1971年アメリカグランプリ

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アメリカ合衆国 1971年アメリカグランプリ
レース詳細
1971年F1世界選手権全11戦の第11戦
ワトキンス・グレン (1971–1974)
日程 1971年10月3日
正式名称 XIV United States Grand Prix
開催地 ワトキンズ・グレン・グランプリレースコース
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ワトキンズ・グレン
コース 恒久的レース施設
コース長 5.435 km (3.377 mi)
レース距離 59周 320.67 km (199.24 mi)
決勝日天候 晴(ドライ)[1]
ポールポジション
ドライバー ティレル-フォード
タイム 1:42.642
ファステストラップ
ドライバー ベルギーの旗 ジャッキー・イクス フェラーリ
タイム 1:43.474 (43周目)
決勝順位
優勝 ティレル-フォード
2位 BRM
3位 マーチ-フォード

1971年アメリカグランプリ (1971 United States Grand Prix) は、1971年のF1世界選手権第11戦(最終戦)として、1971年10月3日ワトキンズ・グレン・グランプリレースコースで開催された[2]

レースは59周で行われ、ティレルフランソワ・セベールが5番手スタートから優勝した。BRMジョー・シフェールが2位、マーチロニー・ピーターソンが3位となった。

概要[編集]

1971年シーズンジャッキー・スチュワートが支配し、3戦を残して2度目のドライバーズチャンピオンを獲得したが、最終戦はスチュワートのチームメイトであるフランソワ・セベールが優勝した。セベールは14周目にスチュワートからリードを奪って初勝利を挙げた。セベールにとってははこれが唯一の優勝で、1958年モナコグランプリモーリス・トランティニアン以来となるフランス人ドライバーによる勝利であった。

背景[編集]

前年まで最終戦として開催されていたメキシコGPペドロ・ロドリゲスの死去により中止されたため、本レースが最終戦となった[3]。コンストラクターズランキングの2位争いは、レース開始前の時点でフェラーリが32点、BRMマーチが30点となっている[4]

ワトキンス・グレンは本年からコースレイアウトが変更され、再舗装された。南西側に「ブート(The Boot)」または「アンビル(Anvil)」と呼ばれる新しいセクションが追加され、「ビッグベンド(Big Bend)」とそれに至るまでのターンをなくして新しいピットストレートに置き換えられ、スタート/フィニッシュラインはこの新しいストレートに移り、「The 90」は最終ターンから最初のターンに変更された。これらの改修によりコースの全長は5.435 km (3.377 mi)に延長された。

エントリー[編集]

既にドライバーズコンストラクターズの両タイトルが決まっていたにもかかわらず、多くの参加者を集めた。いくつかのワークスチームとかなりの数の独立系チーム勢が、F1で最も高額な賞金総額267,000ドルの分配を得るために存在しているように見えた。残念ながら、アメリカで最も人気のある2人のドライバーであるマリオ・アンドレッティと前戦カナダGPで3位表彰台を獲得したマーク・ダナヒューは、本来前週に行われる予定だったトレントン・スピードウェイ英語版で行われるUSACチャンピオンシップ英語版[注 1]の「トレントン300」が降雨により1週間順延され、本レースの決勝と重なってしまった[5][6][注 2]。このため、ペンスキー・レーシングはダナヒューとデヴィッド・ホッブスマクラーレン・M19Aをシェアすることになり、アンドレッティとダナヒューは日曜日にニュージャージー州で雨が降って決勝に参加できるチャンスを願っていた。

