ミハエル・シューマッハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
ミハエル・シューマッハ
Schumi di GP Kanada 2011 cropped.jpg
基本情報
フルネーム Michael Schumacher
国籍 ドイツの旗 ドイツ
出身地 同・フルト
生年月日 1969年1月3日(43歳)
F1での経歴
車番 7
所属チーム メルセデス '10-
活動時期 1991-2006,2010-
過去の所属チーム '91 ジョーダン
'91-'95 ベネトン
'96-'06 フェラーリ
出走回数 286
優勝回数 91
通算獲得ポイント 1517
表彰台(3位以内)回数 154
ポールポジション 68
ファステストラップ 76
初戦 1991年ベルギーGP
初勝利 1992年ベルギーGP
2011年順位 8位 (76ポイント)
タイトル 7 (1994, 1995, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004)
(記録は2011年最終戦ブラジルGP終了時)

ミハエル・シューマッハMichael Schumacher, 1969年1月3日 - )は、ドイツF1ドライバーである。愛称はシューミーSchumi)、マイケル(Michael)。

ドイツ人初のF1ドライバーズチャンピオン。チャンピオン獲得回数7度などF1の主な記録を更新した。

その冷徹で正確なドライビングから、日本では「ターミネーター」、日本国外では「サイボーグ」と呼ばれる時期があった。フェラーリ在籍期には、フジテレビF1中継で「赤い皇帝」の愛称が使われた。

6歳年下の実弟ラルフ・シューマッハウィリアムズなどで6勝を挙げた元F1ドライバーである。

目次

[編集] F1デビュー前( - 1991年)

[編集] カートとの出会い

1969年1月3日、ドイツノルトライン・ヴェストファーレン州ケルン近郊のフルト・ヘルムールハイム (Hürth-Hermülheim)で生まれる[1]。4歳の時、煉瓦職人の父から贈られた“原動機付きペダルカー”が車との出会いである。夢中で路上を走らせていたミハエルが電柱に衝突したため、心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的なレーシングカート”と遭遇した。このカート場は1961年に事故死したF1ドライバー、ウォルフガング・フォン・トリップスの家族が所有しており、父はそこの管理を兼業するようになった[2]

1975年には次男のラルフ・シューマッハが誕生。1980年、カート場の移転にともない一家はケルペン・マンハイム (kerpen-Manheim) に転居し、父はカート場の管理人とレンタルカート屋、母はカート場の軽食スタンドで働くようになった。

1983年に国内カートライセンスを取得し、1984年1985年にはドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、1987年にはドイツとヨーロッパのカートチャンピオンとなった。彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使うこともあったという。だが、恩師ユルゲン・ディルク(F1ドライバー時代にはファンクラブ会長を務めた)の支援により、十分な環境とは言えないもののレースを続けた。

[編集] F3

1990年のドイツF3でドライブしたレイナード903・VW

中学卒業後は自動車販売店に入社し、整備工の資格を取得する。1988年ジュニアフォーミュラにステップアップし、フォーミュラ・ケーニッヒ[3]フォーミュラ・フォードに参戦。ドイツF3選手権に参戦するWTSレーシングのオーナー、ウィリー・ウェーバーに見初められ、マネージメント契約を結ぶ。

ドイツF3では1989年に2勝を挙げ、チャンピオンのカール・ヴェンドリンガーに1ポイント差のシリーズ3位。1990年には5勝してチャンピオンとなった。同年のマカオGPでは本命と見られていたイギリスF3王者ミカ・ハッキネンを下して優勝した。その1週間後、日本の富士スピードウェイで初開催されたインターF3リーグにも参戦し、F3の国際レースで2週連続優勝した。

マカオGPの第1レグではハッキネンから約5秒遅れの2位。第2レグでも先行しながらハッキネンを引き離せず、総合タイムでハッキネンの優勝が濃厚かと思われた。しかし、ファイナルラップのメインストレートでオーバーテイクを仕掛けてきたハッキネンをブロックして接触。ハッキネンはクラッシュし、シューマッハはリヤウイングが脱落したものの、残り1周を走りきって総合優勝を手にした。シューマッハはハッキネンのガレージに行き「すまなかった。君が後ろにいるなんて見えなかったんだ」と謝ったが、ヨーロッパに戻ってテレビ出演した際、接触のことを聞かれると「ミカのことは見えていたよ。だからブロックしたんだ。あの状況では、僕は勝つために当然のことをしたと思うよ」と答えた[4]

[編集] メルセデス・ジュニアチーム

1990年、メルセデス・ベンツが立ち上げた若手育成プロジェクトにカール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェンとともに選出された。3名は世界スポーツプロトタイプカー選手権 (WSPC) のザウバー・メルセデスチームに加わり、ベテランのヨッヘン・マスのパートナーとして交代で参戦した。シューマッハは4戦出場してドライバーズ選手権5位、最終戦のメキシコで初優勝した。

1991年はスポーツカー世界選手権 (SWC) に8戦出場し、ル・マン24時間レースでは5位入賞。ワークス最後のレースとなった日本(オートポリス)ではヴェンドリンガーと組んで優勝した。ドライバーズ選手権は9位。これらの好走がTWR・ジャガーチームのトム・ウォーキンショーロス・ブラウンの目に留まり、同年のベネトン移籍に繋がることになる[5]。また、この2年間にはドイツツーリングカー選手権 (DTM) にも数戦出場している。

メルセデスはF1にワークス参戦を予定しており、シューマッハも起用される予定だったが、メルセデスの計画修正(エンジンのみ供給)によりこの時は実現しなかった。

[編集] 全日本F3000

シューマッハは国際F3000には参戦しなかったが、1991年の全日本F3000第6戦・菅生チーム・ルマンの3台目としてスポット参戦している。イギリスで行われたラルトのテスト時に、ラルトの開発ドライバーのデビッド・ブラバムと共にシューマッハを走らせたところ、初めてのF3000マシンにも関わらずシューマッハの方がブラバムより速かったため起用された[6]レイナードローラに対してハンディのあるラルトに乗り、チームメイトのジョニー・ハーバートが予選21位に沈む中、予選で4位を獲得。決勝でも2位に入る活躍を見せた。

このレースでシューマッハから0秒4差の3位に入った中谷明彦は「後ろから見ていて、シューマッハは大した奴だと思った。ミスをしないんだよ。とてもF3000が初めてだとは思えないね」と語り[7]、当時エディー・アーバインを擁して全日本F3000を戦っていたセルモの佐藤正幸は「優れたドライバーというのは、あらゆる点で優れてる」とシューマッハの印象を語った[8]

当時の国際F3000以下の下級フォーミュラがバイアスタイヤを使用していたのに対し、全日本F3000はF1と同じラジアルタイヤを使っており、来日した外国人ドライバーは今までの経験と異なる感覚に、タイヤの使い方の習得に苦労を強いられていた。後にF1でともに仕事をすることになるブリヂストンの浜島裕英は、タイヤの特性を詳細に質問する彼の姿勢と、それを元に実際に短時間の練習走行でタイヤを使いこなしてしまったその才能に強い印象を受けたという[9]

シューマッハは全日本F3000への参戦理由について「フォーミュラでの経験が欲しかったからなんだ。特に日本を選んだ理由は、予選用タイヤの存在だ。そのフィーリングを自分の身体で覚えておきたかったからなんだ。将来への経験としてね。」と語っている[10]。弟のラルフも1996年に日本でレースを行っていたとき、フォーミュラ・ニッポンでは同じチーム・ルマンに所属していた。

[編集] ジョーダン-ベネトン在籍期(1991年 - 1995年)

[編集] 1991年

ジョーダン・191で走行するシューマッハ

当初の予定ではそのまま1991年シーズン後半の全日本F3000へ参戦を予定していたが、1991年8月、ベルトラン・ガショーの刑事事件をきっかけにして、メルセデスが用意した持参金をジョーダンに持ち込み、第11戦ベルギーGPで同チームからF1に初参戦した。F1デビュー戦ながら、難コースのスパ・フランコルシャンで予選7位を獲得。決勝は0周リタイアに終わったものの大型ルーキーとして注目され、FOCA会長バーニー・エクレストンの根回しでベネトンとメルセデスが接触した[11]。ジョーダンは訴訟を起こして抵抗したが、結果的にロベルト・モレノとトレードする形でシューマッハのベネトン加入が決定した。移籍後最初のイタリアグランプリでチームメイトのネルソン・ピケを上回り5位初ポイントを獲得。続く2戦でも6位に入賞した。

第15戦日本GPでは、予選中130Rで大クラッシュを喫する。この時は何事もなく再出走したが、数年後検査した際、脊椎数箇所を損傷していたことが判明した[12]

[編集] 1992年

フル参戦初年度は、第2戦メキシコGPで2位初表彰台を獲得。ドライからウェットへ移行する難しいコンディションとなった第12戦ベルギーGPで、この年のチャンピオンチームとなるウィリアムズ勢を見事な戦略で破り、デビュー18戦目でF1初勝利を達成した(これは現状でマニュアル・シフト車の最後の勝利でもある)。シーズンを通じてコンスタントに上位を走行し、前年のチャンピオン、アイルトン・セナを上回るランキング3位を獲得した。

この年はコース内外でセナとの関係が取りざたされた。第3戦ブラジルGPではペースの上がらないセナに前を塞がれ、レース後「アイルトンの行為はチャンピオンに値しない[13]」と批判。第8戦フランスGPのオープニングラップではセナに追突して赤旗の原因を作り、レース中断中にセナから説教された。その後ホッケンハイムリンクで行われたテスト走行でも、進路妨害をしたとしてセナと乱闘寸前になった。

[編集] 1993年

開幕戦の南アフリカGPでレース序盤にアラン・プロストやセナに迫る活躍を見せた。第14戦ポルトガルGPでは予選6位からピット戦略でトップ走行中のプロストを逆転し優勝。しかし、ハイテクマシンであるB193Bの信頼性が低かったことから、表彰台かリタイヤという極端な結果が影響して、前年よりランキングを1つ下げることとなった。

[編集] 1994年

開幕4連勝を含め、前半8戦中6勝と好スタートを切った。第3戦サンマリノGPではセナを追走しながら、セナの事故死につながるクラッシュに遭遇。至近距離からの目撃者として、FIAと警察の事情聴取を受けた。次戦モナコGPでは自身初のポールポジションを獲得した。

