バレンティーノ・ロッシ
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| バレンティーノ・ロッシ | |
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バレンティーノ・ロッシ |
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| 国籍 | |
| 生年月日 | 1979年2月16日(30歳) |
| 出身地 | ペーザロ・エ・ウルビーノ県ウルビーノ |
| ウェブサイト | fanclubvalentinorossi.com |
| ロードレース世界選手権での記録 - 現在MotoGPクラスに参戦中 - |
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| 現在のチーム | フィアット・ヤマハ・チーム |
| ゼッケン | 46 |
| チャンピオン | 8 125cc - 1997年 250cc - 1999年 500cc - 2001年 MotoGP - 2002年, 2003年, 2004年, 2005年, 2008年 |
| レース数 | 210 |
| 優勝回数 | 100 |
| 表彰台回数 | 151 |
| PP回数 | 51 |
| FL回数 | 78 |
| 通算獲得ポイント | 3720 |
| 2008年の成績 | 1位 (373ポイント) |
バレンティーノ・ロッシ(Valentino Rossi, 1979年2月16日 - )は、イタリア・ウルビーノ出身のオートバイ・ロードレースライダー。
愛称は「バーレ」「ザ・ドクター」「ろっしふみ」。フィアット・ヤマハ・チーム所属。
ロードレース世界選手権参戦以来13年間で8回のワールドチャンピオンを獲得しており、「史上最強のライダー」との呼び声も高い。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] アプリリア在籍時代(125cc・250cc)
1996年、イタリア選手権チャンピオンとしてロードレース世界選手権125ccクラスにアプリリアからデビュー。チェコGPで初優勝を遂げる。この頃は当時125ccクラスを席巻していた日本人ライダーら(青木治親・坂田和人・上田昇など)に親しく接し、現役チャンピオンだった青木はロッシによくアドバイスを与えていたという(後に青木は「あんなに強くなるんなら教えるんじゃなかった」といった旨のコメントをしている)。翌1997年には11勝を挙げ初のチャンピオンに輝く。
1998年、250ccクラスにステップアップ。同じアプリリアの先輩である原田哲也、ロリス・カピロッシが展開するチャンピオン争いに割って入り、ランキング2位。原田の抜けた翌1999年はホンダの宇川徹を下してチャンピオンに。
[編集] ホンダ在籍時代(500cc・MotoGPクラス)
最高峰500ccクラスにステップアップするにあたり、ホンダに移籍することを決断。ホンダはロッシを迎えるにあたり、実質ワークス格のロッシ用チーム、ナストロ・アズーロ・ホンダを結成。エンジニアにGP界で数々のチャンピオンを生み出したジェレミー・バージェスを起用するという、500ccルーキーとしては破格の待遇であった。
500cc参戦初年度の2000年、ロッシは最新型ホンダNSR500を駆り大いに注目を集めたが、シーズン序盤は慣れぬマシンに戸惑い転倒が目立った。シーズンが進むにつれ安定感が現れ、中盤のイギリスGPで初優勝。終盤のリオGP(ブラジル)でも優勝し2勝でランキング2位を獲得した。また、日本メーカーであるホンダに移籍したことから、ロッシが出場を望んでいた鈴鹿8耐にも参戦。コーリン・エドワーズとのペアで挑んだがリタイアに終わる。
500cc2年目の2001年、ロッシは11勝を挙げ圧倒的な強さでチャンピオンを獲得、3クラス制覇の偉業を成し遂げる(全て参戦2年目での達成)。開幕戦日本GP(鈴鹿)ではホンダのWGP通算500勝目を記録、また前年と同じ体制で挑んだ鈴鹿8耐では優勝するなど、ロッシがロードレース界に君臨した年であるといえる。
