サム・マイケル

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サム・マイケルSam Michael1971年4月29日 - )はオーストラリア出身のレーシングカーエンジニアF1ウィリアムズチームテクニカルディレクターを長らく務めた。2012年現在はマクラーレンに在籍している。

生い立ち[編集]

西オーストラリア州で生まれ、キャンベラで育った。

ニューサウスウェールズ大学機械工学を学び、この間に、レーシングカーのデータを収集する装置に関する論文を著した。

レースファンだった学生時代のマイケルは、研究に差し支えることなくできることを条件に、レース関係のアルバイトを探していた。ある時、オーストリア国内のレースカテゴリー、フォーミュラ・ホールデンのチームオーナー、グレッグ・シドル(Gregg Siddle )に求職の手紙を出したところ、グレッグ・シドルがこれを認めたため、平日は大学で勉強をし、週末はシドルのチームで働くという学生生活を送った。

F1での経歴[編集]

ロータス時代[編集]

グレッグ・シドルは1970年代から1980年代初めにかけて、ヨーロッパでネルソン・ピケロベルト・モレノなどのマネージメントをしていたことがあって顔が広い人物であり、ロータスの監督であったピーター・コリンズとの間を仲介した。1993年、マイケルは大学卒業と同時にロータスでの職を得て、オーストラリアを後にした。22歳の時である。

ロータスにおいてはピーター・ライトの下で、データ収集やそれに基づくレースシミュレーションなどを行なった。1994年にロータスが破産して消滅すると、ジョーダンに移った。

ジョーダン時代[編集]

マイケルはジョーダンで頭角を現し、チームの研究開発部門の構築に寄与して、以後のチームの発展に少なからぬ貢献をすることとなる。開発ファクトリーに勤務してデータ収集方法について模索し、1996年にはサスペンションの動きをシミュレートするセブンポスト・リグの設置を担ったほか、車体駆動系のアクティブデフの設計を手がけた。

1997年にはファクトリーを離れてテストチームと行動をともにし、1998年にはラルフ・シューマッハ担当のレースエンジニアとなり、ラルフがウィリアムズへと移籍したのに伴い、翌1999年ハインツ=ハラルト・フレンツェンを担当した。フレンツェンとのコンビはうまく機能し、フランスGPイタリアGPでフレンツェンが優勝し、ドライバーズタイトル争いにも絡むなど、大きな結果で報われた。

ウィリアムズ時代[編集]

2001年フランク・ウイリアムズに見込まれ、シニア・オペレーションエンジニアとしてウィリアムズウィリアムズチームに引き抜かれ、同チームのレースとテストの管理を統括する責任者となる。

2004年5月、同チームにおいて長年にわたってテクニカルディレクターの地位にあったパトリック・ヘッドがその座を退いたため、マイケルはウィリアムズのテクニカルディレクターを引き継ぐこととなり、33歳で名門ウィリアムズチームの技術部門のトップに立った。開発部門からレース戦略に至るまでの全てを統括することとなったが、リソーセスの分散による弊害が顕著となりチームの成績が低迷したことから、2007年にはルノーフェルナンド・アロンソのレースエンジニアを務めていたロッド・ネルソンを引き抜いてチーフ・オペレーション・エンジニアの職につけ、レースチームにおける負担を軽減するとともに、より開発部門の職務に集中できる体制が構築された。

しかし、その後もチームの成績低迷は続き、2011年5月に同年末をもってテクニカルディレクターを辞任することが発表された[1]。その後、スポーティングディレクターとしてマクラーレンに移籍することが決まった[2]

脚注[編集]