第8戦イギリスGPでは、フォーメーションラップデイモン・ヒルを追越したことによる5秒のピットストップペナルティを課せられたが、ピットインを指示する黒旗に6周にわたり従わなかったことでレース後に失格とされ、更にレーススチュワードから「25,000ドルの罰金」が課された[14]。ところがその後FIAより7月26日に行われた世界モータースポーツ評議会に召還され、そこで更に2レースの出場停止と50万ドルの罰金というペナルティが課された[15]。ベネトンチームはこの処分を不服として抗議を行い、その聴聞が8月30日に行われることとなったため、聴聞会までの3レース(ドイツハンガリーベルギー)への参戦が認められた。聴聞後に出された裁定は、2レースの出場停止を即座に適用するというもので、その後2戦には出走することができなかった[16]

2レースの出場停止と2レースの失格によりヒルの追い上げを許し、タイトル争いは最終戦までもつれた。シューマッハが1ポイントリードで迎えた最終戦では、レース中にヒルと接触し両者ともにリタイアによりチャンピオンが決定したため、この接触は故意か否かで物議を醸したが、この結果、自身初、ドイツ人としても初のドライバーズタイトルを獲得した。

この年、ベネトンは禁止されたトラクションコントロール使用の嫌疑が掛けられたが、証拠不十分として無罪とされた[17]。また、ベネトンチームは給油装置の燃料フィルタを取り外す改造を加えていることが明らかになったが、これは給油装置の開発会社がラルースチームに対して同様の改造をすでに許可していたことが判明したことなどから、処罰は行われなかった[17]。イタリアGPではウィリアムズも給油装置への改造を行っていたことが判明し、ウィリアムズは改造個所を元に戻すよう通告された[18]

[編集] 1995年

ベネトン・B195で走行するシューマッハ(イギリスGP

序盤は単独クラッシュを喫するなど出遅れたが、第5戦スペインGPの完勝からペースを掴み、17戦中9勝を上げてナイジェル・マンセルが1992年に達成した当時のシーズン最多勝記録に並び[19]、2年連続でドライバーズチャンピオンを獲得した。ドイツGPでは母国初優勝を果たした。

ヒルとはこの年もイギリスGP・イタリアGPで接触して両者リタイアとなった。ベルギーGPでは予選16位から路面状況を読み取って優勝したが、ヒルへのブロックで執行猶予付き出場停止処分を受けた。

[編集] フェラーリ在籍期(1996年 - 2006年)

[編集] 1996年

フェラーリに移籍。フェラーリでは、ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ社長とジャン・トッド監督の下、長く低迷していたチームの再建が始まっていたものの、ウィリアムズ勢に劣勢を強いられていた。しかし大雨のスペインGPでの優勝など、早くも3勝をマークして見せた。

[編集] 1997年

ウィリアムズのジャック・ヴィルヌーヴが、優勝かリタイアという不安定なレースを中盤まで続けていたのに対し、信頼性の高いF310Bで着実にポイントを稼ぎ、第16戦日本GPでシーズン5勝目を上げると、1ポイントリードでランキング首位にたった。ベネトンからロス・ブラウン(テクニカルディレクター)とロリー・バーン(チーフデザイナー)が移籍してきたことで、戦略のレベルアップとマシン開発に拍車がかかったことも、シューマッハの走りをサポートしていた。そしてヘレスで行われた最終戦ヨーロッパGP、予選でシューマッハはヴィルヌーブと同タイムを叩き出したものの、タイムを先に記録したヴィルヌーブがポールポジションとなり予選2位。決勝レース、スタートで首位にたったシューマッハがレースをリードするが、タイヤ交換後にペースの上がらないシューマッハにヴィルヌーブが追いついた48周目、ヘアピンでインをついたヴィルヌーブの左サイドポンツーンに、シューマッハの右フロントタイヤが接触しシューマッハはリタイア。その後3位で入賞したヴィルヌーヴに逆転されてタイトルを逃した。FIAはシーズン終了後の11月11日にシューマッハを召喚。この接触をシューマッハの故意によるものと断定し、ペナルティを科した。このレースとペナルティの詳細は別項(1997年第17戦ヨーロッパGP)に後述。なお、チャンピオン争いをしたヴィルヌーヴとはこの年に一度も同じ表彰台に立つことはなかった。

[編集] 1998年

デビッド・クルサードとバトルをするシューマッハ(左)(イギリスGP

モンテゼーモロが「王座奪回の年」と宣言。ロリー・バーンがゼロから設計したニューマシンF300を、ジャン・トッドの指揮でテストも十分に重ね、満を持して臨んだが、開幕2戦はマクラーレンミカ・ハッキネンが連勝。

それでも前年に引き続きエディ・アーバインのサポート、上方排気システム及びロングホイールベースへの変更をしたF300及び前輪をワイドトレッド化したグッドイヤータイヤの進化、ロス・ブラウンの戦略[20]が結集され、シューマッハの成績も向上。こうした後押しを受けてポイント首位のハッキネンと熾烈な争いを展開し、フェラーリ地元である第14戦イタリアGPでは ポールトゥーウィンで6勝目をあげ、ポイントでも80対80と同点で並んだ。第15戦ルクセンブルクGPと最終戦日本GPでは共にポールポジションを取り、いよいよ王座奪回かと期待させたが、両決勝ではハッキネンに逆転優勝を許し、2年連続最終戦でタイトルを逃した。

カナダGPやハンガリーGPで作戦を遂行するために果敢な走りを見せた反面、モナコGPではアレクサンダー・ヴルツ(ベネトン)とペドロ・ディニスアロウズ)への接触とヌーベルシケインでスピン、オーストリアGPではハッキネンと首位争いしていた17周目のヨッヘン・リントコーナーを曲がりきれずにコースアウトと、ミスが目立ったシーズンでもあった。

[編集] 1999年

第3戦サンマリノGP、第4戦モナコGPで勝利し、シリーズをリードしていた。第5戦スペインGPでは予選で、同じフェラーリエディ・アーバインの後塵を拝す。この頃から、シューマッハとアーバインの関係に1996-1998年になかった緊張感が出てきていた[21]。第6戦カナダGPではポールポジションを獲得。決勝は1位シューマッハと2位ミカ・ハッキネンが、ファステストラップの応酬をしていた。ところが30周目に入り、1位シューマッハはドライビングミスで最終コーナーのコンクリートウォールに激突しリタイア。ハッキネンに優勝され、ポイント争いでも逆転された。第7戦フランスGPはセッティングミスとピット作戦の失敗で勝てるレース[21]を落とし、ハッキネンとの差が8ポイント差に拡がった。

第8戦イギリスGPが開幕。予選中にピットアウトする際に、すでにピットロードに出ていたハッキネンの横に並んで抜いた。この行為をテレビ解説していた川井一仁は「ペナルティになるのでは? シューマッハは、なに焦っているんでしょうね。」とコメントしている。結果はポールポジションがハッキネン、2位シューマッハ、3位クルサード、4位アーバインであった。決勝がスタートし、シューマッハはクルサードとアーバインに抜かれた。全車が1コーナーを過ぎた直後に、スタートできなかった2台のマシンをコース上から撤去するため“赤旗”が提示された。にも関わらず、シューマッハとアーバインはサイドバイサイドでマゴッツ・カーブ、ベケッツ・コーナー、チャペル・カーブを通過し、ハンガー・ストレートでも競り合う。この時、シューマッハは「アーバインをパスするから、道を開けてくれ。」と無線で言っていた[21]。インをシューマッハ、アウトをアーバインでストウ・コーナーに入り、シューマッハはコースアウトし、タイヤバリアにクラッシュ。本人は手を振って担架に載せられたが、『右足の脛骨腓骨の骨折』の怪我を負った。フェラーリは「リアブレーキ破損」が原因と発表。その一方で、上述の通り「シューマッハのあせりから事故が起きた[21]」という報道もあった。

6レース欠場後、第15戦マレーシアGPから復帰し、予選ではポールポジションを獲得。決勝でもドライバーズタイトルを争っていたアーバインをサポート。最終戦日本GPでもポールポジションを獲得し、決勝では2位入賞。フェラーリの1983年以来、コンストラクターズタイトル獲得に貢献した。

[編集] 2000年

1999年のシーズン途中でF399の風洞開発を止め、マシンの熟成をそれ以上行なわないで、代わりにF1-2000の開発を進めていったことが功を奏し[22]ミカ・ハッキネンとの激しい戦いを制して、ついに自身3度目、フェラーリ在籍ドライバーでは1979年ジョディー・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。また、イタリアGPでセナの持つ勝利数(41勝)と並んだ。このレースから翌年のマレーシアGPまで6戦連続のポール・トゥ・ウィンを記録している。

[編集] 2001年

プロストが持つF1最多ポイント(798.5ポイント)、最多ファステストラップ(41回)と最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。カナダGPで史上初の兄弟1-2も果たしている(1位・弟ラルフ、2位・兄ミハエル)。なお、ミハエルは開幕戦の共同記者会見で「僕はもうグランプリ・ドライバーとして成長することはないと思う。これから先も勝てるとすれば、それはフェラーリが進化、成長することを意味する」と印象的な発言をした[23]

[編集] 2002年

ファンジオの持つ偉大な記録に並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身(1995年、2000年、2001年)とマンセル(1992年)のもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台獲得した。7戦を残してチャンピオンを決定するという、圧倒的な強さを見せた。

[編集] 2003年

シーズン開幕当初に躓いたことにより出遅れ、マクラーレンキミ・ライコネンやウィリアムズのファン・パブロ・モントーヤらとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げた。第4戦サンマリノGPの決勝日に母を亡くした。このレースでポール・トゥ・ウィンを果たしたが、記者会見ではミハエル・シューマッハの代理でインタビューに応じたジャン・トッドはミハエルのことを「ドライバーとしてじゃなく、1人の男としてすごいことを成し遂げてくれたと思う」と答えた。最終戦鈴鹿で、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得した。また、ヨーロッパグランプリで、F1史上初の通算1,000ポイントを獲得した。

[編集] 2004年

シューマッハの7度目のワールドチャンピオン獲得を祝福するサインボード

前年の苦境とは打って変わり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦モナコGPはクラッシュでリタイアを喫したもののその後は7連勝を記録し、F2004と共に2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、ベルギーGPでは、ついに5年連続で通算7度のチャンピオンに輝いた。また、同年の鈴鹿が弟のラルフとの最後の1-2フィニッシュである。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。

[編集] 2005年

新レギュレーションに対応したマシンとタイヤがうまく機能せず、前年とは一転して苦戦した。ミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にボイコットし、わずか6台のみで争われた第9戦アメリカGPで、ようやく勝利をあげることができた。しかし、その後も苦戦が続き、結果的にはその1勝のみに終わり、21世紀になってから初めてチャンピオンの座を、フェルナンド・アロンソに明け渡した。

