デイモン・ヒル

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デイモン・ヒル
F1での経歴
国籍 イギリス
イングランドの旗 イングランド
所属チーム ブラバム・ジャッド
ウィリアムズ・ルノー
TWRアロウズ・ヤマハ
ジョーダン無限ホンダ
活動時期 1992 - 1999
出走回数 115
優勝回数 22
通算獲得ポイント 360
表彰台(3位以内)回数 42
ポールポジション 20
ファステストラップ 19
F1デビュー戦 1992年イギリスGP
初勝利 1993年ハンガリーGP
最終勝利 1998年ベルギーGP
最終戦 1999年日本GP
タイトル 1(1996)
  

デイモン・グラハム・デベリュー・ヒル OBEDamon Graham Devereux Hill, 1960年9月17日 - )は、イギリス人のF1ドライバー。血液型はRh+O型。「デーモン」と表記される事もある。1996年F1ワールドチャンピオン。1960年代に2度のチャンピオンを獲得したグラハム・ヒルの息子で、父と同じデザインのヘルメットを使用していた。2006年にBRDC(ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ)会長に就任し、2008年7月現在も同職にある。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 生い立ち

グラハムが軽飛行機事故で死亡したときに保険に加入していなかったことで、同乗者への補償金支払いのためにヒルは貧しい青年時代を過ごした。その間バイク便のアルバイトをしながら二輪レースに参加した。

[編集] 初期の経歴

ヒルはブランズハッチの二輪レース、クラブマンカップ350ccクラスのタイトルを獲得したが、1985年には四輪レースに転向した。

F3を経て1988年終盤にF3000にデビューし、1991年までF3000に参戦した。1989年はシーズン途中より片山右京に代わりムーンクラフトシャシーを使用するフットワークチームから参戦したが、目だった成績は残せなかった。1990年にはミドルブリッジのローラで複数回のポールポジションを獲得しレースをリードすることもあったが、勝利を挙げることはできなかった。1991年にはエディ・ジョーダン・レーシングより参戦した。1989年にはル・マン24時間レースにも参戦した。

[編集] ウィリアムズ加入とF1デビュー

1991年にF1の名門チームウィリアムズにテストドライバーとして大抜擢された。前任者のマーク・ブランデルがテストドライバーを退くことを小耳に挟み、クリスマスの日にダメもとでテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドに電話をかけたところ採用されることになった。

ウィリアムズでテストドライバーとして働き、「テストキング」と呼ばれるほど当時からセッテイングの才能をアピールした。その働きはエースのナイジェル・マンセルに「デイモンがいてくれるんだから俺はわざわざテストに参加しない」と言わしめるほどの信頼を得るものであった(自らのテスト嫌いの言い訳と取れなくもないが)[要出典]。その傍ら1992年、往年の名門チーム・ブラバムでF1デビューを果たすが、既に末期的な状況に陥っていた同チームの低迷もあり、多くのレースで予選落ちを重ねた。しかし母国のイギリスグランプリで決勝レース初出場(記録上のF1デビュー)を果たし完走。二度の決勝レース出走を果たした。

ウィリアムズFW16・ルノー。カーナンバー0であることに注目(1994年)
ウィリアムズFW16・ルノー。カーナンバー0であることに注目(1994年)

1993年、前年まで在籍していたナイジェル・マンセルリカルド・パトレーゼの離脱から、ウィリアムズのレギュラードライバーに大抜擢され、アラン・プロストのチームメイトとして参戦[1]。第1戦南アフリカGPではレース開始早々にスピンして後退した挙句に接触事故でリタイアすると言う散々な結果だったものの、その後は着実に成長を遂げ、持ち前のセッティング能力がプロストとのデータ共有により更なる進歩を遂げ、初勝利となったハンガリーGPを皮切りに3連勝するなどの活躍を見せる。

