ニキ・ラウダ

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ニキ・ラウダ
Niki lauda84.jpg
基本情報
フルネーム アンドレアス・ニコラス・ラウダ
国籍 オーストリアの旗 オーストリア
出身地 同・ウィーン
生年月日 1949年2月22日(64歳)
F1での経歴
所属チーム '71-'72 マーチ,
'73 BRM,
'74-'77 フェラーリ,
'78-'79 ブラバム,
'82-'85 マクラーレン
活動時期 1971 - 1979 , 1982 - 1985
出走回数 171
優勝回数 25
通算獲得ポイント 420.5
表彰台(3位以内)回数 54
ポールポジション 24
ファステストラップ 24
初戦 1971年オーストリアGP
初勝利 1974年スペインGP
最終勝利 1985年オランダGP
最終戦 1985年オーストラリアGP
タイトル 3 (1975, 1977, 1984)
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アンドレアス・ニコラス・“ニキ”・ラウダAndreas Nikolaus "Niki" Lauda, 1949年2月22日 - )は、元レーシングドライバー。オーストリアウィーン出身。元F1ドライバー、1975年1977年1984年のF1チャンピオン。「スーパーラット」、「不死鳥」の異名を持ち、その走りはコンピューターと云われた。

目次

プロフィール [編集]

デビュー前 [編集]

いくつもの製紙工場を所有する資産家階級の長男として生まれた。1966年ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPを観戦したのがきっかけで、レースへの道を進む決意をする。しかし、跡取りとして歩んで欲しかった家族は、決して協力的でなかった。初レースは家族に内緒で参戦。いきなり2位に入り新聞のスポーツ欄に掲載され、父親は激怒してレース禁止を言い渡した。次のレースでは優勝してしまったことから『レーサーを辞めなければ、ラウダ家の持ち物を一切置いて、家から出て行け』と言われる。それでもレースを続けたので暫く勘当されることとなった。後ろ盾のないままスポンサー獲得の交渉も行い、金銭的苦労を重ねながらステップアップしていった。

マーチ、BRM時代 [編集]

1971年1972年
欧州F2選手権等で活躍後、1971年9月にマックス・モズレーが代表をしていたマーチからF1にデビュー。このデビューでは父親の圧力でチームへの持参金が足りず、銀行に融資してもらう。担保は自らの生命保険であった。ラウダは、参戦前に自分のレース計画や将来の展望について記者会見を行う、新しいタイプのドライバーだった。チームメイトのロニー・ピーターソンとは友人であったが、資金不足のマーチでは、ピーターソンのみに肩入れをする状況が続いた。ピーターソンと遜色のない速さをみせたが、1972年末にいきなりマーチから解雇される。
ピンチに立ったラウダであったがマールボロBRMに売り込みをし、BRMへ持参金を持ち込む条件で1973年シーズンのシートを確保した。同年、資金稼ぎのために参戦していたBMWアルピナ・ツーリングカーも、引き続き延長することとなった。
1973年
信頼性の問題でベルギーGP5位入賞のみだったが、各GPをリタイアする迄、速さを見せていた。特にモナコGPフェラーリをリードする走りをしたことでエンツォ・フェラーリはラウダに注目。また、BRMで1レースだけ一緒に走り、既にフェラーリにいたクレイ・レガツォーニの推薦もあった。夏には、1974年からフェラーリの監督となるルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロを代理として、ラウダをフェラーリへ勧誘。BRMとの契約をクリアーし、移籍が決まった。そして、BMWアルピナ・ツーリングカー参戦もこの年で終了となった。

フェラーリ時代 [編集]

跳ね馬の新旗手 [編集]