[編集] 2006年

フェラーリ・248F1で走行するシューマッハ(カナダGP

開幕戦バーレーンGPでポールポジションの獲得回数がセナと並び、第4戦サンマリノGPでセナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。ただシーズン序盤はマシンの信頼性欠如に苦しんでフェルナンド・アロンソにポイントでリードを許したが、シーズンが進むにつれて急速に差を縮める。

第15戦イタリアGP後の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明(後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていたキミ・ライコネン)した。会見では、ファン、家族、フェラーリの仲間とベネトン時代の仲間に感謝したいとも述べた。

次の第16戦中国GPでは雨中のレースを優勝し、ポイントランキングトップのアロンソと同点としたが、第17戦日本GPでは、2回目のピットストップの直後、トップを走りながらエンジントラブルによりリタイアした。最終戦ブラジルGPでは、予選の第2ラウンドではトップタイムを記録したものの、第3ラウンドの開始直後にマシンが故障しタイムを記録することができなかったため、10番グリッドからスタートすることとなった。決勝ではジャンカルロ・フィジケラと接触、左リヤタイヤがパンクし、優勝は絶望的となったが、フィジケラ、ライコネンらとのバトルを制し、ファステストラップも記録した。最終的には4位でゴールし、フェルナンド・アロンソに2年連続のチャンピオン獲得を許すこととなった。同年のフランスGPにおいて68回目のポールポジションを獲得し、決勝では優勝とファステストラップを記録して結果的にハットトリックとなり、雨の中国GPが一時引退前の最後の勝利(91勝目)となった。

[編集] F1現役引退後 (2007年 - 2009年)

2007年は、アドバイザーという役職に立場を変えてフェラーリのF1に関わり、チーム監督であるジャン・トッドや、ドライバーのフェリペ・マッサとライコネンなどを見守ることとなった。この年の開幕戦のオーストラリアでは、フェラーリに移籍してきたライコネンが優勝し、現場にいなかったシューマッハーは祝福の電話をライコネンにかけた。この年サーキットを初めて訪れたのは、ヨーロッパラウンド初戦のスペインGPであった。モナコGPでは、去年までのライバルだったフェルナンド・アロンソと握手を交わす姿がTVに映し出された。ヨーロッパGPには、表彰台でトロフィーを渡す役として登場した。また母国・ドイツのフランクフルトモーターショーではフェラーリブースに登場し、注目を集めた。シューマッハはブラジルGPをスイスの自宅で見ていたようで、ブラジルに行かなかったことを後悔したという。

スペインで開催されたイベントでドゥカティのMotoGPバイクに乗り、現役ライダーの5秒落ちというタイムをマークし、ジャーナリストらを驚かせた。また、このことで2輪レースに対する興味が湧いたのか、2008年3月にはイタリアのマイナーレースでレースデビューを果たし4位入賞、5月にはドイツ国内のスーパーバイク選手権に同国内の大手チームよりホンダ・CBR1000RRを駆って参戦したが、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わった。

2007年11月のバルセロナ合同テスト、同12月のヘレス合同テストに参加した。約1年ぶりにF1マシンのステアリングを握ったが、バルセロナでは2日連続でトップタイムをマークし、関係者を驚かせた。同年のシーズンオフに、シューマッハ最後のチームメイトだったフェリペ・マッサが主催のカートイベントに参加し、総合優勝(第1レース優勝、第2レース6位)を果たした。

その後、2009年用のスリックタイヤテストの際に、テストドライバーとして度々F2008を走らせている。

2009年のハンガリーGP公式予選走行中、フェリペ・マッサが事故により頭部を負傷、復帰まで時間がかかることがわかった。その代理としてヨーロッパGPからF1に復帰すると発表されたが、2月のバイクレースで転倒した際に負った首の痛みのために万全の体調で臨めないため、ドクターストップが掛かり復帰を断念した。

[編集] F1復帰メルセデス在籍期 (2010年-)

[編集] 2010年

スペインGPでのシューマッハ

2009年12月23日メルセデス・グランプリから4シーズンぶりにF1に復帰することが発表された[24]。3年契約を結んでいる[25]

開幕戦から第4戦中国GPまで、チームメイトであるニコ・ロズベルグに予選・決勝ともに負けていたが、第5戦スペインGPでシューマッハの要望に応えた改良型のシャシーが投入されると初めて全セッションでチームメイトを上回り、決勝でも今シーズン自己最高となる4位入賞を果たした。しかし、それ以降ロズベルグが改良マシンの特性を掴んでいくとレースでは再びロズベルグの後塵を拝するレースが増えた。第8戦カナダGP以降は、7戦中6戦で予選Q2で脱落しており、速さを取り戻せずに苦戦が続いた。

シューマッハがF1にデビューした当初のチーム代表エディ・ジョーダンは、再三に渡ってシューマッハは解雇されるべきだと主張してきたが、第15戦シンガポールGP後には成績内容があまりにも悪いため、チーム代表のロス・ブラウンからも「ミハエルでなければ解雇する。」と言われた[26]。 このようにさまざまな方向からの批判が強まっているが、シューマッハ自身はカムバックを後悔したことはなく、自信を失ったことは一度もないと述べている[27]

第16戦日本GPでは、決勝で非凡な走りを見せ徐々にではあるが復活の兆しを見せた。さらに第17戦韓国GPではウェット状態でセーフティカー先導でスタートし、4周目で赤旗中断となる荒れたレースであったがその間にチームが機転を利かせてマシンセットアップを雨用に変更し、レース再開直後、晴れ用セットの状態であったマクラーレンを操るジェンソン・バトンをオーバーテイクし4位でフィニッシュした。しかし最終戦アブダビGPではレーススタート直後にスピンを喫し、後続のリウッツィが避けきれずに接触、1周も走ることができずにリタイアという不本意な結果で最終戦を終えた。

結局フル参戦したシーズンの中で唯一の未勝利及び未表彰台に終わり、142ポイントを獲得したチームメイトのロズベルグに対し、自身は72ポイントと倍近い大差を付けられ、期待外れな復帰初年度となった。ランキングは9位。

[編集] 2011年

2011年もメルセデスから参戦。チームメイトのロズベルグが開幕から毎戦で予選Q3に進出したのとは対照的に、開幕から3戦連続で予選Q2敗退が続いた。

第4戦トルコGPでは予選こそ今期初のQ3進出を果たしたものの、決勝レースでは全くペースが上がらずに次々とオーバーテイクされ、ペトロフにインを突かれた際には幅寄せした挙句に接触するミスを犯し[28]、結局ポイント圏外でレースを終えた。レース後には、「レースが楽しくない。」とモチベーションの低下を感じさせる発言をしたことが物議を醸した[29]

第6戦モナコGPでは今期初めて予選でチームメイトのロズベルグを上回ったが、決勝はマシントラブルでリタイアに終わった。

第7戦カナダGPは、雨の中断後2位走行という目覚ましい走りを見せた。結果は復帰後タイの4位フィニッシュ。表彰台まであと一歩届かなかったが今後の期待が高まる走りだった。

第12戦ベルギーGPでデビュー20周年を向かえ、ヘルメットのデザインを変更した。予選では、第1セッションでピットアウト後タイヤが脱落してしまいバリアに激突、ノータイムで終えたことにより最後尾の24位からのスタートになった。決勝では19台抜きという驚異的な走りで5位フィニッシュ。数々のバトルがあったためシューマッハ自身も「追い抜きを心から楽しんだ」とコメントしている。

[編集] 評価

BMWザウバーチームは、ミハエル・シューマッハの最後のレースとなる2006年のブラジルGPでリヤウイングに"Thanks Michael"のサインを施した。

そのキャリアにおいてさまざまなF1の歴代記録を塗り替えた、F1史上に残るドライバー。ベネトンに加入後、4シーズン目にチャンピオンを獲得した。フェラーリに移籍後には、ベネトン時代に一緒に働いたロス・ブラウンロリー・バーンらを招聘し、2000年には1979年以来のドライバーズチャンピオンをもたらした。

シューマッハ加入前の数年にはシーズン1、2勝で過ごしてきたベネトンとフェラーリを、結果としてチャンピオンに導いている。特にフェラーリにおいては、移籍後から2006年に最初の引退をするまで毎年優勝を飾っており、1997年 - 2006年まで、数戦を負傷欠場した1999年と不調に終わった2005年を除く全てのシーズンでタイトル争いをしている。

チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことでも知られている。スペアカーの使用権、ピット作戦における優先権のほか、チームメイトに優勝を含めレース中に順位を譲らせたことも数度あり、この点で批判を浴びることも少なくない。特に2001年、2002年のオーストリアGPでは、チームメイトのルーベンス・バリチェロに2年続けて露骨に順位を譲らせたことで物議を醸し、FIAがそれまで黙認状態だったチームオーダーを公式に禁止する異例の声明を出すに至っている。No.1待遇について、契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明であり、当時同じフェラーリに在籍していたマッサはその存在を否定している一方で、元チームメイトのジョニー・ハーバートは引退後に待遇差があったことを認める発言をしている。また、エディ・アーバインによると「チームの指示には常に従わなければならないと契約書に書いてあった。新しいシャーシが届けば、最初に使うのはミハエルだったし、ミハエルのためにタイヤの皮むきをするのが俺の役割だった[22]」と述べている。1995年サンマリノGPでは、シューマッハがリタイアした後、チームメイトのハーバートがレース続行中であったにも関わらず、チーム代表のフラビオ・ブリアトーレはサーキットから去った。また、1999年のイギリスGPでは事故を起こした際、命に別状はなかったにも関わらず、チームを指揮する立場のトッドが決勝レースを離れて手術に立ち会った。これらの出来事は、チーム内におけるシューマッハの立場を示している[21]