なお、1992年チャンピオンのマンセルと、1993年チャンピオンのプロストがそれぞれウィリアムズでタイトルを獲得して引退してしまったため、カーナンバー1を付ける選手が不在の1993年と1994年に、ヒルはカーナンバー0を付けていた。F1で、ヒルの他にカーナンバー0を付けたドライバーの例は、1973年のカナダGPとアメリカGPジョディー・シェクター(当時マクラーレン)のみである。

[編集] チャンピオン候補

カナダGPにてウィリアムズFW17・ルノーを駆るヒル(1995年)
カナダGPにてウィリアムズFW17・ルノーを駆るヒル(1995年)

1994年、アラン・プロストと入れ替わりにエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦。しかし、サンマリノGPでのセナの事故死により、ヒルは唐突にエース・ドライバーになってしまった。ポイント争いではミハエル・シューマッハとヒルが優勝を重ねていた。シューマッハの出場停止もあって6勝をもぎ取り、最終戦直前では1点差まで追いつくものの、最終戦でヒルの追い上げにプレッシャーを受けコースアウトし、破損したシューマッハのマシンが強引にコースに戻りヒルのマシンに接触。シューマッハのマシンは車体の右半分が浮き上がりコントロールを失いそのままコース脇のタイヤバリアに激突。ヒルのマシンも左のフロントサスペンションを破損、スローペースでピットへ戻るがそこでストップ。この結果2人ともリタイアし初のワールドチャンピオンはシューマッハに奪われる。

1995年は、シューマッハを上回る7回のポールポジションを獲得したが、決勝ではマシントラブルや他マシンとの接触、自分自身とチーム戦略のミスにより、ポイントを取れない展開となった。スペインGPではゴール直前リタイア(結果は完走扱いの4位)。モナコGPでのポールポジションを獲得するも、決勝では1ストップ作戦をとったシューマッハに逆転負けで2位。イギリスGPではチャンピオン争いをしているシューマッハと接触。ドイツGPでは2周目に単独スピンをした(パトリック・ヘッドから、スピンの理由はリアのジョイントに異常磨耗との発表あり)。ポルトガルGPでは何の抵抗も見せずあっさりシューマッハに2位を奪われたり、ヨーロッパGPでは集中力を欠きスピンし、クラッシュをした。FW17Bより、マシンバランスが悪かったもののレース戦略に優れたベネトンB195をドライブするシューマッハにその差をつけられ、チームメイトのデビッド・クルサードにも迫られる中で、敢え無くチャンピオンを逃した。

[編集] チャンピオン獲得

1996年、開幕戦のオーストラリア・グランプリから3連勝し、順調なスタートを切ったが、前年インディ・チャンピオンで当時「驚異の新人」と言われたチーム・メイト、ジャック・ヴィルヌーヴの追撃を受けて、チャンピオンシップの展開はチームメイト同士の争いとなった。最終的にはヴィルヌーヴに競り勝ち、シューマッハやクルサード、ミカ・ハッキネンなどのライバルたちにも大差をつけて初のワールドチャンピオンを獲得。現在、親子2代でワールドチャンピオンを獲得したのはヒル親子だけである。チャンピオンは、最終戦の日本GPでヴィルヌーヴがリタイアしたときに決定した。ヒル自身はこのレースを優勝で飾っている。ヒルはイギリスで勝ったことより96年最終戦の鈴鹿での勝利が一番嬉しかったとコメントしている。

しかし、この年のイタリアGP直前、8月26日にヒルはチームから次シーズンの契約を行わないことを通告されている。これは、1998年以降ルノー・エンジンを失うことが決定していたウィリアムズ・チームが、BMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていたためと言われる。ヒルの契約は96年までだったのに対し、チームメイトのヴィルヌーブは97年までの2年契約だった。97年のドライバーとしてヒルの代わりにウィリアムズが契約したのは、ドイツ人のハインツ=ハラルド・フレンツェンだったが、結果的にウィリアムズは98年にBMWエンジンを獲得することはできず(実際に獲得したのは2000年)、この年と翌99年シーズンの成績は低迷した。なお、イタリア・グランプリでのヒルは、序盤ポール・ポジションから圧倒的な速さで独走するも、第一コーナーのシケインにあるタイヤバリアに接触しスピン、リタイアしている。