1975年のラウダ
1974年
南アフリカGPで自身初のポールポジションを獲得。続くスペインGPではポール・トゥ・ウィンで初勝利を達成し、シーズン中盤にはドライバーズポイント首位に立った。イギリスGPではレース終了間際にピットインした際、観客の乱入によりコースに復帰できず5位となる珍事が起きた。この年は2勝し、最多の9ポールポジションを獲得したが、終盤戦の5連続リタイアによりタイトルを逃した(ドイツGPカナダGPでミスもしていた)。しかしこのシーズンは、徹底したテスト・ドライブこそが、レースで高性能を引き出す鍵であることをラウダは理解した。アンダーステアを抱えていた312B3を進化させる為、工場に隣接するフィオラノサーキットを納得するだけ走り込んだ。
1975年
テストを積極的に行い、312Tを開発。第3戦南アフリカGPより投入された312Tは、信頼性も高いマシンであった。ラウダは5勝9ポールポジションをあげ、速さと安定した走りでポイントを重ね、ワールドチャンピオンとなった。フェラーリのコンストラクターズタイトル獲得にも貢献した。監督のモンテゼーモロ、デザイナーのマウロ・フォルギエリとの関係も良好だった。しかし、そのモンテゼーモロは同シーズンで監督を退き、フィアットに戻った。後任はランチアのレース部門を管理していたダニエル・オーデットが就任した。

大事故からの生還 [編集]

フェラーリ・312T2をドライブするラウダ(1976年)
1976年
春に結婚したラウダは、第10戦終了時に5勝をあげ、ポイントリーダーであった。しかし、ニュルブルクリンクで開催された第11戦ドイツGPで悲劇に襲われる。レース中、“ベルクヴェルク”の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで高い縁石に乗り上げたためにコントロールを失い、右側のキャッチフェンスを突き破り、露出した岩に激突し、発火したマシンはコース中央まで跳ね返された。これにブレット・ランガーサーティースTS16が衝突し、ラウダのヘルメットは飛ばされた。アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ、後続で停止したハラルド・アートルアルトゥーロ・メルツァリオ、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行った。ラウダ自身は事故の原因はタイヤトラブルと語り、リアサスペンションの故障説も浮上したが、事故原因は普段乗せることのない高い縁石にタイヤを乗せてしまった事によりマシンが跳ねてしまいコントロールを失った事によるラウダ自身のミスとされている。
大火傷とFRP製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、全身のおよそ70%の血液を入れ替え、数日間生死の境を彷徨った。しかし、症状の峠は越し、ラウダは驚異的なペースで回復。事故発生から6週間後の第12戦イタリアGPで奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かった。一方、マクラーレンジェームス・ハントが第13戦カナダGP、第14戦アメリカ東GPと連勝。ラウダはそれぞれ8位、3位だった為、差を詰められた。
タイトル争いは最終戦のF1世界選手権イン・ジャパンに持ち込まれた。この時点でポイントはラウダが3点リード。富士スピードウェイでの決勝は、コースに川ができるほどの豪雨に見舞われた。レース中止も噂される中で強行された決勝を、ラウダは「リスクが大きすぎる」として、わずか2周をスロー走行したのみで自らリタイアした。一方のハントは決勝で3位に入賞し、わずか1ポイント差でラウダを逆転して、1976年の世界チャンピオンになった。
リタイアで自ら王座を手放したラウダをエンツォは公には庇ったが、その後の関係はギクシャクしていく。また、オーデットがラウダは復帰する見込みがないと判断し、イタリアGP前に代役としてカルロス・ロイテマンを引き入れた事が、結果的にレガツォーニが解雇されることとなり、その時点でチームとラウダの間には確執が生じていた。翌シーズンに向けたテスト・プログラムからもラウダは除外されていた。
1977年
第3戦南アフリカGPでシーズン初勝利を上げ、チームの体制を再び自分に取り戻す。3勝、2位6回と安定した走りで第15戦アメリカ東GPに2度目のワールドチャンピオンを確定した。しかし、それまでの経緯でフェラーリから離れることを決意していたラウダは、ゴードン・マレーのデザインした、サーフェイス・クーリング(表面冷却)と呼ばれるブラバム・BT46に惹かれ、バーニー・エクレストンとサインを交わす。そして、一緒に移籍することを希望したメカニックが解雇されたことにラウダは怒り、アメリカ東GP後に2戦を残しフェラーリから去った。

ブラバム時代 [編集]

