富士スピードウェイ

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座標: 北緯35度22分18秒 東経138度55分36秒 / 北緯35.37167度 東経138.92667度 / 35.37167; 138.92667

日本の旗 富士スピードウェイ
概要
Fisco-mainstand.jpg
所在地 日本 静岡県 駿東郡 小山町
運営会社 富士スピードウェイ株式会社
営業期間 1966年 - 2003年 / 2005年 -
収容人数 11万人
主なイベント WEC マウントフジ6時間レース
SUPER GT
フォーミュラ・ニッポン
富士グランチャンピオンレース
コース設計者 ヘルマン・ティルケ
国際レーシングコース(四輪)
FujiSpeedway.gif
使用期間 1966年 - 2003年
コース長 4.400km
ラップレコード 1分12秒23 (1977年)
マリオ・アンドレッティ
チーム・ロータスF1
国際レーシングコース(四輪)
Circuit Fuji.png
使用期間 2005年 -
コース長 4.563km
コーナー数 16
ラップレコード 1分17秒287 (2008年)
フェリペ・マッサ
スクーデリア・フェラーリ (F1)
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富士スピードウェイ株式会社
Fuji International Speedway Co.,Ltd
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 FSW(旧略称FISCO)
本社所在地 日本の旗 日本
410-1307
静岡県駿東郡小山町中日向694
設立 1963年12月19日
業種 サービス業
事業内容 各種レースの主催・共催などの運営
レース場及びレース場の付帯設備の貸し出し
ドライビングスクールの経営
看板広告・プログラム広告など広告に関する業務
その他各項に関する業務
代表者 代表取締役社長 加藤裕明
代表取締役副社長 堤健吾
資本金 10,086,825,000円
主要株主 トヨタ自動車株式会社 93.4%
三菱地所株式会社 4%
大成建設株式会社 2.6%
外部リンク http://www.fsw.tv/
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富士スピードウェイ(ふじスピードウェイ、Fuji International Speedway )は、静岡県駿東郡小山町にあるサーキットである。略称は「FSW」。かつては運営会社の「富士スピードウェイ株式会社」の英文社名"Fuji International Speedway Co.,Ltd"にちなみFISCOと表記されていたこともある。2000年よりトヨタ自動車の傘下に入る。

歴史[編集]

サーキット建設のいきさつ[編集]

富士スピードウェイ建設は、丸紅副社長森長英から河野一郎建設大臣)に話があった。その頃河野は名神高速道路の建設を担っており、長時間高速走行可能な国産車を開発する必要があり、また自動車の輸入自由化のこともあり、外車の性能と比較しても遜色ない国産車を開発するには、サーキットの存在は大きな意味があった[1]鈴鹿サーキットホンダのサーキットであるし、また、当時は二輪レース用のサーキットと思われており、四輪レースにも十分な幅員を持つサーキットが望まれていた[2]

富士スピードウェイの建設用地は99年間の借地権によるものである。建設費用は借入金によるところが大きいが、河野が逝去したため、日本ナスカー(株)副社長河野洋平は建設資金集めのために銀行や企業回りをし、非常に苦労する[3]

富士スピードウェイ株式会社の前身「日本ナスカー株式会社」は1963年(昭和38年)に設立。その名の通り日本国内におけるNASCAR形式のレース開催を目的として設立され、翌1964年(昭和39年)1月にはNASCARとの間で日本及び極東地域におけるNASCAR形式レースの独占開催権に関する契約を締結。同年6月にはサーキット候補地として静岡県駿東郡小山町大御神の150万坪の土地を選定し、地権者らとの契約にこぎつける。

コースレイアウトは、NASCARのレースが行われるアメリカのデイトナ・インターナショナル・スピードウェイに似たトライアングル・オーバルトラックを予定しており[4]、1964年7月にはデイトナを設計したチャールズ・マネーペニーが来日し、原案の製作に取り掛かった。しかし、日本ナスカーの招聘によって現地を視察したスターリング・モスが「こんな地形でオーバルコースを作るとはナンセンスも甚だしい」と指摘した通り、山麓の傾斜地という立地条件からオーバルコースの建設が困難なことが判明した。1965年(昭和40年)にはNASCARとの間の開催権契約を白紙還元することで合意。改めてヨーロッパ式のロードコースとしてサーキットを建設することとなり、社名を現在の「富士スピードウェイ株式会社」に改めた。同年10月には三菱地所が同社に出資、実質的な経営権を握ることになる。

