ミハエル・シューマッハ
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| F1での経歴 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 所属チーム | 1991年ジョーダン '91-'95ベネトン '96-'06フェラーリ |
| 活動時期 | 1991 - 2006 |
| 出走回数 | 250 |
| 優勝回数 | 91 |
| 通算獲得ポイント | 1,186 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 154 |
| ポールポジション | 68 |
| ファステストラップ | 76 |
| F1デビュー戦 | 1991年ベルギーGP |
| 初勝利 | 1992年ベルギーGP |
| 最終勝利 | 2006年中国GP |
| 最終戦 | 2006年ブラジルGP |
| タイトル | 7 (1994, 1995, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004) |
ミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher, 1969年1月3日 - )は、ドイツ生まれの元F1ドライバーである。愛称はシューミー(Schumi)。
2008年現在、フェラーリスーパーアドバイザーとして、F1の現場に携わっている。
チャンピオン獲得回数7度などF1の主な記録を更新した。2008年現在、ドイツ人で唯一のF1ドライバーズチャンピオン経験者である。
その冷静精確なドライビングから、日本では「ターミネーター」、海外では「サイボーグ」と呼ばれる時期があった。フェラーリ移籍後には、フジテレビのF1中継で「赤い皇帝」の愛称が使われた。
6歳年下の弟ラルフも元F1ドライバーである。
目次 |
[編集] F1デビュー前( - 1991年)
幼少時、誕生日に煉瓦職人だった父から贈られた“手作りカート”が車との出会いである。夢中で路上を走らせていたミハエルが電柱に衝突したために心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的なレーシングカート”と遭遇した。やがてカートレースを始めるが、彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うこともあったという。だが、カート場のオーナー(F1ドライバー時代にはファンクラブ会長を務めた)の支援により十分な環境とは言えないもののレースを続けた。この時父もカート場の管理人となり、母がその食堂に勤めるようになった。1984年、1985年にドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、1987年にはドイツ・ヨーロッパ・カートチャンピオンとなった。メルセデスに才能を見出され、その支援を受けスポーツカーシリーズ(プロトタイプ)やF3に参戦。
1990年にはドイツF3王者となり、不利と言われたレイナードVWで同年のマカオGPで本命と見られていたイギリスF3王者ミカ・ハッキネンを下し優勝。第1レグでハッキネンは、2位シューマッハに対して約5秒引き離し圧勝していた。シューマッハが優勝するためには第2レグで約5秒以上の差をハッキネンにつける必要があった。第2レグがスタートすると、序盤にハッキネンを抜き1位をキープするが、1秒弱差にハッキネンがピタリとつける展開。ハッキネンの総合優勝が濃厚かと思われていたファイナルラップ、1位に固執したハッキネンは、メインストレートでシューマッハのスリップストリームから抜け出し、オーバーテイクを試みる。シューマッハは、スリップストリームから出たハッキネンをブロックするためにラインを変更。両者は接触し、ハッキネンはコース右側のガードレールにクラッシュしリタイヤした。シューマッハはリヤウイングが脱落したものの、そのまま残り1周を走りきり第2レグ優勝を飾る。この結果、第1、第2レグタイム合計でシューマッハが90年マカオGP総合優勝を決めている。
マカオGPの一週間後には、日本の富士スピードウェイで「第1回インターF3リーグ」が催され、マカオGPを戦ったドライバーがそのまま日本に集まった。マカオとは性格が異なる高速・富士では「スリップストリーム合戦」となったが、シューマッハはこのレースでも勝利した。
この頃よりカール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェンとともにメルセデスの若手育成プロジェクトで、ヨッヘン・マスらのベテランドライバーと同じチームで走る英才教育を受け、グループCに参戦する。この当時はF3ではハッキネン、グループCではフレンツェンの評価の方が高かった。
1991年7月には、菅生で開催された全日本F3000第6戦に、F1参戦と重なったジョニー・ハーバートの代役としてチーム・ルマンよりスポット参戦した。初のF3000、初のサーキットというだけでなく、性能的にも不利と言われたラルトシャーシといった悪条件をものともせず、決勝では2位を獲得し、日本のレース関係者・ファンに衝撃を与えた。前年のマカオGPとインターF3リーグで勝利をおさめ、またグループCにも参戦していたことから、日本で全く無名の存在というわけではなかったが、あらゆる面で「特殊」とされていた全日本F3000でのいきなりの活躍は、異質の驚きをもって迎えられた。
この当時、ブリヂストン・ヨコハマ・ダンロップの3社が鎬を削った全日本F3000のタイヤは、一説にはF1のそれよりも高性能であったとされ、また、当時の国際F3000以下の下級フォーミュラがバイアスタイヤを使用していたのに対し、全日本F3000はF1と同じラジアルタイヤを使っていた。これらの事情から全日本F3000のタイヤの使い方は特殊なものとなっており、来日した外国人ドライバーは今までの経験と異なる感覚に、タイヤの使い方の習得に苦労を強いられていた。後にF1でともに仕事をすることになるブリヂストンの浜島裕英は、タイヤの特性を詳細に質問する彼の姿勢と、それを元に実際に短時間の練習走行でタイヤを使いこなしてしまったその才能に強い印象を受けたという。
F3からF1へステップアップする間に参戦したF3000のレースはこの1戦のみである。ラルフも日本では同じチーム・ルマンに所属していた。
[編集] ジョーダン→ベネトン在籍期(1991年 - 1995年)
[編集] 1991年
当初の予定ではそのまま1991年シーズン後半の全日本F3000へ参戦を予定していたが、1991年8月、ベルトラン・ガショーの刑事事件をきっかけにして、メルセデスが用意した持参金をジョーダンに持ち込み、第11戦ベルギーGPで同チームからF1に参戦し、予選7位を獲得。決勝は0周リタイアに終わったものの、この活躍により、次戦からロベルト・モレノを追い出す形(結果的にはトレードでモレノはジョーダンへ)でベネトンのレギュラーシートを獲得(この一連の移籍劇にはメルセデス・ベンツやバーニー・エクレストンが絡んでいると言われている)し、移籍後最初のイタリアグランプリでチームメイトのネルソン・ピケを上回る5位入賞を果たした。
