ヨッヘン・マス

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ヨッヘン・マス
Mass, Jochen 1972-07-07.jpg
ヨッヘン・マス(1972年)
基本情報
フルネーム ヨッヘン・リヒャルト・マス
国籍 ドイツの旗 ドイツ
出身地 同・バイエルン州ドルフェン
生年月日 1946年9月30日(67歳)
F1での経歴
所属チーム サーティースマクラーレン
ATSアロウズ
RAMマーチ
活動時期 1973 - 1982
出走回数 105
優勝回数 1
通算獲得ポイント 71
表彰台(3位以内)回数 8
ポールポジション 0
ファステストラップ 2
初戦 1973年イギリスGP
初勝利 1975年スペインGP
最終勝利 1975年スペインGP
最終戦 1982年フランスGP
タイトル 0
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ヨッヘン・リヒャルト・マスJochen Richard Mass, 1946年9月30日 - ) はドイツのレーシングドライバーである。1989年ル・マン24時間レース覇者。バイエルン州ドルフェン出身。

経歴[編集]

キャリア初期[編集]

レーシングドライバーに転向する前、マスは船乗りだった[1]。マスは当初からツーリングカーレースを得意としており、ヨーロッパツーリングカー選手権、イギリスツーリングカー選手権などに参戦し勝利を記録した。特に1972年のヨーロッパツーリングカー選手権では5勝を挙げた。

一方、イギリスF3、ドイツF3などのフォーミュラカー・レースにも参戦し、1973年ヨーロッパF2では2勝でシリーズ2位となった。

F1[編集]

ツーリングカーレースへの参戦を続ける一方、それまでの活躍が評価され、1973年にはF1にサーティースからスポット参戦した。翌1974年より正規シートを得るが、マシンの競争力に苦しんだマスは、無得点のままシーズン途中でチームを離脱した。

マクラーレン時代[編集]

マクラーレン・M23をドライブするマス(1976年イギリスグランプリ

サーティース離脱後は2レースを欠場の後、終盤2戦よりマクラーレンから出走した。翌1975年はマクラーレンよりフル参戦を果たし、第2戦ブラジルGPで3位で初入賞を記録し、続く第3戦南アフリカGPでも6位に入賞した。

第4戦スペインGPでは、予選11位から優勝した。クラッシュの多発により、大幅に短縮されたレースだったが、打ち切り直前にジャッキー・イクスを抜いての勝利だった。これはマス唯一の優勝で、17年後の1992年ベルギーGPミハエル・シューマッハ)まで、ドイツ人がF1で優勝することはなかった。

マスは、その後も1977年までマクラーレンに在籍した。前述した勝利に加え、2度のファステストラップ、ランキング最高位(1977年の6位)は全てマクラーレン在籍中に記録された。コンスタントに入賞する走りから、「ベストセカンドドライバー」と評価された。

1978年以後[編集]

マクラーレン離脱後は、下位・中堅チームを渡り歩いた。1978年のATSでは、最高位7位でノーポイントに終わり、3度の予選落ちも経験した。終盤には3レースを残してチームから離脱した。

1979年はアロウズから参戦し、3度の6位入賞を果たした。マクラーレン離脱後では最も入賞回数の多いシーズンとなったが、第14戦カナダGP・最終戦アメリカ東GPの終盤2戦では、連続で予選落ちを喫した。1980年もアロウズから参戦し、4位1回・6位1回を記録した。

1981年はツーリングカーレースに専念、1982年マーチを使用するプライベーターチームRAMからF1に復帰したが、最高位は7位に留まり。終盤には5戦を残しチームから離脱。以後、再びツーリングカーレースに専念することとなった。

スポーツカーレース[編集]

マスはF1参戦中も、ヨーロッパツーリングカー選手権、世界メーカー選手権など、スポーツカーレースに参戦を続けていた。1978年からはポルシェで活躍し、1987年までの在籍期間に多くのカテゴリーで勝利を記録した。1987年には、ボビー・レイホールとのコンビでセブリング12時間レースに勝利した。

ポルシェが撤退するとザウバーに移籍し、メルセデスをドライブした。1989年には、1972年より参戦していたル・マン24時間レースでマニュエル・ロイタースタンレー・ディケンズとのトリオで初勝利を挙げた。

1990年、メルセデス・ベンツはドライバー育成プログラムとして、前年までF3ドライバーだったミハエル・シューマッハカール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェンを交替でスポーツカー世界選手権に参戦させたが、マスはこの3人のパートナーとして全戦に参戦した。

補足[編集]

ヴィルヌーヴの死亡事故[編集]

1982年第5戦ベルギーGPの予選終盤において、アタックを終えスロー走行をしていたマスと、タイムアタックをしていたジル・ヴィルヌーヴがS字で遭遇。ヴィルヌーヴに走行ラインを譲ろうとしたマスと、マスを抜こうとしたヴィルヌーヴは同方向(右)に動いてしまい、ヴィルヌーヴのフェラーリは、マスのマーチに乗り上げ宙を舞った。

フェラーリは落下の衝撃で大破し、マシンから投げ出されたヴィルヌーヴは死亡。死亡事故の当事者となってしまったマスだが、この接触においては当時から「ヴィルヌーヴのドライビングミス」「レーシングアクシデント」とされた。ヴィルヌーヴが前戦サンマリノGP終了後より、ディディエ・ピローニとの確執から非常に苛立っていて、無理な予選アタックを行なったことも明らかとなり、マスが責められることはなかった。

脚注[編集]

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  1. ^ オートスポーツ三栄書房、1976年8/15号、115頁。

関連項目[編集]