ルチアーノ・ブルティ

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ルチアーノ・ブルティ
Luciano Burti 2006 Curitiba.jpg
基本情報
フルネーム ルチアーノ・プッチ・ブルティ
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
出身地 同・サンパウロ
生年月日 1975年3月5日(39歳)
F1での経歴
活動時期 2000 - 2001
過去の所属チーム ジャガープロスト
出走回数 15
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 2000年オーストラリアGP
最終戦 2001年ベルギーGP
タイトル 0
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ルチアーノ・ブルティ(Luciano Pucci Burti, 1975年3月5日 -, ) はブラジル人レーサー。サンパウロ出身。 F1でも出走経験がある。

プロフィール[編集]

1998年からイギリスF3に参戦し、1999年にシリーズ第2位を獲得。このとき第3位はF1での優勝経験があり、後のワールドチャンピオン、ジェンソン・バトンであった。この年の暮れに後にジャガーとなるスチュワートをテストし、2000年7月16日にエディ・アーバインの代役としてF1デビューを果たす。2001年にはジョニー・ハーバートの引退に伴い、正ドライバーになった。しかし、4レース出走しただけでペドロ・デ・ラ・ロサと変わることになった。

幸運なことに、プロストガストン・マッツァカーネのパフォーマンスが芳しくなかったため、彼と変わりプロストより出走することになった。第8戦のカナダGPでは8位でフィニッシュし、また予選でもチームメイトのジャン・アレジより良い成績を残すこともあったが、その後立て続けに後述の大クラッシュを演じベルギーGPを最後に暫くF1から離れる事となり、2004年にフェラーリのテストドライバーを務めるが、その契約も1年で終わった。

F1でポイントを獲得することもなく、この後もF1に戻ってくるかは未定である。

その後の活躍は不明であったが、現在は母国ブラジルに帰り、ストックカー・ブラジルに参戦中。またF1の解説も務めている。

2001年の大クラッシュ[編集]

ドイツGPのスタート直後、ギアボックストラブルにより加速出来ないでいたミハエル・シューマッハに激しく追突。ブルティのマシンはほぼ垂直に跳ね上がり、裏返しでアロウズのフロント部分にリア部分が被さる形で落下。反動で表向きに戻ったマシンは横向きのまま1コーナーを直進しタイヤバリアに接触して停止した。

これによりセーフティーカー導入後に再スタートとなり、無傷と思われたブルティも再スタートを切るが、クラッシュにより手を負傷しておりレース中に痛みが悪化する。プロストのマシンにはパワーステアリングが装着されていなかった事もあり、ブルティは運転が困難であるとチームにリタイアを申し出る。しかし、プロストに却下され走り続けた結果、24週目の1コーナーを曲がることが出来ずコースアウトしリタイヤとなった。

ベルギーGPでは超高速コーナーのブランシモンでエディ・アーバインのインについた際にアーバインの左リアタイヤとブルティのフロントウイングが接触。ウイングが脱落しコントロール不能となったブルティのマシンはブランシモンを直進し、ほとんど減速すること無くタイヤバリアにTボーンクラッシュした。ブルティのマシンはコクピットの後ろまでが4重のタイヤバリアに完全に埋もれ、クラッシュしたアーバインもマーシャルと共に救出にあたるが、救出が難航したため赤旗中断となった。

最悪の事態が予想される大事故だったが命に別条は無かった。しかしこのクラッシュはヘルメットがタイヤバリア奥のガードレールに直撃した上、顎の部分には拳程の穴が開くほど凄まじいものだった。脳震盪を起こしていたブルティは48時間後に意識を取り戻したが、入院は一週間に及んだ。意識回復後は短期記憶に問題があった事を後年語った。

この年は残りのレースを全て欠場し、そのままF1の表舞台から姿を消す事となったが、「肉体的に回復するのに時間がかかり、自信を失い、精神的にとても弱かった。でもよかったことは、完治したときはもっと強くもっと成熟していた」と語っている。

F1での年度別成績[編集]

所属チーム 車番 獲得ポイント ランキング 決勝最高位・回数 表彰台回数
2000年 ジャガー 7 0 23位 11位・1回 0回
2001年 ジャガー~プロスト 23 0 20位 8位・2回 0回

外部リンク[編集]