2002年、最高峰クラスが500ccクラスからMotoGPクラスに移行してもロッシの強さは変わらなかった。この年、ワークスのレプソル・ホンダに加入。ホンダが新たに投入した4ストロークマシン、RC211Vを駆ったロッシはまたしても11勝を記録、チャンピオンに。翌2003年はヤマハからライバルのマッシミリアーノ・ビアッジ、スズキからセテ・ジベルナウが同じホンダ(サテライトチーム)に移籍し、苦しいシーズンになるかと思われたものの、蓋を開けてみれば9勝を挙げチャンピオン獲得。最終戦バレンシアGPで2004年からのヤマハへの移籍を発表した。
[編集] ヤマハ移籍
後述の理由などもあって、当時常勝を誇ったホンダからMotoGPクラス開始以来2勝しか挙げていなかったヤマハに優勝請負人として移籍したロッシ。ヤマハも過去2年間で培った技術を元に新開発エンジンを投入、またロッシの希望からホンダ時代のエンジニアであるバージェスをホンダから引き抜きロッシと2人3脚でマシンを開発。ウィンターテストの段階から2004年型ヤマハYZR-M1は戦闘力を大幅に上げていた。
そして挑んだ2004年開幕戦・南アフリカGP。ロッシは予選でポールポジションを獲得、決勝でもホンダのエース格・ビアッジとの激しい優勝争いを展開。激闘の末、見事ロッシは移籍初戦を優勝で飾り、ウィニングラップで感動のあまり号泣しマシンにキスをした(と報道されたが、自叙伝では「メットの中で大笑いしていたのさ!」と語っている)。
その後もロッシはホンダ時代と変わらない強さを見せ、9勝でチャンピオンを獲得。優勝請負人としての仕事を果たしてみせた。ファンや関係者からは「ホンダやヤマハが強いのではなく、ロッシとバージェスのコンビがいるところが強いのだ」といった感想さえ聞こえた。事実、この年ヤマハはロッシの他に3人のライダー(※カルロス・チェカ、※阿部典史、マルコ・メランドリ)が同じ年式のYZR-M1に乗っていたが誰も1勝さえ挙げていない。それほどまでにロッシの強さは際立っていた。※・・・優勝経験者(当時)
2005年もロッシは11勝でチャンピオンを獲得。これで2001年から続く最高峰クラス連覇を「5」とし、1994年~1998年に500ccクラスを5連覇したマイケル・ドゥーハンの記録に並んだ。2006年はこの記録を「6」に伸ばすべく同じくヤマハで戦ったが、開幕戦スペインGPでスタート直後に後続車に追突されるというアクシデントを皮切りに例年にない苦しいシーズン運びを強いられる。ポルトガルGPでようやくランキングトップに躍り出たものの、続く最終戦バレンシアGPで転倒。ホンダのニッキー・ヘイデンにタイトルを奪われ6年連続チャンピオン獲得とはならなかった。
[編集] 800cc時代
2007年はMotoGPのマシンレギュレーションが変更となり、排気量が800ccに引き下げられエンジン出力が低下した。そのため前年までのマシンに求められた有り余るパワーのコントロールよりも、コーナリングスピードを高め限られたパワーを使い切るスタイルが求められるようになった。このようなスタイルは比較的GP250のそれに似ており、04年/05年とGP250クラスを連覇したダニ・ペドロサがロッシの強力なライバルとして予想されていた。しかし開幕してみるとペドロサと同じくGP250出身でMotoGPクラス2年目のケーシー・ストーナー(ドゥカティ)が圧倒的な強さで勝利を重ね選手権をリードした。ロッシも4勝し何とか食らいついたが敵わず、終盤の日本GPでチャンピオンを逃した。
2008年は前年にストーナーが独走する大きな要因のひとつとなったブリヂストンタイヤを自身のマシンに採用、タイヤによるハンディの回復に努めた。序盤はチームメイトで250ccクラスからステップアップしたばかりの新人ホルヘ・ロレンソの驚異的パフォーマンスが話題となる中、ブリヂストンタイヤに慣れる時間を要したのか少々出遅れた感もあった。第4戦中国GPでシーズン初勝利をあげるとシーズン終盤には5連勝を記録。計9勝で3年ぶりとなるチャンピオンに返り咲いた。
[編集] ライディングスタイル
ロッシのライディングは長身・長い手足を生かした積極的な荷重コントロールによってマシンの性能を最大限引き出すことが特徴的である。またタイヤのスライド感覚にも優れ、2002年に駆ったホンダRC211Vのエンジンブレーキ(バックトルク)によるリアタイヤのスライドに他のライダーが悩まされる中、ロッシはそのスライドを積極的にコーナリングに活用しアドバンテージを得ていた。