また、このヒル解雇劇は、彼の盟友であったチーフデザイナーのエイドリアン・ニューウェイを激怒させたと言われており、この一件がニューウェイのマクラーレンへの移籍の理由の一つ[要出典]とも言われる。ヒルの放出については、後年フランク・ウィリアムズ自身をして「あれは大きな失敗だった」と認めている[2]

一方、ルノーのエンジニアも彼のマシン開発能力を高く評価していたため、大変な悲嘆に暮れた[要出典]という。

[編集] 弱小チームへの移籍

アロウズ・ヤマハをドライブするヒル(1997年)
アロウズ・ヤマハをドライブするヒル(1997年)

翌1997年、トム・ウォーキンショーが買収したアロウズに誘われ移籍。フランク・ダーニーが設計したシャシーA18とヤマハV10エンジンは信頼性が低く、開幕戦のオーストラリアGPではあわや予選落ちの危機に立たされ、決勝ではフォーメーションラップ中にマシントラブルでリタイアの憂き目に。第2戦ブラジルGPでは予選9位を獲得し、決勝では4位を走っていたが、残り4周でリタイヤした(結果は完走扱いの17位)。開幕戦を除いて、第6戦のスペインGPまでリタイヤが続き、ヒルのモチベーションも下がりっぱなしであった。

5/10付けでスクーデリア・フェラーリから移籍したジョン・バーナードがテクニカル・ディレクターに就任し、テストの方向性を決めてから、A18の信頼性もあがっていた[3]。ヒルも第7戦カナダGPでチームメイトのペドロ・ディニスと共に完走してから、第9戦イギリスGPで6位入賞と初ポイントを獲得した。

第11戦ハンガリーGPでは予選3位を獲得、決勝ではブリヂストンタイヤの性能を如何なく発揮し、序盤でグッドイヤータイヤに苦しむミハエル・シューマッハをパスし、そのままトップを快走。レース終盤にギヤボックストラブルで失速し、ファイナルラップでジャック・ヴィルヌーヴに抜かれ、惜しくも優勝は逃したものの2位に入った。過小評価するジャーナリストを含め「このレースの真の勝者はデイモン」と言わしめた[要出典]

最終戦ヨーロッパGPではトップと0.058秒差の予選4位に入った(上位3名が同一タイムであったため、事実上2番目に早いタイム)。ヒルは「前を走っていたウキョー(片山右京)が、スピンをしなければポールポジションを取れた」と語っている。

[編集] 現役最後の勝利、そして引退へ

1998年ジョーダン無限ホンダに移籍。前半戦は苦戦を強いられたものの、ベルギーGPでの雨の波乱含みのレースでジョーダンと無限ホンダに初勝利をもたらした。これはヒル本人にとって現役最後の勝利であり、また、ウィリアムズ以外のチームで挙げた唯一の勝利でもあった。最終戦日本GPでチームをコンストラクターズ4位に導いた。

1999年はチームメイトのハインツ=ハラルド・フレンツェンに圧倒されて成績もぱっとせず、地元のイギリスGPを最後に引退することを決意したが(実際は“イギリスGPが最後になるかもしれない”と言ったのであって、ジャーナリストが勝手に引退すると書きたてた)、このレースで一時的とは言えトップ走行をしたことからモティベーションが復活したのか、その後もズルズルと出走を続ける形で、結局このシーズン終了をもって引退することとなった。

[編集] その後

引退後はBMWのディーラー経営と、メンテナンスを含むスーパーカーのレンタルを行う会員制クラブ、P1インターナショナルを主催し悠々自適な隠居生活を送っている。2005年にはF3000に代わる新シリーズGP2のエンジン供給先であるルノーからのテスト走行を依頼され、F1時代を彷彿させる勇姿を見せた。