[編集] 1992年
ドライかウェットへ移行する難しいコンディションとなった、第12戦ベルギーGPでこの年のチャンピオンチームとなるウィリアムズ・ルノー勢を、見事な戦略で破りF1初勝利。しかし、第8戦フランスGPのオープニングラップでアイルトン・セナに追突してリタイアへ追い込み、レース赤旗中断中にセナに叱責される一幕や、その後のホッケンハイムリンクでのテスト走行中でのセナとのトラブルから両者乱闘寸前になるなど、荒っぽさがまだまだ抜け切れていないとの批判を浴びることもあった。最終戦で2位6ポイントを獲得したことによりリタイヤしたセナを上回りランキング3位に入る。
[編集] 1993年
開幕戦の南アフリカGPでレース序盤にプロストやセナに迫る活躍を見せた。第14戦ポルトガルGPでは予選6位からピット戦略でトップ走行中のプロストを逆転し優勝。しかし、ハイテクマシンであるB193Bの信頼性が低かったことから、表彰台かリタイヤという極端な結果が影響して、前年よりランキングを1つ下げることとなった。
[編集] 1994年
開幕から7戦で6勝を挙げるなど、強さを見せた。イギリスGPでは、フォーメーションラップでデイモン・ヒルを追越したことによる5秒のピットストップペナルティを課せられたが、ピットインを指示する黒旗に6周にわたり従わなかったことでレース後に失格とされ、更にレーススチュワードから「25,000ドルの罰金」が課された[1]。ところがその後FIAより7月26日に行われた世界モータースポーツ評議会に召還され、そこで更に2レースの出場停止と50万ドルの罰金というペナルティが課された[2]。ベネトンチームはこの処分を不服として抗議を行い、その聴聞が8月30日に行われることとなったため、聴聞会までの3レース(ドイツ、ベルギー、ハンガリー)への参戦が認められた。聴聞後に出された裁定は、2レースの出場停止を即座に適用するというもので、その後2戦には出走することができなかった[3]。2レースの出場停止と2レースの失格によりヒルの追い上げを許し、タイトル争いは最終戦までもつれた。シューマッハが1ポイントリードで迎えた最終戦では、レース中にヒルと接触し両者ともにリタイアによりチャンピオンが決定したため、この接触は故意か否かで物議を醸したが、この結果、自身初、ドイツ人としても初のドライバーズタイトルを獲得した。
この年、ベネトンは禁止されたトラクションコントロール使用の嫌疑が掛けられたが、証拠不十分として無罪とされた[4]。また、ベネトンチームは給油装置の燃料フィルタを取り外す改造を加えていることが明らかになったが、これは給油装置の開発会社がラルースチームに対して同様の改造をすでに許可していたことが判明したことなどから、処罰は行われなかった[4]。イタリアGPではウィリアムズも給油装置への改造を行っていたことが判明し、ウィリアムズは改造個所を元に戻すよう通告された[5]。
第3戦サンマリノGPで発生したアイルトン・セナの死亡事故が発生したとき、シューマッハはセナの直後を走っていたため、至近距離からの目撃者として、FIAと警察の事情聴取を受けている(シューマッハの車載カメラにコンクリートウォールに向かうセナの車が映し出されていた)。
[編集] 1995年
序盤こそ出遅れたものの第5戦スペインGPの完勝からペースを掴み、17戦中9勝を上げてナイジェル・マンセルが92年に達成した当時のシーズン最多勝記録に並び[6]、2年連続でドライバーズチャンピオンを獲得した。この年も、ベルギーGPでのヒルとの接触で執行猶予付き出場停止処分を受けるなど、スポーツマンシップに欠けるとみなされる行動が見られた。
[編集] フェラーリ在籍期(1996年 - 2006年)
[編集] 1996年
名門フェラーリに移籍。フェラーリでは、ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ社長とジャン・トッド監督の下、長く低迷していたチームの再建が始まっていたものの、ウィリアムズ勢に劣勢を強いられていた。しかし大雨のスペインGPでの優勝など、早くも3勝をマークして見せた。
[編集] 1997年
ウィリアムズ・ルノーのジャック・ヴィルヌーヴが、優勝かリタイアという不安定なレースを中盤まで続けていたのに対し、シューマッハは信頼性の高いF310Bで着実にポイントを稼ぎ、第16戦日本GPでシーズン5勝目を上げると、1ポイントリードでランキング首位にたった。ベネトンからロス・ブラウン(テクニカルディレクター)とロリー・バーン(チーフデザイナー)が移籍してきたことで、戦略のレベルアップとマシン開発に拍車がかかったことも、シューマッハの走りをサポートしていた。そしてヘレスで行われた最終戦ヨーロッパGP、予選でシューマッハはヴィルヌーブと同タイムを叩き出したものの、タイムを先に記録したヴィルヌーブがポールポジションとなり予選2位。決勝レース、スタートで首位にたったシューマッハがレースをリードするが、タイヤ交換後にペースの上がらないシューマッハにヴィルヌーブが追いついた48周目、ペアピンで両者が接触しシューマッハはリタイアし、その後3位で入賞したヴィルヌーヴに逆転され、タイトルを逃した。FIAはシーズン終了後の11月11日にシューマッハを召喚し、ペナルティを科した。このレースとペナルティの詳細は別項(1997年第17戦ヨーロッパGP)に後述。余談だが、チャンピオン争いをしたヴィルヌーヴとはこの年に一度も同じ表彰台に立つことはなかった。また、前年にフォーミュラニッポンでチャンピオンとなった弟のラルフ・シューマッハが、ジョーダン・プジョーよりF1に参戦した。
[編集] 1998年
モンテゼーモロ(フェラーリ社長)が「王座奪回の年」と宣言。チーフ・デザイナーであるロリー・バーンがゼロから設計したニューマシンF300を、ジャン・トッド監督の指揮でテストも十分に重ね、満を持して臨んだシューマッハだったが、開幕2戦はマクラーレンのミカ・ハッキネンが連勝。幸先のよいスタートをきれなかった。それでも前年に引き続きエディ・アーバインのサポート、上方排気システム及びロングホイールベースへの変更をしたF300及び前輪をワイドトレッド化したグッドイヤータイヤの進化、テクニカル・ディレクターであるロス・ブラウンの戦略(ルールの隙をついた第9戦イギリスGPや第7戦カナダGPと第12戦ハンガリーGPでの卓越したピットストップ作戦)が結集され、シューマッハの成績も向上。こうした後押しを受けてポイント首位のハッキネンと熾烈な争いを展開し、フェラーリ地元である第14戦イタリアGPではポールトゥーウィンで6勝目をあげ、ポイントでも80対80と同点に並んだ。第15戦ルクセンブルクGPと最終戦日本GPでは共にポールポジションを取り、いよいよ王座奪回かと期待させたが、両決勝ではハッキネンに逆転優勝を許し、2年連続最終戦でタイトルを逃した。シューマッハは、前述のカナダGPやハンガリーGPで作戦を遂行するため凄みのある走りを見せた反面、モナコGPではアレクサンダー・ブルツ(ベネトン)とペドロ・ディニス(アロウズ)への接触とヌーベルシケインでスピン、オーストリアGPではハッキネンと首位争いしていた17周目のヨッヘン・リントコーナーを曲がりきれずにコースアウト、1位走行中のベルギーGPでは2位のデイモン・ヒル(ジョーダン無限ホンダ )に対して40秒差をつけているにも関わらず周回遅れのデビッド・クルサード(マクラーレン)に追突と、ミスが目立ったシーズンでもあった。特にベルギーGPでは、ハッキネンがリタイアしていたためポイント逆転のチャンスであったが、それをフイにしただけでなく、結果的にタイトル獲得を遠ざけることとなった。
