エディ・ローソン
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| グランプリでの経歴 | |
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| 国籍 | |
| 活動期間 | 1981 (250cc), 1983 - 1992 (500cc) |
| チーム | カワサキ (250cc), ヤマハ (500cc), ホンダ (500cc), カジバ (500cc) |
| レース数 | 130 (250cc - 3、500cc - 127) |
| チャンピオン | 500cc - 1984, 1986, 1988, 1989 |
| 優勝回数 | 31 |
| 表彰台回数 | 78 |
| 通算獲得ポイント | 1429 |
| ポールポジション回数 | 18 |
| ファステストラップ回数 | 21 |
| 初グランプリ | 1981 250cc 西ドイツグランプリ (250cc) |
| 初勝利 | 1984 500cc 南アフリカグランプリ |
| 最終勝利 | 1992 500cc ハンガリーグランプリ |
| 最終グランプリ | 1992 500cc 南アフリカグランプリ |
エディ・レイ・ローソン(Eddie Ray Lawson, 1958年3月11日 - )は、アメリカ人のロードレーサー。WGP500ccクラスにおいて、1984年、1986年、1988年、1989年の4度に渡りタイトルを獲得し、異なる3メーカーでの31勝を挙げた。その機械のように正確なマシンコントロールと着実なレース運びから、「ステディ・エディ」の異名を取った。
同じAMA出身のアメリカン、フレディ・スペンサーには激しいライバル意識を持っており、スペンサーについて質問された際に、「Freddie, Who?」と答えたという逸話も残っている。
目次 |
[編集] 経歴
1958年3月11日、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊の都市アップランドで生まれ、7歳からミニバイクレースに参戦、ダートトラックレースに熱中するようになった。1978年にはAMAエキスパート・ライセンスを得る。 1980年にロードレースに転向し、カワサキと契約。AMAスーパーバイクおよびAMA250ccGPへ参戦。 米国国内選手権の成績に対する報酬として、1981年のドイツグランプリでGP250ccクラスにデビューし、続くネイションズグランプリ(イタリア)、フランスグランプリの計3戦にカワサキからワイルドカードで出場した。また、1981年度にスーパーバイク王者になった際、記念としてカワサキから発売された「ローソンレプリカ」ことZ1000Rは現在でも中古車が高値で取引され、その後もZRXなど当時のイメージを意識したマシンがリリースされるなど、今なお根強い人気を保っている。
1983年、キング・ケニーのチームメイトとしてマールボロ・ヤマハ・チームと契約し、GP500ccクラス参戦を開始した。翌1984年にはライバルと言われたスペンサーのタイトル防衛を阻止し、早くも初のチャンピオンの座に就いた。1986年と1988年にも圧倒的な強さを見せてチャンピオンを獲得。
ヤマハで3度チャンピオンになったローソンだが、1989年にロスマンズ・カネモト・ホンダ・チームに電撃移籍。ヤマハのウェイン・レイニーや同じホンダのワイン・ガードナーを破り、ホンダ移籍の初年度にチャンピオンとなった。シーズン前のテストで右手を負傷しアクセルやブレーキの操作に支障を来すというハンデを抱えながら、シーズン中に13個ものフレーム変更とテストをこなしシーズン序盤にポイントを稼いでいたレイニーをじわじわと追い詰め、終盤で逆転するという老獪さを見せた。
1990年に再びヤマハに移籍。シーズン序盤、メカニックの整備ミスのため、ブレーキトラブルにより転倒し負傷した。世界GPでのタイトル獲得はできなかったが、日本の鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場し、日本のヤマハのエースだった平忠彦と組んで初優勝を遂げた。
1991年にカジバ・チームに移籍。それまでのステディなイメージとは異なり激しく攻めるレースを見せ、マシンの開発にも尽力した。その成果は翌1992年ハンガリーGPで、念願のチーム初優勝として現れることとなる。この年限りでWGPを引退、その後はアメリカでCART(現チャンプカー)に参戦。
WGP引退後、1993年の鈴鹿8時間耐久ロードレースにホンダから、1994年の鈴鹿8耐にヤマハから出場している。
[編集] 評価
ライバルと言われたスペンサーが急激に精彩を欠いて世界GPを去ったのに対し、ローソンは長期間にわたりトップクラスの座を維持した。ワイン・ガードナーやケビン・シュワンツのような豪快で攻撃的なライディングを見せることは少なかったが、世界GPの最高峰クラスで10シーズン活動し、そのうち4度チャンピオンに輝いた。
