フランソワ・セベール

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フランソワ・セベール
Francois Cevert 1973.jpg
基本情報
フルネーム アルベール・フランソワ・セベール・ゴールデンベール
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・パリ
生年月日 1944年2月25日
没年月日 1973年10月6日(満29歳没)
F1での経歴
所属チーム '70-'73 ティレル
活動時期 1970 - 1973
出走回数 46
優勝回数 1
通算獲得ポイント 89
表彰台(3位以内)回数 13
ポールポジション 0
ファステストラップ 2
F1デビュー戦 1970年オランダGP
初勝利 1971年アメリカGP
最終勝利 1971年アメリカGP
最終戦 1973年カナダGP
タイトル 0

フランソワ・セベールAlbert François Cévert Goldenberg1944年2月25日 - 1973年10月6日)は、フランス人の元F1ドライバー。フランスでは「フランスのジェームズ・ディーン」と呼ばれている。

目次

[編集] 生まれた家庭

父親シャルル・ゴールデンベール(Charles Goldenberg:1901–1985年)は富裕な宝石商で(1930年代にその職業になった)、1905年ロシア第一革命におけるユダヤ人迫害(ポグロム)から逃れるため少年のころフランスに連れて来られたロシア系ユダヤ人の亡命者であった。

第二次世界大戦中フランスがナチスに支配されている間ユダヤ人狩りがおこなわれていた。シャルルはフランス・レジスタンス運動に参加した。登録されていたユダヤ人として当局からマークされポーランドへ強制追放されないよう、家族は母親ユゲット・セベール(Huguette Cévert [1]:?-2001)の姓(セベール)で登録した。そうすることで、自身の財産はもちろんのこと家族の命を守った。

フランスが解放された数年後、セベールの父親は自分の姓(ゴールデンベール)に改名を望んだが家族は反対し実現しなかった。[2]祖父はカルティエ創設に関わっていた。セベールと姉ジャクリーヌの他、もう一人の兄弟はパリで宝石商を営んでいる[3]という。

[編集] 経歴

[編集] F1デビューまで

パリで産まれた。7、8歳の頃、父親のももの上で運転を覚える。[4]その頃に姉の紹介でジャン=ピエール・ベルトワーズ(後に2人は結婚する)に会ったのをきっかけにモーターレーシングに興味を持つ。16歳の時、母親のベスパを使った友達との競争をはじめた。モータースポーツのキャリアの最初であった。クラシック・ピアニストとしての訓練を受けていたが、カートに興味を抱いて1964年モンレリーのレーシング・スクールに入学した。父親はレーサーになることに反対だったがセベールは夢を追い求めた。その後、父は勘当したが実力をみて和解した[5]

兵役を終えた後、最初のシーズンはルノーエンジンを搭載するアルピーヌでF3に参戦したが、セットアップとカーメンテナンスの資金と経験がなかったためうまくいかなかった。1966年F3の優勝者の賞金としてのヴォラン・シェル・レースに参戦した。1968シーズンにむけてスポンサーを探した後、アルピーヌからワークスとしての参戦をオファーされたが、これを断りテクノカーへ移籍した。1968年にフランスF3でチャンピオンを獲得。その当時F2は理想的な練習環境にあったため多くのドライバーがF2クラスも参加しており、1969年、彼はテクノフォーミュラからF2に参戦し、ドイツでグランプリ・デビュー後、1勝してシリーズ3位の成績を収めた。ジャッキー・スチュワートクリスタルパレスでのF2レースでセベールを前に苦戦していた。スチュワートはF2でのセベールでの走りを見てケン・ティレルへ直訴した。

