ペーター・ザウバー

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ペーター・ザウバー(2004年)

ペーター・ザウバーPeter Sauber, 1943年10月13日 - )は、レーシングチームおよびコンストラクターであるザウバーの創設者で同チームのオーナーである。スイスチューリッヒ出身。

経歴[編集]

初期の経歴[編集]

電気技師としての経験を積んだ後に、スイスのヒンウィルで自動車のセールスマンとして働き始めた。1955年のルマンの事故以後、スイス国内ではモータースポーツ関係の国際レースの開催が禁止されていたため、ザウバーがモータースポーツと関わるようになるまでの過程はやや困難が伴った。

1967年、ザウバーはスイス人ドライバーのアルター・ブランクと出会い、競技仕様のフォルクスワーゲン・ビートルを購入してレースに参戦しはじめた。フォルクスワーゲンの整備工場で働きながらビートルをバギーに改造し、1969年にはフォーミュラ・レーシングカ・クラブ (FRC) のチャンピオンとなった。

ザウバーチームの誕生[編集]

実家は信号機の設置工事などを手がける仕事をしていたが、その仕事を継がないことを決めると、ザウバーは実家の地下で最初のオリジナルマシンとなるザウバーC1を製作した。この車は古いブラバムの部品を利用し、排気量1,000ccのコスワースエンジンを搭載した車体だった。ザウバーはC1をドライブして1970年のスイス・ヒルクライム選手権でクラスチャンピオンを獲得した。その後、C1は他のドライバーによって操縦されるようになり、10年間に渡って活躍し、1974年にはフリードリヒ・ヒュルツェラー (Friedrich Hürzeler) の手により優勝を手にした。

1971年、ザウバー自身は新型のC2を駆って同選手権に挑んだ。

1973年、ザウバー自身はレーサーを引退し、コンストラクター活動に専念することになる。パトロンから融資を得られるようになると、販売用にC3を3台製作した。ギ・ボワザン (Guy Boisson) によって設計されたこの車はスイスのスポーツカー選手権を支配した。

1975年、ボワザンとエディ・ワイス (Edy Wiss) によって初のモノコックシャシーとなるC4が1台製作された。

1976年に製作されたC5はBMWの2,000ccエンジンを搭載し、歴代の車体の中でも最も優れた成績を収めた。ヘルベルト・ミュラー (Herbert Müller) のドライブにより同年のインターセリエ (Interserie) を制覇。1977年と1978年にはル・マン24時間レースに参戦し、1978年にはクラス2位を獲得した。

1979年、ザウバーは一時スポーツカー製作から離れて、ローラF3シャシーの製作を手がけ、このシャシーはスイスF3選手権で1位、2位、4位を占めるという輝かしい成果を収めた。

1980年から1981年にかけてはBMW・M1の開発に関与し、ワンメイクのプロカー選手権ネルソン・ピケハンス=ヨアヒム・スタックらがドライブした。

1982年、BASFの支援を受け、C6でスポーツカー世界選手権に参戦した。このC6はザウバーチームとしては初めて風洞を用いて設計された車で、後のF1参戦において重要な役割を担うこととなるレオ・レスとの強い関係を築いた。

1985年よりメルセデス・ベンツのエンジン供給を受けるようになり、1988年よりワークスチームの「ザウバー・メルセデス」として参戦。1989年と1990年にはドライバーズ、チームズチャンピオンのダブルタイトルを連覇した。

F1参戦・チーム売却[編集]

1990年代になるとザウバーはF1参戦への準備に入り、1991年の夏にはF1用車両の設計のためハーベイ・ポスルスウェイトが加入し、ヒンウィルにファクトリーを建設するにあたり、メルセデスが資金の一部を援助した。

1991年11月にメルセデスが自身の名義でのF1参戦を見合わせる決断をしたことで、ザウバーチームは1993年にザウバーチームとしてF1への参戦を開始した。この際、ドライバーにはJ・J・レートと、子飼いのカール・ヴェンドリンガーを擁し、イルモアによるエンジンを搭載した。この際、エンジンカバーには“Concept by Mercedes-Benz”の文字が付いたことから、メルセデス・ベンツのF1復帰として話題になった。