河野洋平によると、コース設計には様々な案があり、結局日本のレースにも適した現在のコースに決まり、建設を開始したという。河野洋平のアメリカ視察は建設開始後であった。また、NASCARの契約料は高額で、河野たちは不満を持っていたし、NASCARの経営方式が日本で通用するとも思っていなかったので、NASCARとの契約をやめることにしたという。そして会社名も富士スピードウェイ(株)と変わる。「サーキット」ではなく「スピードウェイ」という名をつけたのはオーバル計画の名残である[4]。それからサーキットの愛称について河野らは考えたが、呼びやすい愛称ということで、正式社名にはない「インターナショナル」を入れて「フジ・インターナショナル・スピードウェイ・カンパニー(Fuji International Speedway COmpany)」とした[5]

当初、富士スピードウェイの経営には三菱地所は関わっておらず、丸紅毎日新聞社富士急行が関わっていた。三菱地所が行動を起こすのは河野一郎の逝去後である。三菱地所は富士スピードウェイに隣接する土地を所有しており、そこで冨士霊園の経営を行っていた。三菱地所社長渡辺武治郎は特に富士スピードウェイの借地内にあるゴルフ場に関心を持っていた。富士スピードウェイ社長鈴木九平と渡辺との間で交渉がまとまり、また河野洋平も亡き父・河野一郎の後を継いで政界に入って富士スピードウェイを退職し、以後は三菱地所に経営を託すことになる[6]

オープン[編集]

高度成長期真っ只中の1966年(昭和41年)1月3日にオープン。最初のレースイベントは3月12日に開催された、アマチュアライダーによる2輪レースである「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めた[7]。3月27日に行われた4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。5月3日に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集めた。

4輪の日本グランプリは1977年まで富士で開催され(1976年は鈴鹿開催)、1960年代は日産対トヨタのワークス対決で盛り上がった。また、1966年の「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース」(通称:インディ富士200マイル)や1968・1969年の「ワールドチャレンジカップ・富士200マイルレース」(通称:日本Can-Am)のような海外招待レースも企画されるなど、船橋サーキット(1967年閉鎖)・筑波サーキットと並んで関東地方におけるモータースポーツの中心的な場所となった。

富士GCとF1開催[編集]

公害対策のため自動車メーカーのレース活動が停滞すると、富士は1971年(昭和46年)にプライベーター主体の富士グランチャンピオンレース(富士GC)を創設して看板イベントに育てる。サーキットの周辺には「大御神レース村」と呼ばれるメンテナンスガレージが集まるようになった。1977年(昭和52年)には耐久レース富士ロングディスタンスシリーズ(富士LDシリーズ)もスタートする。

1973年(昭和48年)・1974年(昭和49年)には富士GCで死傷事故が起こり、名物の30度バンクが閉鎖された。

1976年(昭和51年)にはF1日本初開催となるF1世界選手権イン・ジャパン、1977年には正式に日本グランプリの名を冠して第2回大会を開催した。第2回は1コーナーでジル・ヴィルヌーヴフェラーリ)のマシンが宙を舞い、立ち入り禁止区域にいたカメラマンとそれを排除しようとしていた警備員に激突、あわせて2名が死亡する事故が起きた。運営の赤字やこの事故の影響により翌年の開催はキャンセルされ、1987年(昭和62年)に鈴鹿サーキットで開催されるようになるまで、F1の日本開催は中断することとなった。

廃止の危機[編集]

1979年(昭和54年)7月、社団法人御殿場市青年会議所(御殿場JC)が富士スピードウェイの廃止を県に陳情したことがきっかけとなり、経営権を持ち大半の土地を所有する三菱地所によって、1980年代前半にサーキットの廃止とゴルフ場などを中心にしたレジャーランドへの転用が検討された。