1978年オランダGP
1978年
完走したレースは2勝、2位3回、3位2回と安定していたものの、BT46はラウダの見込みに反して信頼性が低く、全16戦中6戦をマシントラブルで、3戦をアクシデントでリタイアし、ランキング4位で終わった。なお、スウェーデンGPではファン・カーと呼ばれたBT46Bに乗り優勝したが、リアエンドに取り付けられた冷却用ファンが可動する空力デバイスに当たるとのクレームを受け、次レースから同システムの使用が禁止された。なお、この年にラウダ航空を設立し、チャーター便の市場に参入した。
1979年
カナダGPで予選開始を前に突然引退する事を発表。「同じ場所(サーキット)を何回も何回も走りまわらなくてもよくなったんだ。一生の終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思うんだ」と理由を語ったが、一方でブラバムはアルファ・ロメオからフォード・コスワース・DFVへエンジンをスイッチしたが、欧州F2選手権時代から高回転のV12エンジン搭載のマシンに長年乗り続けてきたラウダはV8に幻滅し、突然引退を決めてしまったという説もある。ラウダ本人は『ピットでバーニーと話したのが直接の引き金になった』と語っている[1]。引退後は、ラウダ航空の経営に専念することとなった。

マクラーレン時代 [編集]

現役復帰 [編集]

1981年
シーズン終了の少し前、マクラーレンロン・デニスマールボロジョン・ホーガンから、ドニントンパークでのMP4/1のテストに招かれた。11月に、1982年からマクラーレンよりF1への参戦が発表され、2年半ぶりに復帰することとなった。「2年間、モーターレーシングに興味を示すことはなかった。オーストリアGP(1981年)の時にふと気づいたら、(復帰を)考え込んでいた」と語るラウダだが、当時の航空業界は世界的な金融不況の直撃を受け、ラウダ航空の経営も順調ではなかったからという説もある。その頃、国営のオーストリア航空と路線認可の紛争も抱えていたのだ。ちなみに復帰したラウダのヘルメットには、ラウダ航空の旅客機の尾翼と同様のデザインが施されていた。尚、契約時にデニスはリスク軽減の一策として“もしラウダが明白に任務を果たしていない場合、4レース後に降りてもらう”という一文を入れたいと要求したが、ラウダは快諾している。
1982年
シーズン前、ラジアルタイヤへの違和感もあったが以前と同様にテストで走りこみ、感覚を取り戻していった。また、ニュルブルクリンクでの事故の後遺症を克服するためにサポートを受けたトレーナー(ヴィリ-・ダンクル)のメニューで、体力作りを行い、開幕に備えた。第3戦アメリカ西GPで復帰初勝利をあげ、第9戦イギリスGPを含む2勝を挙げランキング5位であった。
1983年
  • 全15戦中、7戦をマシントラブルでリタイアし、ランキング10位。それでも第12戦オランダGPからTAGのスポンサーシップを得て、ポルシェから1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1Eが投入され、ラウダがドライブ。残りのレースは来年の準備となった。

3度目のタイトルと引退 [編集]

MP4/2を駆るラウダ アメリカGP(ダラス)1984年
1984年
ラウダは、ルノーから移籍してきたアラン・プロストとタイトル争いをすることになる。ラウダ5勝、プロスト7勝で、予選でもプロストはラウダを凌いでいたが、決勝で最後まで生き残ってポイントを確実に重ねるのはラウダの方だった。この5勝には、ラウダにとって初めてのオーストリアGP(地元)優勝も含まれている。決勝で1位走行中のラウダには、ギアのひとつが砕けるトラブルが起きていたが、ラップタイムを大きく落とさず、トラブルが起きているそぶりも見せなかった。それゆえ2位を走っていたブラバムネルソン・ピケがラウダとのタイム差を考え、ポジションキープしたことで優勝できたレースであった。
最終戦ポルトガルGP迄、ラウダとプロストとの争いはもつれ込んだが、2位入賞したラウダがプロストにわずか0.5ポイントの差をつけ、3度目のワールドチャンピオンに輝いた。全16戦中12勝を得たマクラーレンはコンストラクターズタイトルも獲得した。ラウダは「今までチームメイトとこんなバトルをやったことはなかった。常に少しでも速く、少しでも上手に運転して、彼(プロスト)との競争で優位に立たなくてはならなかった」と喜びを語った。また、プロストへは「気にするな。来年は君がタイトルを取るよ」と声をかけている。サーキットには、1976年の事故以来、一度も姿を見せなかったマルレーネ夫人も来ていた。表彰式ではラウダと夫人が抱擁し、喜びを分かち合っていた。
1985年
10戦終了時に7戦をメカニカルトラブルでリタイアしていた。その第10戦オーストリアGPF1からの引退を発表した。次戦オランダGPでシーズン唯一の勝利を挙げ、これがラウダの最後のF1勝利となった。同GPは予選10番手スタートながら終盤プロストの追い上げを巧みにブロックし0秒232差で抑え込んで勝っている。最終戦のオーストラリアGPでは一時トップ走行をしたが、ブレーキトラブルでリタイアとなった。そのレースの10日後、ボーイング737機長養成トレーニングを受けるラウダの姿があった。

