スクーデリア・フェラーリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
フェラーリ
エントリー名 Scuderia Ferrari Marlboro
チーム国籍 イタリアの旗 イタリア
チーム本拠地 イタリアの旗 イタリアマラネロVia Ascari,55-57 41053
チーム代表者 ステファノ・ドメニカリ
テクニカルディレクター アルド・コスタ
2012年のF1世界選手権
ドライバー 5.フェルナンド・アロンソ
6.フェリペ・マッサ
テストドライバー ジャンカルロ・フィジケラ
マルク・ジェネ
シャーシ 150° イタリア(662)
エンジン Tipo056
タイヤ ピレリ
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1950 -
出走回数 812 (1809台)
コンストラクターズ
タイトル
16(1961, 1964, 1975, 1976, 1977, 1979, 1982, 1983, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2007, 2008,)
ドライバーズ
タイトル
15(1952, 1953, 1956, 1958, 1961, 1964, 1975, 1977, 1979, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2007)
優勝回数 216
通算獲得ポイント 4697.5
表彰台(3位以内)回数 641
ポールポジション 205
ファステストラップ 227
F1デビュー戦 1950年モナコGP
初勝利 1951年イギリスGP
2011年順位 3位(375ポイント)
( ※ : 記録は2011年ブラジルグランプリ終了時 )
テンプレートを表示


スクーデリア・フェラーリScuderia Ferrari)は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリモータースポーツ部門である。F1コンストラクターとして、メインスポンサーであるタバコブランド「マールボロ」の名を冠し、「スクーデリア・フェラーリ・マールボロ」(Scuderia Ferrari Marlboro)が正式名称となっていたが、2011年7月8日の段階でチーム名から「マールボロ」のスポンサー名を外す事を決断した[1]。かつては、ル・マン24時間レースミッレミリアカレラ・パナメリカーナ・メヒコなどにも参戦していた。

スクーデリア(Scuderia)」はイタリア語厩舎から転じた、「チーム」に当たる言葉で、英語のsquadに相当する。

目次

[編集] 概要

スクーデリア・フェラーリは、一貫してシャーシとエンジンを内製してきたフルコンストラクターであり、レーシングチームとして60年以上に渡り活動を続けている。現在の母体企業であるフェラーリ社も、スクーデリア・フェラーリの活動資金を得るために高級スポーツカーを市販したのが始まりである。同社は自社敷地内にピスタ・ディ・フィオラノフィオラノサーキット)と呼ばれるテストコースまで所有しており、F1を始めとして、過去にF2スポーツプロトタイプによる耐久レースなど、様々なカテゴリーで成功を収めている。また、F1世界選手権創設時から参戦を続ける唯一のチームで、2009年までに最多の16回のコンストラクターズタイトルを獲得し、9人のワールドチャンピオンを輩出。通算最多勝・最多出走など、数多くのタイトルと記録を保持する。

[編集] 歴史

[編集] 創成期

ニュルブルクリンクに並ぶ
FLと歴代F1マシン
(第10回フェラーリ・トラック・デー
2003年7月23日

1929年アルファ・ロメオのレーシングドライバーエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に創設し、アルファ・ロメオのセミワークスチームとして活躍した。1938年ワークス・チームへ吸収されるが、翌年エンツォが経営陣との対立から会社を去る。第二次世界大戦後の1947年にフェラーリ社を興し、レーシングカーと市販車の製造を始めると、再び「スクーデリア・フェラーリ」の名でレース界に参入。ミッレ・ミリアル・マン24時間耐久レースなどのメジャーイベントに勝利し、強力な新興勢力となった。

[編集] 1950年代

1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファ・ロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切って落とされた。1951年イギリスグランプリで、フロイラン・ゴンザレスが、それまで出走した全てのGPで勝利を獲得してきたアルファ・ロメオを初めて破り、初勝利を獲得した。この際、エンツォは歓喜とともに「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らした。

アルファ・ロメオが撤退し、F2規定下で行われた1952年1953年はスクーデリア・フェラーリの独擅場となり、アルベルト・アスカーリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌年も連覇を達成した。アスカーリの個人9連勝、チームの14連勝は最多連勝記録として今なお破られていない(当時選手権対象だったインディ500に不参加のため、出走レースという条件付きの記録)。

