ステファン・ヨハンソン
| ステファン・ヨハンソン | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| フルネーム | ステファン・ニルス・エドウィン・ヨハンソン |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・ベクショー |
| 生年月日 | 1956年9月8日(55歳) |
| F1での経歴 | |
| 所属チーム | シャドウ, スピリット, ティレル, トールマン, フェラーリ, マクラーレン, リジェ, オニクス, AGS, アロウズ |
| 活動時期 | 1980, 1983 - 1991 |
| 出走回数 | 103(79スタート) |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 88 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 12 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| 初戦 | 1980年アルゼンチンGP |
| 初勝利 | ‐ |
| 最終勝利 | ‐ |
| 最終戦 | 1991年イギリスGP |
| タイトル | 0 |
ステファン・ニルス・エドウィン・ヨハンソン(Stefan Nils Edwin Johansson, 1956年9月8日 - )は、スウェーデン人の元F1ドライバー。1997年ル・マン24時間レースの優勝者。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] スウェーデンからロンドンへ
11歳からレーシングカート開始、ケケ・ロズベルグとはこの時期からの知り合い。1975年からフォーミュラ・フォードで四輪レース開始、1976年からF3に乗り始め、1977年に初の国際格式レースへの参加となったモナコグランプリ前座のF3で4位の結果を残す。1978年と1979年イギリスF3へ参戦するが、資金面では夕食をチョコレートで我慢してガソリンを買い、車中で寝袋に入って寝泊まりというような非常に苦しい時期を過ごす。1979年途中から、イギリスF3で表彰台に立てるようになり初優勝も記録、マールボロからのパーソナルスポンサードを受け始めるなど状況が好転し始める。マールボロとは、所属チーム内のスポンサー事情による中断はあれど1990年代以降も続く良好な関係となった。
1980年春、突如F1のシャドウチームから声が掛かり、開幕から2戦(アルゼンチン・ブラジル)にエントリーしたが、シャドウF1活動末期の全くポテンシャルの無い状態で、この時は何れも予選不通過に終わる。この年の主な参戦カテゴリーはイギリスF3であり、そこではこの年のチャンピオンを獲得。この年の所属チームは後にF1マクラーレンチームを運営することになる、ロン・デニス率いる「プロジェクト4」であった。
[編集] ホンダとの交錯
1981年からヨーロッパF2選手権へステップアップ、トールマンチームから参戦し2勝、ランキング4位。翌1982年はホンダエンジン搭載のスピリットチームから引き続きヨーロッパF2参戦。シーズンを通した安定感は無かったが予選では13戦中5回のポールポジション獲得、リタイヤも多いがハマれば優勝するドライバーとの評価。チームメイトはティエリー・ブーツェンで、翌年ホンダエンジンと共にスピリットチームがF1へとデビューする際、そのテストとレースドライバーにどちらが選ばれるのかが注目された。結局ヨハンソンが選ばれブーツェンは違う形でF1へたどり着くことになるが、後々までこの二人はライバルと呼ばれることが多かった。
1983年、ホンダがスピリットチームと共に第2期F1活動を開始。チームと共にヨハンソンもF1の決勝レースへ正式記録上のデビューを果たすが、ホンダにとってスピリットチームはあくまでテスト担当の役割であり、勝つ為のチームとしてホンダがその年の最終戦からウィリアムズと組むようになると、チームはエンジンを失い、ヨハンソンもシートを失った。ヨハンソンは翌1984年のウィリアムズ・ホンダのNo2のシートに座ることを望んでいたがそれはジャック・ラフィットの物となった。