フェラーリは開発責任者のマウロ・フォルギエリ312B2のリアサスペンションの間隔を広げる改良を施したが、ジャッキー・イクス312Bでの出走を強く希望した[7]。結局、3台の312B2に加えて312Bも1台エントリーした[5]ティレルは地元出身のピーター・レブソン001を用意して3台体制とした。レブソンは1964年以来7年ぶりの参戦となる。サーティースは顎の感染症でドクターストップがかかったロルフ・シュトメレンに代わってマイク・ヘイルウッドを起用し、オランダGP以来の参戦となるジィズ・ヴァン・レネップと地元出身のサム・ポージーが車両をシェアする形でスポット参戦する[5]。この3人はTS9を走らせるが[4]、オーナー兼ドライバーのジョン・サーティースのみ翌年用にスポーツカーノーズとサイドラジエーターが装備されたTS9Bを走らせる[8]BRMジョン・キャノン (レーシングドライバー)英語版P153でスポット参戦して、レギュラーの4人(ジョー・シフェールピーター・ゲシンハウデン・ガンレイヘルムート・マルコ)はP160を走らせ、ガンレイ以外のマシンには新型のMk2エンジンが搭載される。マーチアンドレア・デ・アダミッチが復帰し、アルファロメオエンジン搭載の711も戻ってきた。ベテランのヨアキム・ボニエは自身のチーム(エキュリー・ボニエ英語版)からマクラーレン・M7Cを走らせる[4]。ボニエはこれが最後のF1参戦となる[9]

エントリーリスト[編集]

チーム No. ドライバー コンストラクター シャシー エンジン タイヤ
イギリスの旗 ゴールドリーフ・チーム・ロータス 2 ブラジルの旗 エマーソン・フィッティパルディ ロータス 72D フォードコスワース DFV 3.0L V8 F
3 スウェーデンの旗 レイネ・ウィセル
イタリアの旗 スクーデリア・フェラーリ SpA SEFAC 32 ベルギーの旗 ジャッキー・イクス フェラーリ 312B 1 フェラーリ 001 3.0L F12 F
4 312B2 フェラーリ 001/1 3.0L F12
5 スイスの旗 クレイ・レガツォーニ
6 アメリカ合衆国の旗 マリオ・アンドレッティ
イギリスの旗 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング 7 ニュージーランドの旗 デニス・ハルム マクラーレン M19A フォードコスワース DFV 3.0L V8 G
イギリスの旗 エルフ・チーム・ティレル 8 イギリスの旗 ジャッキー・スチュワート ティレル 003 フォードコスワース DFV 3.0L V8 G
9 フランスの旗 フランソワ・セベール 002
10 アメリカ合衆国の旗 ピーター・レブソン 001
フランスの旗 エキップ・マトラ・スポール 11 ニュージーランドの旗 クリス・エイモン マトラ MS120B マトラ MS71 3.0L V12 G
12 フランスの旗 ジャン=ピエール・ベルトワーズ
イギリスの旗 ヤードレー・チーム・BRM 14 スイスの旗 ジョー・シフェール BRM P160 BRM P142 3.0L V12 F
15 イギリスの旗 ピーター・ゲシン
16 ニュージーランドの旗 ハウデン・ガンレイ
17 オーストリアの旗 ヘルムート・マルコ
28 カナダの旗 ジョン・キャノン P153
イギリスの旗 ブルックボンド・オクソ・チーム・サーティース 18 イギリスの旗 ジョン・サーティース サーティース TS9B [8] フォードコスワース DFV 3.0L V8 F
イギリスの旗 チーム・サーティース 19 アメリカ合衆国の旗 サム・ポジー
オランダの旗 ジィズ・ヴァン・レネップ 2
TS9
20 イギリスの旗 マイク・ヘイルウッド
イギリスの旗 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ 21 フランスの旗 アンリ・ペスカロロ マーチ 711 フォードコスワース DFV 3.0L V8 F
イギリスの旗 モーターレーシング・ディベロップメンツ・リミテッド 22 イギリスの旗 グラハム・ヒル ブラバム BT34 フォードコスワース DFV 3.0L V8 G
23 オーストラリアの旗 ティム・シェンケン BT33
イギリスの旗 エキュリー・エバーグリーン 24 イギリスの旗 クリス・クラフト ブラバム BT33 フォードコスワース DFV 3.0L V8 G
イギリスの旗 STP・マーチ・レーシングチーム 25 スウェーデンの旗 ロニー・ピーターソン マーチ 711 フォードコスワース DFV 3.0L V8 F
26 イタリアの旗 ナンニ・ギャリ
27 イタリアの旗 アンドレア・デ・アダミッチ アルファロメオ T33 3.0L V8
スイスの旗 エキュリー・ボニエ 29 スウェーデンの旗 ヨアキム・ボニエ マクラーレン M7C フォードコスワース DFV 3.0L V8 G
アメリカ合衆国の旗 ピート・ラブリー・フォルクスワーゲン・インク 30 アメリカ合衆国の旗 ピート・ラブリー ロータス 69 フォードコスワース DFV 3.0L V8 F
アメリカ合衆国の旗 ペンスキー=ホワイト・レーシング 31 イギリスの旗 デビッド・ホッブズ
アメリカ合衆国の旗 マーク・ダナヒュー 3
マクラーレン M19A フォードコスワース DFV 3.0L V8 G
アメリカ合衆国の旗 ジーン・メイソン・レーシング 33 アメリカ合衆国の旗 スキップ・バーバー マーチ 711 フォードコスワース DFV 3.0L V8 F
ソース:[10]
追記
  • ^1 - イクスは312B2(No.4)と312B(No.32)の2台でエントリーしたが、312Bを使用した[5]
  • ^2 - No.19はポジーとヴァン・レネップの2人をエントリーさせ、ポジーが決勝に出走した[5]
  • ^3 - No.31はダナヒューがUSACチャンピオンシップに出場するためホッブズを予備登録し、ホッブズが決勝に出走した[5][6]