他方、明確に批判と非難の対象となったものもある。F1においては過去に1994年と1997年の2度、ドライバーズチャンピオンがかかった最終戦でタイトルを争うドライバーとの接触を起こしている。1994年のケースについては故意か否か見解が分かれるが、1997年にヴィルヌーヴと接触したケースについては公式に故意とみなされペナルティを受けたばかりでなく、チャンピオンに相応しくない卑劣な行為とみなされ、その後も彼の評価と名声に汚点を残した。引退後には、シューマッハ自身も「F1キャリアにおいて取り消すことができる場面があるとすれば、それはヘレスでしょう」と、ドイツの新聞‘スュドドイチェ・ツァイトゥング(Suddeutsche Zeitung)’のインタビューの中で語っている[30]。これらの出来事に関しては、後にフェルナンド・アロンソが『F1史上最もスポーツ精神に反するドライバー』だと痛烈に酷評しており[31]デビッド・クルサードなどもこれに同調している[32]。2006年10月、インディペンデント紙のインタビューで、ニキ・ラウダスターリング・モス、ジャック・ヴィルヌーヴ、ハンス・シュトゥックマーティン・ブランドルといった元F1ドライバーと、F1ジャーナリストのデイヴィッド・トレメインの6人がシューマッハについて語っている。『最も偉大なドライバーか?』の問いに、ラウダ以外の5人は「NO」と回答しており、数々の記録を打ち立てた業績とは相反する評価が多い[33]

レースにおいては、ポールポジションからの逃げ切りやピット戦略で前に出ることが多く、ピットイン前後の周回で速さを見せてマージンを築いたり、ライバルより多いピットストップ戦略を行うことにより、コース上でのオーバーテイクよりも作戦によって勝利を得るところに特徴がある。また、その戦略の実行を可能にする、要所における集中力が彼の真骨頂とも言える。

他人の走行に対するブロックは露骨で危険なものとして、非難の対象となることが多い。F3マカオGPでのハッキネンとの対決では、ストレートでスリップストリームからオーバーテイクにかかったハッキネンの進路をふさぎ接触、1995年のベルギーGPでは何度もラインを変えてデイモン・ヒルの進路を阻んで接触、1997年のヨーロッパGPでのジャック・ヴィルヌーブとの接触では、完全に前に出たヴィルヌーブのマシンのサイドポンツーンに、自身のマシンのフロントタイヤをぶつけている。復帰後の2010年ハンガリーGPでは、背後からホームストレートで横に並んだバリチェロをコンクリートウォール直前まで幅寄せし、危険な行為として次戦での10グリッド降格ペナルティを受けた。これに対してシューマッハ自身はレース直後に、「何も悪いことはしていない。」とコメントしていたが[34]、後に自身のホームページ上で非を認めるコメントを掲載した[35]。シューマッハとは家族ぐるみの間柄であるジャン・アレジでさえ、「ドライビングスタイルには敬意を持っているが、レースに関してはアイルトンほど好きではない。アイルトンとはリスクを感じずにレースでバトルができる。しかし、ミハエルを本気で追い越そうとすると、彼はなんらかのことをやってきて、接触することになるからね。ミハエルは自分が抜かれるという事実を認めることができないから、ジグザグに走ったりするんだ。ジグザグ走行というものをF1に持ってきたのは、ほとんど彼と言っていい[36]」と語っている。そのアレジ自身も実際に、1995年のオーストラリアGPでシューマッハと接触してリタイアを余儀なくされた経験がある。

開発能力は、ブリヂストン浜島裕英によると「(タイヤに関して)他のドライバー(ルーベンス・バリチェロ、ルカ・バドエルら)では決めきれない部分を決めてくれる」一方で「差がないものは差がないと言って、無理にコメントしないところもありがたい。」、「開発の方向性をバシッと出してくれるところがすごい。」等と語っている。浜島曰く、テストドライバーとしてシューマッハに匹敵する能力を持つのは星野一義デビッド・クルサードくらいである[37]という。しかし、「セッティングはうまくなかった」とチームメイトであったエディ・アーバインは証言し、「ミハエルはエンジン開発をするのはうまくても、テストはあまりうまくなかった。彼が新しいフロントウィングを試してみて気にいらないと言ったのに、俺が同じウィングを使ったら、コンマ5秒も速くなったんだから[22]」と語っている。

[編集] 特筆されるレース

以下、しばしば特筆されるレースを挙げる。

[編集] 1992年第12戦ベルギーGP

自身初優勝したレース。序盤からの雨が中盤に至り止むか止まないかという展開の中スピンを喫し、チームメイトのマーティン・ブランドルに先行されたが、ブランドルのレインタイヤにブリスターが発生している状況を見て取ると、自分のタイヤ交換予定を早めにスリックタイヤへ履き替え、ロス・ブラウンの戦略により、優勝を遂げた。デビューからちょうど1年後の初優勝である。

[編集] 1994年第5戦スペインGP

レース半ばでギアトラブルにより5速以外は使用不能となる。首位の座こそウィリアムズのデイモン・ヒルに讓ったものの、残り30周以上あったレースを5速ギアだけで走りきり2位に入賞した。通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速でストールさせることなく行っており、ドライビングテクニック、集中力、体力とその実力をあらためて評価された。当時、ブラウンはレース後のインタビューで冗談交じりに「彼に6つもギアが必要なのか考えてしまうよ」とコメントしている。

[編集] 1995年第14戦ヨーロッパGP

この年のチャンピオン争いの実質的な最終局面となったレース。残り10周を切った時点でタイトルを争っていたヒルがリタイアしていたため、チャンピオン争いの帰趨はすでに見えていたが、レースにおいても勝つことをあきらめず、残り3周というところでジャン・アレジを最終コーナー手前のシケインでアウト側から抜き去り優勝をもぎ取った。トラック上でのオーバーテイクを伴って優勝した数少ないレースのひとつである。

[編集] 1996年第7戦スペインGP

豪雨の中、フェラーリ移籍後の初優勝を遂げた。この年の両タイトルを獲ったウィリアムズのパトリック・ヘッドはシーズン後に「我々のチームは今年全てのレースに勝てる車を用意したと自負している」と述べた上で「ただ、スペインGPのミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った。

[編集] 1998年第13戦ハンガリーGP

シューマッハとロス・ブラウンのコンビネーションを象徴するレースであった。レース中、フェラーリがマクラーレンに対して、決勝のレースペースで優位に立ったことを見てとったブラウンの発案により、本来2回が定石のピットストップ戦略を突如3回に切り替えられた。シューマッハはこの指示に応え、軽い車で毎周自己ベスト付近のタイムペースを維持し、先行するマクラーレンのハッキネンとクルサードを逆転することに成功した。なお、川井一仁フジテレビCS721の「1998年F1グランプリを斬る」という番組で、「決勝でブリヂストンタイヤを履くチームが、一律にタイムを落としたことと、また、ハッキネンはメカニカルトラブルに巻き込まれ、クルサードは必要以上に燃料を積んで走行したことにより、共に失速したことが3ストップ作戦を成功させた要因に加えられる」と分析している。

[編集] 1999年第15戦マレーシアGP

第8戦イギリスGPで負傷し欠場していたため、7戦ぶり、3ヶ月ぶりのレースであったが、予選でポールポジションを獲得。決勝では3周目にポイントリーダーでチームメイトのエディ・アーバインを先行させ、自身は2位に下がり、マクラーレンの3位クルサードと4位ハッキネンの前を走行。すでにタイトル争いから脱落していたクルサードには抜かれたが、アーバインと争っていたハッキネンに対して、“高速コーナーで突然アクセルを戻すことをしながら、ブロックし続けた[21]”。アーバインはそのまま逃げ切り優勝し、シューマッハは2位、ハッキネンは3位であった。この活躍により、最終戦を残してアーバインはドライバーズタイトルに、フェラーリはコンストラクターズタイトルにそれぞれ王手をかけることとなった。

[編集] 2004年第10戦フランスGP

ポールポジションのアロンソとの争いとなったが、常にピットストップを先に行い、最終的に当時常識的な作戦とされた3回を上回る4回のピットストップを行いながらも、レースペースで圧倒して優勝を飾った。上述の1998年ハンガリーGPと並ぶ、シューマッハとブラウンのコンビによる戦略的勝利と位置づけられるレースとなった。

[編集] 2011年第12戦ベルギーGP

デビュー20周年を向かえたシューマッハにとっては、大事なレースだった。予選Q1でピットアウト後タイヤが脱落してしまいバリアに激突、ノータイムで終えたことにより最後尾の24位からのスタートになった。向かえた決勝ではピット戦略が上手くいったこともあり、19台抜きという驚異的な走りで5位フィニッシュ。数々のバトルがあったためシューマッハ自身も「追い抜きを心から楽しんだ」とコメントしている。

[編集] 2011年第13戦イタリアGP

マクラーレン勢、特にルイス・ハミルトンとの激戦となったレース。1周目に発生した多重クラッシュによりセーフティカーが導入されたこともありレース再開時に4番手につけると、再開直後にハミルトンをかわし3番手に浮上。ここから20周近くに渡り、互いに何度もポジションを入れ替えあう激しいバトルを展開することとなった(シューマッハ自身も「ルイスとの距離が近くて、僕のミラーが小さく見えるくらいだったよ」とコメントしたほど)。最終的には5位フィニッシュとなったものの、往年の力強さを感じさせるパフォーマンスを見せた。

[編集] 批判と非難を浴びたレース

[編集] 1994年第16戦オーストラリアGP

1点差のランキング1位で迎えた最終戦。タイトルを争っていたデイモン・ヒルとバトルを繰り広げたが、36周目にトップを走っていたシューマッハはコースアウトしコース脇のウォールに車体を当ててしまう。この機を逃すまいとしたヒルは、次のコーナーでインを刺すが、シューマッハがコーナーのアウト側からそれを阻んだことで両者は衝突し、この時点でシューマッハはリタイアとなる。ヒルもピットまでは戻ったもののリタイアを余儀なくされた。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から物議を醸した。

[編集] 1995年第11戦ベルギーGP

雨の中唯一スリックタイヤを履き、シューマッハは予選グリッド16位から追い上げを行い、ピットインの入れ替わりで首位に躍り出る。首位を走るシューマッハに、レインタイヤを履いた2位のデイモン・ヒルが追いつき抜きに掛かるも、シューマッハは何度もラインを変えてヒルをブロックし続けた。結果両者は接触し、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。しかし、ヒルへ危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。また、次戦から「後方のマシンをブロックする際の進路変更は一度のみ」という新たなレギュレーションが設けられた。非難を浴びた一方で、全91勝の中で一番後方のスタートから追い上げ、雨が降っている中、2周に渡ってドライタイヤで抑えきったということで、FIAの処分も下手な演出だと笑い飛ばすジャーナリストたちやイギリスのF1 Racing誌(2008年6月号)において「史上最高のドライバートップ100ランキング」が掲載した雑誌ではキャリアハイライトと捉えている[38]。また、シューマッハ自身は過去のベルギーGPの中でこの1995年が一番良い思い出と語っている[39]

