を果たし、4大大会史上最年少優勝記録を更新する。3月31日、「16歳6ヶ月」で史上最年少の世界ランキング1位になる。その後ウィンブルドン全米オープンも制覇し、史上最年少の「16歳」で4大大会3冠を獲得。
  • 1998年 ダブルス年間グランドスラムを達成。
  • 2003年 1月の全豪オープンの時期に、新聞を通じてツアー引退を表明する。
  • 2006年 1月から現役復帰。全豪オープンではシングルス・ベスト8、混合ダブルス優勝を果たす。5月のイタリア国際選手権で復帰後初優勝。年末のWTAツアー選手権にも出場し、年間ランキング7位で終える。
  • 2007年 ウィンブルドン3回戦敗退後に薬物陽性反応が出る。11月1日に2度目の現役引退を表明。

[編集] 各種記録一覧

  • 女子テニス協会「最優秀新人賞」:1995年に15歳で受賞。
  • 史上最年少4大大会優勝「16歳3ヶ月」1997年全豪オープンで達成。
  • 史上最年少での4大大会3冠「16歳」:1997年に全豪オープン・ウィンブルドン全米オープンを制覇することによって達成。
  • 史上最年少での世界ランキング1位「16歳6ヶ月」:全豪オープンでの優勝などが功を奏し、1997年3月31日に達成。
  • ダブルス年間グランドスラム:1998年にミリヤナ・ルチッチとのペアで全豪オープン、ヤナ・ノボトナとのペアで全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンを制覇することによって達成。

[編集] 4大大会優勝

  • 全豪オープン 女子シングルス:3勝(1997年-1999年)/女子ダブルス:4勝(1997年-1999年・2002年)/混合ダブルス:1勝(2006年) [女子シングルス準優勝:2000年-2002年、3年連続]
  • 全仏オープン 女子ダブルス:2勝(1998年・2000年) [女子シングルス準優勝2度:1997年・1999年]
  • ウィンブルドン 女子シングルス:1勝(1997年)/女子ダブルス:2勝(1996年・1998年)
  • 全米オープン 女子シングルス:1勝(1997年)/女子ダブルス:1勝(1998年) [女子シングルス準優勝2度:1998年、1999年]
大会 対戦相手 試合結果
1997年 全豪オープン フランスの旗 マリー・ピエルス 6-2, 6-2
1997年 ウィンブルドン チェコの旗 ヤナ・ノボトナ 2-6, 6-3, 6-3
1997年 全米オープン アメリカ合衆国の旗 ビーナス・ウィリアムズ 6-0, 6-4
1998年 全豪オープン スペインの旗 コンチタ・マルチネス 6-3, 6-3
1999年 全豪オープン フランスの旗 アメリ・モレスモ 6-2, 6-3

[編集] 外部リンク

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