この陳情の背景には、富士GCの観戦を目的とした暴走族(グラチャン族)が、サーキット周辺で集会や暴走行為などを繰り返すことにより周辺環境が悪化するという問題や、1983年(昭和58年)に再び富士GCで起きた高橋徹の死亡事故があった。また、当時の世間におけるモータースポーツの認知度の低さから、「モータースポーツ自体暴走行為を助長するものであり、好ましいものではない」との意見も一部には見られた。しかしながら、一方で当時建設業に携わっていた者が陳情の中心にあったという説もあり、争議の後半においては陳情側がトーンダウンした状況が見られた。

これに対し1980年(昭和55年)には、モータースポーツ界を代表する形で「日本モータースポーツ振興会」が設立され廃止反対運動を開始。1985年(昭和60年)には「FISCO廃止問題連絡協議会」と改名し、サーキット廃止に反対する地権者達で構成される「富士スピードウェイ協力会」とタッグを組む形で反対運動を展開した。反対運動の中、高橋国光他レーシングドライバーやジャーナリスト、サーキット地権者等が都内でFISCO廃止反対を訴えるデモ行進を行い、その後公開シンポジウムを開いたこともある[8]

1986年(昭和61年)には三菱地所がスピードウェイのある小山町長に対し調停を申し立てたが、同年7月30日「この件は白紙に戻す」という町長裁定が下り、正式にサーキットの存続が決定した。

モータースポーツブーム期[編集]

1980年代に入ると海外の有力チーム・ドライバーを招いた「輸入レース」を企画。1982年(昭和57年)には世界耐久選手権の日本ラウンド(WEC-JAPAN)、1985年(昭和60年)にはツーリングカーのインターTEC、1990年にはF3のインターナショナルF3リーグといったイベントが創設され、国内のレース関係者に刺激を与えた。バブル景気下でモータースポーツブームが起こる一方、1989年(平成元年)には富士GCが廃止された。1990年代中盤にはピット・パドックエリアが改修され近代的な設備が整った。

リニューアル・オープン[編集]

新築されたピット

1990年代にピット棟やコントロールタワーなどが改修されたとはいえ、施設の全体的な老朽化は否めず、1997年(平成9年)の横山崇光貞秀俊1998年(平成10年)の太田哲也2002年(平成14年)の道上龍の大事故にも繋がるソフト、ハード両面の旧態化が進行し、FIAの基準を満たしていない施設が幾つも存在していたなど安全性の面でも懸念が高まっていた。

2000年(平成12年)、トヨタ自動車が三菱地所から同社株式を買収して正式に傘下に収め、2003年(平成15年)9月から営業を停止して改修工事を開始、2005年(平成17年)4月10日にリニューアルオープンした。新コースはセパンサーキットマレーシア)や上海インターナショナルサーキット中華人民共和国)など、1990年代後半から2000年代にかけて新規にF1を開催しているサーキットのほとんどでそのデザインを担当しているヘルマン・ティルケの手によるものである。この工事の際にほとんどの旧施設が解体撤去されたが、コントロールタワーは改修して継続使用している。

旧コースの特徴の一つだった約1.5kmの直線は残されつつ、コースが現代的に改良された。大きな変更点としては、旧コースでは最終コーナーから直線にスムーズにつながっていた部分が、新コースでは急勾配のつづら折れとなって入り組んだ複合コーナーの連続に直されており、難易度が増している。ドライバー側はコーナーのイン側が見通しが悪い事が指摘されており、スピンしたマシンに後続車が接触する事故も見られる。この他、ピットロード出口が以前と比べ1コーナー寄りに改められ、ピットアウト時のスピードを下げる工夫がなされている。

また、ランオフエリアはほとんどが舗装され、安全性が向上した上、コース脇には緊急車両用の通路が設けられた。これらの改修により同サーキットはF1開催に必要な資格のグレード1を取得した。その一方で、安全対策を強化した結果、コースサイドから走行するマシンが見づらくなった事を指摘する声も観客の中から挙がっている。時間走行権や占有使用料などをはじめとする料金の設定が割高だという声も多い。