タイヤのスライド感覚が鋭いため、スリップダウン・ハイサイドでの転倒が極端に少なくロッシの安定した強さの要因(=リタイア・怪我が少ない)にもなっている。特にハイサイドの処理は秀逸で、マシンから振り落とされそうになっても一瞬早く反応して収束させてしまうライダーは稀有である。受け身も巧いため転倒した場合にも大怪我を負いにくいという強みも併せ持つ。MotoGPスタートの2002年からの全戦を参加しているのはロッシだけである。
その一方で近年までは雨には弱く、著しく成績が下がるか転倒といったパターンであった。目立つところでは2001年イタリアGP、本来得意なムジェロで最終ラップで転倒し雨に弱いイメージの一因となっている。しかしここ数年ほどの間に雨を克服したようで、2005年の中国GPでは雨のレースでオリビエ・ジャックを押さえ優勝を飾っている。
レーススタイルとしては典型的な「差し馬」型で、トップを走るライダーの後にぴったり付け、ラスト2~3周でスパート・優勝というパターンがホンダ時代には多く見られた。ヤマハに移籍してからは、マシンの違いから他の勝ち方も見られるが大きくは変わってはいない。予選一発の速さ的には他のライダー、には負ける事があっても予選4番手以降(=フロントローが取れなくとも)から気づけばトップというレース展開は定番である。
[編集] 人物
[編集] 性格
イタリア人らしく非常に陽気な性格で知られる。ファンサービス精神にあふれており、ウィニンングラップではウィリー・バーンアウトを積極的に行ったり、後述のイベントなどで観客を楽しませる。
しかしレースに対する姿勢は非常にプロフェッショナルであり、テストを積極的にこなしマシン開発に尽力する。また自らのミスで成績が芳しくない時などは無口で厳しい表情を見せるが、自身、同郷と言うことで応援していたビアッジの、上手くいかない際はマシンのせい、スタッフのせいというあまりの態度に辟易した過去もあり、リタイアの原因がマシントラブルにあったとしても、公の場でスタッフを責める発言は口にしない。また勝利の際は必ずチームとスタッフに謝意を述べる。こうした性格のギャップもロッシの魅力の一つである。
[編集] 幼少期
かつてスズキで活躍したGPライダー、グラツィアーノ・ロッシの子として生まれる。父親が強制したわけではないが、幼少のころよりポケバイ・カートに興じ、当時からライディング感覚は優れていたという。
[編集] ビジュアルへのこだわり
ロッシの大きな特徴としてビジュアルデザインに対するこだわりがある。ヘルメット・ツナギやマシンに後述のキャラクター・パロディなどの遊び心にあふれたステッカーを多数製作・貼付している。また、2001年までは地元イタリアGPでマシン自体にスペシャルカラーを施していた。
ヘルメットデザインの多彩さは他のライダーの及ぶところになく、毎年2~3つのデザインを使いまわしている。地元イタリアGPでは毎年スペシャルデザインを用意している。2008年イタリアGPでは、自らの顔写真をヘルメット頭頂部にデザインし(ストレートなどで伏せると正面を向くようになっている、この時の顔は「ブレーキングポイントで踏ん張った時の顔」であった)特に話題を呼んだ。
主なキャラクターは月と太陽、ブルドッグ、カメ、ザ・ドクター。好きな色は黄色である。 月と太陽のデザインはロッシ自身の二面性を表しているらしい。
パロディ・自虐ネタが好きで、2004年序盤に4位が続いて迎えた地元イタリアGPでは、ヘルメットに木のメダルをデザインし(金・銀・銅に次いで4位は木という意味。もちろんイタリアの洒落)、「自分には4位がお似合いだ」というメッセージを込めた(結果は優勝)。また不振が続く2006年には、シートカウルが定位置になっているブルドッグのステッカーにランキング1位のライダーと自分とのポイント差を気温差のように表示し、ポイント差が開くとマイナスの度合いが開きブルドッグが凍えていく、という皮肉なデザインを使っていた(普段のブルドッグは暑そうにしている。最大時にはブルドッグはアイスブロックで覆われていたが、その後ポイントが縮まりアイスブロックは撤去された)。
[編集] ヤマハ移籍の理由