予選[編集]

金曜は晴れて105 °F (41 °C)と暑く、ジャッキー・スチュワートが1分42秒844で暫定ポールポジションとなった。土曜は気温がさらに110 °F (43 °C)まで上がり、グッドイヤーファイアストンの予選用タイヤが数周で限界に達する中、エマーソン・フィッティパルディが前日のスチュワートのタイムを上回ったが、スチュワートはフィッティパルディを0.017秒上回ってポールポジションを獲得した。スチュワートとフィッティパルディに続いたのはデニス・ハルムで、この3人がフロントロー[注 3]クレイ・レガツォーニフランソワ・セベールが2列目に並ぶ[11]ジャッキー・イクスフェラーリ)は312B2のエンジンが壊れたため、スペアカー312Bに乗り換えて8番手となった[5][注 4]マリオ・アンドレッティは6番手、マーク・ダナヒューは19番手となったが、翌日に開催されるUSACチャンピオンシップの「トレントン300」に出場するため、降雨により順延されない限り決勝に参加することはできない[4]。このため、主催者は2人が決勝に参加できた場合(デヴィッド・ホッブススキップ・バーバー英語版が除外される)とできない場合の2通りのグリッドを作成した[5]1964年以来のF1参戦でティレルの3台目を走らせるピーター・レブソンは21番手[注 5]となった。

予選結果[編集]