メインスタンド、レストラン、駐車場、トイレなど観客が利用する施設の質的向上も旧来に比べ著しい。グランドスタンドの座席は一席ずつ区切られ、ドリンクホルダーが設けられるなど、観客が快適にレースを楽しめるような工夫が凝らされている。パドックとグランドスタンドを結ぶ通路も新たに広く、開放的な通路が設けられ、上り専用のエスカレーターも設置された。

敷地内にトヨタの交通安全センター「モビリタ」も設立。本コースの他にドリフトコース、ジムカーナコース、ショートサーキット、カートコースを建設。レクサス販売のための研修施設であるレクサスカレッジを設立。モビリタを含む各エリアは、レース他自動車イベント以外に様々なイベントの会場としても供用される。またレース他イベントが開催されない際には、駐車場をトヨタ自動車のモータープールとしても使用していることがある。

リニューアル後、F1開催決定に先立ち、ピット棟の裏にホスピタリティ棟が設置された他、当初は屋根が無かったピット棟屋上のバルコニーにも屋根が設置される追加工事が実施されている。

F1の復活と再撤退[編集]

1987年(昭和62年)から鈴鹿サーキットで行われていたF1日本GPの契約が2006年(平成18年)シーズンで終了だったことから、富士スピードウェイはそれ以降の日本グランプリの誘致を決定し、FOA(フォーミュラ・ワン・アドミニストレーション)との交渉の末、2007年の開催権を獲得した。鈴鹿側も2008年以降の開催を希望したことから、FIAは2007年9月、2008年は富士での開催とし、以降は鈴鹿と富士が隔年で交互に開催することを発表するに至った[9]

F1開催にあたっては、周辺の道路・宿泊施設等の状況を鑑みて、観客を駅や駐車場からシャトルバスで往復輸送する「チケット&ライド方式」を採用した。しかし、復活初年度の2007年(平成19年)は悪天候によりバス輸送が大混乱に陥り、予選終了後に観客が長時間にわたって場内に閉じ込められたり、決勝スタートまでに来場できないという不祥事が発生した。その他にも1コーナー仮設観客席からコースが見えないなどの諸問題が露呈し、日本GPの歴史に汚点を残す結果となった。レース後に観戦者より民事訴訟を起こされた。2013年1月24日に東京地方裁判所は訴訟を起こしていた67人の原告に対し、内53人に約80万円を支払うよう命じた[10]

2年目の2008年(平成20年)は20数億円を投じて対策を行い[11]、1コーナー等の場内施設を改修。決勝観客動員数を14万人から11万人相当に縮小し[11]、シャトルバスを会場内や周辺に待機させる「留め置き方式」が採用されたことから、前年ほどの混乱はみられなかった。

2009年(平成21年)7月7日、富士スピードウェイは日本GP開催からの再撤退を発表した[12]。不況等に伴う経営環境の悪化のほか、「SUPER GTやフォーミュラ・ニッポンも含め、国内のレース観戦客数が激減している」「看板スポンサーも減少している」ことを理由に挙げた[13]。これにより日本GPは2009年より再び鈴鹿で行われることになった。

コースレイアウト[編集]

全長1,475mという世界有数のロングストレートを持ち、コース幅も15〜25mと広い(鈴鹿は10〜14m)[14]。かつては直線と高速コーナーからなる超高速コースだったが、時代とともにコーナーを増やす方向で走行速度の減速が図られている。

リニューアル前はトップスピードを重視して、マシンにドラッグの少ないウィングやボディカウルが装着された。現在は低速テクニカルセクションがあるため、ある程度ダウンフォースを付けたセッティングが必要となっている。

開業時[編集]