メルセデス・ベンツの後塵を拝した後、1956年にはファン・マヌエル・ファンジオが加わり、ランチアから譲り受けたマシン(フェラーリ・ランチア)で自身4度目の王座を得た。ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場となる。1958年はエンツォの死児の名を冠した「ディーノ」V6エンジン搭載車でマイク・ホーソンがチャンピオンを獲得したものの、初代コンストラクターズタイトルをヴァンウォールに奪われた。さらに旧態な設計思想が災いし、クーパーの軽量ミッドシップマシンの台頭を許した。

[編集] 1960年代

1961年、再び規定変更が幸いして、初のコンストラクターズとドライバーズ(フィル・ヒル)の2冠を制したが、地元イタリアGPウォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み死亡、14名の犠牲者を出す悲劇に見舞われた。1964年は、しぶとく戦ったジョン・サーティースが、最終戦の最終周回での逆転劇で2冠をもたらした。

しかし1960年代は押し並べてロータスなどの英国勢に先行され、チーム運営も内紛や経営不安などで混乱した。1962年には主要幹部が脱退し、翌年新チームATSを結成(フィル・ヒルも移籍する)。さらに買収交渉の決裂に端を発し、フォードがF1界へフォード・コスワース・DFVエンジンを送りこみ、フェラーリ包囲網が敷かれることになる。1969年、フェラーリ社は経営安定のためフィアット傘下に入り、市販車部門の管理を委ねたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォが手綱を離さず、建て直しを図った。

[編集] 1970年代

1976年ドイツグランプリ予選中のニキ・ラウダ312T2
明くる決勝日、クラッシュによる猛火に包まれ、重いやけどを負うことになる。

新たに開発された水平対向ボクサー12気筒エンジンが、名門復活の鍵となった。1973年に25歳のルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年から加入したニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1970年代後半にチームは黄金期を迎える。横置きトランスミッションを採用したマシン、312Tシリーズで1975年からコンストラクターズ・タイトルを3連覇。ラウダも瀕死の大事故に遭いながら、1975年と1977年のチャンピオンに輝いた。

1979年ジョディー・シェクタージル・ヴィルヌーヴのコンビが活躍し、ダブルタイトルでボクサー黄金期を締めくくった。ヴィルヌーブは往年の名手タツィオ・ヌヴォラーリの再来と呼ばれ、ティフォシのアイドルとなった。

[編集] 1980年代

ルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを採用し、弱点のシャーシ設計でも、ハーベイ・ポスルスウェイトをチームに招き、英国系技術の導入を進めた。1982年1983年のコンストラクターズを連覇したが、ドライバー間の対立がチームに暗い影を落とした。1982年のサンマリノGPディディエ・ピローニの背信行為に怒ったヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中、冷静さを欠いた走りが事故を招いてしまい死亡。その後ピローニもドイツGPのフリー走行中に両足を粉砕骨折する重傷を負い、F1キャリアを断たれた。

それ以降は久々のイタリア人エース、ミケーレ・アルボレートが奮闘したが、ターボ開発競争でポルシェホンダのエンジンに苦杯を舐めさせられた。1988年8月には創始者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。1か月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーマクラーレン・ホンダの連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げた。この後、エンツォの死によりスクーデリア・フェラーリの運営権もフィアットが握ることになる。

1989年ナイジェル・マンセルが加入し、V12自然吸気エンジンを搭載し、斬新なセミオートマチックトランスミッションを採用したマシン640を実戦投入するも、信頼性に課題を残した。チームメイトのベルガーはこのシーズンを最後にマクラーレンへ移籍した。