順位 No. ドライバー コンストラクター タイム グリッド
1 8 イギリスの旗 ジャッキー・スチュワート ティレル-フォード 1:42.642 - 1
2 2 ブラジルの旗 エマーソン・フィッティパルディ ロータス-フォード 1:42.659 +0.017 2
3 7 ニュージーランドの旗 デニス・ハルム マクラーレン-フォード 1:42.925 +0.283 3
4 5 スイスの旗 クレイ・レガツォーニ フェラーリ 1:43.002 +0.360 4
5 9 フランスの旗 フランソワ・セベール ティレル-フォード 1:43.152 +0.510 5
6 6 アメリカ合衆国の旗 マリオ・アンドレッティ フェラーリ 1:43.195 +0.553 DNS 1
7 14 スイスの旗 ジョー・シフェール BRM 1:43.468 +0.826 6
8 32 ベルギーの旗 ジャッキー・イクス フェラーリ 1:43.843 +1.201 7
9 11 ニュージーランドの旗 クリス・エイモン マトラ 1:43.970 +1.328 8
10 3 スウェーデンの旗 レイネ・ウィセル ロータス-フォード 1:44.024 +1.382 9
11 12 フランスの旗 ジャン=ピエール・ベルトワーズ マトラ 1:44.067 +1.425 10
12 25 スウェーデンの旗 ロニー・ピーターソン マーチ-フォード 1:44.193 +1.551 11
13 16 ニュージーランドの旗 ハウデン・ガンレイ BRM 1:44.430 +1.788 12
14 18 イギリスの旗 ジョン・サーティース サーティース-フォード 1:44.908 +2.266 13
15 20 イギリスの旗 マイク・ヘイルウッド サーティース-フォード 1:45.094 +2.452 14
16 23 オーストラリアの旗 ティム・シェンケン ブラバム-フォード 1:45.110 +2.468 15
17 17 オーストリアの旗 ヘルムート・マルコ BRM 1:45.204 +2.562 16
18 19 アメリカ合衆国の旗 サム・ポジー 2 サーティース-フォード 1:45.267 +2.625 17
19 31 アメリカ合衆国の旗 マーク・ダナヒュー マクラーレン-フォード 1:45.378 +2.736 DNS 1
20 22 イギリスの旗 グラハム・ヒル ブラバム-フォード 1:45.448 +2.806 18
21 10 アメリカ合衆国の旗 ピーター・レブソン ティレル-フォード 1:45.515 +2.873 19
22 21 フランスの旗 アンリ・ペスカロロ マーチ-フォード 1:45.568 +2.926 20
23 15 イギリスの旗 ピーター・ゲシン BRM 1:45.729 +3.087 21
24 31 イギリスの旗 デビッド・ホッブズ 3 マクラーレン-フォード 1:46.270 +3.628 22
25 26 イタリアの旗 ナンニ・ギャリ マーチ-フォード 1:46.608 +3.966 23
26 28 カナダの旗 ジョン・キャノン BRM 1:47.471 +4.829 24
27 33 アメリカ合衆国の旗 スキップ・バーバー マーチ-フォード 1:47.673 +5.031 25
28 27 イタリアの旗 アンドレア・デ・アダミッチ マーチ-アルファロメオ 1:47.952 +5.310 26
29 19 オランダの旗 ジィズ・ヴァン・レネップ サーティース-フォード 1:48.698 +6.056 DNS 2
30 24 イギリスの旗 クリス・クラフト ブラバム-フォード 1:48.698 +6.056 27
31 29 スウェーデンの旗 ヨアキム・ボニエ マクラーレン-フォード 1:49.391 +6.749 28
32 30 アメリカ合衆国の旗 ピート・ラブリー ロータス-フォード 1:52.140 +9.498 29
ソース:[12][13]
追記
  • ^1 - アンドレッティとダナヒューはUSACチャンピオンシップに出場するため、決勝は出場できない[5][6]
  • ^2 - No.19はポジーとヴァン・レネップが走行したが、ポジーが決勝に出場した[14]
  • ^3 - ホッブズはダナヒューのマシンで走行した。ダナヒューが決勝に出場できなくなったためホッブズが代走[5][6]

決勝[編集]

日曜日はニューヨーク州北部とトレントンの両方ともドライコンディションだったため、USACチャンピオンシップの「トレントン300」は開催されるという知らせを受け、アメリカ最高のロードレーサーであるマリオ・アンドレッティマーク・ダナヒューを見る機会を奪われた観客と主催者を落胆させた。

スタートでデニス・ハルムフランソワ・セベールジャッキー・スチュワートに先行して首位に立ったが、1周目が終わるまでにスチュワートがハルム、セベール、クレイ・レガツォーニジョー・シフェールジャッキー・イクスクリス・エイモンエマーソン・フィッティパルディをリードした。

当初、スチュワートは後続のグループとの差を広げていったが、10周目を過ぎたあたりからタイヤが消耗し始め、その差は縮まっていった。スチュワートは、セベールのグッドイヤータイヤが暑い中で持ちこたえていることに気付き、14周目にセベールが彼のすぐ後ろに迫ってきたのを見計らって、セベールを先行させた。ハルムはタイヤの振動に悩まされ、イクス、レガツォーニ、シフェールに抜かれてしまった。15周目には、サーティースからF1デビューを果たした地元出身のサム・ポージーのピストンが吹っ飛びリタイアした。17周目にイクスがスチュワートをかわした時点で、セバートのリードは5.7秒となっていた。