赤と青が1974年までのコース、緑と青が2000年までのコース、青(3コーナー付近は赤、11コーナー付近は緑)が2003年までのコース。

ホームストレートは現在よりも長く、1,700m近くあった。ストレートから全開のまま、30度バンクに突入。ぐるりと半円を描き、バンクを通過すると右、左と大きく旋回するS字コーナーを抜けて、現在の2コーナー出口に位置していた合流地点へ。左の超高速コーナー、250Rを通過して右の100Rへ。フルブレーキでヘアピンを抜け、300Rから最終コーナーまでの長い全開区間からホームストレートへ戻り1周となる。1周は6kmであり、当時の鈴鹿サーキット (6.004km) とほぼ同距離。フルブレーキポイントはヘアピンのみというハイスピードコースであった。

なお、前述のインディ富士200マイルや1973年(昭和48年)の日本GPでは30度バンクを通らないショートコースを使用し、普段とは逆の左回りでレースが行われた。

30度バンク[編集]

30度バンク

富士スピードウェイの大きな特徴として、30度のカントがついたバンクコーナーがあった。これは前述の通り、元々同サーキットがオーバルコースとして計画されたことの名残と言われている。オーバルコースではコーナーでの減速を極力減らすため、コーナーにバンクを付けるのが普通である。

当時、国内でこのような急角度の路面舗装を経験した業者はひとつもなく、依頼された日本鋪道(現・NIPPO)は、ロードローラーをバンクの上からワイヤーで引っ張るという方法できり抜けた。しかし、もともと経験不足を起因とする勾配の設計が良くない上に、後に「馬の背」と呼ばれることになるこぶ状のうねりもあった。カントのついたオーバルコースで争われるオートレースの世界から転進した田中健二郎曰く、「完成当初にコース管理者に『基礎に杭を打ち込んだか?』と尋ねたら、『打ち込んでない』と言われ『こりゃ駄目だ』と思った」そうである。

直線から30度バンクへはほぼアクセル全開で飛び込むが、走行ラインは1本しかなく、バンク下から吹き上げる横風の影響も受けた[15]。また、路面のうねりでマシンが底打ちするため、フロアやサスアームを補強しなければならなかった[15]。重大事故も発生し、開業年の日本GPでは永井賢一が死亡。1973年(昭和48年)の富士GC最終戦では中野雅晴が死亡した。中野の事故では二重に設置されるはずのガードレールが一枚しかなかった不備と、ステアリングミスが重なったものだった。1974年(昭和49年)の富士GC第2戦中に風戸裕鈴木誠一が死亡する大事故が起きたことを契機に30度バンクは閉鎖された。

バンクの使用中止に伴い、以後のレースは全て右回りで行われる形に改められている。ただし、ファン感謝デーや全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)、自転車ロードレースなど、自動車レース以外のイベントで本コースが使われる場合には、現在でも左回りで周回することがある。

旧コース時代の末期にイベントの一環として、体験走行会が何度か行われている。現在は一部の路面がモニュメントとして遺されたメモリアルパークとなっている。

30度バンク廃止後[編集]

富士スピードウェイ付近の空中写真。(1983年撮影)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

1974年に30度バンクが廃止され、前述のショートカットコースをメインとしたレイアウトとなる。1周は4.359km。ホームストレートは約1,500mに短縮され、1コーナーはヘアピンとなる。それ以外は前述と同じレイアウトである。バンクは無くなったとはいえ、超高速コースである事には変わりない。1976年と1977年のF1もこのコースが使われた。