ロッシがホンダからヤマハへ移籍した最大の理由は、当時無敵を誇ったRC211Vに乗らずとも自らの力量で勝利を勝ち取れることを誇示したいという思いからであった。同時に、ホンダのある種非情なまでの常勝主義(技術にしろイメージにしろ)、市販車にフィードバックすることが第一という商業主義、ライダーの尊厳を低く扱う事にも不満を持っていた(優勝したライダーはその年のマシンを永久に貸与されるのが通例であるが、2001年モデルのNSR500を譲り渡す姿勢を見せつつ本音では絶対譲るつもりがないホンダに対し、非常な憤りを感じた)。とはいえ当初はホンダを去るつもりはなかったが、2003年初頭、接触してきたヤマハとドゥカティを移籍先の候補に考え初め、両社の社風に触れるうちにホンダで勝利を重ねる(常勝であることを求められ続ける)環境に次第に魅力を感じられなくなった。その後ドゥカティにホンダと似た雰囲気を感じ、最終的にヤマハへの移籍を決意したようである。
[編集] 憧れる人物
若手時代、日本人GPライダー阿部典史の大ファンだったことで知られ(阿部がワイルドカード参戦した1994年日本GPの走りを見て憧れたという)、阿部への尊敬から自らにろっしふみ(ロッシ+のりふみ)というニックネームを付けたほどだった。また、阿部のニックネーム「ノリック」にならい、Valentinic(バレンティニック)と書いたロゴをマシンに貼ったこともある。
それ故2007年10月の阿部の交通事故死に対し、ロッシは大きなショックを受け、直後に行われた2007年オーストラリアグランプリで「ノリックは僕のアイドル。唯一サインを求めたライダーだ」と阿部への追悼コメントを述べ、決勝には喪章を付けて臨んだ。
また、もう一人のアイドルはWRCドライバーのコリン・マクレーで、この年相次いで二人のアイドルを失ったロッシは「2007年はよくない年だ」と語った。
[編集] その他
- 2005年の推定年収は33億円。過去に海外収入の扱いを巡って自国の税務当局とトラブルを起こしたことがある。
- 2006年収入はスポーツ紙スポルトによるとスポーツ界ランキング7位 約35億でロナウジーニョ(8位)やジータ-(10位)より上だった。
- ゼッケンナンバーはデビュー以来一貫して「46」を使い続けている。この番号は父グラシアーノが現役時代に好んで使用していた番号である。MotoGPでは前年のチャンピオンに「1」を付ける権利があり、それを用いるのが一般的であるが、ロッシはチャンピオンになった翌年も「46」を使っている。
- 大のタバコ嫌いとして有名で、以前タバコ会社がスポンサーを務めるチームからのオファーを蹴って比較的ギャラの低いレプソル・ホンダに所属していた。ただし、ヤマハ移籍後2年間は、ゴロワーズ・キャメルとタバコ会社がスポンサーを務めるチームに所属していた。
- 2005-2006年シーズンオフにフェラーリF1チームのテストに本格的に参加。2007年からF1に転向するという噂が流れた。また、2008年シーズン終了後にはMotoGPチャンピオン獲得のご褒美として再びフェラーリのテストに参加した。
- WRCにも3度の出場経験がある。初出場は2002年のラリー・グレードブリデンで、周囲からの大きな注目を集めていたが、2本目のSSでコースアウトと、無念の結果に終わった。4年後の2006年には、ラリー・ニュージーランドに出場。絶対完走を目標にスタートし、序盤はグループNより遅かったが、持ち前の適応能力を発揮し、最後は11位でフィニッシュした。そして2008年には、チャンピオン獲得後の慌ただしいスケジュールを縫って2002年と同じラリー・グレードブリデンに出場。12位でフィニッシュした。他にも地元のラリーイベントに参加するなど、かなりのラリー好きでWGP引退後はラリー転向もほのめかしている。3度の出場時とも、カーナンバーは「46」。特に、初めてのWRC出場となった2002年は、運営上の都合により37から50までが欠番となっていた為、年間を通じて40番台を付けて出場したのはロッシのみである。
- 個人スポンサーとしてイタリアのビールブランドであるナストロ・アズーロがついている。500cc時代まではロッシの所属チームのメインスポンサーを務めていたが、現在はロッシの被る帽子にそのロゴを見ることができる(人物欄の写真を参照)。また、使用するヘルメットメーカーは一貫してイタリアのAGV。ツナギなどライディングウェアは全て同じくイタリアのダイネーゼと契約している。
- 世界中を転戦するMotoGPであるが、彼のファンクラブは熱心に全てのレースに帯同し、ロッシが勝つとウィニングラップにコースに出てきてロッシと喜びを分かち合う。チャンピオン獲得など記念すべきレースでは何らかのイベントを用意している場合が多い。
- レース開始前、ピットから出て行く際には必ずマシンのステップを掴んでしゃがみこみ、精神統一する儀式を行う。