レースが中盤に差し掛かったところで、セバートもスチュワートを悩ませたアンダーステアに苦しみ始めた。イクスはその差を縮め、レースが進むにつれてファイヤストンタイヤの調子も良くなってきた。43周目にはファステストラップを記録し、その差は2.2秒まで縮まった。そして49周目、イクスのオルタネーターが脱落してギアボックスに穴が開き、オイルがコース上にこぼれ落ちた。ハルムはオイルに乗ってスピンしてしまい、バリアに衝突した衝撃でフロントサスペンションを曲げてしまった。セベールはハルムのマシンを避けようとしたがスピンしてしまったが、幸いにもタイヤがバリアに平行に当たったために無傷でコースに戻り[4]、リードは29秒となった。

2位に浮上したシフェールは、ロニー・ピーターソンに33秒差を付けていた。しかし、残り4周となったところでシフェールの燃料が不足しかけた。シフェールはマシンを左右に揺らして残った全ての燃料を使い切ろうとしていたため、ピーターソンはその差を大きく縮めることができた。セベールはホームストレートを惰性で走り、両手をステアリングから離して手を振りながらフィニッシュラインを超えた。シフェールはピーターソンに4秒差で2位をキープした。

セベールはF1初勝利を挙げ、1958年モナコGPモーリス・トランティニアン以来13年ぶり2人目のフランス人F1ウィナーとなった[15]。まだ凡戦も少なくなかったが、天性のポテンシャルを感じさせるには充分な勝利であり、スチュワートとピーターソンに続くドライバーズランキング3位を手にした[3]。スチュワートは愛弟子セベールを温かく祝福した[4]。セベールは「僕は50,000ドルの勝利でかなりいい気分になった。序盤はスチュワートについていったし、先行してフラッグを受けた。ジャッキー・スチュワートはとても賢明なドライバーで、とても良い先生だ。彼は僕を先に行かせてくれた。」とスチュワートに賛辞を送った。拡張されたワトキンス・グレンでの最初のレースだったが、同サーキットでF1初勝利を挙げたドライバーは3年連続であった[注 6]

BRMはシフェールの2位によってフェラーリを逆転し、1965年以来のコンストラクターズランキング2位を獲得した[4]。開幕前はチャンピオンの最有力候補だったフェラーリは312B2ファイアストンタイヤとの相性の悪さや工場ストライキもあり次第に低迷していき、終わってみればマーチとポイントで並ぶ3位[注 7]に落ち込んだ[16]。前年にダブルタイトルを獲得したロータスはこの年1勝もできず、1959年以来のシーズン未勝利[注 8]という不名誉なシーズンとなった[17]。グッドイヤーとファイアストンによるタイヤ競争は激化し、レースごとに新しいコンパウンドを持ち込むほどだったが、特にこの年グッドイヤーにタイヤを変えたティレルは開幕前からタイヤテストに深く関与し、これがダブルタイトルの最大の要因となった[18]。この年グッドイヤーは7勝(全てティレルによる勝利)[19]、ファイアストンは4勝(フェラーリとBRMが2勝)を挙げた[20]

レース結果[編集]