しかし、1994年限りでメルセデスが去りマクラーレンに移ると、1995年からフォードのワークスチームとなり、同時にマレーシアの国営石油会社ペトロナス、オーストリアの栄養ドリンク販売会社レッドブルがスポンサーとなったことで、安定した経営基盤を得ることになった。フォードエンジンを失うと、フェラーリのカスタマーエンジンを獲得し、サテライトチーム的な役割も演じた。

ザウバーチームは、ニック・ハイドフェルドキミ・ライコネンを擁した2001年にランキング4位を記録した以外は、常にランキングの中団を維持し、F1で特に代わり映えのしない年を送り続けた。とはいえ、自動車メーカーのワークスチームを相手にしながら、資金的に不利なプライベートチームで一定以上の成績を残し続けたことについては、大いに賞賛に値する事実でもある。

ジョーダンミナルディなどプライベートチームのオーナー交代が続く中で、ザウバーも将来を見据えて2005年半ばにBMWへチームを売却することを決断した。自身はチーム代表の座を退き、しばらくはBMWザウバーチームの相談役(チームコンサルタント)という形でレース界に留まっていた。

F1復帰・引退[編集]

2009年限りでBMWがF1からの撤退を表明。チーム消滅の危機となったが、ザウバーがチームを買い取り、再びオーナー兼チーム代表に就任した。2010年より再びザウバーチームとして参戦したが、女性CEOモニシャ・カルテンボーンに陣頭指揮を任せて、レース現場に姿を見せない機会が増えた。高齢のザウバーは「70歳になってもピットウォールに座っていないだろう[1]」と引退をほのめかした。

2012年、ザウバーはカルテンボーンにチーム株式の1/3を譲り、シーズン終盤には69歳の誕生日を前にしてチーム代表を彼女に託し、第一線から退くことを表明した[2]。ザウバーグループの取締役会議長は引き続き勤める[2]。この決断をしたのは日本GP小林可夢偉が3位表彰台を獲得した直後だったと語っている[3]

人物[編集]

  • ザウバーは堅実な人柄ながら、新人ドライバーの発掘にかけては大胆な判断をみせて成功している。4輪レースキャリアわずか20数戦でF3の経験すら無かったライコネンを、テストの印象から「直感」で抜擢したのが最たる例である。ほかにもハインツ=ハラルド・フレンツェンフェリペ・マッサがザウバーチーム経由でトップチームに移籍し、ロバート・クビサもBMWザウバー時代に才能を見出された一人である。小林はトヨタ撤退前の2レースの活躍から、持ち込みスポンサーのない状態でも才能を買って起用した。
  • 当初、英語を話す努力はしたものの、通訳を介したほうが確実との決断をし、F1においても基本的にドイツ語で話をする珍しいチーム代表である。ただし、マスコミとのインタビューでは電子英語辞書を持ちながら英語で話すこともある。
  • 葉巻を愛飲する。
  • ザウバーチームのマシン名に付く"C"はザウバーの妻クリスティーヌ (Christine) のイニシャルである[4]
  • 次男のアレックス・ザウバーはMBAを取得後、サッカークラブのマーケティングに携わり、2010年よりザウバーチームのマーケティング・ディレクターとして商業面を担当している[5]

参考文献[編集]

  • パトリック・カミュ文/今宮雅子訳「ペーター・ザウバー インタビュー」『F1速報 テスト情報号』 ニューズ出版、1993年2月12日発行

脚注[編集]

  1. ^ ペーター・ザウバー、モニシャ・カルテンボーンを後継者に指名 - F1-Gate.com(2012年4月9日)2012年10月25日閲覧。
  2. ^ a b ペーター・ザウバー引退、カルテンボーンが新代表に - オートスポーツweb(2012年10月11日)2012年10月25日閲覧。
  3. ^ 来季ザウバーはグティエレス&ヒュルケンベルグ? - ESPN F1(2012年10月12日)2012年10月25日閲覧。
  4. ^ ザウバー 歴代F1マシン - F1-Gate.com(2010年1月23日)2012年10月25日閲覧。
  5. ^ 可夢偉アーミー 【15】アレックス・ザウバー(マーケティング・ディレクター) - STINGER(20年11月19日)2012年10月25日閲覧。

関連項目[編集]