2006年の4月末、イギリスGPのマネジメントを行うBRDCは次期会長選挙を実施し、ヒルをジャッキー・スチュワートに代わり会長に選出。難題を抱えるシルバーストーン・サーキットの経営やF1開催の継続に向けて尽力することとなった。また同年、6月にロンドンで開催されたブリティッシュ・モーターショーにおいて、前年度のチャンピオンマシンであるルノーR25のデモランを担当し、出席したトニー・ブレア首相とも握手を交わした。

2008年の3月、次男ジョシュアがBTCCの前座レース、ジネッタ・ジュニア・シリーズ参戦を発表。初参戦ながらもポールポジション、ファステスト・ラップを記録し、上位に食い込む活躍をみせている。

[編集] 人物考

当時最強を誇ったウィリアムズ・ルノーのマシンに乗っていた時代が長かった為に、ヒルに対する評価はどうしても低く見られがちになっている。しかし、ヒルはある秀でた才能を持っていた。それは非常に有能なテストドライバーであったということである[要出典]

F1マシンの開発には、テストドライバーからのフィードバックが重要である。シミュレーションでは出せないデータを的確にエンジニアに伝える力、それは1990年代以降のF1レーサーに必要不可欠なスキルといってよい。まさにヒルは自分の才能にマッチした時代に生まれたのである[要出典]


アラン・プロストは「デイモンは、マシンを仕上げてゆくという面で、非常に優れたドライバーだ。そういうドライバーは、F1にもほとんどいないと言っていい。」と賞賛している[4]。その事実を裏付けるように、ヒルが去った1997年はジャック・ヴィルヌーヴとウィリアムズのコンビネーションが圧勝すると誰もが予想していたが、当時のマシン、FW19はセッティングの方向性を見失った為[要出典]か、最終的にはチャンピオンを獲得したものの、予想に反し大苦戦を強いられたのであった。その一方で、ヒルのチームメイト、ペドロ・ディニスは、ヒルの薫陶により時折目立った速さを見せるようになり、ディニス自身も「デイモンから学んだことは多かった」と述べている。

レースメイキングやオーバーテイク、周回遅れの処理が苦手だったため、レーサーとしては評価が低い時期もあったが、マシンを優しく速く走らせる技術においては屈指のテクニシャンといってよい[要出典] 。タイヤに優しい走り方も有名で、他のドライバーがブリスターだらけになっても、ヒルのタイヤだけはきれいなまま消耗しており[要出典]、ブリヂストンの浜島裕英モータースポーツタイヤ開発部長もトラクションのかけ方の的確さを言っている。またアクセルワークに関しては、96年に鈴鹿サーキットで行ったブリヂストンのタイヤテスト(TWRから提供されていた1995年型リジェJS41を使用)に同伴していた無限のエンジニアはエンジンブレーキのかけ方がうまかったと証言している。別件でその場に居合わせていた星野一義は数周のっただけでマシン、タイヤの特性を把握し好タイムを連発した走りをみて「さすがワールドチャンピオンをとっただけのことはある」と語っていた。また、鈴木亜久里は、かつて自らがドライブしていたマシンに初めて乗ったヒルがいきなり好走を見せたことから、ヒルのドライバーとしての能力を見直し、後のテレビ解説などでヒルを擁護する発言が目立つようになった。


またどのチームメイトとも良好な関係を築いており、ハッキネンと並び人格的にバランスの取れたナイスガイであった。そして意外に思われるが、かつてウィリアムズの名物女性広報で有名だったアン・ブラッドショー(現BMWザウバーF1広報)によれば、素顔のデイモンは父グラハム似なひょうきんな性格だと言う。