[編集] 1997年第17戦ヨーロッパGP

1994年と同様、1点差のランキング1位で迎えた最終戦。前回のこともあり、FIAの異例の配慮により、レース前にタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴと、お互いにフェアなレースをする誓い合いが行なわれた。決勝では1位シューマッハ、2位ヴィルヌーブのまま、2度目のピットイン終了。シューマッハのペースが落ち、ヴィルヌーブが0.5秒以内に差を詰めてきた。そして48周目「ドライサックヘアピン」への進入でヴィルヌーブがシューマッハのインをつき、切り込んだシューマッハの右前輪がヴィルヌーブの車体の左サイドポンツーンに接触。シューマッハは弾き出されグラベルに嵌り、後輪が空転して脱出できずにリタイアした。一方のヴィルヌーブは3位で完走し、タイトルを獲得した。しかし、FIAは「シューマッハがヴィルヌーブに故意にぶつけ、リタイアへ追い込もうとした」と判断。シーズン終了後の11月11日、FIAに召喚されたシューマッハは、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁の一環として、シューマッハはFIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。

[編集] 1998年第7戦カナダGP

ピットアウト直後のシューマッハが後方のハインツ=ハラルド・フレンツェンと交錯。これによりフレンツェンはグラベルに押し出される形でリタイヤとなる。これに激怒したウィリアムズパトリック・ヘッドフェラーリ陣営に猛抗議、シューマッハは10秒のピットストップペナルティを課せられる。シューマッハは優勝記者会見で「ミラーを見ていなかった」と主張したが、この出来事により以後、ピットレーン出口に白線が敷かれ、この白線をカットすると、ドライブスルーペナルティが課せられるようになった。

チームオーダーによってバリチェロに順位を譲られて優勝するシューマッハ。
(写真は2002年オーストリア

[編集] 2002年第6戦オーストリアGP

首位を走るルーベンス・バリチェロに続く形でフェラーリの1-2体制で走行中、ファイナルラップのフィニッシュライン直前でバリチェロが順位を譲った。露骨な順位の変更に、観客から罵声を浴びせられた。これに配慮する形で、表彰台ではバリチェロに最上段を譲ったが、表彰式のルールに従わなかったとしてFIAから罰金を課せられた。

2008年11月25日、ブラジルのテレビ局「Rede Globo」の番組「Fantastico」に出演したバリチェロはこのレースに言及した。バリチェロによると、首位走行中に残り8周に差し掛かかった時点で、ピットから指示が入った。そして「後ろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要なことか分かるな」と言われ、周回が進むにつれて言葉が強くなり、「もし従わない場合は、契約を考え直す」と言われたという。さらにバリチェロは、このことを「シューマッハが知っていた証拠がある」とも語った[40]

[編集] 2006年第7戦モナコGP

台頭する前年度覇者、ルノーのアロンソとの新旧王者対決シリーズとして注目されたが、予選の最終局面で先にトップ・タイムを出したシューマッハは「ドライビングのミス」によりラスカスコーナー出口にマシンを止め、結果としてアロンソらのアタックを妨害する形となった(通称「ラスカスゲート」)。これによりポールポジションを獲得するも審議対象とされる。スチュワードからは故意と裁定され、予選タイム剥奪のペナルティが課せられた。「言い訳にもならない言い訳をするとは、彼の頭の中の葛藤が理解できない」(ニキ・ラウダ)、「あんな露骨で無礼なやり方をしたことに驚いた。あんなバレバレのことをするなんて、全く許されないことだ」(スターリング・モス)、「最低の行為」(マーティン・ブランドル)、「自分ならば、恥ずかしくてすぐに引退する。もし自分の息子(ニコ・ロズベルグ)が同じミスをしたとしたら、蹴飛ばしてF1から降ろさせる」(ケケ・ロズベルグ)、「ライセンス剥奪すべき」(ジャック・ヴィルヌーヴ)など、厳しい批判を浴びた一方、「無実でもペナルティを受けることはあるからね」(ファン・パブロ・モントーヤ)と彼を皮肉する意見もあった。

[編集] 2010年第12戦ハンガリーGP

レース終盤、ブレーキの不調からペースの上がらないシューマッハに対してウィリアムズのバリチェロが背後に迫り、ホームストレートでオーバーテイクを試みるが、シューマッハはイン側に出たバリチェロに対して幅寄せし、バリチェロは時速300km以上のスピードであわやコンクリートウォールに接触する寸前まで追い込まれた。これが危険なドライビングとみなされ、次戦での10グリッド降格ペナルティを受けた。

3度のワールドチャンピオン、ニキ・ラウダはこの行為に対し「あのような方法でライバルを危険にさらす必要性はまったくない。なぜ彼がこういうことをするのか理解できない。」とコメントしている[41]。元チームメイトのアーバインは、「あいつは大馬鹿者。あれは本当に危険で愚かな行為だ。信じられない。何も考えてなかったんだな。相手のドライバーをピットウォールに押し付けてもいいと思った。ただただ傲慢なんだ。罰は下されたが十分だとは思わない。1戦出場停止にするべきだった。僕が見た中でも最悪の部類に入る行為だ。引退すべきだとは思わないが、彼は以前からああいうことを繰り返してきたし、長い間他の人間たちを脅かすようなことをしてきたにも関わらず報いを受けなかった。」と痛烈に批判[42]。ロータスのCEOを勤めるマイク・ガスコインも、「個人的には、1戦の出場停止を与えるべきだと思う」と批判し、元F1ドライバーのデビッド・クルサードは、「大きなアクシデントになっていたかもしれない。あきらめるということを彼は知らないのだろうが、復帰した今こそそれを知るべきなのかもしれない。」とコメントしている[43]。その他にも「彼は7度のワールドチャンピオンであり、自らの行為を正確に知っていた。完全に意図的にやった。衝突してれば致命的だっただろう。」(アレクサンダー・ヴルツ)、「あの動きを見たあとまだ震えが止まらない。あれは不要で非常に危険な行動だった。」(マルク・ジェネ)、「今まで見た中で最も明白な、他のドライバーに対する嫌がらせの一つだ。ワールドチャンピオンを7回獲得した人物にしては酷い手本だ。いじめっこのやり口だ。」(ジャッキー・スチュワート)、など各方面から批判の声が寄せられた[44]

各国のメディアはこの件を厳しく批判した。イギリスのデイリー・テレグラフ紙は、「シューマッハのF1における傲慢な行いは、もはや許容しがたい。」として再度引退することを要求[45]。イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は、「傲慢なシューマッハは後悔の念を示してこなかったが、今回も同じだった。彼が間違いを犯す(と認める)ことはないようだ。今回、最悪の結末にならなかったのは奇跡だ。」とし、シューマッハがFIAの交通安全大使になっていることにも触れ、「これから休暇を楽しもうとしている方々にちょっとしたアドバイスを。もし誰かが貴方を抜こうとしたら、かの有名な元チャンピオン(シューマッハ)がハンガリーでやったのと正反対のことをやって頂きたい。」と皮肉を込めて報じた。この他にも、ラ・レプブリカ紙やコリエーレ・デロ・スポルト紙がシューマッハの行為を「狂気」と批判し、コリエーレ・デロ・スポルト紙は「以前と同じく、シューマッハは悪人だ。」とまで報じている。マルカ紙に至っては、「シューマッハのF1復帰は、F1の歴史の中でも最も忌むべき出来事だ。」としている[46]

このレースでスチュワード補佐を勤めた元F1ドライバーのデレック・ワーウィックによると、レース中にシューマッハに黒旗を提示して失格にしたかったが、時間がなく間に合わなかったという。次戦での10グリッドペナルティについては妥当だとしながらも、2戦にわたって出場停止にすることも考えたという。また、レース後の事情聴取の際のシューマッハの対応も、非常に残念なもので落胆したとコメントしている[47][48]

ただし、この件に関して、小林可夢偉は「ストレートで並んだら、幅寄せされるのが当然」というように、バリチェロの対応に対して他とは違った意見を述べた[49]

[編集] タイトル争いをしたライバルとの関係

[編集] デイモン・ヒル

ミハエルはデイモン・ヒルを、自分と同レベルの才能を持っていると考えておらず、そのヒルが自分より優れたマシンをドライブすることが気に入らなかった。1995年の第8戦イギリスGPの接触では「ヒルは本来あそこにいるはずのないアマチュアだ」と言い、第11戦ベルギーGPではウェットコンディションで、ウェットタイヤのヒルをスリックタイヤのミハエルが抑え切り、レース後の記者会見でも公然とヒルを嘲り、第12戦イタリアGPの接触でも、ヒルのコクピットに歩み寄り、彼のドライビングに対する厳しい見解を告げたことで両者の嫌悪は一層深まった。ミハエルは「これら2件(イギリスGPとイタリアGP)とも前年の最終戦オーストラリアと同様に、わざとマシンをぶつけて遠慮しないヒルのドライビングの典型だ」と言い放った。一方のヒルは「公衆の面前でここまで侮辱されて、なぜ反駁しないのか」と尋ねられ「(反論することは)自分のスタイルではないからだ」とだけ、答えた。実はミハエルはこのヒルのスタイルこそが気に入らず、ヒルには才能もなければガッツもないというのが、ミハエルの下した最終結論だった[50]

[編集] ジャック・ヴィルヌーヴ

ヒルに対しては一片の敬意も抱いていなかったミハエルではあるが、常に限界でマシンをドライブするジャック・ヴィルヌーヴのことは高く評価すると同時に、自分と共通する精神を感じ取っていた。1996年の第15戦ポルトガルGPで、ミハエルを最終コーナーのアウトからオーバーテイクしたときには「ジャックがすぐ後ろに付いていることは知っていたが、仕掛けてくるとすればホームストレートだろうと思っていた。あんなところで仕掛けるドライバーがいること自体、驚きだったが、それが成功するなんて全く予想外だったよ。でも、あの行為は僕たちの間に互いを尊敬し合う気持ちがあったからこそ、惨事にならなかったのであって、幸運の結果に過ぎないことを忘れてもらっては困る。はっきり言って、危険極まるシチュエーションだったのだから」と語る。ミハエルの勝利への意志やステアリングを握ったときの完璧な献身などに、匹敵するメンタリティを持ったドライバーの一人がヴィルヌーヴであり、決して侮ることができないライバルであることはミハエルも認め、「2000年のライバルは?」という質問に対し、「ミカ・ハッキネンハインツ・ハラルド・フレンツェン、ヴィルヌーヴ」の三人を挙げている[50]。また、「ヴィルヌーブはいつも僕を攻撃するけど、僕はお返しをしようとは思わないよ。だから僕らが友達になることはあり得ない。全く別の人種なんだから。だけど、ドライバーとしての彼は素晴らしく速い。予選でもレースでもね[51]」とも語っている。