[編集] 1990年代

カナダグランプリ ジャン・アレジと412T2
1995年6月

1990年にはマクラーレンでチャンピオンを獲得したアラン・プロストが加入し、10年ぶりに“カーナンバー1”をつけた。プロストはアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げ、惜しくもタイトルを逃したが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成した。1991年も引き続きプロストが残留。ナイジェル・マンセルの入れ替わりにジャン・アレジを起用し、タイトル奪還を目論んだ。しかしエンジンパワー不足やエアロダイナミクスの失敗、さらにはシーズン終盤にチーム批判を繰り返したプロストを解雇するなどチーム内が混乱。1986年以来の0勝に終わり、タイトル争いにも絡めなかった。この年はフィアットからルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロが送り込まれ、社長に就任した。1992年F92Aの信頼性がなく、完走もできないレースが続いた。1993年は、マクラーレンから戻ってきたゲルハルト・ベルガーとアレジを据えるが、結局3シーズンの間、1勝もできない最長の低迷期に陥っていた。

この危機にモンテゼーモロはチームマネージャー(監督)に、WRCル・マン24時間レースに参戦していたプジョーで、実績を残してきたジャン・トッドを招聘。トッドは1993年フランスGPから指揮を取り、人材確保と抜本的な体制改革に取り組んだ。1994年ドイツGPでは4シーズンぶりにベルガーが勝利し、復活の第一歩を踏み出す。1995年にはアレジもカナダGPで自身初勝利を上げ、徐々に成果も出始めた。その一方でベルガーとアレジの契約を同年で終了。当時2年連続ドライバーズチャンピオンミハエル・シューマッハベネトン)とエディ・アーバインジョーダン)との契約を締結し、1996年シーズンからドライバーを一新した。

同年、スペインGPでシューマッハが移籍後初勝利し、シーズンで計3勝を上げた。技術陣もジョン・バーナードグスタフ・ブルナーらに代わり、ベネトンのロス・ブラウンロリー・バーンらを据え、フェラーリはシューマッハを中心とする一枚岩の体制“チーム・シューマッハ”を構築。この体制で1997年以降、タイトル争いに毎シーズン絡んでいくこととなる。1997年はウィリアムズ1998年はマクラーレンと僅差のタイトル争いを繰り広げたが、ともに最終戦でタイトルを逃した。1999年は、途中シューマッハの事故で体制存続が危ぶまれたり、第15戦マレーシアGPで決勝後、競技審査委員会からレギュレーション違反で一旦失格になる騒動(結果的にフェラーリはFIAの国際控訴裁判所で逆転無罪を得る)もあったが、最終戦で16年ぶりにコンストラクターズタイトルを獲得した。

[編集] 2000年代

F2004(2004年)

2000年は、前年第8戦イギリスGPミハエル・シューマッハが事故により欠場後、同シーズンのF399の風洞開発を止め、マシンの熟成をそれ以上行なわないで、代わりに2000年シーズンのF1-2000の開発に注力する決断したことが功を奏し[2]、コンストラクターズと合わせて、21年ぶりのドライバーズタイトルをシューマッハが獲得した。その後、コンストラクターズ・チャンピオンシップを1999年から2004年まで6連覇、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズ・チャンピオンシップ5連覇(2000年から2004年にかけて5年連続ダブルタイトル)を成し遂げた。この期間のフェラーリはブリヂストンタイヤと密接な関係を築き、他チームを圧倒した。2002年カナダGPでF1通算150勝に到達し、そのシーズンは17戦中15勝、2004年も18戦中15勝と、「最強チーム」の名をほしいままにした。

しかし、2005年は、新型マシンである「F2005」がレギュレーションへの対応に失敗、21世紀になって初めてタイトルをルノーフェルナンド・アロンソにあけ渡してしまう。翌2006年フェリペ・マッサが加入するが、新車の信頼性不足などのために序盤で落としたレースが多く、シーズン全体的に安定感を見せていたルノー+アロンソに再び敗れた。2006年末には11年間在籍したシューマッハが現役を引退(2010年に現役復帰)。他のロス・ブラウンなどの主要メンバーの人事異動を含め、ひとつの節目を迎えた。