ローソンは、速さの面でライバルに引けを取らなかっただけではなく、マシンの開発やセッティングの能力が高かったと言われる。4度チャンピオンになったこと、1988と1989年は異なるメーカーで連続してタイトルを獲得したこと、戦歴に比べ転倒率が低いことを評価する声は多い。短期間ながら天才的な輝きを放ったフレディー・スペンサーとしばしば対比されて語られる。
[編集] エピソード
クールで計算高い人間というイメージもあるが、1990年シーズン序盤に怪我をして世界GPタイトル奪取が難しくなった時点で、年頭のスケジュールに入っていなかった鈴鹿8耐への出場を快諾。日本のヤマハのエース平忠彦とチームを組んで、平に8耐初優勝をもたらした。
8耐は真夏の過酷な耐久レースであり、出場するマシンやライダーのレベル差が大きくリスキーだが、ローソンは「僕たちのために優れたマシンを開発してくれている平を勝たせてやりたい」と全力で走行。怪我は完治しておらず8耐独特のル・マン式スタートを切ることができないためスタートライダーを平に任せるほどのコンディションではあったが、夕闇迫るレース終盤までペースは全く落ちなかった。関係者の間では「クールどころか、純粋で熱血漢なライダー」という評価がある。その後、劣勢と言われたカジバにGP500ccクラス初優勝をもたらしたことも、ローソンの株を大きく上げた。
そのカジバへの移籍の際には「あと2年で引退する」ことと「カジバを必ず優勝させる」ことを宣言しどちらも達成した。しかし、カジバでのローソンは、「ステディ・エディ」らしからぬリスキーなレース振りを見せることもあった。移籍初年度からポールポジションも獲得するなど、それまでとは異なる走りを見せた。2シーズンをカジバで過ごすと、ローソンは公約どおりGPを去っていった。後任のジョン・コシンスキーはローソンが仕上げたマシンの発展型でランキング3位を獲得した。
[編集] 主な成績
- 1983年 500cc ヤマハ・YZR500 / マールボロ・ヤマハ・チームアゴスチーニ ランキング4位(最高2位)
- 1984年 500cc ヤマハ・YZR500 / マールボロ・ヤマハ・チームアゴスチーニ チャンピオン(4勝) 〔南アフリカ、スペイン、オーストラリア、スウェーデン〕
- 1985年 500cc ヤマハ・YZR500/ マールボロ・ヤマハ・チームアゴスチーニ ランキング2位(3勝) 〔南アフリカ、ユーゴスラビア、サンマリノ〕
- 1986年 500cc ヤマハ・YZR500/ マールボロ・ヤマハ・チームアゴチーニ チャンピオン 〔7勝〕 〔ネイションズ、西ドイツ、オーストラリア、ユーゴスラビア、フランス、スウェーデン、サンマリノ〕
- 1987年 500cc ヤマハ・YZR500/ マールボロ・ヤマハ・チームアゴスチーニ ランキング3位(5勝) 〔西ドイツ、オランダ、イギリス、ポルトガル、アルゼンチン〕
- 1988年 500cc ヤマハ・YZR500/ マールボロ・ヤマハ・チームアゴスチーニ チャンピオン(7勝) 〔アメリカ、ポルトガル、ネイションズ、オーストラリア、フランス、スェーデン、ブラジル〕
- 1989年 500cc ホンダ・NSR500 / ロスマンズ・ホンダ・カネモト チャンピオン(4勝)〔スペイン、ベルギー、フランス、スェーデン〕
- 1990年 500cc ヤマハ・YZR500/ マールボロ・ヤマハ・チームロバーツ 総合7位(最高2位)
- 1991年 500cc カジバ・V591 / Cagiva Corse 総合6位(最高3位)
- 1992年 500cc カジバ・V592 / Cagiva Corse 総合9位(1勝) 〔ハンガリー〕
[編集] 通算成績
- 出走 127回
- 総合優勝 4回/1984、1986、1988、1989(歴代3位タイ)
- 初GP 1983年 第1戦 南アフリカGP
- 初入賞 1983年 第1戦 南アフリカGP(8位)
- 初優勝 1984年 第1戦 南アフリカGP
- 初ポールポジション 1984年 第3戦 スペインGP
- 初ポール・トゥ・ウィン 1984年 第3戦 スペインGP
- 初ファステストラップ 1984年 第3戦 スペインGP
- 優勝回数 31(歴代5位)
- 表彰台獲得数 78(歴代3位)
- ポールポジション回数 18(歴代8位タイ)
- ポール・トゥ・ウィン回数 9(歴代6位タイ)
- ファステストラップ回数 21(歴代8位タイ)
- トータル獲得ポイント 1,429点
※歴代順位は最高峰クラス(500cc/MotoGP)での、2007年1月現在。
[編集] 関連項目
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