[編集] F1

1970年、彼はテクノに残留したが、同時にマトラ・スポーツカーにも参戦した。シーズン後半、ティレルは3戦のみでチームを去ったジョニー・セルボ・ギャバンの代わりとするドライバーを探すことになった。そこでスチュワートの言葉とエルフに対する懐柔策もありスチュワートのチームメイトとして第5戦オランダGPでF1デビュー。その後、ペースを上げるとほとんどすべてのレースでスチュワートとのギャップを縮めていた。この年の第10戦イタリアGPで早くも6位入賞を果たす。ティレルは後にこう語った「みんなはelf(ティレルのスポンサーであるフランスの石油会社)だというけど、本当にジャッキーが彼(フランス人であるセベール)についていったことだ。」

1971年、ティレルチームがシャシーをマーチから自社製に完全に変更した。セベールはフランスGP(7位スタート)、ドイツGP2位(両方とも1位はスチュワート)とファステストラップ、イタリアGP3位表彰台を経て、ワトキンズグレンでの最終戦アメリカGPで初優勝。この勝利は1955年1958年モナコGPで優勝したモーリス・トランティニアン以来のフランス人のF1優勝であった。

5位でスタートした後、スチュワートのタイヤの温度が100度にまで上がったのでセベールはスチュワートをリードした。半分終わった時点で、セベールはジャッキー・イクスと競り合うことになった。43週目、イクスは1位でファステストラップを記録し差は2.2秒まで縮まった。49周目イクスはギアボックスに穴が開いてオイルがトラックに漏れコースアウトをし、デニス・ハルムのマクラーレンがオイルにあたりガードレールにぶつかり、フロントサスペンションを曲げ、ここで29秒リードした。セベールはゴールに近づくと、ゴールで万歳をするために両手をハンドルから離した。

これが最初で最後の優勝であり米50,000ドルが優勝賞金であった。スチュアートとロニー・ピーターソンに次いでドライバーズランキングでは3位となり、チームのコンストラクターズチャンピオンに貢献する。

1972年、やや勢いを欠いた。フランスGPで4位ベルギーとアメリカで2位とセベールはポイントを3回しかとれなかった。この年、セベールはルマンにおいてマトラシムカMS670を操り2位であった。

1973年、ニュルンベルクでMatra 670を運転するセベール

1973年、ティレルはF1に戻った。優勝こそないものの、セベールはスチュワートの背後の位置で表彰台を獲得するレースを常に見せるようになる。6回2位になり、そのうち3回スチュワートに次ぐ順位であった。スチュワートはセベールがとても従順なチームメートであることをよく知っていた。チームメートの影に隠れていたが、それはセベールの意に沿うものではなかった。

スチュワートは安全対策の推進及び愛弟子セベールの成長によりシーズン最後のアメリカグランプリで引退を決めていた。そして、チームナンバーワンドライバーをセベールに譲る予定であった。

[編集] アメリカGPに至るまでの背景とティレル006

[編集] スチュワートとシェクター

スチュワートはこの決定を妻ヘレンにさえ言っておらず、シーズン前にティレルとフォードの責任者であるWalter Hayesにだけ打ち明けていた。何も知らなかったセベールはスチュワートがまだ現役を続けると思っていた。(後にスチュワートはアメリカGP前にこの決定をセベールに言わなかったことを後悔していると語っている。)[6]ケン・ティレルは(これを受けて1974年からチームのNo. 2ドライバーとして)ジョディー・シェクターと契約したので[7]1974年シーズンのセベールはティレルのチームリーダーになるはずであった。しかし、上記の事情を全く知らなかったセベールにとってシェクターの加入はライバルが増えるのに等しいものであった。

そのシェクターは前回のカナダグランプリでセベールを巻き込んでリタイアし一悶着となった[5]。シェクターはレーサーライセンスの剥奪も検討されていたほど運転が荒いドライバーであり、セベールは彼のドライビングを「そこに戦争があるかのように荒い」と評し遺恨を残していた。また、その接触でセベールは足首を負傷しアメリカGP欠場も考えられたが、「自分はプロ」という思いで出場を強行した。また、ずっと使っていた006は壊れ、アメリカGPでは彼のために(ケン・ティレルにとっては翌年のリーダーのために)作られた新しい006/3を使うことになった。