[編集] 1999年
第3戦サンマリノGP、第4戦モナコGPで勝利し、シリーズをリードしていた。第5戦スペインGPでは予選で、同じフェラーリのエディ・アーバインの後塵を拝す。この頃から、シューマッハとアーバインの関係に1996年〜1998年になかった緊張感が出てきていた[7]。第6戦カナダGPではポールポジションを獲得。決勝は1位シューマッハと2位ミカ・ハッキネン(マクラーレン)が、ファステストラップの応酬をしていた。ところが30周目に入り、1位シューマッハはドライビングミスで最終コーナーのコンクリートウォールに激突し、リタイア。ハッキネンに優勝され、ポイント争いでも逆転された。第7戦フランスGPはセッティングミスとピット作戦の失敗で勝てるレース[7]を落とし、ハッキネンとの差が8ポイント差に拡がった。プレスからもミスした2戦だけでなく、過去3年間の責任まで追求されていた[7]。
第8戦イギリスGP(シルバーストーン・サーキット)が開幕。予選の時シューマッハはピットアウト時に、すでにピットロードに出ていたハッキネンの横に並び、抜いた。この行為をテレビ解説していた川井一仁は「ペナルティになるのでは? シューマッハは、なに焦ってるんでしょうね」とコメントしている。結果はポールポジションをハッキネン、2位シューマッハ、3位デビッド・クルサード(マクラーレン)、4位アーバインであった。決勝がスタートし、シューマッハはクルサード、アーバインに抜かれる。全車が1コーナーを消えた直後に“赤旗”(スタートできなかった2台のマシンを撤去のため)が出た。にも関わらず、シューマッハとアーバインはサイドバイサイドでマゴッツ・カーブ、ベケッツ・コーナー、チャペル・カーブを通過し、ハンガー・ストレートでも競り合う。この時、シューマッハは「アーバインをパスするから、道を開けてくれ」と無線で言っていた[7]。インをシューマッハ、アウトをアーバインでストウ・コーナーに入り、シューマッハはコースアウトし、タイヤバリアにクラッシュ。本人は手を振って担架に載せられたが、『右足の脛骨と腓骨の骨折』の怪我を負った。フェラーリは「リアブレーキ破損」が原因と発表。その一方で、上述の通り“シューマッハのあせりから事故が起きた[7]”という報道もあった。
7レース欠場後、第15戦マレーシアGPから復帰し、予選ではポールポジションを獲得。決勝でもドライバーズタイトルを争っていたアーバイン(優勝)をサポート。最終戦日本GPでもポールポジションを獲得し、決勝では2位入賞。フェラーリの1983年以来、コンストラクターズタイトル獲得に貢献した。
[編集] 2000年
1999年のシーズン途中でF399の風洞開発を止め、マシンの熟成をそれ以上行なわないで、代わりにF1-2000の開発を進めていったことが功を奏し[8]、ミカ・ハッキネンとの激しい戦いを制して、ついに自身3度目、スクーデリア・フェラーリ在籍ドライバーでは1979年のジョディー・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。また、イタリアGPでセナの持つ勝利数(41勝)と並んだ。このレースから翌年のマレーシアGPまで6戦連続のポール・トゥ・ウィンを記録している。
[編集] 2001年
プロストが持つF1最多ポイント(798.5ポイント)、最多ファステストラップ(41回)と最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。カナダGPで史上初の兄弟1-2も果たしている(1位・弟ラルフ、2位・兄ミハエル)。
[編集] 2002年
ファンジオの持つ偉大な記録に並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身(1995年、2000年、2001年)とマンセル(1992年)のもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台獲得した。7戦を残してチャンピオンを決定するという、圧倒的な強さを見せた。
[編集] 2003年
シーズン開幕当初に躓いたことにより出遅れ、マクラーレンのキミ・ライコネンやウィリアムズのファン・パブロ・モントーヤらとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げた。第4戦サンマリノGPの決勝日に母を亡くした。このレースでポールトゥーウィンを果たしたが、記者会見ではミハエル・シューマッハの代わりにジャン・トッドが話をした。最終戦鈴鹿で、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得した。また、ヨーロッパグランプリで、F1史上初の通算1,000ポイントを獲得した。
[編集] 2004年
前年の苦境とは打って変わり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦モナコGPはクラッシュでリタイアを喫したもののその後は7連勝を記録し、F2004と共に2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、ベルギーGPでは、ついに5年連続で通算7度のチャンピオンに輝いた。また、同年の鈴鹿が弟のラルフとの最後の1-2フィニッシュである。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。
[編集] 2005年
新レギュレーションに対応したマシンとタイヤがうまく機能せず、前年とは一転して苦戦した。ミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にボイコットし、わずか6台のみで争われた第9戦アメリカGPで、ようやく勝利をあげることができた。しかし、その後も苦戦が続き、結果的にはその1勝のみに終わり、21世紀になってから初めてチャンピオンの座を、フェルナンド・アロンソに明け渡した。
[編集] 2006年
開幕戦バーレーンGPでポールポジションの獲得回数がアイルトン・セナと並び、第4戦サンマリノGPでセナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。ただシーズン序盤はマシンの信頼性欠如に苦しんでフェルナンド・アロンソにポイントでリードを許したが、シーズンが進むにつれて急速に差を縮める。