2007年はシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入し、マッサとコンビを組んだ。シューマッハもスーパーアドバイザーとしてチームと新たな関係を結び、ヨーロッパラウンドの数戦はレースに帯同した。シーズン序盤は信頼性に苦んでライバルのマクラーレンに後れを取ったが、一連のスパイ疑惑事件でマクラーレンがコンストラクターズ部門から除外されたために同チャンピオンを早々と確定させる。中国GPでF1通算200勝を達成、そして最終戦ブラジルGPにおいてライコネンが逆転でワールド・チャンピオンに輝き、コンストラクター&ドライバーの二つの栄冠を奪還することに成功した。なおブラジルGPではマッサも2位にはいって1-2フィニッシュを遂げ、最終的なシーズンポイントを204としてマクラーレンが除外されなかった場合の203ポイントを1ポイント上回り[3]、トラック上の争いでもコンストラクターズチャンピオンにふさわしいチームであったことを証明して見せた。また、この年の年末にはチーム代表がジャン・トッドからステファノ・ドメニカリに交代した。

2008年フランスGPではF1通算200回目のポールポジションを獲得した。この年もチャンピオン争いは混沌とし、最終戦までマッサがランキングトップのルイス・ハミルトンを追っていたが、1ポイント差で敗れた。

2009年シーズンは苦戦を強いられた。この年から搭載が認められたKERSF60に搭載するも、当初は入賞圏内フィニッシュさえままらないほど、成績が低迷し、1993年以来16年ぶりにポールポジションを記録せず、かつコンストラクターズで4位に転落した。また、ハンガリーGPにおいて、バリチェロのマシンから外れた部品がマッサのヘルメットに直撃し長期離脱を余儀なくされた。その苦しい状況のなかで、ライコネンがベルギーGPで勝利をあげた。

2000年頃からのマシン開発はエアログリップを重視する傾向が強い。1998年の自社風洞設備(豊富な資金をバックにした、当時最先端のもの)の完成、空力に明るいデザイナー陣の存在、ブリヂストンのフェラーリ向けスペシャルスペックタイヤ(ミシュラン参戦時)の影響など要因は複数ある[4]が、結果として裏返しに、メカニカルグリップが求められる低中速、もしくは縁石の高いサーキットでは苦戦している。特に、ダウンフォースがほとんど期待できないモナコでは2001年以降勝利から遠ざかっている。

[編集] 2010年代

2010年は、ライコネンの後釜としてルノーからフェルナンド・アロンソが加入し、マッサとコンビを組んだ。2005・2006年の王者であるアロンソが5勝を挙げたが、最終戦でセバスチャン・ベッテルに年間王者をさらわれた。

2011年の序盤戦はマシンのパフォーマンスに苦しみ、テクニカルディレクターのアルド・コスタが5月に解任されるに至った[5]。中盤になるとレッドブルやマクラーレンとほぼ互角に戦えるようになり、イギリスGPではフェラーリのF1初勝利から60周年の節目でアロンソが勝利を飾った。ベッテルがポイントランキングを独走する状況でアロンソが混戦の2位争いに加わっている。

なお2011年シーズンの途中(7月)にスポンサーのマールボロをチーム名から外し、単に「スクーデリア・フェラーリ」となった[1]

[編集] ドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー

[編集] エンジン供給

レッドブル・RB2(2006年)

かつては門外不出であったフェラーリエンジンであったが、近年は下記のチームにカスタマー仕様で供給されている。

2008年イタリアグランプリで、スクーデリア・トロ・ロッソのセバスチャン・ベッテルのドライブよりカスタマーのフェラーリエンジンとして初優勝を飾った。

[編集] F1における特別待遇

2008年12月20日のイギリス「タイムズ」紙にて、バーニー・エクレストンがフェラーリに特別待遇があることを暴露した。エクレストンが語ったところによると、フェラーリは毎年他のチームよりもより多額の分配金を受け取っているという。この事実は今までどのF1チームにも秘密にされてきた。その額は年間約8000万ドル。

その経緯としては、2003年に複数のF1チームがGPMA(グランプリ・マニュファクチャラーズ・アソシエーション)を結成し、F1に代わる新たなカテゴリーを立ち上げようと結託した際、この年間8000万ドルの分配金でフェラーリを買収し、GPMAから離脱させたと言う。