1980年代には3箇所の改修工事が行われた。

ダンロップシケイン設置
1983年に高橋徹が最終コーナーでクラッシュする死亡事故が発生。観客にも死者が出てしまった事もあり、翌1984年に300Rから最終コーナーの超高速区間の速度抑制、最終コーナー進入速度の低下を目的とし、300R出口と最終コーナー入り口の間にある丘を削る形で右、左、右と大きく切り返すシケインが設置された。シケイン脇のウォール部分にダンロップの広告が設置され、ダンロップシケインと呼ばれる。1周は4.410kmに。
1コーナーの形状変更
1コーナーは本来は30度バンク時代に緊急連絡用のショートカットルートとして設けられたもので、レース用に設計されたものではなかった。ホームストレートからブレーキを残しながら回り込むので、入り口で接触事故が起きやすかった。1986年に30Rと60Rを組み合わせた鋭角なヘアピンへと改修され、ストレートエンドで十分減速してからコーナリングする形となった。1周は4.441kmに。
サントリーシケイン設置
1987年には100R手前の左250Rの超高速コーナーにシケインが設置される。コーナーを直進し、フルブレーキで左、右と切り返す形となった。これにより100Rは大きく狐を描くように右に回り込む形となり、難易度は大幅に増す事になる。サントリーがスポンサーとなり、1990年代以降は缶コーヒー「BOSS」の大看板が設置される。このシケインを「Aコーナー」、ダンロップシケインを「Bコーナー」とする簡略化した名称も一般的に使われるようになった。1周は4.470kmとなり、2003年までこのコースは使われる事になる。
なお、この時に1コーナーからバンクへと続く路面は剥がされ、ダートのランオフエリアとなった。

リニューアル後[編集]

2005年から使われている現行のレイアウトは距離が4.563km、コーナー数は16に変更された。コース終盤を中低速コーナーが連続するテクニカルセクションに変更し、高速テクニカルコースとなった。

長い直線から最大のオーバーテイクポイントとなる1コーナーは、旧レイアウトよりも鋭角なヘアピンとなった。2コーナーからの坂はなだらかになり、3コーナーへ。サントリーシケインは廃止され、ブラインドの高速左90度コーナー(コカコーラ・コーナー)となった。100Rはランオフ確保のため、旧レイアウトよりも手前に置かれ、大きな狐を描く高速右コーナーで、旧コースよりもカーブが緩くなり通過速度は高くなる。ヘアピンも若干手前に変更され、100R出口からヘアピン入り口の距離は縮み、ブレーキングが非常に難しくなった。

ヘアピンを抜けると右の超高速コーナー300Rへ入り、全開のままダンロップシケインへ入る。新しいダンロップシケインはフルブレーキから右に大きく切り返し、すぐに左に切り返す形となり、旧コースに比べて通過速度は下がっている。テクニカルセクションは坂を上りながら、ブラインドでラインが複数ある難易度の高いつづら折りのコーナーが3つ連続で続く。最終コーナーはラインが複数あり、インベタで回るドライバーもいれば、外を回るドライバーもおり、ここの脱出がストレートの速度に影響するため、非常に難しいコーナーとされている。

ピットレーン入り口はホームストレートの中間にあるため、ピットに入る速度を大きく抑制するためにシケイン状のコーナーになっている。このピット入り口のシケインを上手く通過する事でピットのロスも減らせる形になっている。

特徴[編集]

立地[編集]

サーキットから眺める富士山

富士山の東裾野、標高545-580mの土地にあり、天候が不安定であることで知られる。夕方以降には気温が急激に下がることも多い。また、気圧が低い関係からターボチャージャー搭載車が有利となり得るため、一時期のSUPER GTでは自然吸気車にハンデが与えられたこともあった。霧の発生も多く、緊急時用のドクターヘリの飛行が困難になることもある。

霧の発生や大雨により、レースの中止やスタートの遅延などが起きる場合もある。全日本ツーリングカー選手権ではスタートが大幅に遅延し、午後5時過ぎになってようやく中止裁定が下されたり、フォーミュラ・ニッポンではスタート遅延後に僅か5周で「レース成立」として終了した事例もある[16]。悪天候に見舞われたケースは以下の例がある。

アクセス[編集]

東ゲート

観客は自家用車で来場し、敷地内の駐車場に駐車するのが一般的であるが、元々近傍にある東名高速道路は非常に交通量が多い上、休日ともなると御殿場プレミアム・アウトレットに向かう買物客がこれに加わること、またサーキット周辺の一般道で幹線道路は国道246号国道138号御殿場バイパス)ぐらいで抜け道も少なく、抜け道自体が片側一車線の市道であることから、レース開催時には御殿場インターチェンジやぐみ沢交差点付近での渋滞が発生しがちである。2012年平成24年)には、新東名高速道路御殿場ジャンクション以西が一部開通したため、交通事情の改善が期待される。