順位 No. ドライバー コンストラクター 周回数 タイム/リタイア原因 グリッド ポイント
1 9 フランスの旗 フランソワ・セベール ティレル-フォード 59 1:43:51.991 5 9
2 14 スイスの旗 ジョー・シフェール BRM 59 +40.062 6 6
3 25 スウェーデンの旗 ロニー・ピーターソン マーチ-フォード 59 +44.070 11 4
4 16 ニュージーランドの旗 ハウデン・ガンレイ BRM 59 +56.749 12 3
5 8 イギリスの旗 ジャッキー・スチュワート ティレル-フォード 59 +1:00.003 1 2
6 5 スイスの旗 クレイ・レガツォーニ フェラーリ 59 +1:16.426 4 1
7 22 イギリスの旗 グラハム・ヒル ブラバム-フォード 58 +1 Lap 18
8 12 フランスの旗 ジャン=ピエール・ベルトワーズ マトラ 58 +1 Lap 10
9 15 イギリスの旗 ピーター・ゲシン BRM 58 +1 Lap 21
10 31 イギリスの旗 デビッド・ホッブズ マクラーレン-フォード 58 +1 Lap 22
11 27 イタリアの旗 アンドレア・デ・アダミッチ マーチ-アルファロメオ 57 +2 Laps 26
12 11 ニュージーランドの旗 クリス・エイモン マトラ 57 +2 Laps 8
13 17 オーストリアの旗 ヘルムート・マルコ BRM 57 +2 Laps 16
14 28 カナダの旗 ジョン・キャノン BRM 56 +3 Laps 24
15 20 イギリスの旗 マイク・ヘイルウッド サーティース-フォード 54 アクシデント 14
16 29 スウェーデンの旗 ヨアキム・ボニエ マクラーレン-フォード 54 燃料切れ 28
17 18 イギリスの旗 ジョン・サーティース サーティース-フォード 54 +5 Laps 13
NC 33 アメリカ合衆国の旗 スキップ・バーバー マーチ-フォード 52 規定周回数不足 25
NC 2 ブラジルの旗 エマーソン・フィッティパルディ ロータス-フォード 49 規定周回数不足 2
NC 30 アメリカ合衆国の旗 ピート・ラブリー ロータス-フォード 49 規定周回数不足 29
Ret 32 ベルギーの旗 ジャッキー・イクス フェラーリ 49 オルタネーター 7
Ret 7 ニュージーランドの旗 デニス・ハルム マクラーレン-フォード 47 アクシデント 3
Ret 23 オーストラリアの旗 ティム・シェンケン ブラバム-フォード 41 エンジン 15
Ret 24 イギリスの旗 クリス・クラフト ブラバム-フォード 30 サスペンション 27
Ret 19 アメリカ合衆国の旗 サム・ポジー サーティース-フォード 15 ピストン 17
Ret 21 フランスの旗 アンリ・ペスカロロ マーチ-フォード 23 エンジン 20
Ret 26 イタリアの旗 ナンニ・ギャリ マーチ-フォード 11 ホイール 23
Ret 3 スウェーデンの旗 レイネ・ウィセル ロータス-フォード 5 ブレーキ 9
Ret 10 アメリカ合衆国の旗 ピーター・レブソン ティレル-フォード 1 クラッチ 19
DNS 6 アメリカ合衆国の旗 マリオ・アンドレッティ フェラーリ 他イベントに出場[1]
DNS 31 アメリカ合衆国の旗 マーク・ダナヒュー マクラーレン-フォード 他イベントに出場[1]
ホッブズがドライブ
DNS 19 オランダの旗 ジィズ・ヴァン・レネップ サーティース-フォード ポジーがドライブ
ソース:[21]
優勝者フランソワ・セベールの平均速度[14]
185.237 km/h (115.101 mph)
ファステストラップ[22]
ラップリーダー[23]
太字は最多ラップリーダー
達成された主な記録[4]

レース後[編集]

中止されたメキシコGPの代替イベントとして10月24日ブランズ・ハッチで開催された非選手権レースの「ワールドチャンピオンシップ・ヴィクトリーレース英語版」は、ダブルタイトルを獲得したティレルの祝勝イベントを兼ねたレースとなった。ポールポジションを獲得したジョー・シフェールはスタートで出遅れ、猛追中にクラッシュしてしまう。マシンは裏返しになって炎上し[29]、救助隊員の到着が遅れて救助できず、シフェールは排気ガスで窒息死した[4]。この事故により赤旗が出されてレースはそのまま終了し、シフェールのチームメイトであったピーター・ゲシンが優勝した[30]。前年から復調の兆しを見せ、この年2勝を挙げてコンストラクターズランキング2位となったBRMだったが、ペドロ・ロドリゲスに続いてシフェールも失うという悲劇の年となってしまった[29]。ベテランのヨアキム・ボニエは翌年もスポーツカーレースで活動を続けたが、ル・マン24時間レースで事故死してしまい、シフェールとともに本レースが最後のF1参戦となった[31]