ルカ・モンテゼーモロが、現在より多くの分配金を得るために、現在は不明瞭な分配金をより明確にすることを要求した発言に対して、エクレストンは「彼が唯一語ろうとしないのは、フェラーリが他のチームよりも多額の分配金を受け取っていることや、フェラーリが何年も特別な扱いを受けていることだ。」と暴露した。更にその経緯についても言及し「我々は年間8000万ドルでフェラーリを買収した。フェラーリの忠誠心を買った。」と語っている。

エクレストンが「フェラーリが何年も特別な扱いを受けている」と語った明確な内容は定かではないが、金銭面以外にも特別な待遇があることを示唆していると直結する事は出来ないものの、長年に渡りF1を見て来た人ならば誰もが往々に理解出来る事と思われる。[6]

[編集] イベント・CM

1981年には、その年のレースカー126CKとジェット戦闘機F-104スターファイターで競走するというイベントを開催している。ともに静止状態から並んで同時にスタートし1,000m走るというこのレースは、ジル・ヴィルヌーヴが運転する126CKが勝利している。

1998年、走行中のF1マシンが空中給油機から給油を受ける、という実写CM(スポンサーであるロイヤル・ダッチ・シェルグループのCM)を放送し話題になる。

2003年12月11日にも、その年のレースカーであるF2003-GAにて、ジェット戦闘機ユーロファイタータイフーンとの競走というイベントを再度開催。F2003-GAの運転はミハエル・シューマッハが行った。イタリアのバッカリーニ空港で行われたこのレースは、600mではF2003-GAが勝利したが、900mと1,200mではユーロファイターが勝利。雨天もありユーロファイターの2勝1敗という結果になった。

2006年トリノオリンピック開会式では、リアウィングに五輪マークが描かれた2005年度のマシン・F2005をリザーブ兼テストドライバーのルカ・バドエルがステージ上でドライブ、ドーナツターンを披露して観客を沸かせた。

また毎年10月の末から11月の初めにはムジェロ・サーキットにおいて「ファン感謝デー」ともいうべき「ファイナリ・モンディアリ」というイベントが行われる。

[編集] ティフォシ

熱狂的なフェラーリファンのことをティフォシ(tifosi)と呼ぶ。これはイタリア語で「熱狂的スポーツファン」「チフス患者」の意味を持つ「ティフォーゾ(tifoso)」の複数形であり、元々はフェラーリファンを特定するものではなく、更にその熱狂振りに対する侮蔑表現を含んでいるため、彼らは自らのことを通常フェラリスタと呼ぶ。地元開催に当たるイタリアGPにおいては、来場したティフォシによってサーキットのあるモンツァが赤く染まるほどである。しかも彼らはフェラーリがリタイアするとレース途中でもさっさと帰ってしまう(テレビ視聴者はテレビを消してしまう)。フェラーリが走っているのがF1であり、フェラーリのいないレースなどレースではない、とする彼らの意思表示であろう。

[編集] F1以外のレース活動

1950年代よりル・マン24時間レースミッレミリアカレラ・パナメリカーナ・メヒコなどの公道レースや耐久レースを中心に活躍し、1960年代にかけて数々の勝利を飾ってきたが、1970年代以降はワークスとしての活動を事実上停止している。

[編集] 脚注

  1. ^ a b “フェラーリ、チーム名からマールボロを外す”. F1-Gate. (2011年7月9日). http://f1-gate.com/ferrari/f1_12270.html 2011年8月1日閲覧。 
  2. ^Sports Graphic Number』 688号、文藝春秋、45頁。
  3. ^ ただし、ハンガリーGP分の剥奪ポイントも含めた両ドライバーの単純合計では、マクラーレンは218ポイントとなる
  4. ^ ソニー・マガジンズF1グランプリ特集 2005年6月号、他
  5. ^ “フェラーリ、アルド・コスタのテクニカルディレクター辞任を発表”. F1-Gate. (2011年5月25日). http://f1-gate.com/ferrari/f1_11828.html 2011年8月1日閲覧。 
  6. ^ Times Online 2008年12月20日

[編集] 関連項目

[編集] 人物

現在のドライバー
主要な関係者

[編集] パートナー

[編集] スポンサー

過去の主要スポンサー

[編集] オフィシャルサプライヤー

[編集] サプライヤー

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語