引退後 [編集]

ニキ航空のエアバスA321型機
地元ウィーンにて(2011年)

1990年代前半に低迷するフェラーリのアドバイザーに就任。2002年にはボビー・レイホールの後任としてジャガーのチームマネージャーとなったが、社内人事の混乱により短期解任された。

実業家としては、1978年に設立したラウダ航空の経営に成功するが、1991年に機体の設計上の不具合が原因で、タイにて自社のボーイング767型機が墜落する大惨事を起こしてしまう。その後持ち直すも経営難から経営権をオーストリアのフラッグ・キャリアオーストリア航空に譲渡している。

その後は2003年に自らのファーストネームをつけた格安航空会社ニキ航空を設立し、経営者となった。2011年に共同出資者のエア・ベルリンへ会社を売却し、エア・ベルリンの社外取締役に就任した。

現在はドイツ国内でのテレビ放送 (RTL) にて解説を勤めるほか、F1の現状について辛口のコメントを発している。2012年にはレース後の表彰式でインタビュアーを務めた。

2012年9月、ラウダはエア・ベルリンの役員を辞任し、メルセデスAMGの業務執行権を持たない非常勤会長に就任した。併せてチームの株式10%を保有するとみられる[2]。ラウダは自身の役割について、イギリスのレース本部(ブラックレー)とドイツのメルセデス本社のつなぎ役と説明した[3]

人物 [編集]

エピソード [編集]

  • 15歳の時に会社のトラックを運転して、工場間の短距離輸送をはじめていた。地元の警察官は名士の息子であるラウダが来ると手を振っていたが、18歳になり自動車運転免許を取得に警察へ来たラウダを見て、驚愕した。免許は取得できたものの、ラウダは厳しく叱られている。
  • 初めてレーシングカーを手に入れる際、売り手には事前に実家をみせた。購入条件はラウダが持っていた公道用のクルマと交換し、不足分はそれを売った時に支払うというものであった。仮にラウダが支払わなくても実家が支払うだろうと売り手に思わせる為であった。その後、ラウダは前述のやり方でマシンを購入し続けるのだが、手にいれたマシンは丁寧に扱っていた。
  • フェラーリ入りして最初のテストで、感想を聞かれると「ひどいマシンだ」と切り捨てた(当時のフェラーリではマシンの批判は絶対禁句だった)。「フロントサスペンションを直してほしい」と要求すると、エンツォ・フェラーリは「よかろう、ただし1秒速く走れなければ、お前はクビだ」と告げた。ラウダは手直ししたマシンで1秒以上速く走り、有言実行ぶりを示した[4]
  • 名誉に執着が無く、地元のガソリンスタンドで代金代わりにF1の優勝トロフィーを渡したこともあった。
  • 1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、病院では助かる見込みが少ないと思われ、牧師を呼んで臨終の儀式まで行われていた。ラウダは「冗談じゃない、死んでたまるか」と妻の呼びかけで薄れる意識を保とうとした。また、最終戦で自らマシンを降りた際には、メカニックに「また死に損なうのは御免だ」と告げたという。
  • 引退から2年経った1982年にF1に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーであるマールボロの重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、それまでの現役ドライバーよりも遙かに高額の金額を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「私のドライバーとしての価値はせいぜい1ドル程度だろう。この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい」と答え、これにマールボロ側も了承したが、ラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得するなど、1ドルの価値の高さを見せつけている。
  • エンツオと口論の末フェラ-リから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラ-リを辞める話はイタリア人の耳に入っていたため、フェラ-リを辞めて行くドライバ-に対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。

人間関係 [編集]