- イタリアが優勝した2006年サッカーワールドカップドイツ大会直後の開催だったドイツGPで優勝。その表彰式にて、ワールドカップ決勝戦でジダン選手から頭突きを受けた事で時の人となっていたイタリア人DF・マテラッツィ選手(インテル・ミラノ所属)のイタリア代表ユニフォームを着て表彰台に上がった。そのユニフォームはマテラッツィ本人に優勝を祝福する連絡をした所、本人からそのお礼に送られたものだった。
- イタリア国内でも勿論人気は高く、様々な番組にて彼は登場、または取り扱われているが、ロッシの特徴的な癖の一つである股間を触る行為をイタリア・コメディアンに頻繁に真似されている。
[編集] 主な戦績
- 1995年:イタリア選手権125ccチャンピオン
- ヨーロッパ選手権125ccランキング3位
- ロードレース世界選手権125ccランキング9位 1勝(チェコ)
- 1997年 - ナストロ・アズーロ・チーム/アプリリアRS125
- 1998年 - ナストロ・アズーロ・チーム/アプリリアRS250
- 1999年 - アプリリア・グランプリ・レーシング/アプリリアRSW250
- ロードレース世界選手権250ccチャンピオン 9勝(スペイン、イタリア、カタルニア、イギリス、ドイツ、チェコ、オーストラリア、南アフリカ、ブラジル)
- ロードレース世界選手権500ccランキング2位 2勝(イギリス、ブラジル)
鈴鹿8時間耐久ロードレースリタイヤ(コーリン・エドワーズ)(カストロール・ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- 2001年 - ナストロ・アズーロ・ホンダ/ホンダNSR500
- ロードレース世界選手権500ccチャンピオン 11勝(日本・鈴鹿、南アフリカ、スペイン、カタルニア、イギリス、チェコ、ポルトガル、パシフィック・もてぎ、オーストラリア、マレーシア、ブラジル)
鈴鹿8時間耐久ロードレース優勝(コーリン・エドワーズ)(チーム・キャビン・ホンダ/ホンダVTR1000SPW)
- ロードレース世界選手権MotoGPチャンピオン 11勝(日本・鈴鹿、スペイン、フランス、カタルニア、イタリア、オランダ、イギリス、ドイツ、ポルトガル、ブラジル、オーストラリア)
- 2003年 - レプソル・ホンダ・チーム/ホンダRC211V
- ロードレース世界選手権MotoGPチャンピオン 9勝(日本・鈴鹿、スペイン、イタリア、チェコ、ポルトガル、ブラジル、マレーシア、オーストラリア、バレンシア)
- ロードレース世界選手権MotoGPチャンピオン 9勝(南アフリカ、イタリア、カタルニア、オランダ、イギリス、ポルトガル、マレーシア、オーストラリア、バレンシア)
- 2005年 - ゴロワーズ・ヤマハ/ヤマハYZR-M1
- 2006年 - キャメル・ヤマハ/ヤマハYZR-M1
- ロードレース世界選手権MotoGPランキング2位 5勝(カタール、イタリア、カタロニア、ドイツ、マレーシア)
- 2007年 - フィアット・ヤマハ/ヤマハYZR-M1
- ロードレース世界選手権MotoGPランキング3位 4勝(スペイン、イタリア、オランダ、ポルトガル)
- 2008年 - フィアット・ヤマハ/ヤマハYZR-M1
- ロードレース世界選手権MotoGPチャンピオン 9勝 (中国、フランス、イタリア、アメリカ、チェコ、サンマリノ、インディアナポリス、日本、マレーシア)
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[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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| マルボロ・ドゥカティ | レプソル・ホンダ | リズラ・スズキ | フィアット・ヤマハ | グレシーニ・ホンダ | プラマック・ドゥカティ | ||||||
| 27 | 3 | 7 | 46 | 15 | 36 | ||||||
| 69 | 4 | 65 | 99 | 24 | 88 | ||||||
| ハヤテ・カワサキ | テック3・ヤマハ | LCR・ホンダ | スコット・ホンダ | オンデ2000・ドゥカティ | |||||||
| 33 | 5 | 14 | 41 | 59 | |||||||
| 52 | 72 | ||||||||||