[編集] ティレル006

ティレル006はヨッヘン・リントが事故死した際乗っていた車種であるロータス72に似ているため、005から006/3に至るまでのシャシー内部にあるフロントブレーキもロータス72同様問題を抱えていたが、これはロータスとティレルのマシンには「インボード・ブレーキ」という構造を採用していたからである。

他のコンストラクターが新しい規則に合わせるための車を作っている間、ティレルは1973年の4月にその規則に合わせた車を作った。インボード・ブレーキは一番熱くなる部分(ブレーキローターとブレーキパッド)が車体の中(通常はホイール内部)にあるが、ティレルのスポーツカーノーズと呼ばれるフロントのウイングの構造では、内部にあるブレーキの一番発熱する部分のクーリングに必要なだけの十分な空気が入らなかった。

実際、スチュワートが乗っていた005は南アメリカGPのプラクティスでブレーキラインの故障で大事故を起こしている[5]

[編集] 事故死

[編集] 1973年10月6日

ワトキンスグレンサーキットで行なわれた最終戦アメリカGP予選の土曜日、スチュワートは3回目のワールドチャンピオンをとうに決めていた。その日、セベールは予選が11時から始まるにもかかわらず、8時にモーニングコールで起き10時半すぎに到着した。ティレルは「少なくとも遅刻をするようなドライバーは成長しない」としかった。セベールはシャシーの準備を手伝った後、ポールポジションをピーターソンと争っていた。予選終了間際に4位のタイムを記録したが彼はさらにタイム短縮を試みていた。ティレルはセベールに「もう出なくてもいい」と伝えたが、セベールが残り時間を聞いてきたので「4分」と答えた。

セベールは「ひとっ走りしてポールをいただいてくる」[8]と言いまた車に戻り最後の1周に向かった。片手でハンドルもう片手でバイザーを下しながらスチュワート夫人に投げキッスをした。これがピットの人間が最後に見た彼の姿である。(結果として上記の言葉が最後の言葉となった)[9]

[編集] 事故

その直後、直角の第1コーナーとバックストレートの間にある高速S字「エセス」に入る際、シェクターが背後から迫っていた。アタックに出たセベールは、そこにある縁石の揺れのため[10]セベールの車は左よりにドリフトしすぎた。セベールの車はコントロールを失いトラックの右側へ急に向きを変えた。

エセスはアップヒルでガードレールがサーキットのすぐそばにあったため、オーバースピード(時速240km)で外側ガードレールに接触。この時点でフロントのスポーツカー・ノーズが弾け飛んだ。スピンしマシンは鋭角に向きを変えると反対側のガードレールフロント部分から突っ込み大クラッシュ。ガードレールの支柱に激突したため車体は横転。さらにこの「支柱」が破壊された事により二枚あるガードレールの上段がめくれ上がる形となり、宙を舞ったマシンはその真上に落下、セベールはマシンごと股から顎の下まで、真っ二つに引き裂かれ即死した。29歳没。「死も契約に含まれている」と生前言っていた通りになってしまった[11]

事故現場にドライバーとして最初にたどり着いたのはシェクターであった。彼は係員が制止するのを振り切って現場を見た途端、あまりの惨状にその場に立ちつくしボロボロ涙をこぼし、事故車のコックピットをのぞいた際セベールのヘルメットから下がなかったように見えたという。当時のチームメイトのスチュワートは『残骸の中を見たが、彼の姿を判別するのはヘルメットぐらいしかなかった。まるで屠殺場(とさつじょう)[12]のようで…』と発言し、後にこう語った「彼は(車の中に)残された。明らかに死んだからだ」その他のピットに戻ってきたドライバーたちは、一様に顔面蒼白になってマシンを降りた[13]。スチュワートは事故現場をすぐに後にしてピットに戻った。そこに長くいるのは無駄だとしても何もしなかったことは彼の人生において悔いの残ることになった。ピットに運ばれたマシンの内部には、セベールの体の一部が残っていたという。