第15戦イタリアGP後の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明(後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていたキミ・ライコネン)した。会見では、ファン、家族、フェラーリの仲間とベネトン時代の仲間に感謝したいとも述べた。
次の第16戦中国GPでは雨中のレースを優勝し、ポイントランキングトップのアロンソと同点としたが、第17戦鈴鹿では、2回目のピットストップの直後、トップを走りながらエンジントラブルによりリタイアした。最終戦ブラジルGPでは、予選の第2ラウンドではトップタイムを記録したものの、第3ラウンドの開始直後にマシンが故障しタイムを記録することができなかったため、10番グリッドからスタートすることとなった。決勝ではジャンカルロ・フィジケラと接触、左リヤタイヤがパンクし、優勝は絶望的となったが、フィジケラ、ライコネンらとのバトルを制し、ファステストラップも記録した。最終的には4位でゴールし、フェルナンド・アロンソに2年連続のチャンピオン獲得を許すこととなった。同年のフランスGPが彼にとっての最後の68回目のポールポジションの獲得で、決勝では優勝とファステスラップの記録ができて結果的にハットトリックになり、雨の中国GPが彼にとっての最後の勝利(91勝目)となった。
[編集] F1引退後
2007年は、アドバイザーという役職に立場を変えてフェラーリのF1に関わり、チーム監督であるジャン・トッドや、ドライバーのフェリペ・マッサとキミ・ライコネンなどを見守ることとなった。この年の開幕戦のオーストラリアでは、フェラーリに移籍してきたライコネンが優勝し、現場にいなかったシューマッハは祝福の電話をキミ・ライコネンにかけた(この年サーキットを初めて訪れたのは、ヨーロッパラウンド初戦のスペインGPであった)。モナコGPでは、去年までのライバルだったフェルナンド・アロンソと握手を交わす姿がTVに映し出された。ヨーロッパGPには、表彰台でトロフィーを渡す役として登場した。また母国・ドイツのフランクフルトモーターショーではフェラーリブースに登場し、注目を集めた。シューマッハはブラジルGPをスイスの自宅で見ていたようで、ブラジルに行かなかったことを後悔したという。スペインで開催されたイベントでドゥカティのMotoGPバイクに乗り、現役ライダーの5秒落ちという好タイムをマークし、ジャーナリストらを驚かせた。また、このことで2輪レースに対する興味が湧いたのか、2008年3月にはイタリアのマイナーレースでレースデビューを果たし4位入賞、5月にはドイツ国内のスーパーバイク選手権に同国内の大手チームよりホンダCBR1000RRを駆って参戦したが、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わった。
2007年11月のバルセロナ合同テスト、同12月のヘレス合同テストに参加した。約1年ぶりにF1マシンのステアリングを握ったが、バルセロナでは2日連続でトップタイムをマークし、関係者を驚かせた。 同年のシーズンオフに、シューマッハ最後のチームメイトだったフェリペ・マッサが主催のカートイベントに参加し、総合優勝(第1レース優勝、第2レース6位)を果たした。
その後、2009年用のスリックタイヤテストの際に、テストドライバーとして度々F2008を走らせている。
[編集] 評価
そのキャリアにおいてさまざまなF1の歴代記録を塗り替えた、F1史上に残るドライバー。ベネトンに加入後、4シーズン目にチャンピオンを獲得した。フェラーリに移籍後には、ベネトン時代に一緒に働いたロス・ブラウン、ロリー・バーンらを招聘し、2000年には1979年以来のドライバーズチャンピオンをもたらした。
所属したベネトンやフェラーリなど、シューマッハの移籍前の数年にはシーズン1、2勝で過ごしてきたチームを、結果としてチャンピオンに導いている。特に、フェラーリにおいては、移籍後から引退まで、毎年優勝を飾っており、1997年〜2006年まで、数戦を負傷欠場した1999年と不調に終わった2005年を除く全てのシーズンでタイトル争いをしている。11年間にわたり、勝てるという自信とモチベーションを常にチーム全体に与え続けたその牽引力は、他に例がない。
チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことでも知られている。スペアカーの使用権、ピット作戦における優先権のほか、チームメイトに優勝を含めレース中に順位を譲らせたことも数度あり、この点で批判を浴びることも少なくない。特に2001年、2002年のオーストリアGPでは、チームメイトのルーベンス・バリチェロに2年続けて露骨に順位を譲らせたことで物議を醸し、FIAがそれまで黙認状態だったチームオーダーを公式に禁止する異例の声明を出すに至っている。No.1待遇について、契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明であり、当時同じフェラーリに在籍していたマッサはその存在を否定している一方で、元チームメイトのジョニー・ハーバートは引退後にその存在を匂わせる発言をしている。また、エディ・アーバインによると「チームの指示には常に従わなければならないと契約書に書いてあった。新しいシャーシが届けば、最初に使うのはミハエルだったし、ミハエルのためにタイヤの皮むきをするのが俺の役割だった[8]。」と述べている。1995年サンマリノGPでは、シューマッハがリタイアした後、チームメイトのハーバートがレース続行中であったにも関わらず、チーム代表のフラビオ・ブリアトーレはサーキットから去った。また、1999年のイギリスGPでは事故を起こした際、命に別状はなかったにも関わらず、チームを指揮する立場のジャン・トッドが決勝レースを離れて手術に立ち会った。これらの出来事は、チーム内におけるシューマッハの立場を示している[7]。
他方、明確に批判と非難の対象となったものもある。F1においては過去に1994年と1997年の2度、ドライバーズチャンピオンがかかった最終戦でタイトルを争うドライバーとの接触を起こしている。1994年のケースについては故意か否かが判断しがたいが、1997年にヴィルヌーヴと接触したケースについては故意とみなされペナルティを受けたばかりでなく、チャンピオンに相応しくない卑劣な行為とみなされ、その後も彼の評価と名声に汚点を残した。引退後には、シューマッハ自身も「F1キャリアにおいて取り消すことができる場面があるとすれば、それはヘレスでしょう。」と、ドイツの新聞‘スュドドイチェ・ツァイトゥング(Suddeutsche Zeitung)’のインタビューの中で語っている[9]。これらの出来事に関しては、後にフェルナンド・アロンソが『F1史上最もスポーツ精神に反するドライバー』だと痛烈に酷評しており[10]、デビッド・クルサードなどもこれに同調している[11]。2006年10月、インディペンデント紙のインタビューで、ニキ・ラウダ、スターリング・モス、ジャック・ヴィルヌーヴ、ハンス・シュトゥック、マーティン・ブランドルといった元F1ドライバーと、F1ジャーナリストのデイヴィッド・トレメインの6人がシューマッハについて語っている。『最も偉大なドライバーか?』の問いに、ラウダ以外の5人は「ノー」と回答しており、数々の記録を打ち立てた業績とは相反する評価が多い[12]。