その人柄と浪花節を感じさせる労苦の半生をすごしたせいか日本での人気は大変高く、最終レースであった日本GPには多くのファンが鈴鹿サーキットに駆けつけた。

[編集] ミハエル・シューマッハとの確執

[編集] 1993年

日本GPで、ヒルとミハエル・シューマッハは接触、ヒルは4位入賞、シューマッハはリタイアに終わっている。

[編集] 1994年

イギリスGPで、フォーメーション・ラップ中にシューマッハ(予選2位)はヒル(予選1位)を追い越し、失格となる。ヒルはこのレースで優勝。

ベルギーGPでは、シューマッハがいったん優勝したが、車両規定違反によって表彰式終了後に失格となる。結果、ヒルが繰り上げ優勝。

イタリアGPとポルトガルGPは、シューマッハが出場停止処分で出走しなかった。このふたつのレースを制したのが、またもヒルであった。

激しい雨による中断で2ヒート制となった日本GPは、実質的に順位ではなくタイムを競う過酷なレースとなった。ウェットでのドライビング能力が問われる中、最後まで集中力を切らさずに走ったヒルが優勝、シューマッハは2位に終わる。このレースで、ヒルはファステスト・ラップを記録している。

こうして、序盤シューマッハの独走と思われたチャンピオンシップは、予想外にも1ポイント差で最終戦までもつれることになった。

最終戦であるオーストラリアGPで、シューマッハとヒルは衝突してともにリタイア、シューマッハは年間王者となる。このレースは、1997年ヨーロッパGPでのヴィルヌーヴとの接触とともに、シューマッハの経歴に大きな汚点を残すこととなる。 この年、セナ死去後シューマッハは実質的なライバルがヒルになった時点から、ヒルに対し徐々に辛辣な態度を取るようになる。ヨーロッパGPの朝食時に一旦互いに和解をするも、オーストラリアGPの接触で対立は決定的となった。

[編集] 1995年

イギリスGPにおいて、ラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとするが、プライオリー・コーナーで接触してともにリタイア。両者ともに、はっきりとした不快感を表す。

雨となったベルギーGPでは、ピットストップで順位が入れ替わる中、やはりラップタイムで上回る2位のヒルが首位のシューマッハを追い越そうとして接触、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。シューマッハは、ヒルに対する危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。

イタリアGPでは4位走行中、周回遅れの井上隆智穂を処理する際に3位走行中のシューマッハに追突。ともにリタイアに終わっている。このとき、シューマッハは掴み掛からんばかりの勢いでヒルに詰め寄った。このレース後、今度はヒルが執行猶予付きの1レース出場停止処分を受けた。 ちなみに、1993年のイタリアGPでは、ちょうど同じような状況でアイルトン・セナマーティン・ブランドルに追突し、ともにリタイアしている。そのとき、マシンを降りたセナはブランドルの元に走りよった。ブランドルは「殴られるのかと思った」が、実際にはセナはブランドルの無事を確かめるために駆け寄ったのであった。(ただし、これら1993年と1995年の事故を巡る環境は、必ずしも同一ではない。1993年のブランドルはすでにチャンピオンシップ争いから脱落していたのに対し、1995年はチャンピオン争いをしているライバル同士の事故であった。また、1993年はセナがスタート直後のヒルとの接触でマシンバランスが狂っており、ブレーキバランス調整中の不注意での追突であったため謝罪している。さらに、このセクションで説明されている通り、ヒルとシューマッハの関係にはこの事故以前から既に緊張があった点も異なる)

パシフィックGPでシューマッハは年間総合優勝を決定するが、それでも表彰式後のインタビューで「(スタート直後に進路を阻まれたことについて)ヒルは僕を追い出そうとした」と発言した。