シェクターをチームメイトに迎え、自身がエースドライバーとなることを予定された、まさに順風満帆の中での悲劇だった。スチュワートは最終戦でのこの愛弟子の姿に心を痛め、自身100戦目を迎えるはずであった日曜日の決勝を棄権し引退した。その後何回も復帰の話があったが、本人の「セベールに対する思いのため」テストドライバーとして運転したのみにとどまった。シェクターはこの事故以来[14]、安全を第一と考える姿勢に変わったという[15]1973年10月11日にSt Germainに埋められた。(パーヴォ・ヌルミも同じ日に埋められた。)現在は母の故郷であるメーヌ=エ=ロワール県ソミュール村近くのfr:Vaudelnay村にあるVaudelnay墓地に両親とともに埋葬されている。墓石は立派な黒い大理石でできていて、肖像のブラックレリーフが後ろについている。[16]

[編集] 事故死に関するエピソード

・長年の恋人Nanouが訪ねた透視能力者は「セベールは30歳まで生きられない」「ハンドルはあるけど体がない」と1966年6月29日に短命で終えることと死の様子を予想していた。スチュワートの妻ヘレンにセベールは自分が死んだら彼女を尋ねるようにと伝えてあった。数年後、セベールの家族と話し合った後、Nanouがセベールの子供の頃の写真をその透視能力者に見せたところ、「彼は死んでいる」と言ったと言う。事故は彼が30歳になる前の最後のGPで起きた[17] [18] [19] [20]

・ピアニストとしてセベールが得意な曲はピアノソナタ第8番 (ベートーヴェン)であった。カナダGPからアメリカGPまでの間、スチュワート夫妻とセベールはバミューダでバカンスを楽しみ、ホテルのロビーにあるピアノで毎晩その曲を弾いていた。1973年、スチュワートのクリスマスプレゼントとして、息子が両親へレコードを買った。まだ小さい子供であったので内容はわからずカバーだけで選んだ。クリスマスの日、封を開けてみるとそのレコードはまさにその曲であったという[21]

・1973年のユダヤ教のヨム・キプル10月6日であった。(第4次中東戦争開戦日)

・事故の日は寒いけれど天気は良く紅葉がきれいであった[22]。その日の朝、ティレルに「今日はとってもいい日だから、こんな日に死にたくない」という言葉を残している[23]。また、メカニックのJo Ramirezに「気づいたかい?運転する車はティレル006、(カー)番号6、エンジン66、そして10月6日。今日は自分の日だ!」という言葉を残している。[24]その他、François、France、Ford、FebruaryについているFはアルファベットの6番目でもあり、73年は最高位である2位を6回記録している。また、ティレルから6輪のP34がデビューしたのが76年でもある。

[編集] スチュワートによる事故原因分析

プラクティスが終わった後、スチュワートは事故原因を調べるためこのコースを回った。スチュワートはエセスを5速ギアを使うことが多かった。それにより、レブレンジのローエンドになったからである。しかし、セベールはその区間を4速ギアで使うことが多かったため、エンジンパワーレンジのトップエンドになった。[25]その状態はそのコーナーを通過する間、加速する必要に迫られることが多かったという結論である。

短いホイールベースのため、ワトキンスグレンのこの区間でいつも飛び上がるように感じるとスチュワートはティレルに注意し、これがタイムに影響するとしてもトップギアで運転することにより飛び上がりを少なくする必要があると感じた。このように、セベールの攻撃的なドライビングテクニックはこの事故に影響を与えた。その他、前述の通り、1.エセスに入る際に後ろから来たのが遺恨を残していたシェクターであった、2.クーリング性能が低い車種でなおかつ新車であった事、足首を負傷中の強行出場も遠因と考えられる。

[編集] レース成績

・Volant Shell (1966) ・F3優勝 (1968)

(key) (イタリック体 で示されているレースはファステストラップを示している。)