[編集] ミカ・ハッキネン

ミカ・ハッキネンとは、1984年にフランスのラヴァルで開催されたカート世界選手権で初対決している。ハッキネンはスタートが悪かったうえに燃料系のトラブルを抱え3番手で頑張っていたが、イタリア人のロベルト・コルチアーゴに接触されてスピンしてしまい、シューマッハがこのレースで優勝した。このレースには、その後のCARTで走っていたポール・トレーシーも出場していた[52]。以来、F3F1とバトルし続けてきた。彼らは親しい友人ではないかもしれないが、お互いに最大にして最高のライバルであるという考えは一致している。

ハッキネンは「出会った最初から、ミハエルは強力なライバルだと思ってきた。才能、スピード、モチベーションといったチャンピオンに必要な要素を全て兼ね備えた男だ。侮ることのできないドライバーであり、マシンドライブの腕前もチームとのやりとりも、偉大なドライバーと呼ぶにふさわしいと思っているよ。彼の性格を好む人はことのほか好むけど、そうでない人はむしろ徹底的に嫌いになるみたいだね。彼とワールドチャンピオンシップを競うようになってからは、できることならこんな速い奴が相手でなければいいと思ったけど、そうなってしまった以上は仕方がない。ミハエルとはフェアプレイに終始したし、互いに尊敬の念を失うこともなかった。彼のドライビングは危険だと言われるけど、僕たちのバトルはいつも自制していてフェアだった。1998年の第10戦オーストリアGP、第15戦ルクセンブルクGPでは長い間、テール・トゥー・ノーズ、ホイール・トゥ・ホイールの状態だったけど、ミハエルは全く危険なことなどしなかった。確かに彼はたとえ1インチだって譲らない情け容赦ない奴だが、それがトップドライバーというものだろう。他のドライバーの仕事を楽にするために、高給をもらっているわけじゃない。だから、自分自身との闘いを別にすれば、どんなレースでもまずミハエルに打ち勝たなければ、勝利はあり得ないこともわかっている[50][53][54]」と語っている。

一方でミハエルも「ミカのことはとても高く評価しているし、尊敬している。彼とのバトルはコース上でいつも限界ギリギリで戦っていた。他のドライバーとはレース後も争いが続いてしまうことがあったりしたけど、ミカとのバトルは違った。彼はとても優秀で、誠実で、卓越したドライバーだった[55]」と評し、自身の引退会見でも「過去16年のF1シーズンを振り返って、もっともタフな競争相手やライバルは誰を思い浮かべるか」の問いに、「ミカとは最初から最後まで素晴らしいバトルをしてきた。常に高いレベルの争いで、非道な部分がなく、純粋にレースをしていた[56]」と答えている。このように、トップドライバーの確執が多い中ミハエルとミカは出会った頃から引退までお互いを「最強の敵であり最高のライバルである」として認め合っていた。

[編集] フェルナンド・アロンソ

タイトル争いをする前にはフェルナンド・アロンソと一緒にサッカーを楽しむなど良好な関係を続け、ドライバーとしての速さも認めていた。しかし既述の通り、2006年モナコGPの予選以降は、タイトル争いをしていることもあり、互いに批判し合うこともあった。スペインのラジオにおいて、シューマッハを「F1史上最もスポーツマン精神に欠けるチャンピオン」と酷評していた[57]

それでもミハエルが引退を発表した時にアロンソは「彼は、F1の歴史においては比類のない存在だった。きっと、彼の記録は誰にも破れないはずだ。彼とのレースは非常に楽しかったよ。僕は彼ほど長く現役を続けることはないと思う[56]」とコメントした。

[編集] 人物・エピソード

  • ドイツ語の発音原則に従えば「ミヒャエル・シューマッハー」の方が原音に近い表記となる。本人は名前をどう発音してほしいか尋ねられ「英語式にマイケルと呼んでほしい」と答えている。
  • 同時代のあらゆるアスリートの中でも屈指の高給取りで、最盛期には年間8000万ドルの収入があると言われていた[58]。アメリカの経済誌「フォーブス」が発表するアスリート長者番付では毎年タイガー・ウッズと1位を争った。しかし、多くのF1レーサーの居住地である所得税ゼロのモナコではなく、政府と免税契約をした上で「静かな生活が送れる」スイスに住居を構え、移動に使う自家用ジェット機は弟ラルフ所有機の豪華さに対し、スピードに勝る機能優先の仕様であることでも知られている。生活は至って堅実であるとされ、実際に問題めいた話は一切聞かれない。また、服装にもそれほど頓着せず、イギリスのマスコミなどはしばしばシューマッハのファッションセンスを取り上げて茶化すことがある。
  • サッカーの腕前は趣味の粋を超えプロフェッショナル級であり、38歳の頃に自宅付近のスイス3部のチームに所属していたこともある。また、FIFA公認のチャリティーマッチ「ジダンフレンズ vs ロナウドフレンズ」において、ジダンフレンズの一員としてピッチに立ったこともある。ブンデスリーガの1.FCケルンのファンでも知られ、尊敬する人物としてケルンのスター選手であるハラルト・シューマッハーと答えたことがる。(ミハエル自身はハラルトの愛称である“トニ”を用いて尊敬する人物はトニ・シューマッハと答えた)
  • アイルトン・セナが事故死した1994年の第3戦サンマリノGP後、フジテレビのインタビューで「セナは僕の憧れだった」と語った。
  • 2000年イタリアGPでセナと並ぶ41勝目を挙げた。レース後の記者会見ではミハエルへの最初の質問で「これで勝ち星がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」に、「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん・・・・・・」とミハエルが泣き崩れた為、インタビュアーが2位ミカ・ハッキネンと3位ラルフ・シューマッハを先にインタビューするハプニングが起きた。テレビ中継後の会見で再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ。ここはイタリアだよ。そして僕はここ数戦ずっといい結果が残せていなかった。でも、今日やっと復活したんだ。この41勝には多くの人々の支えがあったんだ。だから、1998年に優勝したときよりもすごくうれしいんだ」と答えた[59]
  • 2007年12月には、家族を連れて子犬を受け取るためにドイツ・コバーグ郊外の村へ向かった際、帰りの飛行機の時間が迫っていた関係から、乗っていたタクシー運転手に頼み込み、自らタクシーのハンドルを握って猛スピードで空港へ向かった。ただこのことが世界的に大きく報道されると「ドイツ国内の交通法規に違反しているのではないか。」と問題となり、シューマッハが警察の捜査対象となる事態に発展した[60]
  • 2007年にはバレンシアサーキットで、ロードレース世界選手権(MotoGP)用のマシンであるドゥカティ・デスモセディチをテストし、同年にダニ・ペドロサが記録したポールポジションタイムの5秒落ちの好タイムを刻んだ。2008年にはドゥカティのテストライダーが負傷したため、急遽代わりに走りレギュラーライダーの0.8秒落ちのタイムを記録した。引退後は2輪レースへ散発的に参戦もしているが、本格的に転向する意志はないとしている。
  • F1界でその名声を確立した1990年代後半頃からは、チャリティに熱心に取り組むようになり、先にも述べたチャリティ・サッカーにも積極的に参加しているほか、ユネスコに毎年200万ドル程度の寄付を行うなどしている。2004年スマトラ島沖地震に際して1000万ドルもの寄付をした時は、普段F1を取り上げることも稀な日本のマスメディアにおいても話題となった。この地震ではシューマッハのボディガードを務めていた男性とその息子が、タイでこの地震による津波に巻き込まれて亡くなっていた。
  • ビル・クリントン元合衆国大統領が運営する人道支援基金寄付者リストの上位に、名を連ねている。これまでに寄付した金額は500万-1,000万ドルであると推測されている。寄付金は、エイズ対策や温暖化対策などに利用されている[61]
  • 以前より、BBCの人気自動車番組『トップ・ギア』に登場する覆面ドライバー、ザ・スティグ(2代目)の正体ではないかと噂されていた。2009年6月に第13シリーズのエピソード1にはその噂に答える形で同番組にシューマッハがスティグの格好で登場し話題を呼んだが、司会のジェレミー・クラークソンも「私はスティグがシューマッハではないと思う」と発言し、エンディングのスタッフロールでも他のゲスト同様「スペシャルゲスト」としてスティグとは別にクレジットされた。[62][63]。なお、同エピソードにはスティグに代わり、フェラーリ・FXXのパワーラップにドライバーを務めており、パワーラップ最速記録1:10.7を出した(ただし、FXXはイギリスの公道を合法的に走行できない(スリックタイヤを使用)により、次エピソードにはこの記録が除外する)。
  • 2007年のピクサー製作のアニメーション映画『カーズ』で、擬人化されたフェラーリ・F430の声優としてカメオ出演している。
  • 2004年前半、シューマッハは元WRC世界チャンピオンのペター・ソルベルグとスウェーデンで会い、彼とパートナーを組んでこの年のスウェーデンラリーに出場した。雪の森の道だったために26キロ地点でリタイアと言う結果に終わった。
  • ドイツ語圏のニックネームは、ミハエルの事をシューミー、弟のラルフをシューミー2(シューミー ツバイ)、義理の弟のセバスチャンの事をシューミー3(シューミー ドライ)と読んでいる。

[編集] 家族構成

義兄弟セバスチャン・シュタール(右2人目)とシューマッハ(2003年)

父ロルフと母エリザベートの間に生まれた長男で、元F1ドライバーのラルフ・シューマッハは実弟。両親は離婚しているが、ロルフが再婚後儲けた義弟セバスチャン・シュタールもレーサーとなっている。

2003年サンマリノGP決勝の数時間前、母エリザベートが死去し、ミハエルは腕に喪章を巻き、ラルフは黒いヘルメットでレースに臨んだ。兄弟でワンツーフィニッシュを果たしたが、表彰台でシャンパンファイトは行われなかった。

妻はコリーナ・シューマッハ(旧姓ベッシュ)。コリーナはメルセデス・ジュニアチームのミハエルの同僚だったハインツ=ハラルド・フレンツェンの恋人だったが、フレンツェンとの関係が終わり、ミハエルに慰められるうちに交際するようになった[64]。1995年、ふたりの結婚式がドイツ中部のペーターズベルクで4日間に渡って行われ、結婚式最終日の8月1日にミハエルの地元ケルペンで入籍した。ペーターズベルクは中世の城を活かしたリゾート地で、小高い山の上の古城ホテルやレストランなどがある。ドイツきっての2人のF1レーサーを巻き込んだ恋の鞘当ては、当時のマスコミの格好のネタであったため、ペーターズベルクの山頂への道を一切シャットアウトして結婚式が行われた。