[編集] 1998年

カナダGPにおいて、シューマッハとヒルはトラック上でバトルを演じる。「パスさせないよう危険な運転をした」としてシューマッハはヒルを非難。ヒルは「2位を争っていたのだから、簡単にパスさせたりはしない。それに、危険な運転とはフレンツェンを追い出した誰かさんのようなことを言うものだ」と応じた(同じレースでシューマッハが、ピットアウト直後に後方から迫っていたハインツ=ハラルド・フレンツェンのラインを塞ぎ、コースアウトさせリタイアに追い込んだことを指す)。また、シューマッハにとっては逆転チャンピオンの掛かった最終戦日本GPでは、トラブルから最後尾スタートとなり怒涛の追い上げを見せるシューマッハを、同一周回で走っていたヒルが長い間先行させず、コーナーでは車1台分を空けながら抜かせない絶妙な走りを見せた。

[編集] 1999年

イギリスGP終了後、同GPでクラッシュしたシューマッハをジョージー夫人と一緒に、見舞いに訪れている。[5]

[編集] その後

2000年2月号の「F1 Racing」誌(日本版)で、ヒルはシューマッハにインタビューを行っている。少なくとも誌面上は、険悪な雰囲気のものではなく、両者が敬意を示し合う内容となっている。また、「GRAND PRIX SPECIAL」の紙面上でシューマッハ引退についてのコメントでも1994年の最終戦であるオーストラリアGPの接触について「故意ではないと思う」と擁護する発言をしている。