  • エンツォ・フェラーリはラウダを評して「永年ヌヴォラーリを探していたのに、バルツィを見つけてしまったようだ」と語った[5]。限界派のタツィオ・ヌヴォラーリと頭脳派のアキッレ・バルツィはライバル関係にあった往時の名ドライバーで、エンツォはヌヴォラーリのようなドライバーを理想としていた。
  • 1977年シーズン終盤、チャンピオンを獲得してフェラーリを去る際に、エンツォ・フェラーリから白紙の小切手を提示され、「いくらでもいいから好きな金額を書き込め!」と契約更新を促された。ラウダは意地からそれを固辞すると、エンツォは「何だ!何が目的なんだ!」と激昂。ラウダは「ただあなたのチームでこれ以上走りたくないだけだ」と告げたという。
  • カルロス・ロイテマンの事を「チームメイトか、ライバルか?」と記者に聞かれ、「どちらでもない」と答えた。
マクラーレン時代のラウダ(右)とプロスト(中央)
  • アラン・プロストは、ラウダのファンであったことを公言している。また「ニキは私に何かを教えてくれた唯一の人だった。彼はマシンの技術面にも関心を示し、仕事には厳しく、厳格な人であった。私たちはふたりともエゴイストだったけれど、考え方が似ていた。流れるような、飾りのない、地味なドライビングも似ていた。マシンの調整の仕方まで同じだった。ニキと出会ったことで、私は多くのことを学んだよ」と語っている。
  • ケケ・ロズベルグは、その走りを「ニキと一緒にコーナーに入ったことが何度かあるが、非常にフェアだけど情け容赦ない攻め方をする」と語る。
  • ジョン・バーナードは「ポルシェの手綱を取れたのはニキのおかげだ。ポルシェは彼の意見なら聞く耳がある。信頼もしていたようだ」と語っている。
  • 最後の勝利となったオランダGPでラウダは予選10位に甘んじていたが、スタート前に友人のジャーナリスト、ヘルベルト・フォッカーに「今日は君が勝つよ」と言われ「何言っているんだ。完走出来るくらいには頑張るけど、俺は生きて帰らなきゃならないんだぜ」とかぶりをふった。が、スタートの混乱に乗じて5位に躍り出たラウダは「ヘルベルトのために勝ってみせようじゃないか」と、会心のレース運びで勝利を飾った。
  • フェラーリのアドバイザー時代の1992年、ブラバムの女性ドライバージョバンナ・アマティとの不倫報道で騒がれた。

パルマラット [編集]

  • 現役時代から、イタリアの食品会社パルマラットによるスポンサーを受けており、引退後も公の場では「parmalat」の文字が入った赤いキャップを被っていた。大やけどの痕を隠すためもあり文字通り常に被っていたため、時に「正装姿に赤いパルマラット帽」、などの奇妙な出で立ちとなったが、本人は平然たるものであった。2004年にパルマラットの粉飾決算スキャンダルに伴う経営不振の影響で契約が切れて以後は、パルマラット以外の帽子を被っている。

日本国内での知名度 [編集]

  • 瀕死の重傷から6週間で再び復帰するまでの話は、日本の高校生向け英語教科書に掲載されていた時期もあった。当時の日本ではスーパーカーブームに付随する様な形でF1レースの人気も盛り上がりを見せており、ラウダは“大事故からレースに復帰したチャンピオン”という分かりやすい個性もあって、特に知名度が高かった。
  • アニメ作品の『グランプリの鷹』には彼をモデルとした「ニック・ラムダ」と呼ばれるキャラクターが登場する。
  • 1980年代初頭(一時引退の時期)には日本のヨコハマタイヤのCMキャラクターを務めている。

家族 [編集]

  • 1982年に復帰することが決まった際、何かにかこつけてマルレーヌ夫人と揃って渡英し、夫人がショッピングする合間にこっそりテストに抜け出していた。その後、夫人がラウダのF1復帰を知った際には相当怒っていたそうで、『このろくでなし!』とこっぴどく罵られたという[1]
  • マルレーヌ夫人との間に2人の息子を設け、息子のマティアス・ラウダ (Mathias Lauda) もレーシングドライバーとして活躍中である。スピードカー・シリーズをともに戦っていた片山右京曰く「えげつないドライバー」。その他、非嫡出子の息子が一人いる。
  • 1991年に前妻と離婚し、2008年8月に30歳年下のビルギット夫人(ラウダ航空の元スチュワーデス)と再婚。2009年9月16日に60歳で双子の父親になった。

F1での年度別成績 [編集]

チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1971年 マーチ 711 RSA ESP MON NED FRA GBR GER AUT
Ret
ITA CAN USA NC 0
1972年 721 ARG
11
RSA
7
NC 0
721X ESP
Ret
MON
16
BEL
12
721G FRA
Ret
GBR
9
GER
Ret
AUT
10
ITA
13
CAN
DSQ
USA
NC
1973年 BRM P160C ARG
Ret
BRA
8
18位 2
P160D RSA
Ret
P160E ESP
Ret
BEL
5
MON
Ret
SWE
13
FRA
9
GBR
12
NED
Ret
GER
Ret
AUT
DNS
ITA
Ret
CAN
Ret
USA
Ret
1974年 フェラーリ 312B3 ARG
2
BRA
Ret
RSA
16
ESP
1
BEL
2
MON
Ret
SWE
Ret
NED
1
FRA
2
GBR
5
GER
Ret
AUT
Ret
ITA
Ret
CAN
Ret
USA
Ret
4位 38
1975年 ARG
6
BRA
5
1位 64.5
312T RSA
5
ESP
Ret
MON
1
BEL
1
SWE
1
NED
2
FRA
1
GBR
8
GER
3
AUT
6
ITA
3
USA
1
1976年 BRA
1
RSA
1
USW
2
2位 68
312T2 ESP
2
BEL
1
MON
1
SWE
3
FRA
Ret
GBR
1
GER
Ret
AUT NED ITA
4
CAN
8
USA
3
JPN
Ret
1977年 ARG
Ret
BRA
3
RSA
1
USW
2
ESP
DNS
MON
2
BEL
2
SWE
Ret
FRA
5
GBR
2
GER
1
AUT
2
NED
1
ITA
2
USA
4
CAN JPN 1位 72
1978年 ブラバム BT45C ARG
2
BRA
3
4位 44
BT46 RSA
Ret
USW
Ret
MON
2
BEL
Ret
ESP
Ret
FRA
Ret
GBR
2
GER
Ret
AUT
Ret
NED
3
ITA
1
USA
Ret
CAN
Ret
BT46B SWE
1
1979年 BT48 ARG
Ret
BRA
Ret
RSA
6
USW
Ret
ESP
Ret
BEL
Ret
MON
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
4
14位 4
BT49 CAN
DNP
USA
1982年 マクラーレン MP4B RSA
4
BRA
Ret
USW
1
SMR BEL
DSQ
MON
Ret
DET
Ret
CAN
Ret
NED
4
GBR
1
FRA
8
GER
DNS
AUT
5
SUI
3
ITA
Ret
CPL
Ret
5位 30
1983年 MP4/1C BRA
3
USW
2
FRA
Ret
SMR
Ret
MON
DNQ
BEL
Ret
DET
Ret
CAN
Ret
GBR
6
GER
DSQ
AUT
6
10位 12
MP4/1E NED
Ret
ITA
Ret
EUR
Ret
RSA
11
1984年 MP4/2 BRA
Ret
RSA
1
BEL
Ret
SMR
Ret
FRA
1
MON
Ret
CAN
2
DET
Ret
DAL
Ret
GBR
1
GER
2
AUT
1
NED
2
ITA
1
EUR
4
POR
2
1位 72
1985年 MP4/2B BRA
Ret
POR
Ret
SMR
4
MON
Ret
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
5
AUT
Ret
NED
1
ITA
Ret
BEL
DNS
EUR RSA
Ret
AUS
Ret
10位 14

参考文献 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ a b 『F1 RACING』2011年1月情報号より。
  2. ^ "ウォルフがメルセデス入り。ラウダと株式取得も". オートスポーツ.(2013年1月21日)2013年2月14日閲覧。
  3. ^ "メルセデスの"実力者"にはならないとラウダ". ESPN F1.(2012年10月3日)2013年2月14日閲覧。
  4. ^ 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニーマガジンズ、1998年、p103。
  5. ^ 『レーシングオン』2008年11月号、ネコパブリッシング、p35。

関連項目 [編集]

先代:
エマーソン・フィッティパルディ
ジェームス・ハント
ネルソン・ピケ
F1ドライバーズチャンピオン
1975年
1977年
1984年
次代:
ジェームス・ハント
マリオ・アンドレッティ
アラン・プロスト