F1シートは確保できなかったが1984年は非常に多忙な年となった。3月にはIMSAのセブリング12時間レースでポルシェ・935をドライブし優勝を収める。そして日本からオファーがあり、ヨコハマタイヤADVANチーム(運営はノバエンジニアリング/森脇基恭チーフメカとコンビを組む)と契約、主戦場を日本へと移し当時日本のトップカテゴリーであった全日本F2選手権にフルエントリー、またもホンダエンジン搭載マシンをドライブする事になり、中嶋悟や星野一義、高橋国光と戦った。中嶋とは最終戦までチャンピオン争いを展開しランキング2位(3勝)となった。その一方、F1の中盤戦に差し掛かる頃に、正ドライバーだったマーティン・ブランドルが骨折して困っていたケン・ティレルから代役のオファーがかかり、日本でF2に参戦しつつティレルからF1にも参戦、更にはポルシェ・956を駆りグループC世界耐久選手権(WEC)にも参戦しており、ヨーロッパと日本を度々往復する多忙な身となる。しかしティレルチームが「水タンク事件」(ティレル#水タンク事件の頁を参照)の余波でこの年のシーズン全体からの失格・出場停止処分となり、またもやF1シートを失うも、イタリアGPからはジョニー・チェコットの骨折で代役が必要になったトールマンのシートを獲得、いきなり4位入賞を果たし、トールマンチームとは翌1985年から2年間のNo.1ドライバー契約も交わすこととなった。
[編集] 急転フェラーリ入り
こうして1985年シーズンを迎えたが、開幕直前になってもトールマンチームがどのタイヤメーカーとも契約出来ない事態になり、チーム自体が参戦を一時断念。またもシートを失いかけるが、ヨハンソンの能力を買っていたケン・ティレルがここでまたも手を差し伸べ、開幕戦はステファン・ベロフと共にティレル・フォードで参戦。その直後にフェラーリがルネ・アルヌーを解雇すると、ヨハンソンはイタリアのフェラーリ本拠地・モデナに呼ばれエンツォ・フェラーリと直々に話をする事になり、次戦からフェラーリへと移籍することになった。一躍F1トップチームへの加入が現実となる。翌1986年まで2年間在籍し正にF1ドライバーとして完全開花するかに思われた。しかしトップチームに所属しながら勝ちに恵まれず、2年間で2回の2位を含む6回の表彰台と活躍見せるのが精一杯だった。
[編集] プロストのNo.2
1987年にはマクラーレンチームへ移籍、アラン・プロストのNo.2として1年間在籍。しかしここでも勝てず、またプロストに遅れをとり続けたこともあり2回の2位を含む5回の表彰台を獲得するに留まる。それでもプロストとも非常に仲良くなれたものの(これはヨハンソンがプロストの脅威とならなかったからと言う見方も)、チームとして苦戦の年で、翌年へ向けてチームは強力なホンダエンジンを獲得、そのホンダからのプッシュもあり翌年のシートはアイルトン・セナに奪われてしまった。セナがマクラーレンに来る話が表面化してからは、ヨハンソンがウィリアムズへ移籍するとの噂も根強かったが、実際にウィリアムズのシートを射止めたのはリカルド・パトレーゼであった。なお、ロン・デニスはヨハンソンの能力自体はF3時代からの付き合いでもあり認めていた。
ヨハンソンは、チームメイトとなった事でプロストのドライバーとしての能力に非常に感銘を受けたようで、雑誌『Racing On』のインタビューにて「プロストは凄いよ、どの部分がどう凄いのか聞かれても困る。全部凄いんだから」と答えている。それまでは強気の発言も多かったが、リスクを冒してまでの猛烈なタイムアタック等は少なくなった。
[編集] F1流浪の民
1988年はフランスのリジェチームに移籍。チームメイトは皮肉にもかつてフェラーリのシートを「奪う」形になったアルヌーであった。特殊な燃料タンクの位置からバランスを決定的に欠いたこの年のリジェのマシンに戦闘力は全く無く、「元フェラーリコンビ」2人共しばしば予選落ちを喫するなど精彩を欠き、ここを境にヨハンソンはF1では十分な体制のチーム・マシンを得る事は無くなり、F1関係者からも「能力は認めるもののF1優勝経験が無い割にギャラが高い」と言う意見もあるなど「下り坂」を転げていくこととなる。
1989年は、F3000からF1へステップアップしてきた新規参入チーム、オニクスへ移籍。ポルトガルGPでは予備予選組としては驚異的な3位表彰台を獲得したが、この年は予備予選さえ通過できれば予選・決勝とも中堅としてまずまずの速さを持ったチームだったものの、その予備予選を通過するのが狭き門であり、たびたび予選不通過があった。翌1990年にチームオーナーがモンテヴェルディを代表とするスイス人グループに変わり、開幕2戦で予選落ちを喫すると、チームはスイス人でそれまでユーロブルンで走っていたグレガー・フォイテクをF1に乗せるためにヨハンソンとの契約を解除、シートを失う。