[編集] デイモンに関する豆知識

  • 性格や立ち振る舞いが「身近な」「親しめる」「代表的な」イギリス人ドライバーとして、イギリスで愛されイギリス国民の評判も良かった(同じくイギリス人ドライバーであるナイジェル・マンセルは、イギリス国民が思うイギリス人ではなかったらしい)。
  • 名付け親は父グラハムと同年代ドライバーのジョー・ボニエ
  • 大の甘党である。寿司も大好物。デイモンがワールドチャンピオンを獲得した1996年のシーズンを記録したドキュメンタリービデオ『デイモン・ヒル F1GP '96ワールドチャンピオン ~栄光への軌跡~』では、デイモンが醤油をつけずに寿司を食べる姿を見ることができる。
  • 若い頃は「セックス・ヒトラー・アンド・ホルモンズ」というパンクロック・バンドをやっていた。ジョーダン・チームのオーナーであるエディ・ジョーダンとは、よくイベントで一緒に演奏していたようである。ギターの腕はプロ級で、親交のあるイギリスHRバンドデフ・レパードの1999年発売のアルバム『Euphoria』に収録されている「Demolition Man」では、彼のギターソロを聴く事ができる。
  • 音楽関係者との交友が多く、元ビートルズの故ジョージ・ハリスンとの仲の良さは有名(余談だが、応援に駆けつけた1995年のオーストラリアGP終了後、親友デイモンが優勝して上機嫌だったのか『ビートルズ・アンソロジー』の発売を公式発表の前に思わず言ってしまい“フライング”してしまった)。古舘伊知郎が「顔面ジョージ・ハリスン」というフレーズを残したように、顔も激似である。引退後は髪と髭をのばしているため“ジョージ・ハリスン化”は年々進んでいる。それゆえか、現役時代よりもルックス的にはカリスマ性がはるかに増している。1995年のポルトガルGPにはミック・ジャガーが陣中見舞いに訪れ、1997年はロン・ウッドの誕生日にも招かれた。
  • 長男がダウン症のため、夫婦そろって慈善活動には積極的である。1999年のイギリスGPで売り上げたヒルブランドの売上全額を寄付した。
  • 1994年、セナ亡きあとのウィリアムズでデイモンがマシンのあるセットアップについてチームに進言していたのに無視され続けた。フランスGPにスポット参戦したナイジェル・マンセルが同じ点に気づいて「何でデイモンの言う通りにしないんだ!早くしろ!」と一喝した。結果、デイモンはこのレースでシーズン初のポールポジションを獲得した。
  • 1994年、“無冠の帝王”と言われた往年の名ドライバースターリング・モスが英国の雑誌に、「デイモンは親父ほどではない」と発言した記事が掲載されたため、イギリスグランプリのパドックでデイモンの姉ブリジットがモスに詰め寄った。「勝手に記者が見出しを書いてしまった。そんなつもりで言ったんじゃないんだが」とうろたえるモスに、ブリジットがすごい剣幕で「うちのデイモンのこと悪く言ったら承知しないわよ」と迫ったため母ベティが驚き「まあ、あなたスターリングに向かって何てこと言ってるの」と諫める一幕があった。
  • 1994年のシーズンオフ、イギリスの高速道路でスピード違反を犯して免停処分を受ける。ただ、乗っていた車がF1レーサーが好んで乗るスポーツカーではなく、ファミリーカーのルノー・ラグナであったことは“庶民派デイモン”の面目躍如か。
  • アラン・プロストのような滑らかな走行が目標であると公言している。チームメイトであった1993年には、同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ない(タイヤを痛めない)ことをデータから知り、プロストの走法を研究するようになったと言われている。また、引退していたプロストが1995年にマクラーレンのテストに参加した際、「僕はプロストファン(Je suis Prostophile)」と復帰を願う発言をしてフランスのスポーツ新聞「レキップ」の見出しを飾った。
  • しかし、その一方で、多くのイギリス人ドライバーの例に漏れず、ナイジェル・マンセルは憧れの存在であり、ファン・パブロ・モントーヤのファンであることも公言している。あくまでも“見る立場”で言えば、自身の目指しているドライバー像と正反対のファイター系のドライバーが好みのようだ。
  • 1996年の日本GPで優勝しタイトルを決めたとき、3位入賞したミカ・ハッキネンに「君にも同じ日が来る」と一言。2年後、ハッキネンは最終戦、同じ日本GPで優勝して初のチャンピオンを決めた。その場でヒルは「ミカのタイトルは、まだ最初の一歩に過ぎない。彼はこれから何度もチャンピオンに輝く力を持っている」と賞賛している[6]
  • 1993年に初優勝したとき、緊張のあまり表彰台で観衆に向かってお辞儀をしてしまった(デイモン・ヒル著「Grand Prix Year」より)。
  • アイルトン・セナの葬儀に参列したにも関わらず、葬儀当時デイモンの名前を扱っている専門誌を含むメディアは「F1グランプリ特集」(現「GRAND PRIX SPECIAL」)以外、皆無だった。
  • デイモンが現役だった頃、日本のF1雑誌「AS+F」(休刊)に掲載された赤井邦彦らによるアンチ丸出しの批評に、デイモンファンが激怒。ネット上に集うファンの間でちょっとした「AS+F」非買運動を呼びかけていた。同誌のライバル誌のひとつである「F1速報」も、ヒルが在籍していた当時のウィリアムズについて、ウィリアムズが勝ってもそのレースの号は売り上げ部数が伸びないからありがたくないという見解を明らかにしていたが、「AS+F」はより露骨で、一部のライターの偏見混じりの、半ばただのこき下ろしとなっている記事を通すことが多かったため、そのスケープゴートにされがちだったデイモンのファンは、基本的に「AS+F」嫌いが多い。
  • 1992年当時、ブラバムに聖飢魔IIがスポンサーとしてついていたが、そのことについてデーモン小暮閣下曰く、「ドライバーが“デーモン”ヒルだから」と笑っていいともテレフォンショッキングで語っていた。尚、人名としての“デイモン”はDamonと表記(固有名詞のため頭の"D"は大文字)され、悪魔を意味する“デーモン”はdemonと表記(一般名詞のため頭の"d"は小文字)されるものであり、両者に意味上の関連性はない。
  • 上記のスターリング・モスとは誕生日が同じである。また父グラハムとフィル・ヒルは “ヒル”という同じ苗字のため仲が良かったようで、デイモンは一時期フィル・ヒルの自宅にホームステイした経験がある。
  • 足のサイズがデカい(29cm)。そのため、1997年に移籍したアロウズではモノコックを当初の設計から一部変更した。
  • アデレードメルボルンで行われた両方のオーストラリアGPを制した唯一のドライバーである。
  • モナコ・マイスターと呼ばれた父グラハムに対し、デイモンはモナコGPで1勝もあげることが出来なかった。1996年には、トップを独走しながらエンジンブローで好機を逸した。
  • 引退後、現役時代にサポートを受けていたブリティッシュ・テレコム(正式には後にスペインの大手通信会社テレフォニカに買収された携帯部門O2の前身BTセルネット)の支援を受け、ミナルディの買収、トヨタのチーム代表に就任するという憶測が流れたが、結局噂の域で終わってしまった。
  • 「F1 Racing」誌(日本語版2000年2月号)の紙面上において、デイモンは歴代F1レーサーのベスト10を以下のように選出している。