ランキング[編集]

  • : トップ5のみ表示。前半6戦のうちベスト5戦及び後半5戦のうちベスト4戦がカウントされる。ポイントは有効ポイント、括弧内は総獲得ポイント。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現在のインディカー・シリーズの前身にあたるアメリカのオープンホイールカーレース。
  2. ^ トレントン・スピードウェイはオーバルコースであり、オーバルコースで雨が降った場合は安全性の問題からレースは行われず順延となるため。詳細はオーバルトラックを参照。
  3. ^ 本レースのスターティンググリッドは3-2-3。
  4. ^ イクスより上位だったアンドレッティの欠場により、実際のスターティンググリッドは7番手。
  5. ^ アンドレッティとダナヒューの欠場により、実際のスターティンググリッドは19番手。
  6. ^ 1969年ヨッヘン・リント1970年エマーソン・フィッティパルディ
  7. ^ 優勝回数の差でフェラーリ3位、マーチ4位。
  8. ^ ワークスのチーム・ロータスに限定すると、1960年ロブ・ウォーカースターリング・モスによる2勝)以来の未勝利である。

出典[編集]

  1. ^ a b c (林信次 1993, p. 116)
  2. ^ 1971 United States Grand Prix Entry list. http://www.racingsportscars.com/covers/_Watkins_Glen-1971-10-03e.jpg. 
  3. ^ a b (林信次 1993, p. 19)
  4. ^ a b c d e f g h i USA 1971”. STATS F1. 2020年3月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j 13th United States Grand Prix”. Motor Sport Magazine Archive. 2017年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月25日閲覧。
  6. ^ a b c d (ダグ・ナイ 1989, p. 217)
  7. ^ (アラン・ヘンリー 1989, p. 266)
  8. ^ a b (林信次 1993, p. 29)
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  15. ^ France - Wins”. STATS F1. 2020年3月28日閲覧。
  16. ^ (林信次 1993, p. 16-17)
  17. ^ (林信次 1993, p. 21-22)
  18. ^ (林信次 1993, p. 22)
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  24. ^ 戦績:J.キャノン”. F1 DataWeb. 2020年3月28日閲覧。
  25. ^ 戦績:C.クラフト”. F1 DataWeb. 2020年3月28日閲覧。
  26. ^ 戦績:S.ポージー”. F1 DataWeb. 2020年3月28日閲覧。
  27. ^ 戦績:P.ラブリー”. F1 DataWeb. 2020年3月29日閲覧。
  28. ^ 戦績:J.サーティース”. F1 DataWeb. 2020年3月29日閲覧。
  29. ^ a b (林信次 1993, p. 19-20)
  30. ^ (林信次 1993, p. 20)
  31. ^ (林信次 1993, p. 43)
  32. ^ a b United States 1971 - Championship”. STATS F1. 2019年3月21日閲覧。

参照文献[編集]

  • Wikipedia英語版 - en:1971 United States Grand Prix(2019年10月17日 19:08:22(UTC))
  • 林信次『F1全史 1971-1975 [名手スチュワートの退場/若手精鋭たちの新時代]』ニューズ出版、1993年。ISBN 4-938495-05-8 
  • アラン・ヘンリー『チーム・フェラーリの全て』早川麻百合+島江政弘(訳)、CBS・ソニー出版、1989年12月。ISBN 4-7897-0491-2 
  • ダグ・ナイ『チーム・マクラーレンの全て』森岡成憲(訳)、CBS・ソニー出版、1989年12月。ISBN 4-7897-0491-2 
  • Doug Nye (1978). The United States Grand Prix and Grand Prize Races, 1908-1977. B. T. Batsford. ISBN 0-7134-1263-1
  • Rob Walker (January, 1972). "13th U.S. Grand Prix: A First For Number Two". Road & Track, 39-43.

外部リンク[編集]

前戦
1971年カナダグランプリ
FIA F1世界選手権
1971年シーズン
前回開催
1970年アメリカグランプリ
アメリカ合衆国の旗 アメリカグランプリ 次回開催
1972年アメリカグランプリ