レースにおいては、ポールポジションからの逃げ切りやピット戦略で前に出ることが多く、ピットイン前後の周回で速さを見せてマージンを築いたり、ライバルより多いピットストップ戦略を行うことにより、コース上でのオーバーテイクよりも作戦によって勝利を得るところに特徴がある。また、その戦略を実行を可能にする、要所における集中力が彼の真骨頂とも言える。
他人の走行に対するブロックは露骨で危険なものとして、非難の対象となることが多い。F3マカオGPでのハッキネンとの接触では、ストレートで進路をふさぎ、1995年のベルギーGPでは何度もラインを変えてデイモン・ヒルの進路を阻んで接触、1997年のヨーロッパGPでのジャック・ヴィルヌーブとの接触では、完全に前に出たヴィルヌーブのマシンにぶつけている。シューマッハとは家族ぐるみの間柄であるジャン・アレジでさえ、「ドライビングスタイルには敬意を持っているが、レースに関してはアイルトンほど好きではない。アイルトンとはリスクを感じずにレースでバトルができる。しかし、ミハエルを本気で追い越そうとすると、彼はなんらかのことをやってきて、接触することになるからね。ミハエルは自分が抜かれるという事実を認めることができないから、ジグザグに走ったりするんだ。ジグザグ走行というものをF1に持ってきたのは、ほとんど彼と言っていい。[13]」と語っている。
開発能力は、ブリヂストンの浜島裕英によると「(タイヤに関して)他のドライバー(ルーベンス・バリチェロ、ルカ・バドエルら)では決めきれない部分を決めてくれる」一方で「差がないものは差がないと言って、無理にコメントしないところもありがたい。」、「開発の方向性をバシッと出してくれるところがすごい。」等と語っている。浜島曰く、テストドライバーとしてシューマッハに匹敵する能力を持つのは星野一義とデビッド・クルサードくらいである[14]という。しかし、「セッティングはうまくなかった」とチームメイトであったエディ・アーバインは証言し、「ミハエルはエンジン開発をするのはうまくても、テストはあまりうまくなかった。彼が新しいフロントウィングを試してみて気にいらないと言ったのに、俺が同じウィングを使ったら、コンマ5秒も速くなったんだから[8]。」と語っている。
[編集] 特筆されるレース
以下、しばしば特筆されるレースを挙げる。
[編集] 1992年第12戦ベルギーGP
自身初優勝したレース。序盤からの雨が中盤に至り止むか止まないかという展開の中スピンを喫し、チームメイトのマーティン・ブランドルに先行されたが、ブランドルのレインタイヤにブリスターが発生している状況を見て取ると、自分のタイヤ交換予定を早めさせスリックタイヤに履き替え、優勝を遂げた。デビューからちょうど1年後の初優勝である。
[編集] 1994年第5戦スペインGP
レース半ばでギアトラブルにより5速以外は使用不能となる。首位の座こそデイモン・ヒルに讓ったものの、残り30周以上あったレースを5速ギアだけで走りきり2位に入賞した。通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速でストールさせることなく行っており、ドライビングテクニック、集中力、体力とその実力をあらためて評価された。当時ベネトン・フォーミュラのテクニカルディレクターであったロス・ブラウンはレース後のインタビューで冗談交じりに「彼に6つもギアが必要なのか考えてしまうよ」とコメントしている。
[編集] 1995年第14戦ヨーロッパGP
この年のチャンピオン争いの実質的な最終局面となったレース。残り10周を切った時点でタイトルを争っていたデイモン・ヒルがリタイアしていたため、チャンピオン争いの帰趨はすでに見えていたが、レースにおいても勝つことをあきらめず、残り3周というところでジャン・アレジを抜き去り優勝をもぎ取った。トラック上でのオーバーテイクを伴って優勝した数少ないレースのひとつである。
[編集] 1996年第7戦スペインGP
豪雨の中、フェラーリ移籍後の初優勝を遂げた。この年の両タイトルを獲ったウィリアムズのパトリック・ヘッドはシーズン後に「我々のチームは今年全てのレースに勝てる車を用意したと自負している」と述べた上で「ただ、スペインGPのミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った。
[編集] 1998年第13戦ハンガリーGP
シューマッハとロス・ブラウンのコンビネーションを象徴するレース。レース中、マクラーレンがフェラーリに対してレースペースで優位に立ったことを見てとったロス・ブラウンの発案により、本来2回が常道のピットストップ戦略が突如3回に切り替えられた。シューマッハはこの指示に応え、軽い車で毎周自己ベスト付近のタイムペースを維持し、先行するマクラーレンを逆転することに成功した。
[編集] 1999年第15戦マレーシアGP
第8戦イギリスGPで負傷し欠場していたため、7戦ぶり、3ヶ月ぶりのレースであったが、予選でポールポジションを獲得。決勝では3周目にポイントリーダーでチームメイトのエディ・アーバインを先行させ、自身は2位に下がり、マクラーレンの3位デビッド・クルサードと4位ミカ・ハッキネンの前を走行。すでにタイトル争いから脱落していたクルサードには抜かれたが、アーバインと争っていたハッキネンに対して、“高速コーナーで突然アクセルを戻すことをしながら、ブロックし続けた[7]”。アーバインはそのまま逃げ切り優勝し、シューマッハは2位、ハッキネンは3位であった。この活躍により、最終戦を残してアーバインはドライバーズタイトルに、フェラーリはコンストラクターズタイトルにそれぞれ王手をかけることとなった。
[編集] 2004年第10戦フランスGP
ポールポジションのフェルナンド・アロンソとの争いとなったが、常にピットストップを先に行い、最終的に当時常識的な作戦とされた3回を上回る4回のピットストップを行いながらも、レースペースで圧倒して優勝を飾った。上述の1998年ハンガリーGPと並ぶ、シューマッハとブラウンのコンビによる戦略的勝利と位置づけられるレースとなった。
[編集] 批判と非難を浴びたレース
[編集] 1994年第16戦オーストラリアGP
1点差のランキング1位で迎えた最終戦。タイトルを争っていたデイモン・ヒルとバトルを繰り広げたが、36周目にトップを走っていたシューマッハはコースアウトしコース脇のウォールに車体を当ててしまう。この機を逃すまいとしたヒルは、次のコーナーでインを刺すが、シューマッハがコーナーのアウト側からそれを阻んだことで両者は衝突し、この時点でシューマッハはリタイアとなる。ヒルもピットまでは戻ったもののリタイアを余儀なくされた。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から物議を醸した。