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 WDC Pts.
1970 Tyrrell Racing Organisation March 701 Ford V8 RSA
ESP
MON
BEL
NED
Ret
FRA
11
GBR
7
GER
7
AUT
Ret
ITA
6
CAN
9
USA
Ret
MEX
Ret
22nd 1
1971 Elf Team Tyrrell Tyrrell 002 Ford V8 RSA
Ret
ESP
7
MON
Ret
NED
Ret
FRA
2
GBR
10
GER
2
AUT
Ret
ITA
3
CAN
6
USA
1
3rd 26
1972 Elf Team Tyrrell Tyrrell 002 Ford V8 ARG
Ret
RSA
9
ESP
Ret
MON
NC
BEL
2
FRA
4
GBR
Ret
GER
10
AUT
9
ITA
Ret
6th 15
Tyrrell 006 Ford V8 CAN
Ret
USA
2
1973 Elf Team Tyrrell Tyrrell 006 Ford V8 ARG
2
BRA
10
ESP
2
BEL
2
MON
4
SWE
3
FRA
2
GBR
5
NED
2
GER
2
AUT
Ret
ITA
5
CAN
Ret
USA
DNS
4th 47
Tyrrell 005 Ford V8 RSA
NC

[編集] 人物

・184cm[26]と長身で少年時代からハンサムな容姿で知られていた上に、ハイスピードで走るので国民的ヒーローであった。彼の写真を持っていない少女もブリジット・バルドー[27]とのロマンスを書かない雑誌もなかった。80%のファンレターは女性からであった[5]。その他、Anne Nanou Van Malderen(愛称「Nanou」)という長年の恋人、ガールフレンドにChristina de Caraman-Chimay[28]というオランダ人モデル、アレクサンドラ・スチュワルトがいてプレイボーイとしても知られていた。Christinaは事故前のバカンス先のバミューダからプロポーズの手紙を受け取った。が、その数日前に事故は起こっていた。[29]


・バルドーの自伝「イニシャルはBB」にも僅かに記述があるが、「セベールは頭が悪かったためすぐ熱が冷め、あらゆる意地悪をして振った」と書かれるなど、好意的な記述はないという。

1975年制作の映画「F1グランプリ 栄光の男たち」では比較的長時間のインタビューに答えている。その中でかつての自らを「狂犬のようなドライバー」であったとし「ジャッキー・スチュワートが私を育ててくれた。考える方法を彼が教えてくれた」「今でもジャッキーは私にとっての師匠だ。世界で最高のF1ドライバーだと思う。2時間90周をミスなく走りきる唯一のドライバーだ」と評し、その彼に勝つために必要なことはとの問いに「ミスをしないこと」「経験と集中力、クルマのセットアップ能力」「レースで走りやすいクルマを作ること」「(これができれば)コーナーでも力ずくでねじ伏せる必要がない」「どんなときでもジャッキーはバランスのいいクルマで戦う」と「師匠」への敬意を隠さなかった。(セベールが乗っていたティレル006の開発にスチュワートも関わっていた。)

・「1回目のチャンピオンの時、francois aux USAというワインを売り出す。」という言葉を残している[30]

・兵役でドイツに短い間行った際、ドイツ語を流暢に話していた[5]

・マジックハンドがあるならどうしたい?という質問に対し「10年間はチャンピオンでいたい。そして、地上の惨状をなくしたい」と答えている[31]

[編集] エピソード

1974年、セベールのレース経歴はJean-Claude Halléによって "J'ai lu"(「私は見た」の意)シリーズという題名で発売された。また、François Cevert - La mort dans mon(「私の中の死」の意)という本も発売された。

1983年、Ecullyにある学校の生徒は自分たちの学校にセベールの名前をつけることにした。[32] ヴォクリューズ県カルパントラヴェゾン=ラ=ロメーヌ村にある広場、アンジェにある道、Le mansにある道も彼の名前が冠されている。

ロビー・ウィリアムズはSupreme[33]曲中のクリップでセベールとスチュワートのことに触れている。セベールの死亡事故もクリップの中では明るい結末になっている。