公共交通機関を利用する場合、冬季以外はJR東海御殿場線駿河小山駅御殿場駅から富士霊園行きの路線バスに乗車し、富士霊園入り口で下車、西ゲートまで徒歩10分ほどというルートがある。ただし、西ゲートは閉まっている場合もあり、事前に確認が必要。

大きなレースの際には御殿場からの臨時バスのほか、他駅からもシャトルバスが運転される。前述したように、コース周辺での渋滞問題を考慮した結果、2007年・2008年のF1日本グランプリ開催時にはシャトルバスによるアクセスに来場手段を限定したこともある(タクシーは利用可能)。

自動車
鉄道
空港

地元の小山町及び御殿場市周辺は元々避暑地や富士山登山の拠点であり、周辺には富士五湖・伊豆・箱根と言った日本有数の観光宿泊施設の集積地がある。

場内設備[編集]

レース開催日には場内限定のミニFM局が運用され、場内実況を手持ちのラジオで聞くことができる。 また、総務省ホワイトスペース特区に認定され、空き周波数帯域を使用した場内ワンセグ放送の実験が2011年11月の富士スプリントカップで実施 [19] された。 2012年4月にはフルセグ放送の実験試験局が免許 [20] され、5月のSUPER GTからワンセグのほか、場内に設置されたデジタルサイネージへのフルセグ放送の実験も行われた。 これにより大型ビジョンで放送していた映像・音声が手持ちのワンセグ対応端末やサーキット内のデジタルサイネージで視聴することができた。

主な開催レース・イベント[編集]

現在開催中[編集]

過去に開催[編集]

コースレコード[編集]

1983年まで(4.359km)
カテゴリー 記録 ドライバー メーカー・車種 樹立日
世界耐久選手権・WEC-JAPAN[21] 1分10秒02 ステファン・ベロフ ポルシェ・956 1983年10月1日
F1日本グランプリ[21] 1分12秒23 マリオ・アンドレッティ ロータス 78/フォード 1977年10月22日
1984年1985年(4.410km)
カテゴリー 記録 ドライバー メーカー・車種 樹立日
グループC 1分15秒92 ハンス=ヨアヒム・シュトゥック ポルシェ・962C 1985年10月5日
1986年1987年8月(4.441km)
カテゴリー 記録 ドライバー メーカー・車種 樹立日
グループC 1分14秒685 長谷見昌弘 マーチ・86G/日産 1986年11月22日
1987年9月~2003年(4.470km)[22]
カテゴリー 記録 ドライバー メーカー・車種 樹立日
F3000 1分14秒854 黒澤琢弥 ローラ・T92 1993年4月10日
フォーミュラ・ニッポン 1分15秒304 星野一義 ローラ・T96/52 1996年10月19日
F3 1分26秒344 片岡龍也 ダラーラ・F302/トヨタ 2003年4月6日
グループC 1分14秒088 星野一義 日産・R92CP 1992年5月2日
LM-GTP 1分16秒349 片山右京 トヨタ・GT-One TS020 1999年11月6日
富士グランチャンピオンレース 1分19秒904 関谷正徳 89S 1989年6月3日
GT500 1分23秒886 立川祐路 トヨタ・スープラ 2003年5月3日
GT300 1分31秒356 菅一乗 モスラー・MT900R 2003年5月3日
グループA (クラス1) 1分31秒131 星野一義 日産・スカイラインGT-R 1993年10月31日
スーパーツーリングカー 1分33秒035 服部尚貴 ホンダ・アコード 1997年11月1日
スーパーN1耐久 1分35秒173 粕谷俊二 日産・スカイラインGT-R 1998年11月7日
2005年以降 (4.563km)
カテゴリー 記録 ドライバー メーカー・車種 樹立日
F1 1分17秒287 フェリペ・マッサ フェラーリ・F2008/フェラーリ 2008年10月11日
スーパーフォーミュラ 1分22秒572 アンドレ・ロッテラー ダラーラ・SF14/トヨタ 2013年11月23日
フォーミュラ・ニッポン 1分24秒290 松田次生 ローラ・B06/51/トヨタ 2008年4月5日
F3 1分33秒451 井口卓人 ダラーラ・F308/トヨタ 2009年4月4日
LMP1 1分26秒235 アンドレ・ロッテラー アウディ・R18e-tronクアトロ 2013年10月19日
LMP2 1分32秒350 ベルトラン・バゲット モーガン・日産 2013年10月19日
LMGTE 1分38秒605 ダレン・ターナー アストンマーチン・バンテージV8 2013年10月19日
JLMC 1分31秒065 伊藤大輔 クラージュ・LC70/無限 2007年6月2日
GT500 1分28秒799 ジョアオ・パオロ・デ・オリベイラ 日産・GT-R 2014年5月3日
GT300 1分36秒736 星野一樹 日産・GT-R 2013年11月23日
スーパー耐久(ST-X) 1分40秒354 星野一樹 日産・GT-R 2014年7月26日
FISCO Special Stage Trial(FSST) 1分49秒879 平野 濱嗣 日産・スカイラインGTR32 2008年12月6日