1位:グラハム・ヒル
2位:デイモン・ヒル
3位:ファン・マヌエル・ファンジオ
4位:スターリング・モス
5位:ジム・クラーク
6位:アイルトン・セナ
7位:ナイジェル・マンセル
8位:アラン・プロスト
9位:ニキ・ラウダ
10位:ジャッキー・スチュワート

[編集] 経歴年表

[編集] 略歴

  • 1960年9月17日生まれ、ロンドン出身
  • フルネーム:Damon Graham Deveraux Hill
  • 父:グラハム(故人) 母:ベティ 姉妹:ブリジット、サマンサ
  • 妻:ジョージー(スーザンマリー)、子:オリバー、ジョシュア、タビサ、ロジー、ペット:犬3匹、猫1匹

[編集] レースキャリア

  • 1984年 フォーミュラフォード1600 1勝
  • 1985年 フォーミュラフォード1600 シリーズ3位
  • 1986年 イギリスF3 シリーズ9位
  • 1987年 イギリスF3 2勝 シリーズ5位
  • 1988年 イギリスF3 2勝 シリーズ3位/国際F3000 スポット参戦
  • 1989年 国際F3000 6戦参戦/ル・マン24時間レース出場
  • 1990年 国際F3000 1勝
  • 1991年 国際F3000 /F1 ウィリアムズ・テストドライバー
  • 1992年 F1 ブラバム・ジャッド 2戦出場/ウィリアムズ・テストドライバー
  • 1993年 F1 ウィリアムズ・ルノー 3勝、シリーズ3位
  • 1994年 F1 ウィリアムズ・ルノー 6勝、シリーズ2位
  • 1995年 F1 ウィリアムズ・ルノー 4勝、シリーズ2位
  • 1996年 F1 ウィリアムズ・ルノー 8勝、ワールドチャンピオン
  • 1997年 F1 アロウズ・ヤマハ シリーズ12位
  • 1998年 F1 ジョーダン・無限ホンダ 1勝、シリーズ6位
  • 1999年 F1 ジョーダン・無限ホンダ シリーズ11位、引退


[編集] 脚注

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  1. ^ 当初、ウイリアムズはミカ・ハッキネンをセカンドドライバーに迎えるべく交渉を行い、合意に達していたが、ウィリアムズのエントリーミス問題で、1993年の選手権にウィリアムズが参戦するためには他の全チームの賛同を得る必要があり、マクラーレンが賛成の条件としてウィリアムズがハッキネンを手放すことをあげ、ウィリアムズが渋々ハッキネンを手離し、代わりにヒルをセカンドドライバーに起用することとなったとも言われる[要出典]
  2. ^ 『F1 RACING 日本版』2008年7月号
  3. ^ 『’97F1総集編 AS+F』 (三栄書房) p.66
  4. ^ 『Number』1996年10月24日号
  5. ^ 1999年 F1総集編より
  6. ^ 『AS+F』「F1 1998 総集編」(三栄書房)p.6

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク

先代:
ミハエル・シューマッハ
F1ドライバーズチャンピオン
1996年
次代:
ジャック・ヴィルヌーヴ