[編集] 1995年第11戦ベルギーGP
雨の中唯一スリックタイヤを履き、シューマッハは予選グリッド16位から追い上げを行い、ピットインの入れ替わりで首位に躍り出る。首位を走るシューマッハに、レインタイヤを履いた2位のデイモン・ヒルが追いつき抜きに掛かるも、シューマッハは何度もラインを変えてヒルをブロックし続けた。結果両者は接触し、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。しかし、ヒルへ危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。また、次戦から「後方のマシンをブロックする際の進路変更は一度のみ」という新たなレギュレーションが設けられた。非難を浴びた一方で、全91勝の中で一番後方のスタートから追い上げ、雨が降っている中、2周に渡ってドライタイヤで抑えきったということで、FIAの処分も下手な演出だと笑い飛ばすジャーナリストたち[15]やイギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載した雑誌ではキャリアハイライトと捉えている。[16]
[編集] 1997年第17戦ヨーロッパGP
1994年と同様、1点差のランキング1位で迎えた最終戦。前回のこともあり、FIAの異例の配慮により、レース前にタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴと、お互いにフェアなレースをする誓い合いが行なわれた。決勝では1位シューマッハ、2位ヴィルヌーブのまま、2度目のピットイン終了。シューマッハのペースが落ち、ヴィルヌーブが0.5秒以内に差を詰めてきた。そして48周目「ドライサックヘアピン」への進入でヴィルヌーブがシューマッハのインをつき、切り込んだシューマッハの右前輪がヴィルヌーブの車体の左サイドポンツーンに接触。シューマッハは弾き出されグラベルに嵌り、後輪が空転して脱出できずにリタイアした。一方のヴィルヌーブは3位で完走し、タイトルを獲得した。しかし、FIAは「シューマッハがヴィルヌーブに故意にぶつけ、リタイアへ追い込もうとした」と判断。シーズン終了後の11月11日、FIAに召喚されたシューマッハは、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁の一環として、シューマッハはFIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。
[編集] 1998年第7戦カナダGP
ピットアウト直後のシューマッハが後方のハインツ=ハラルド・フレンツェンと交錯。これによりフレンツェンはグラベルに押し出される形でリタイヤとなる。これに激怒したウィリアムズのパトリック・ヘッドがフェラーリ陣営に猛抗議、シューマッハは10秒のピットストップペナルティを課せられる。シューマッハは優勝記者会見で「ミラーを見ていなかった」と主張したが、この出来事により以後、ピットレーン出口に白線が敷かれ、この白線をカットすると、ドライブスルーペナルティが課せられるようになった。
[編集] 2002年オーストリアGP
首位を走るルーベンス・バリチェロに続く形でフェラーリの1-2体制で走行中、ファイナルラップのフィニッシュライン直前でバリチェロが順位を譲った。露骨な順位の変更に、観客から罵声を浴びせられた。これ配慮する形で、表彰台ではバリチェロに最上段を譲ったが、表彰式のルールに従わなかったとしてFIAから罰金を課せられた。
2008年11月25日、ブラジルのテレビ局『Rede Globo』の番組『Fantastico』に出演したバリチェロはこのレースに言及した。バリチェロによると、首位走行中に残り8周に差し掛かかった時点で、ピットから指示が入った。そして『後ろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要なことか分かるな。』と言われ、周回が進むにつれて言葉が強くなり、『もし従わない場合は、契約を考え直す。』と言われたという。さらにバリチェロは、このことを『シューマッハが知っていた証拠がある。』とも語った[17]。
[編集] 2006年第7戦モナコGP
台頭する前年度覇者、ルノーのフェルナンド・アロンソの新旧王者対決シリーズとして注目されたが、予選の最終局面で先にトップ・タイムを出したシューマッハは「ドライビングのミス」によりラスカスコーナー出口にマシンを止め、結果としてアロンソらのアタックを妨害する形となった(通称「ラスカスゲート」)。これによりポールポジションを獲得するも審議対象とされる。スチュワードからは故意と裁定され、予選タイム剥奪のペナルティが課せられた。「言い訳にもならない言い訳をするとは、彼の頭の中の葛藤が理解できない。」(ニキ・ラウダ)、「あんな露骨で無礼なやり方をしたことに驚いた。あんなバレバレのことをするなんて、全く許されないことだ。」(スターリング・モス)、「最低の行為」(マーティン・ブランドル)、「自分ならば、恥ずかしくてすぐに引退する。もし自分の息子(ニコ・ロズベルグ)が同じミスをしたとしたら、蹴飛ばしてF1から降ろさせる」(ケケ・ロズベルグ)、「ライセンス剥奪すべき」(ジャック・ヴィルヌーヴ)など、厳しい批判を浴びた一方、「無実でもペナルティを受けることはあるからね」(ファン・パブロ・モントーヤ)と彼を擁護する意見もあった。
[編集] 人物・エピソード
- ドイツ語の発音原則に従えば「ミヒャエル・シューマッハー」の方が原音に近い表記となる。本人は名前をどう発音してほしいか尋ねられ「英語式にマイケルと呼んでほしい」と答えている。
- 同時代のあらゆるアスリートの中でも屈指の高給取りで、最盛期には年間8000万ドルの収入があると言われていた[18]。アメリカの経済誌「フォーブス」が発表するアスリート長者番付では毎年タイガー・ウッズと1位を争った。しかし、多くのF1レーサーの居住地である所得税ゼロのモナコではなく、政府と免税契約をした上で「静かな生活が送れる」スイスに住居を構え、移動に使う自家用ジャット機は弟ラルフ所有機の豪華さに対し、スピードに勝る質実剛健の仕様であることでも知られる。生活は至って堅実であるとされ、実際に問題めいた話は一切聞かれない。
- 服装にもそれほど頓着せず、イギリスのマスコミなどはしばしばシューマッハのファッションセンスを取り上げて茶化すことがある。
- サッカーの腕前は趣味の粋を超えプロフェッショナル級であり、自宅のあるスイスのプロフェッショナルチームに所属していたこともある程である。また、国際サッカー連盟(FIFA)公認のチャリティーマッチ「ジダンフレンズ vs ロナウドフレンズ」において、ジダンフレンズの一員としてピッチに立ったこともある。