[編集] 脚注

  1. ^ http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GScid=2160896&GRid=14104754& Huguetteの写真
  2. ^ 父親は71年頃、父性主義を主張したが、「フランソワ・セベール」と名乗り続けた。
  3. ^ http://www.eliecevert.fr/index.html
  4. ^ AUTO PASSION 1993年10月号francoiscevert.fr
  5. ^ a b c d e elf Team Tyrrell 1973research-racing.de
  6. ^ AUTO PASSION FORMULES 2003年11月号francoiscevert.fr
  7. ^ FORMULES 2003年11月号francoiscevert.fr
  8. ^ http://www.teamtyrrell.com/1971/drivers/cevert.html
  9. ^ Ms. Amanda: Watch from 4:43 of the video http://www.youtube.com/watch?v=ITLEOs-jdeo 4分43秒からこの様子がビデオに残されている。
  10. ^ ニキ・ラウダの本である「The Art and Science of Grand Prix」によると、信じられないくらい危険であった。(この縁石は2005年にこのサーキットでインディが開催されるようになるまでそのままであった。)
  11. ^ Tintin 1974年2月号francoiscevert.fr
  12. ^ 「屠殺場」は差別用語として扱われているので、現在の雑誌や映像の翻訳では、この発言は原則として置き換えられている。
  13. ^ http://www.megavideo.com/?v=PD2QLDCT
  14. ^ There Are Two Kinds Of Deathsportsillustrated.cnn.com
  15. ^ Jody ScheckterFormula1.com
  16. ^ [1]findagrave.com
  17. ^ http://www.facebook.com/?ref=home#!/photo.php?fbid=377816783724&set=o.70447636220
  18. ^ http://www.facebook.com/?ref=home#!/photo.php?fbid=377838348724&set=o.70447636220&pid=3780501&id=581293724
  19. ^ http://www.facebook.com/?ref=home#!/photo.php?fbid=377838623724&set=o.70447636220&pid=3780507&id=581293724
  20. ^ http://forums.autosport.com/lofiversion/index.php/t58413.html François Bonaparte
  21. ^ http://sidepodcast.com/post/francois-cevert
  22. ^ http://www.gptotal.com.br/2005/Leitores/Help/20070530.asp
  23. ^ http://videosearch.nifty.com/video/watch/83be19beeb699b77
  24. ^ http://memoiresdestands.hautetfort.com/archive/2008/10/06/francois-cevert-1944-1973.html
  25. ^ 4速の場合、速いがギア比が低いため車輪軸の変化(衝撃)がダイレクトにエンジンに伝わりコントロールを失ったときとてもぐらつき扱いにくかった。5速の場合、ギア比が高いためクッションが効くため衝撃が緩やかに吸収されるので、ダイレクトに伝わらずスムーズで楽な運転ができる。
  26. ^ http://www.astrotheme.com/portraits/T35878n2GtHe.htm
  27. ^ 『素直な悪女』で共演したジャン=ルイ・トランティニャンの伯父はモーリス・トランティニャン
  28. ^ http://www.francoiscevert.fr/photos.htm Vogue
  29. ^ http://translate.googleusercontent.com/translate_c?rurl=translate.google.co.jp&sl=fr&tl=en&twu=1&u=http://memoiresdestands.hautetfort.com/archive/2011/10/03/francois-cevert-vu-par-ses-proches.html&usg=ALkJrhjJbwRkW3OYIhW-fwrK5I0f709WDQ/
  30. ^ F1 RACING2008年10月号francoiscevert.fr
  31. ^ [1.pdf L'Automobile74年11月号の1973年10月5日インタビューより] (PDF)francoiscevert.fr
  32. ^ http://lyceefrancoiscevert.free.fr/ Lycee Professionnel François Cevert Ecully
  33. ^ http://www.youtube.com/watch?v=KZECO5_gbq8 Supreme on youtube

[編集] 関連項目

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