1991年開幕直前にフランスの小規模チームであるAGSのシートを得るが開幕2レース予選落ちでシートを失い、第5戦カナダGPからアレックス・カフィ怪我の代役でアロウズ(フットワーク)のシートを獲得。5年ぶりにアルボレートとコンビを組んだが、FA12はシーズン中にエンジンがポルシェV12からコスワースV8に変更されるなど戦闘力を欠いていたこともあり4戦中3戦で予選不通過となり、イギリスGPでの予選不通過を最後にカフィが戦列復帰するとヨハンソンの代役参戦は終了した。これ以後F1でのシートを得ることは無く、1992年からはアメリカ・CARTシリーズへと活動の舞台を移した。
F3~F2時代は一発の速さが魅力だがレース振りの荒いドライバーと評されたが、F1にステップアップ後は逆にレースでの安定感はあるものの、予選で一発の速さに欠ける場面が見受けられるようになった。エンツォ・フェラーリもこの予選順位が悪い点が不満だったとされ、ヨハンソンに替えてゲルハルト・ベルガーを獲得する一因になったとされている。また人柄が気さくな好漢である事からパドックの人気者ではあったが、その反面、F1でやっていく上でのアクの強さ、勝利を追求するエゴイスティックな部分が無かったことが災いし、惜しいところで優勝を逃す事数回、結局優勝を経験できずF1では大成できなかった。
[編集] そのほかの経歴
マカオグランプリF3には1984年(2位)、1988年(8位)に出場している。マカオではF3だけでなくツーリングカーによるギアレースにも出場している。
その他1988年にはトヨタと日本国内のグループCカー(JSPC)でのレース契約を結び、アパレルブランド「taka-Q」カラーのマシンをドライブした。トヨタとの契約は日本国内で開催されるレースに関してのみで、ヨーロッパ開催のグループCカーレース(WSPC)では同年、1988年の終盤戦にザウバー・メルセデスをドライブして優勝もしている。
F1以後は、1992年途中からアメリカのインディ/CARTシリーズにベッテンハウゼン・モータースポーツより参戦。デビュレースで3位表彰台に立つなどしてルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。以後約5年のあいだ参戦し、1996年を最後にフォーミュラカーからは引退したが、1997年にミケーレ・アルボレート、トム・クリステンセンと共にル・マン24時間耐久レースで優勝等、スポーツカーの世界で活躍し、実力の片鱗を見せた。
このル・マン24時間には1983年以後の大半の年に参戦(フェラーリ、マクラーレンと契約時はF1以外のレースは契約上不可)、ポルシェやアウディ、1991年と1992年にはマツダスピードからも参戦、上位完走している。
日本でのレースにも多数参戦経験があり、全日本F2には1982年にスポット参戦し、1984年はフルエントリー(前述)、その他にも富士インターTEC、WEC-JAPANなど日本で行われた国際レースの常連であり、日本人F1ドライバー・中嶋悟が誕生するまでの数年、ヨハンソンは日本のレースとF1との距離をはかる物差し的な存在として日本のレースファンから注目されていた。1985年のオートテクニック誌にはコラム(日記)が連載されていた。1988年から92年までヨコハマタイヤのイメージキャラクターとして雑誌広告・テレビCMにも出演していた。
絵画やデザインへの関心が高く、1992年に自らデザインも担当する時計ブランド「HⅢ」を立ち上げた。当時本人が「最初に僕の時計を買ってくれたお客さんはマリオ・アンドレッティなんだよ!」と喜んで語っていたエピソードがある。
1990年代後半からアメリカ・インディアナポリスを拠点に自らレーシングチームを組織し、インディ・ライツ選手権で若手にシートを与えて育成を始め、後にチャンピオンを獲得するスコット・ディクソンを見出している。また、自らのドライブでALMSやルマン24時間レースに、かつてF1に同時期参戦し親交のあったジョニー・ハーバートやJ.J.レートをパートナーに参戦するなどレースへの熱い情熱を持つ。
現在は2005年より開催されている元F1ドライバーが参戦するグランプリマスターズにも参戦。
[編集] カーナンバー(F1)
- 17(1980年第1.2戦)
- 40(1983年第9~14戦)
- 3(1984年第10~13戦)
- 19(1984年第14戦)
- 20(1984年第15.16戦)
- 4(1985年第1戦)
- 28(1985年第2戦~1986年)
- 2(1987年)
- 26(1988年)
- 36(1989年)
- 35(1990年第1.2戦)
- 18(1991年第1.2戦)
- 10(1991年第5~8戦)
[編集] 関連項目
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