- セナが事故死した94年第3戦サンマリノGP後、フジテレビのインタビューで「セナは僕の憧れだった」と語った。2000年イタリアGPでセナと並ぶ41勝目を挙げたレース後の記者会見の際には「これで勝ち星がセナと並びましたね。」という言葉に、突然号泣しはじめインタビューに答えることができなかった。
- 2007年12月には、家族を連れて子犬を受け取るためにドイツ・コバーグ郊外の村へ向かった際、帰りの飛行機の時間が迫っていた関係から、乗っていたタクシー運転手に頼み込み、自らタクシーのハンドルを握って猛スピードで空港へ向かった。ただこのことが世界的に大きく報道されると「ドイツ国内の交通法規に違反しているのではないか。」と問題となり、シューマッハが警察の捜査対象となる事態に発展した[19]。
- 2007年にはバレンシアサーキットで、ロードレース世界選手権(MotoGP)用のマシンであるドゥカティ・デスモセディチをテストし、同年にダニ・ペドロサが記録したポールポジションタイムの5秒落ちの好タイムを刻んだ。2008年にはドゥカティのテストライダーが負傷したため、急遽代わりに走りレギュラーライダーの0.8秒落ちのタイムを記録した。引退後は2輪レースへ散発的に参戦もしているが、本格的に転向する意志はないとしている。
- F1界でその名声を確立した1990年代後半頃からは、チャリティに熱心に取り組むようになり、先にも述べたチャリティ・サッカーにも積極的に参加しているほか、ユネスコに毎年200万ドル程度の寄付を行うなどしている。2004年のスマトラ島沖地震に際して1000万ドルもの寄付をした時は、普段F1を取り上げることも稀な日本のマスメディアにおいても話題となった。これはこの年のミハエルの年収のほぼ1割に相当し、当時の日本円で約10億円という1人の人間の寄付額としては桁外れの額。また、この地震ではシューマッハのボディガードを務めていた男性とその息子が、タイでこの地震による津波に巻き込まれて亡くなっていた。
- ビル・クリントン元合衆国大統領が運営する人道支援基金寄付者リストの上位に、名を連ねている。これまでに寄付した金額は500万ドル〜1,000万ドルであると推測されている。寄付金は、エイズ対策や温暖化対策などに利用されている[20]。
- 以前より、BBCの人気自動車番組『トップ・ギア』に登場する覆面ドライバー、ザ・スティグ(2代目)の正体ではないかと噂されていた。2009年6月にはその噂に答える形で同番組にシューマッハがザ・スティグの格好で登場し話題を呼んだが、司会のジェレミー・クラークソンも「私はスティグがシューマッハではないと思う」と発言している[21][22]。
[編集] 主な記録
[編集] 通算記録
- ドライバーズチャンピオン獲得7回(歴代1位) 2003年にファン・マヌエル・ファンジオの通算5回を更新。
- 通算優勝91回(歴代1位) 2001年第14戦ベルギーGPでアラン・プロストの通算51勝を更新。
- 通算PP獲得68回(歴代1位) 2006年第4戦サンマリノGPでアイルトン・セナの通算65回を更新。
- 通算FL獲得76回(歴代1位) 2001年開幕戦オーストラリアGPでプロストの通算41回を更新。
- 通算ポールトゥウィン獲得40回(歴代1位) 2004年開幕戦オーストラリアGPでセナの通算29回を更新。
- 通算ハットトリック獲得22回(歴代1位) 2002年第17戦日本GPでジム・クラークの通算11回を更新。
- 通算表彰台獲得154回(歴代1位) 2002年第10戦イギリスGPでプロストの通算106回を更新。
- 通算入賞190回(歴代1位) 2002年第15戦イタリアGPでプロストの通算128回を更新。
- 通算獲得ポイント1369pt(歴代1位) 2001年第17戦日本GPでプロストの通算798.5ptを更新。
- 通算決勝完走197回(歴代1位) 2003年第10戦フランスGPでプロストの通算143回を更新。
- 通算決勝周回13908周(歴代1位)
[編集] 年間記録
- 年間優勝13回(歴代1位) 2004年に記録。2002年に自身が記録した11回を更新。
- 年間FL10回(歴代1位タイ) 2004年に記録。2000年にミカ・ハッキネンが記録した9回を更新。
- 年間ポールトゥウィン獲得8回(歴代2位) 2004年に記録。
- 年間ハットトリック獲得5回(歴代1位タイ) 2004年に記録。1952年のアルベルト・アスカリの記録に並ぶ。
- 年間表彰台獲得17回(歴代1位) 2002年に記録。全戦表彰台。1988年のプロストと2001年に自身が記録した14回を更新。
- 年間獲得ポイント148pt(歴代1位) 2004年に記録。2002年に自身が記録した144ptを更新。
[編集] 連続記録
- ドライバーズチャンピオン連続獲得5回(歴代1位) 2004年にファンジオの連続4回を更新。
- 連続優勝7回(歴代1位タイ) 2004年第7戦ヨーロッパGP〜2004年第13戦ハンガリーGPにかけて記録。アスカリの記録に並ぶ。[23]
- 連続PP獲得7回(歴代2位タイ) 2000年第14戦イタリアGP〜2001年第3戦ブラジルGPにかけて記録。
- 連続ポールトゥウィン獲得6回(歴代1位) 2000年第14戦イタリアGP〜2001年第2戦マレーシアGPにかけて記録。ナイジェル・マンセルの5回を更新。
- 連続表彰台19回(歴代1位) 2001年第16戦アメリカGP〜2002年第17戦日本GPにかけて記録。自身と、ニキ・ラウダ、ネルソン・ピケ、クラークの9回を更新。
- 連続入賞24回(歴代1位) 2001年第13戦ハンガリーGP〜2003年第2戦マレーシアGPにかけて記録。カルロス・ロイテマンの15回を更新。
- 連続完走24回(歴代2位・当時1位) 2001年第13戦ハンガリーGP〜2003年第2戦マレーシアGPにかけて記録。自身の18回、ラウダ、セナ、ジャン・アレジの17回を更新。
- 開幕連続優勝5回(歴代1位タイ) 2004年に記録。1992年のマンセルの記録に並ぶ。
[編集] F1での年度別成績
| 年 | 所属チーム | カーナンバー | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991年 | ジョーダン / ベネトン | 32/19 | 4 | 12位 | 5位・1回 | 0回 | 5位・1回 |
| 1992年 | ベネトン | 19 | 53 | 3位 | 1位・1回 | 8回 | 2位・1回 |
| 1993年 | 5 | 52 | 4位 | 1位・1回 | 9回 | 2位・1回 | |
| 1994年 | 5 | 92 | 1位 | 1位・8回 | 10回 | 1位・6回 | |
| 1995年 | 1 | 102 | 1位 | 1位・9回 | 11回 | 1位・4回 | |
| 1996年 | フェラーリ | 1 | 59 | 3位 | 1位・3回 | 8回 | 1位・3回 |
| 1997年 | 5 | 78 | 2位(後に剥奪)* | 1位・5回 | 8回 | 1位・3回 | |
| 1998年 | 3 | 86 | 2位 | 1位・6回 | 11回 | 1位・3回 | |