その後、1997年に長女ジーナ=マリア、1999年に長男ミックの2子を儲けている。ミックは2008年にカートレースデビューしている[65]

シューマッハ一家はドイツではなく、プライバシー保護(および税金優遇措置)のためF1ドライバーに人気のあるスイスに居住している。2007年にはジュネーブ湖湖畔に居住面積700平方メートルの新居が完成した。1996年から2006年まではウィンタースポーツを楽しむため、ノルウェーに別荘を持っていた。静かな生活を希望するシューマッハ家族のために、この別荘の持ち主の名前は長らく隠されており、ノルウェーの地元住民にもあまり知られていなかった。F1を引退した後、このノルウェーの別荘は売られ、その代わりにフランスのリゾート地クールシュヴェルに別荘を購入している。

[編集] 主な記録

[編集] 通算記録

  • ドライバーズチャンピオン獲得7回(歴代1位) 2003年にファン・マヌエル・ファンジオの通算5回を更新。
  • 通算優勝91回(歴代1位) 2001年第14戦ベルギーGPでアラン・プロストの通算51勝を更新。
  • 通算PP獲得68回(歴代1位) 2006年第4戦サンマリノGPでアイルトン・セナの通算65回を更新。
  • 通算FL獲得76回(歴代1位) 2001年開幕戦オーストラリアGPでプロストの通算41回を更新。
  • 通算ポールトゥウィン獲得40回(歴代1位) 2004年開幕戦オーストラリアGPでセナの通算29回を更新。
  • 通算ハットトリック獲得22回(歴代1位) 2002年第17戦日本GPでジム・クラークの通算11回を更新。
  • 通算表彰台獲得154回(歴代1位) 2002年第10戦イギリスGPでプロストの通算106回を更新。
  • 通算入賞190回(歴代1位) 2002年第15戦イタリアGPでプロストの通算128回を更新。
  • 通算獲得ポイント1369点(歴代1位) 2001年第17戦日本GPでプロストの通算798.5点を更新。
  • 通算決勝完走197回(歴代1位) 2003年第10戦フランスGPでプロストの通算143回を更新。
  • 通算決勝周回13908周(歴代2位、当時1位) 

[編集] 年間記録

  • 年間優勝13回(歴代1位) 2004年に記録。2002年に自身が記録した11回を更新。
  • 年間FL10回(歴代1位タイ、当時単独1位) 2004年に記録。2000年にミカ・ハッキネンが記録した9回を更新。
  • 年間ポールトゥウィン獲得8回(歴代2位) 2004年に記録。
  • 年間ハットトリック獲得5回(歴代1位タイ) 2004年に記録。1952年のアルベルト・アスカリの記録に並ぶ。
  • 年間表彰台獲得及び入賞回数17回(歴代1位タイ、当時単独1位) 2002年に記録。全戦表彰台。1988年のプロストと2001年に自身が記録した14回を更新。年間入賞回数の前記録は自身が2001年に記録した15回。
  • 年間決勝完走回数17回(歴代6位タイ、当時単独1位) 2002年、2010年に記録。2001年のジャン・アレジの16回を更新。
  • 年間全レース完走(史上6人目) 2002年に記録。1964年のリッチー・ギンサー以来38年ぶりの達成者となった。

[編集] 連続記録

  • ドライバーズチャンピオン連続獲得5回(歴代1位) 2004年にファンジオの連続4回を更新。
  • 連続優勝7回(歴代1位タイ) 2004年第7戦ヨーロッパGP〜2004年第13戦ハンガリーGPにかけて記録。アスカリの記録に並ぶ。[66]
  • 連続PP獲得7回(歴代2位タイ) 2000年第14戦イタリアGP - 2001年第3戦ブラジルGPにかけて記録。
  • 連続ポールトゥウィン獲得6回(歴代1位) 2000年第14戦イタリアGP - 2001年第2戦マレーシアGPにかけて記録。ナイジェル・マンセルの5回を更新。
  • 連続表彰台19回(歴代1位) 2001年第16戦アメリカGP - 2002年第17戦日本GPにかけて記録。自身と、ニキ・ラウダネルソン・ピケ、クラークの9回を更新。
  • 連続入賞24回(歴代1位) 2001年第13戦ハンガリーGP - 2003年第2戦マレーシアGPにかけて連続完走と同時に記録。カルロス・ロイテマンの15回を更新。
  • 連続完走24回(歴代3位・当時1位) 2001年第13戦ハンガリーGP - 2003年第2戦マレーシアGPにかけて記録。ラウダ、セナ、アレジの17回を更新。
  • 開幕連続優勝5回(歴代1位タイ) 2004年に記録。1992年のマンセルの記録に並ぶ。

[編集] 更新されたまたは並ばれた記録

[編集] F1での年度別成績

所属チーム カーナンバー 獲得ポイント ランキング 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数
1991年 ジョーダン / ベネトン 32/19 4 12位 5位・1回 0回 5位・1回
1992年 ベネトン 19 53 3位 1位・1回 8回 2位・1回
1993年 5 52 4位 1位・1回 9回 2位・1回
1994年 5 92 1位 1位・8回 10回 1位・6回
1995年 1 102 1位 1位・9回 11回 1位・4回
1996年 フェラーリ 1 59 3位 1位・3回 8回 1位・3回
1997年 5 78 2位(後に剥奪)* 1位・5回 8回 1位・3回
1998年 3 86 2位 1位・6回 11回 1位・3回
1999年 3 44 5位 1位・2回 6回 1位・3回
2000年 3 108 1位 1位・9回 12回 1位・9回
2001年 1 123 1位 1位・9回 14回 1位・11回
2002年 1 144 1位 1位・11回 17回(全戦) 1位・7回
2003年 1 93 1位 1位・6回 8回 1位・5回
2004年 1 148 1位 1位・13回 15回 1位・8回
2005年 1 62 3位 1位・1回 5回 1位・1回
2006年 5 121 2位 1位・7回 12回 1位・4回
2010年 メルセデス 3 72 9位 4位・3回 0回 5位・1回
  • 1997年については、ポイントテーブル上は2位に相当するが、最終戦でのジャック・ヴィルヌーヴとの接触行為についてのペナルティとしてランキングから除外された(ただし、各レースでの成績は有効とされた)。

[編集] グランプリ別・年別の優勝回数

下記の表中の数字は、その時点での通算勝利数を示す。(例:1995年ベルギーGPでは通算16勝目)

1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2010
ベルギーGP   1     16 21 26       52 63           6勝
ポルトガルGP     2                             1勝
ブラジルGP       3 11         37   55           4勝
パシフィックGP       4 18                         2勝
サンマリノGP       5         34 38   56 65 74   85   7勝
モナコGP       6 13   23   35   48             5勝
カナダGP       7     24 29   40   59 68 77       7勝
フランスGP       8 14   25 30     50 61   79   88   8勝
ハンガリーGP       9       32     51     82       4勝
ヨーロッパGP       10 17         39 49     76   86   6勝
スペインGP         12 20         47 57 66 75       6勝
ドイツGP         15             62   81   89   4勝
日本GP         19   27     43 53 64   83       6勝
イタリアGP           22   33   41     69     90   5勝
アルゼンチンGP               28                   1勝
イギリスGP               31       60   80       3勝
オーストラリアGP                   36 45 54   71       4勝
アメリカGP                   42     70 78 84 87   5勝
マレーシアGP                   44 46     72       3勝
オーストリアGP                       58 67         2勝
バーレーンGP                           73       1勝
中国GP                               91   1勝
合計
  1勝 1勝 8勝 9勝 3勝 5勝 6勝 2勝 9勝 9勝 11勝 6勝 13勝 1勝 7勝 0勝 91勝

[編集] F1での年度別成績 (2)

