ヘルムート・マルコ

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ヘルムート・マルコ
Marko, Helmut 1970 (sw).jpg
ヘルムート・マルコ(1970年)
基本情報
国籍 オーストリアの旗 オーストリア
出身地 同・グラーツ
生年月日 1943年4月27日(70歳)
F1での経歴
所属チーム BRM,マクラーレン(ノンワークス)
活動時期 1971 - 1972
出走回数 9(10エントリー)
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1971年ドイツGP
最終戦 1972年フランスGP
タイトル 0
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ヘルムート・マルコ (Helmut Marko, 1943年4月27日-) は、オーストリア出身の元レーシングドライバーである。


略歴[編集]

レーサーとしての経歴[編集]

ヨッヘン・リントの友人だったマルコはレースの世界に入ると1971年8月15日F1デビューを果たす。BRMのレギュラーシートを確保し、最終的に10戦のF1レースに参戦するも、選手権ポイントの獲得はならなかった。

しかしながら耐久レースにおいては、1971年のル・マン24時間レースマルティニ-ポルシェ・917Kを操りジィズ・ヴァン・レネップと組んで優勝を果たすなど成功を収めた。このレースで更新された走行距離記録の5335.313 kmは、2010年に破られた。

1972年タルガ・フローリオでは、安全上の懸念があるにも関わらず、数分の遅れを取り戻すため、ファステストラップを更新して追い上げたが、最終的には数秒差で敗れ2位となった。このとき、1972年5月21日にマルコがアルファロメオ・ティーポ 33で記録した33分41秒(平均128.253km/h)は、720kmのレース中のラップタイムとしてはタルガ・フローリオ史上最速記録である[1][2]

だが数週間後の7月2日クレルモン・フェランで開催された1972年フランスグランプリで、縁石の無いコーナーをカットした前車エマーソン・フィッティパルディのマシンが小石を跳ね上げ、これが後ろを走る彼のバイザーを突き抜けて目に当たった。失明こそ逃れたがレーシングに必要な視力は戻らず、レーシングドライバーとしてのキャリアは終了した[3]

引退後[編集]

弁護士の資格も持っていたので、レースキャリア終了後はグラーツ近郊に2つのホテルを開いた。その後ゲルハルト・ベルガーカール・ヴェンドリンガーのマネージャーとしてモータースポーツの世界に戻ってくると、F3F3000のチーム、RSM マルコの運営を開始した。

そして、ドリンクメーカーのレッドブルが運営する若手ドライバー育成プログラムの責任者となり、ファン・パブロ・モントーヤらを育てた。2005年からF1のレッドブル・レーシングに参加し、(少なくとも)2008年以降はモータースポーツアドバイザーに就任している。

F1世界選手権での全成績[編集]

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 WDC Points
1971 エキーリ・ボエニ マクラーレン M7C フォードDFVV8 RSA
ESP
MON
NED
FRA
GBR
GER
DNS
- 0
ヤードレイBRM BRM P153 BRM V12 AUT
11
ITA
Ret
CAN
12
BRM P160 USA
13
1972 オーストリア-マールボロ・BRM BRM P153 BRM V12 ARG
10
RSA
14
ESP
- 0
BRM P153B MON
8
BEL
10
BRM P160B FRA
Ret
GBR
GER
AUT
ITA
CAN
USA

脚注[編集]

  1. ^ Targa Florio (1906 - 1977)” (英語). 2008年6月30日閲覧。
  2. ^ 56^ TARGA FLORIO” (英語、イタリア語). 2008年6月30日閲覧。
  3. ^ “トップ10:オールドサーキット”. ESPN F1. (2010年6月10日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/19718.html 2011年9月23日閲覧。 
[ヘルプ]
先代:
ハンス・ヘルマン
リチャード・アトウッド
ル・マン24時間勝者
1971
ヘルムート・マルコ
ジィズ・ヴァン・レネップ
次代:
アンリ・ペスカロロ
グラハム・ヒル