| 1999年 | 3 | 44 | 5位 | 1位・2回 | 6回 | 1位・3回 | |
| 2000年 | 3 | 108 | 1位 | 1位・9回 | 12回 | 1位・9回 | |
| 2001年 | 1 | 123 | 1位 | 1位・9回 | 14回 | 1位・11回 | |
| 2002年 | 1 | 144 | 1位 | 1位・11回 | 17回(全戦) | 1位・7回 | |
| 2003年 | 1 | 93 | 1位 | 1位・6回 | 8回 | 1位・5回 | |
| 2004年 | 1 | 148 | 1位 | 1位・13回 | 15回 | 1位・8回 | |
| 2005年 | 1 | 62 | 3位 | 1位・1回 | 5回 | 1位・1回 | |
| 2006年 | 5 | 121 | 2位 | 1位・7回 | 12回 | 1位・4回 |
*1997年については、ポイントテーブル上は2位に相当するが、最終戦でのジャック・ヴィルヌーヴとの接触行為についてのペナルティとしてランキングから除外された(ただし、各レースでの成績は有効とされた)。
[編集] グランプリ別・年別の優勝回数
下記の表中の数字は、その時点での通算勝利数を示す。(例:1995年ベルギーGPでは通算16勝目)
| 年 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 計 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ベルギーGP | 1 | 16 | 21 | 26 | 52 | 63 | 6勝 | ||||||||||
| ポルトガルGP | 2 | 1勝 | |||||||||||||||
| ブラジルGP | 3 | 11 | 37 | 55 | 4勝 | ||||||||||||
| パシフィックGP | 4 | 18 | 2勝 | ||||||||||||||
| サンマリノGP | 5 | 34 | 38 | 56 | 65 | 74 | 85 | 7勝 | |||||||||
| モナコGP | 6 | 13 | 23 | 35 | 48 | 5勝 | |||||||||||
| カナダGP | 7 | 24 | 29 | 40 | 59 | 68 | 77 | 7勝 | |||||||||
| フランスGP | 8 | 14 | 25 | 30 | 50 | 61 | 79 | 88 | 8勝 | ||||||||
| ハンガリーGP | 9 | 32 | 51 | 82 | 4勝 | ||||||||||||
| ヨーロッパGP | 10 | 17 | 39 | 49 | 76 | 86 | 6勝 | ||||||||||
| スペインGP | 12 | 20 | 47 | 57 | 66 | 75 | 6勝 | ||||||||||
| ドイツGP | 15 | 62 | 81 | 89 | 4勝 | ||||||||||||
| 日本GP | 19 | 27 | 43 | 53 | 64 | 83 | 6勝 | ||||||||||
| イタリアGP | 22 | 33 | 41 | 69 | 90 | 5勝 | |||||||||||
| アルゼンチンGP | 28 | 1勝 | |||||||||||||||
| イギリスGP | 31 | 60 | 80 | 3勝 | |||||||||||||
| オーストラリアGP | 36 | 45 | 54 | 71 | 4勝 | ||||||||||||
| アメリカGP | 42 | 70 | 78 | 84 | 87 | 5勝 | |||||||||||
| マレーシアGP | 44 | 46 | 72 | 3勝 | |||||||||||||
| オーストリアGP | 58 | 67 | 2勝 | ||||||||||||||
| バーレーンGP | 73 | 1勝 | |||||||||||||||
| 中国GP | 91 | 1勝 | |||||||||||||||
|
|
1勝 | 1勝 | 8勝 | 9勝 | 3勝 | 5勝 | 6勝 | 2勝 | 9勝 | 9勝 | 11勝 | 6勝 | 13勝 | 1勝 | 7勝 | 91勝 |
* 一番勝っているグランプリはフランスグランプリの8勝で、国別ではイタリアの12勝(サンマリノグランプリ7勝とイタリアグランプリ5勝)である。
[編集] 脚注
- ^ 「オートスポーツ 1994年9月1日号 p.101」三栄書房
- ^ 「オートスポーツ 1994年9月15日号 P.31」三栄書房
- ^ 「オートスポーツ 1994年10月15日号 pp.30-31」三栄書房
- ^ a b 「オートスポーツ 1994年11月1日号 p.32」三栄書房
- ^ 「オートスポーツ 1994年11月1日号 p.33」三栄書房
- ^ 厳密にはマンセルは16戦9勝であり、勝率では劣る。
- ^ a b c d e f g 『F1速報 1999 総集編』(ニューズ出版)「12/16号」 p.19-p.21,p.36-p.39,p.113-p.115,p.138-p.140
- ^ a b c 『Sports Graphic Number』(文藝春秋)「688号」 p.44-p.46
- ^ autosport 2006/11/24
- ^ アロンソ、シューマッハの“古傷”に言及
- ^ クルサード、アロンソに同調
- ^ Hero or villain? Schumacher reaches the end of the roadミハエル・シューマッハを語る:ラウダ、モスなど6名
- ^ 『Sports Graphic Number PLUS F1 未知への疾走』(文藝春秋) March2000 p.136-p.139
- ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』2008年2月号 p.93-p.97
- ^ フジテレビF1総集編'95より
- ^ F1 RACING 2008 6月号歴代ドライバー100傑の2位ミハエル・シューマッハのキャリアハイライトより
- ^ F1-Live.com
- ^ スポーツ選手の長者番付発表、1位はF1ミハエル・シューマッハ選手。
- ^ MSN産経ニュース 2007年12月19日
- ^ F1-Live.com 2008年12月20日
- ^ トップ・ギアのスティッグ役を務めるシューマッハ - f1-live.com・2009年6月23日
- ^ Schumacher 'revealed' as the Stig - BBC NEWS
- ^ ただしアスカリは、出走したレースでは9連勝している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ミハエル・シューマッハ公式サイト(ドイツ語・英語)
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