所属チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 WDC ポイント
1991年 ジョーダン 191 USA BRA SMR MON CAN MEX FRA GBR GER HUN BEL
Ret
14位 4
ベネトン B191 ITA
5
POR
6
ESP
6
JPN
Ret
AUS
Ret
1992年 B191B RSA
4
MEX
3
BRA
3
3位 53
B192 ESP
2
SMR
Ret
MON
4
CAN
2
FRA
Ret
GBR
4
GER
3
HUN
Ret
BEL
1
ITA
3
POR
7
JPN
Ret
AUS
2
1993年 B193 RSA
Ret
BRA
3
4位 52
B193B EUR
Ret
SMR
2
ESP
3
MON
Ret
CAN
2
FRA
3
GBR
2
GER
2
HUN
Ret
BEL
2
ITA
Ret
POR
1
JPN
Ret
AUS
Ret
1994年 B194 BRA
1
PAC
1
SMR
1
MON
1
ESP
2
CAN
1
FRA
1
GBR
DSQ
GER
Ret
HUN
1
BEL
DSQ
ITA POR EUR
1
JPN
2
AUS
Ret
1位 92
1995年 B195 BRA
1
ARG
3
SMR
Ret
ESP
1
MON
1
CAN
5
FRA
1
GBR
Ret
GER
1
HUN
Ret
BEL
1
ITA
Ret
POR
2
EUR
1
PAC
1
JPN
1
AUS
Ret
1位 102
1996年 フェラーリ F310 AUS
Ret
BRA
3
ARG
Ret
EUR
2
SMR
2
MON
Ret
ESP
1
CAN
Ret
FRA
DNS
GBR
Ret
GER
4
HUN
9
BEL
1
ITA
1
POR
3
JPN
2
3位 59
1997年 F310B AUS
2
BRA
5
ARG
Ret
SMR
2
MON
1
ESP
4
CAN
1
FRA
1
GBR
Ret
GER
2
HUN
4
BEL
1
ITA
6
AUT
6
LUX
Ret
JPN
1
EUR
Ret
DSQ 78
1998年 F300 AUS
Ret
BRA
3
ARG
1
SMR
2
ESP
3
MON
10
CAN
1
FRA
1
GBR
1
AUT
3
GER
5
HUN
1
BEL
Ret
ITA
1
LUX
2
JPN
Ret
2位 86
1999年 F399 AUS
8
BRA
2
SMR
1
MON
1
ESP
3
CAN
Ret
FRA
5
GBR
Ret
AUT GER HUN BEL ITA EUR MAL
2
JPN
2
5位 44
2000年 F1-2000 AUS
1
BRA
1
SMR
1
GBR
3
ESP
5
EUR
1
MON
Ret
CAN
1
FRA
Ret
AUT
Ret
GER
Ret
HUN
2
BEL
2
ITA
1
USA
1
JPN
1
MAL
1
1位 108
2001年 F2001 AUS
1
MAL
1
BRA
2
SMR
Ret
ESP
1
AUT
2
MON
1
CAN
2
EUR
1
FRA
1
GBR
2
GER
Ret
HUN
1
BEL
1
ITA
4
USA
2
JPN
1
1位 123
2002年 F2001B AUS
1
MAL
3
1位 144
F2002 BRA
1
SMR
1
ESP
1
AUT
1
MON
2
CAN
1
EUR
2
GBR
1
FRA
1
GER
1
HUN
2
BEL
1
ITA
2
USA
2
JPN
1
2003年 F2002B AUS
4
MAL
6
BRA
Ret
SMR
1
1位 93
F2003-GA ESP
1
AUT
1
MON
3
CAN
1
EUR
5
FRA
3
GBR
4
GER
7
HUN
8
ITA
1
USA
1
JPN
8
2004年 F2004 AUS
1
MAL
1
BHR
1
SMR
1
ESP
1
MON
Ret
EUR
1
CAN
1
USA
1
FRA
1
GBR
1
GER
1
HUN
1
BEL
2
ITA
2
CHN
12
JPN
1
BRA
7
1位 148
2005年 F2004M AUS
Ret
MAL
7
3位 62
F2005 BHR
Ret
SMR
2
ESP
Ret
MON
7
EUR
5
CAN
2
USA
1
FRA
3
GBR
6
GER
5
HUN
2
TUR
Ret
ITA
10
BEL
Ret
BRA
4
JPN
7
CHN
Ret
2006年 248F1 BHR
2
MAL
6
AUS
Ret
SMR
1
EUR
1
ESP
2
MON
5
GBR
2
CAN
2
USA
1
FRA
1
GER
1
HUN
8
TUR
3
ITA
1
CHN
1
JPN
Ret
BRA
4
2位 121
2010年 メルセデス MGP W01 BHR
6
AUS
10
MAL
Ret
CHN
10
ESP
4
MON
12
TUR
4
CAN
11
EUR
16
GBR
10
GER
9
HUN
11
BEL
7
ITA
9
SIN
13
JPN
6
KOR
4
BRA
7
ABU
Ret
9位 72
2011年 MGP W02 AUS
Ret
MAL
11
CHN
8
TUR
12
ESP
6
MON
Ret
CAN
4
EUR
17
GBR
9
GER
8
HUN
Ret
BEL
5
ITA
5
SIN
Ret
JPN
6
KOR
Ret
IND
5
ABU
7
BRA
15
8位 76
2012年 F1 W03 AUS
-
MAL
-
CHN
-
BHR
-
ESP
-
MON
-
CAN
-
EUR
-
GBR
-
GER
-
HUN
-
BEL
-
ITA
-
SIN
-
JPN
-
KOR
-
IND
-
ABU
-
USA
-
BRA
-
-位 -

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ “F1復帰シューマッハーの略歴はこちら”. nikkansport.com. (209-12-23). http://iw1.nikkansports.com/sports/motor/news/f-sp-tp2-20091223-578735.html 2011年10月3日閲覧。 
  2. ^ ZEITGEIST MEDIA 『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡 - Danke,Schumi!』 原田京子訳、ブックマン社、2007年、57頁。
  3. ^ フィアット・パンダのエンジンを搭載する小型フォーミュラカー。
  4. ^  『GPX(F1 Grand Prix eXpress)』 99 F1 Calendar issue/226、山海堂、1998年、38頁。
  5. ^ 『F1 RACING 日本語版』、三栄書房、所在地、2011年10月、62頁、2011--閲覧。
  6. ^ 週刊オートスポーツ (1991年9月15日号)』 三栄書房、1991年、p.12。
  7. ^ Racing On (1991年9月15日号)』 武集書房、1991年、p.28。
  8. ^ 『Racing On (1991年10月1日号)』 武集書房、1991年、p.78。
  9. ^ 『世界最速のF1タイヤ』 新潮社、2005年。
  10. ^ 『週刊オートスポーツ(1991年9月15日号)』 三栄書房、1991年、p.18。
  11. ^ 『F1速報特別編集 ミハエル・シューマッハ全記録 1984 - 2006』 イデア、2007年、p.46。
  12. ^ 『週刊オートスポーツ(2011年11月2日号)』 三栄書房、2011年、p.32。
  13. ^ 『F1速報特別編集 ミハエル・シューマッハ全記録 1984 - 2006』 イデア、2007年、p.48。
  14. ^ 『週刊オートスポーツ(1994年9月1日号)』 三栄書房、1994年、p.101。
  15. ^ 『週刊オートスポーツ(1994年9月15日号)』 三栄書房、1994年、p.31。
  16. ^ 『週刊オートスポーツ(1994年10月15日号)』 三栄書房、1994年、pp.30 - 31。
  17. ^ a b 『週刊オートスポーツ(1994年11月1日号)』 三栄書房、1994年、p.32。
  18. ^ 『週刊オートスポーツ(1994年11月1日号)』 三栄書房、1994年、p.33。
  19. ^ 厳密にはマンセルは16戦9勝であり、勝率では劣る。
  20. ^ ルールの隙をついた第9戦イギリスGPや、第7戦カナダGPと第12戦 ハンガリーGPでの卓越したピットストップ作戦がある。
  21. ^ a b c d e f 『F1速報1999総集編(12月16日号)』 ニューズ出版、1999年、pp.19 - 21, 36 - 39, 113 - 115, 138 - 140。
  22. ^ a b cSports Graphic Number』 文藝春秋 「688号」 44-46頁。
  23. ^  「赤井邦彦のF1多事多端」『F1倶楽部』 双葉社、35号、2001年、117頁。
  24. ^ “メルセデス ミハエルのF1復帰を正式発表”. Gp Update. (2009年12月23日). http://f1.gpupdate.net/ja/formula-1-news/225320/ 2009年12月23日閲覧。 
  25. ^ “シューマッハ、メルセデスGPとは3年契約”. Topnews. (2009年12月23日). http://www.topnews.jp/2009/12/23/news/f1/drivers/michael-schumacher/7404.html 2010年10月15日閲覧。 
  26. ^ “ミハエル・シューマッハでなければクビにしていたとメルセデスGP”. Topnews. (2010年9月30日). http://www.topnews.jp/2010/09/30/news/f1/drivers/michael-schumacher/24214.html 2010年10月15日閲覧。 
  27. ^ 『週刊オートスポーツNo.1253(2010年5月27日号)』 三栄書房、2010年、p.6。
  28. ^ シューマッハ 「レースが楽しくない」
  29. ^ 「楽しくない」。シューマッハーの発言に波紋広がる
  30. ^ autosport 2006/11/24
  31. ^ アロンソ、シューマッハの“古傷”に言及
  32. ^ クルサード、アロンソに同調
  33. ^ Hero or villain? Schumacher reaches the end of the road
  34. ^ [1]
  35. ^ シューマッハ、バリチェロに謝罪
  36. ^ 『Sports Graphic Number PLUS F1 未知への疾走』 文藝春秋、March2000、136-139頁。
  37. ^  『GRAND PRIX SPECIAL』 2008年2月号、93-97頁。
  38. ^ F1 RACING 2008 6月号歴代ドライバー100傑の2位ミハエル・シューマッハのキャリアハイライトより
  39. ^ 2010年ベルギーGP木曜日の記者会見より
  40. ^ F1-Live.com
  41. ^ ラウダ、シューマッハとベッテルを批判
  42. ^ [2]
  43. ^ シューマッハ、ベルギーGPは10グリッド降格
  44. ^ Haug calls for end to Schumacher move criticism
  45. ^ Michael Schumacher's arrogance can no longer be tolerated in Formula One
  46. ^ ミハエル・シューマッハにメディアからの集中砲火
  47. ^ シューマッハー、“時間切れ”で黒旗を免れる
  48. ^ ワーウィック「シューマッハ、重罰を逃れてラッキー」
  49. ^ 『週刊オートスポーツ臨時増刊 「AUTOSPORT Formula1」(2011年2月7日号)』 三栄書房、2011年、p.39。
  50. ^ a b c  「THE RIVAL 好敵手のいる風景」『F1グランプリ特集』、ソニーマガジンズ、4月号、2000年、23-25頁。
  51. ^  『GPX』 Round 4 SAN MARINO GP 、山海堂、2001年、18頁。
  52. ^  「F1倶楽部」 双葉社、30号、2000年、20頁。
  53. ^  『F1グランプリ特集』 ソニー・マガジンズ、12月号、1998年、63頁。
  54. ^  「AS+F 開幕直前号」 三栄書房、2000年、5頁。
  55. ^  「インタビュー ミハエル・シューマッハー」『F1速報 - モナコGP号』 ニューズ出版、2004年、24頁。
  56. ^ a b  「完全掲載!ミハエル・シューマッハ引退公式会見全発言」『GRAND PRIX SPECIAL』 ソニーマガジンズ、10月号、2006年、11頁、13頁。
  57. ^ シューマッハ引退 アロンソ「史上最悪のスポーツマン」(Response.jp)
  58. ^ スポーツ選手の長者番付発表、1位はF1ミハエル・シューマッハ選手。
  59. ^ 『GPX』 Round 14 Italian GP 、山海堂、2000年、3頁。
  60. ^ MSN産経ニュース 2007年12月19日
  61. ^ F1-Live.com 2008年12月20日
  62. ^ トップ・ギアのスティッグ役を務めるシューマッハ - f1-live.com・2009年6月23日
  63. ^ Schumacher 'revealed' as the Stig - BBC NEWS
  64. ^ ZEITGEIST MEDIA 『皇帝ミハエル・シューマッハの軌跡 - Danke,Schumi!』 原田京子訳、ブックマン社、2007年、40頁。
  65. ^ “シューマッハJr.がカートデビュー”. レスポンス. (2008年4月24日). http://response.jp/article/2008/04/24/108629.html 2011年10月3日閲覧。 
  66. ^ ただしアスカリは、出走したレースでは9連勝している。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

スポーツのタイトル
先代:
カール・ヴェンドリンガー
ドイツF3チャンピオン
1990
次代:
トム・クリステンセン
先代:
アラン・プロスト
F1ドライバーズチャンピオン
1994年-1995年
次代:
デイモン・ヒル
先代:
ミカ・ハッキネン
F1ドライバーズチャンピオン
2000年-2004年
次代:
フェルナンド・アロンソ

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語