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 『サーキット燦々』(p320, p321)より。
  2. ^ 『サーキット燦々』(p326)より。
  3. ^ 『サーキット燦々』(p322, p323)より。
  4. ^ a b Honda F1ルーツ紀行 幻のHondaインディ計画 第三章 - 本田技研工業(2012年11月21日閲覧)。
  5. ^ 『サーキット燦々』(p329, p330)より。
  6. ^ 『サーキット燦々』(p330, p333 - p335)より。
  7. ^ 『富士スピードウェイ 最初の40年』(p.45)
  8. ^ 漫画家しげの秀一は『バリバリ伝説』(『週刊少年マガジン』)のタイトル頁で、主人公巨摩郡が「FISCOなくなったら困るぜ!みんなで反対しよう!」と呼びかける形で反対運動に賛同した。
  9. ^ 2008年以降のF1日本グランプリの開催について
  10. ^ 2007年F1日本GPの訴訟に判決。FSWに賠償命令(オートスポーツウェブ、2013年1月25日)
  11. ^ a b 【F1日本GP】「マイナスからの再出発」…総工費20数億円、施設の改善状況はいかに レスポンス(2008年7月23日)2012年11月24日閲覧。
  12. ^ 富士スピードウェイ F1日本グランプリ開催中止を発表(2009年7月7日)
  13. ^ 富士スピードウェイ加藤社長「F1開催中止は断腸の思い」 - as-web.jp・2009年7月7日
  14. ^ SUPER GT サーキット紹介 J SPORTS(2012年11月24日閲覧)。
  15. ^ a b 大串信「魅惑と恐怖の30度」『Racing On 2002年5月号 (No.354)』 ニューズ出版、2002年、pp.50-53。
  16. ^ 正式に中止となったレースではチケットの払い戻しや振り替えなどが行われるが、形式上「レース成立」となったレースはチケットの払い戻しは行われなかったため、来場者などから不満の声が上がったこともある。
  17. ^ 濃霧のため決勝レースが2周で打ち切りとなった。詳細は[1]等を参照。
  18. ^ 豪雨とそれに伴う濃霧のためセーフティーカーランのレッドフラッグでレースらしいレースのないまま途中打ち切り、16周で成立。FIA 世界耐久選手権#日本開催
  19. ^ レース観戦のスタイルが変わる? 富士のワンセグ放送を体験してみた Car Watch 2011年12月16日
  20. ^ 富士スピードウェイ内でワンセグ・フルセグ放送などの実験試験局を免許 東海総合通信局 報道資料 2012年4月23日
  21. ^ a b 1984年と1987年のコース改修でシケインが設置される以前の記録。
  22. ^ 1999年に再計測され、4.400kmに改められた。1999年のル・マン富士1000kmもJSPC時代より4周多い228周で争われた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]